次は地下鉄を使い、堺筋線→堺筋本町→中央線→緑橋→今里筋線で蒲生四丁目へ移動。今里筋線は平成18年に開通したばかりの新しい路線です。
蒲生四丁目から鴫野にかけては、大坂の陣の古戦場が点在しています。
若宮八幡大神宮は佐竹義宣本陣があった場所です。立派な石碑が建っています。
鴫野駅の東側、城東小学校の東門付近には、
大坂冬の陣・鴫野古戦場の石碑が建っています。慶長19(1614)年の大坂冬の陣に際しては、大坂方が防御のための塀をこのあたりに建設し、これをめぐって佐竹義宣、上杉景勝らの東軍と、後藤又兵衛基次、井上頼次らの西軍が激しい戦闘を繰り広げました。木村重成の初陣はこの戦いであったと伝えられています。
更に南下すると、
白山神社には、本多忠朝物見のいちょうがあります。大坂冬の陣の時は、本多忠勝の次男本多忠朝が陣を置いたと伝えられています。
忠朝は境内の大いちょうの木に登り、豊臣方の動きを偵察したそうです。かなりおおきないちょうです。秋のいちょうはさぞ見応えがあるでしょう。
そこからJR大阪環状線森ノ宮駅から電車に乗り、桃谷駅へ。ここは生野区。
御勝山という古墳があります。大坂冬の陣・夏の陣で徳川秀忠が陣を張ったことで知られています。夏の陣の戦勝を記念してそれまで岡山といっていたのを改め御勝山と称したのが名前の由来です。
再びJRに乗り、環状線→天王寺→阪和線→美章園で下車します。
東住吉区の桑津も大坂夏の陣の激戦地だったそうです。桑津天神社の南東隅の道路沿いに
大阪陣戦歿将士慰霊塔がありました。
少し歩いて今度は関西本線(大和路線)の東部市場前駅から一区間乗り、平野駅で下車。平野には、
全興寺があります。
聖徳太子の創建と伝えられている歴史のある寺。大坂夏の陣の際、真田幸村が徳川家康が立ち寄ると見られた樋ノ尻口地蔵堂に爆薬を仕掛けました。家康は、予想通りここに来ましたが、席を立ったときに地雷が爆発したため、家康は助かりましたが、地蔵尊の首だけが、ここ全興寺の境内へ飛んできたそうです。家康の身代わりとなった地蔵尊の首は今も「首地蔵」の名で大切に祀られています。
近くの平野公園には、
安藤正次の墓がありました。安藤正次は徳川秀忠の旗本で元和元(1615)年5月7日、大坂落城直前に秀忠の使者として前田利常、本多康紀両軍に、敵陣へ肉薄するようにとの命令を伝えました。
その際に、数騎の敵兵に出会い、首級を挙げたが自らも重傷を負い家来に助けられて撤退した。その活躍を秀忠に功名したと称されましたが、宿舎にしていた平野の願正寺に送られて療養していましたが、自分が再起不能だと分かって同月19日に自害しました。
安藤正次の墓の向かい側には、
樋ノ尻口地蔵があります。ここに真田幸村は地雷をしかけたそうです。
次は地下鉄谷町線の平野駅から谷町線に乗り、長原駅で下車。
この近くには、
真田幸村休憩所跡があります。真田幸村が、大坂夏の陣の時、南河内誉田において東軍伊達政宗軍と一戦を交えた後、古市街道を経て大坂城へ帰城途中この地にて休憩しました。
そして、この休憩所から北に向かうと、
志紀長吉神社があります。真田幸村が、軍旗や刀剣を奉納して戦勝を祈願しました。
これで大阪市内の大坂の陣古戦場史跡巡りはほぼ回りましたが、まだ日が明るくて、時間があるので次のスポットを考えながら地下鉄に乗りました。
Posted at 2007/03/05 23:29:54 | |
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歴史・城 | 日記