狩野永徳展の後は、
東寺を訪れました。
東寺は、延暦13(794)年桓武天皇の平安京遷都の折り、国家鎮護のために、羅城門の左右に築かれた東西両寺の一つです。弘仁14(823)年、建立の最中に空海に下賜され真言密教の根本道場とされ、寺号も「教王護国寺」と称されるようになりました。
伽藍配置は奈良時代の寺院建築形式で、南大門・金堂・講堂・食堂・北大門が一直線に並び、南大門の東に五重塔、西に潅頂院、その北に空仏像、空海の遺品など多くの文化財が保存されています。
金堂は豊臣秀頼の再建で、五重塔は徳川家光が再建したものです。五重塔は京都のシンボルとなっている塔で、高さ54.8メートルの木造塔としては日本一の高さを誇ります。
平成6(1994)年、12月「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録されました。
講堂
金堂
東寺の塔頭、
観智院です。
東寺一山の勧学院で所蔵する密教聖教の量と質では我が国最高といわれています。
鎌倉時代に、後宇多法皇が徳治3(1308)年に東寺に帰依され、西院(御影堂)にこもって真言教学の研鑽に努められ、東寺興隆を発願されました。
この頃の東寺は、西院の弘法大師像を中心に新たな出発をしており、頼宝、杲宝(こうほう)、亮禅という真言界でも傑出した学僧を輩出しました。
中でも杲宝は随一といわれ、晩年観智院を創建して東寺教学の基礎を築きました。
江戸時代の宗教政策の中で、徳川家康は黒印状をもって観智院を真言一宗の勧学院と定めましたが、それはひとえにこの寺の伝統とその聖教典籍の価値が広く認められたためです。
本尊の五大虚空蔵菩薩は、晩唐期のもので重要文化財に指定されています。客殿は豊臣秀吉夫人、北政所が寄進したもので国宝です。桃山時代の書院造りで、当時の住宅建築として貴重な存在です。
床の間には二羽の鷲、襖には「竹林の図」が描かれていて、ともに宮本武蔵筆と伝えられています。客殿前の庭は、五大の庭といい、弘法大師が唐から船で帰国するときのさまを表現しています。
右側の築山が唐の長安、越州を現し、中央に遣唐船とこれを守護する竜神、神亀、鯱を表現し、左側の築山は帰国する日本を現し、無事帰還される構成です。
通常は非公開の寺ですが、毎年、春と秋に特別公開されています。
五大の庭です。
そして、少しばかり近所を散歩しました。
羅城門跡です。
羅城門が建てられていたこの地は、平安京の正面で、都の中央を貫通する「朱雀大路」(今の千本通にあたる)と、九条通との交差点でした。
門は、二層からなり瓦葺き、屋根の棟には鴟尾が金色に輝いていました。
正面十丈六尺(約32メートル)、奥行二丈六尺(約8メートル)内側、外四側とも五段の石段があり、その外側に石橋がありました。
嘉承3(1107)年正月、山陰地方に源義親を討伐した平正盛は、京中男女の盛大な歓迎の中をこの門から威風堂々と帰還していましたが、この門は、平安京の正面玄関であるとともに、凱旋門でもあったわけです。
しかし、平安時代の中後期、右京の衰え、社会の乱れとともに、この門も次第に荒廃し、盗賊のすみかとなり、数々の奇談を生みました。
その話に取材した芥川龍之介の小説による映画「羅生門」は、この門の名を世界的に有名としたが、今は礎石もなく、わずかに明治28(1895)年建立の標石を残すのみです。
そして、少しばかり近所を散歩しました。
西寺は、平安京が遷都されてからのすぐ廷暦15(796)年頃から、平安京の入口にあたる羅城門の西側に東寺(教王護国寺)と対称に造営された官寺です。
金堂、講堂(屋根には緑釉瓦が葺かれていた)を中心として南大門、中門、五重塔、僧房、食堂など主要な建物が立ち並び、国家の寺として隆盛を誇っていました。しかし、西寺は東寺に比べて早くから衰え、天福元(1233)年には塔も焼失し、以降は再興せれることなく地中に埋もれてしまいました。近年、数多くの発掘調査が実施されて、主要な建物跡が次々と確認され、一辺が22mもある市内でも最大の井戸跡が検出されています。
寺域は、東西二町(約250m)南北四町(約510m)を有し、主要伽藍跡は現在の唐橋小学校と西寺児童公園(講堂跡が公園中央に土塁として残る)の下にあり、伽藍中心部は国の史跡に指定されています。
西寺は、平安時代の寺院を研究するうえで重要なだけでなく、東寺とともに平安京を復原するうえでたいへん貴重な遺構です。
写真は西寺児童公園の土塁上に建てられた石碑です。
この後は本能寺に行くことにしました。
Posted at 2007/11/13 23:04:56 | |
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