もう気がつけば15時、日が短い季節なので先を急ぎます。
現在は高梁市の一部になっている成羽町には城跡が沢山あります。
成羽陣屋〔山崎氏御殿〕は、万治元(1658)年にこの地に入った山崎豊治(5千石、旗本交替寄合格)が築き、以後11代210年の間、明治維新までこの地を治めました。
山崎氏は山崎家治が元和3(1617)年にも3万石で入封し、鶴首城の麓に御殿を構えましたが、寛永16(1638)年に肥後天草に移封後、讃岐丸亀に移封されました。その後山崎氏は治頼の時代に嗣子が無く改易され、豊治が名跡を嗣ぎ、旗本としてこの成羽に戻ってきたというわけです。
御殿は鶴首山北麓に築かれ、東西276m、南北90mの敷地で周りを石垣で囲っていた豪壮な居館でした。正面に東から御作事門、大手門、御庫門があり、外側に外外園、御下馬、的場、労役場、お堀があります。屋敷内は御作場、書院、御庫の三区画になっています。
石垣の積み方は「打ちこみはぎの扇の勾配」に近い積み方と「野面積」の二様となっています。石垣の高さは高い所は390cmで上手の低いところは 260cmあります。西の御庫のある石垣が「野面積」で前藩主の水谷勝隆が築造したところで、山崎豊治がこれを引継ぎ広大な規模の御殿としました。諸大名の御殿におとらぬものであり、丸亀城の高石垣を築いた山崎氏らしい御殿です。
御殿跡は現在、成羽小学校、高梁市役所成羽地域局、成羽美術館となっています。
鶴首城〔成羽城〕は、文治5(1189)年、奥州平定に功績のあった河村四郎秀清が築城したと伝えられています。
戦国時代の天文2(1533)年、星田を本拠としていた備中の戦国大名、三村家親が、城郭を整備拡張しました。拠点を鶴首城に移した家親は、備中一円に勢力を拡大しました。
永禄4(1561)年三村家親、元親父子は、本拠を備中松山城に移しました。鶴首城には一族の三村親成、親宣父子が城主として配しました。
永禄9(1566)年宇喜多直家によって三村家親が暗殺されると、備中兵乱が激化しました。三村元親は明禅寺合戦で宇喜多氏との戦いに敗れました。その後毛利氏の支援を仰ぎましたが、天正2(1574)年、毛利氏が宇喜多直家と同盟を結んだため、元親は毛利氏の傘下から脱し、織田信長と同盟を結び、毛利氏と戦いました。親成、親宣父子は三村一族から離反して、毛利氏に味方したため、鶴首城主には三村親重が城主となりました。
天正3(1575)年、鶴首城は毛利氏により攻略され落城しました。備中松山城も落城し、三村元親は松連寺で切腹し、戦国大名としての三村氏は滅びました。
鶴首城は毛利氏の元、再び三村親成、親宣父子が城主となりました。
慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの功績により成羽の地で七千石を得た岡家俊が入城しました。しかし、慶長19(1614)年大坂の陣で家俊の長男岡平内が大坂方に味方したため、大坂落城後、家俊は切腹させられました。
元和3(1617)年、成羽に移封された山崎家治が入部しましたが、鶴首山麓に御殿を築いたため、鶴首城は廃城となりました。
うで、比較的歩きやすいです。
主郭部には案内看板がありました。
三村氏城〔三村氏館・成羽城〕は、天文2年(1533年)、三村家親が星田郷より成羽川の北岸のこの地に入り、平地城(居館)を築きました。成羽城とも呼ばれています。
高さ4m、幅8mの土塁に囲まれ、その外側に深い壕をめぐらせていました。
おそらくは鶴首城を詰めの城にして、平時はこの地に居館を構えていたと想像されます。成羽川を北へ渡り、道なりに折れ曲がった先の左手にある公園に説明看板と、説明看板の裏側に遺構と思われる井戸がありました。
次は再び高梁市街地に戻り、国道180号を北上します。
高梁市中井町西方地区は、山田方谷ゆかりの史跡があります。
方谷駅は高梁市北部のJR伯備線の駅です。
昭和3(1928)年、伯備線開通当時の鉄道省は、この地の駅名を中井・西方または、長瀬の中からと考えていました。しかし、この地は山田方谷の長瀬塾の跡であるため、地元の人は山田方谷の名を方谷駅として残したいと願っていました。
そこで地元では、方谷というのは西方の谷のことで人名ではないと陳情を重ね、遂に当時としては国鉄では全国唯一の方谷駅という人名駅が誕生しました。
※注 大正12(1923)年には鳳来寺鉄道(現在のJR飯田線)に長篠の戦いで亡くなった鳥居強右衛門にちなんだ鳥居駅という駅が開業しています。
長瀬塾跡〔開墾屋敷・山田方谷旧宅跡〕は、山田方谷が、備中松山藩の元締役を退いた後の安政6(1859)年、55歳の時に土着政策を自ら実践するため、現在の方谷駅構内のこの地に移住して開いた塾です。開墾屋敷ともいいます。この年には越後長岡藩士で後に藩政改革で功績を挙げた河井継之助が訪れています。
明治2(1869)年、塾舎を増築して子弟教育に努めていましたが、亡母の霊を慰めるため大佐町小阪部に住居を移転し、長瀬塾は嗣子の山田耕蔵に託しました。
明治14(1881)年、耕蔵の没後、遺族は元の山田家跡(現在の高梁市中井町西方)へ移りました。
大正9(1920)年、山田方谷に縁のあった人々は、旧宅跡が分からなくなることを恐れ、屋敷跡に「山田方谷先生旧宅跡」と石碑を建てました。
昭和3(1928)年の伯備線敷設に伴い、石碑を現在の場所へ移設しました。
方谷駅のプラットホームから見て山側に石碑があります。
見返りの榎は、山田方谷の長瀬塾のあった現在の方谷駅の南東側の国道180号沿いにあります。
安政6(1859)年7月、長瀬塾の山田方谷に入門した河井継之助は、方谷が江戸へ出府したため2ヶ月後、九州遊学に向かいます。しかし方谷が備中松山に戻ると、継之助も再び長瀬塾に戻りました。
方谷の元にいた継之助は充実していたらしく、継之助が方谷のもとを去るとき、舟で対岸に渡ったあと、見返りの榎のある場所で何度も振り返っては土下座し感謝を表したといいます。
写真は方谷駅から撮影したものです。
方谷駅からさらに北東に行った山中に
方谷園があります。方谷園は明治43(1901)年、備中松山藩士の漢学者で備中聖人といわれた山田方谷を追慕する人々の寄付や中井村民の奉仕により、山田方谷の生家近くにある山田方谷の墓に設けられた公園です。
園内には三島中洲撰文の方谷園記碑、茶席倚松庵、風神亭、斎月亭、からかさ亭、犬養毅の書による「方谷園」の石碑や山田方谷一族の墓所があります。
この後は、以前に訪れた吹屋のふるさと村へ向かいます。目的は、
吹屋小学校のライトアップです。吹屋小学校の校舎は、吉岡銅山本部敷地跡に建てられました。
切妻平屋建東西二棟が、明治33(1900)年、中央本館が明治42(1909)年に落成しました。
木造二階建、寄棟造、桟瓦葺の本館は、下見板張壁、下部羽目板囲い、引き違い窓、玄関をはじめ要所に嵌め殺しの明かり取り窓を取り入れた優美な外観を持ち、吊り格天井の講堂、二階昇降階段、頑丈な吹き抜け大廊下等々、当時の洋風木造建築の粋を伝える全国最古級の校舎で、岡山県の重要文化財(建築物)に指定されています。
Canon PowerShot G9
Canon EOS30D+SIGMA 20mm F1.8 DG RF
人里離れた山里ですが、今も現役の小学校。なかなかいい雰囲気でした。
この日の観光はここまで。この後はのんびり温泉に入って、ETC割引が適用されるよう時間調整しながらゆっくりと車の少ない中国道ドライブを楽しみながら帰りました。