次は二条城の周辺の史跡から回ってみます。
千本丸太町付近は平安京の中心だった平安宮の跡です。
内野児童公園には、
平安宮朝堂院大極殿跡の石碑があります。
平安宮は大内裏とも称します。朝堂院は大内裏の政庁で、朝堂院の正殿は大極殿といい即位などの国家的儀礼が行われた場所です。
安元3(1177)年の大火で焼失して以降再建されませんでした。
明治28(1895)年,平安遷都千百年紀念祭にあたり,湯本文彦は平安京の実測を行い,大極殿の位置をこの地に定め,京都市参事会が「大極殿遺阯」の石標を建てました。
なお,最近の発掘調査により,明治28年に建てられた石碑の場所は大極殿の北側の回廊のあった場所で,大極殿の中心部は千本丸太町交差点付近と判明しているそうです。ちょうど「朝堂院跡」の石碑が建っている付近です。石碑のある内野児童公園は大極殿の北側にあった昭慶門の西側回廊の上に立っていることが判明しています。
平安京朝堂院大極殿跡 posted by
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朝堂院跡の石碑はりそな銀行千本支店の南東側隅に説明看板とともに建っています。
平安京朝堂院跡 posted by
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京都町奉行所は慶長5(1600)年にはじめて置かれました。寛文8(1668)年からは常置の職として京都町奉行が創設され,京都所司代等の司法・行政の権限が委譲されました。町奉行所は東西に分けられ隔月交代で任務を担当しました。
それぞれ与力20騎、同心50人と職員の数は少なく、各町の自治組織を利用して市政を行いました。
西町奉行所は千本通二条城西側に建てられました。中京中学校西側に石碑が建っています。
西町奉行所跡 posted by
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東町奉行所は京都代官奉行だった五味備前守屋敷(神泉苑西隣)の地に建てられました。現在はNTT西日本京都支店壬生別館に石碑と説明看板が建っています。
東町奉行所跡 posted by
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神泉苑は、東寺真言宗の寺院で、元は延暦13(794)年、平安京造営の時に設けられた東西220メートル、南北440メートルという広大な禁苑です。池には天皇や公家が船を浮かべ、歌や花、音楽を楽しんだそうです。御池通の名の由来にもなりました。
中世以降は荒廃し、慶長8(1603)年、二条城を造営の際敷地は削減されました。境内には願いが叶う法成橋(赤い橋)や、年の恵方を祀る歳徳神があります。
神泉苑 - 1 posted by
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妙顕寺城は豊臣秀吉(羽柴秀吉)が聚楽第を築城する前京都の政庁とした城です。
妙顕寺とは鎌倉後期、日像がはじめて京都の建立した日蓮宗寺院であり、たびたび場所は変わったが戦国時代にはこの地にありました。
天正11(1583)年9月羽柴秀吉は寺を小川寺内に移転させて、跡に二条新邸を構築し、天正14(1586)年聚楽第を造るまで京都の政庁としました。
建物の姿は詳しくはわかっていませんが、周囲に堀をめぐらし、天主をあげていたそうです。
平素は前田以玄が住居して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となりました。豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく中の重要な政治的拠点でした。現在、城跡の遺構は全く残っていませんが、古城町という町名がかつてを偲ばせます。
西福寺に石碑と説明看板が建っています。ま
たこのあたりは閑院跡でもあり、平安時代前半は、藤原氏の邸宅として用いられ、後半は白河上皇・堀河天皇・高倉天皇・土御門天皇等の里内裏としても用いられた場所だそうです。
妙顕寺城 - 1 posted by
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戦国魂京町家本陣は、戦国武将グッズでおなじみの「戦国魂」の京都にあるリアル店舗です。
京都を訪れた歴史好きの方は、立ち寄られてみてはいかがでしょうか。
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次は今出川の北側、寺町通り沿いにある
本満寺を訪れました。
本満寺は日蓮宗六条門流の本山です。応永17(1410)年、関白近衛道嗣の子、玉洞妙院日秀が今出川新町に朝廷より敷地三万坪を与えられて創建しました。広宣流布山、本願満足寺と号しました。天文5(1536)年の天文法華の乱の後の12世日重の代、天文8(1539)年、関白近衛尚道の外護により現在の地に移り、後奈良天皇の勅願所となりました。
宝暦元(1751)年35世日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈り、以来、将軍家の祈願所ともなりました。
境内墓地には山中鹿介の墓があるそうですが、どこにあるかよくわかりませんでした。
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本満寺の北側には
阿弥陀寺があります。
阿弥陀寺は、天文24(1555)年、織田家由縁の人物であった開山清玉上人が近江国坂本に創建したのが始まりです。
織田信長の入洛に際し、芝薬師蓮台野(現在の東は堀川通、西は智恵光院通、北は寺之内通、南はおよそ現在の今出川通南側)に八町四方の規模にて移築されました。
天正10(1582)年6月2日未明、信長公宿所たる本能寺の異変を清玉上人は察知し、駆けつけるが間に合わず、近習の武士達に遺骸を託され持ち帰りました。
その後明智光秀の陣を訪ね、本能寺にて討死せる者と、同じく二条城にて自刃せる嫡子信忠公、並びに討死した者らの供養する事を話し、遺体の収容の許可を得て丁重に葬りました。
その後秀吉の寺町造成に伴い寺域を縮小、移転され現在の場所に移りました。
6月2日のみ「信長忌」が行われ堂内の拝観ができるそうです。
阿弥陀寺 - 1 posted by
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阿弥陀寺 - 2 posted by
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そして、一気に左京区の一乗寺周辺まで自転車で向かいます。
金福寺は山号は佛日山、臨済宗南禅寺派の寺院です。
貞観6(864)年、円仁(慈覚大師)の遺志を継ぎ、安恵僧都が創建しました。
その後、一時荒廃しましたが江戸時代の中期、元禄の頃に鉄舟和尚が再興し、臨済宗としました。
松尾芭蕉は鉄舟和尚を訪れ庭園の裏側にある草庵で親交を深めました。後に草庵は芭蕉庵と言われるようになりました。
芭蕉庵はその後荒廃しましたが、与謝蕪村が再興しました。
幕末には舟橋聖一作の歴史小説「花の生涯」や諸田玲子の「奸婦にあらず」のヒロインとして知られる村山たか女は安政の大獄で井伊直弼のために活躍したため、文久2(1862)年、勤皇の志士によって三条河原でさらし者にされました。3日後に助けられて金福寺に入り尼となりました。
明治9(1876)年生涯を閉じるまでまで14年間金福寺で過ごしました。
背後の丘に与謝蕪村、その弟子呉春(松村月渓)ら近世の俳人、画家の墓や句碑、村山たかの詣り墓(墓そのものは円光寺)があります。
本堂では与謝蕪村と村山たか女の遺品が拝観できます。
金福寺 - 01 posted by
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ここで今回のポタリングは終了です。季節も良いし、自転車はきもちいいですね。
Posted at 2009/09/25 21:57:27 | |
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