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ピズモのブログ一覧

2007年11月23日 イイね!

備中史跡めぐり(その5・成羽~方谷駅付近~吹屋小学校ライトアップ)

もう気がつけば15時、日が短い季節なので先を急ぎます。
現在は高梁市の一部になっている成羽町には城跡が沢山あります。
成羽陣屋〔山崎氏御殿〕は、万治元(1658)年にこの地に入った山崎豊治(5千石、旗本交替寄合格)が築き、以後11代210年の間、明治維新までこの地を治めました。
山崎氏は山崎家治が元和3(1617)年にも3万石で入封し、鶴首城の麓に御殿を構えましたが、寛永16(1638)年に肥後天草に移封後、讃岐丸亀に移封されました。その後山崎氏は治頼の時代に嗣子が無く改易され、豊治が名跡を嗣ぎ、旗本としてこの成羽に戻ってきたというわけです。
御殿は鶴首山北麓に築かれ、東西276m、南北90mの敷地で周りを石垣で囲っていた豪壮な居館でした。正面に東から御作事門、大手門、御庫門があり、外側に外外園、御下馬、的場、労役場、お堀があります。屋敷内は御作場、書院、御庫の三区画になっています。
石垣の積み方は「打ちこみはぎの扇の勾配」に近い積み方と「野面積」の二様となっています。石垣の高さは高い所は390cmで上手の低いところは 260cmあります。西の御庫のある石垣が「野面積」で前藩主の水谷勝隆が築造したところで、山崎豊治がこれを引継ぎ広大な規模の御殿としました。諸大名の御殿におとらぬものであり、丸亀城の高石垣を築いた山崎氏らしい御殿です。
御殿跡は現在、成羽小学校、高梁市役所成羽地域局、成羽美術館となっています。


鶴首城〔成羽城〕は、文治5(1189)年、奥州平定に功績のあった河村四郎秀清が築城したと伝えられています。
戦国時代の天文2(1533)年、星田を本拠としていた備中の戦国大名、三村家親が、城郭を整備拡張しました。拠点を鶴首城に移した家親は、備中一円に勢力を拡大しました。
永禄4(1561)年三村家親、元親父子は、本拠を備中松山城に移しました。鶴首城には一族の三村親成、親宣父子が城主として配しました。
永禄9(1566)年宇喜多直家によって三村家親が暗殺されると、備中兵乱が激化しました。三村元親は明禅寺合戦で宇喜多氏との戦いに敗れました。その後毛利氏の支援を仰ぎましたが、天正2(1574)年、毛利氏が宇喜多直家と同盟を結んだため、元親は毛利氏の傘下から脱し、織田信長と同盟を結び、毛利氏と戦いました。親成、親宣父子は三村一族から離反して、毛利氏に味方したため、鶴首城主には三村親重が城主となりました。
天正3(1575)年、鶴首城は毛利氏により攻略され落城しました。備中松山城も落城し、三村元親は松連寺で切腹し、戦国大名としての三村氏は滅びました。
鶴首城は毛利氏の元、再び三村親成、親宣父子が城主となりました。
慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの功績により成羽の地で七千石を得た岡家俊が入城しました。しかし、慶長19(1614)年大坂の陣で家俊の長男岡平内が大坂方に味方したため、大坂落城後、家俊は切腹させられました。
元和3(1617)年、成羽に移封された山崎家治が入部しましたが、鶴首山麓に御殿を築いたため、鶴首城は廃城となりました。
うで、比較的歩きやすいです。
主郭部には案内看板がありました。



三村氏城〔三村氏館・成羽城〕は、天文2年(1533年)、三村家親が星田郷より成羽川の北岸のこの地に入り、平地城(居館)を築きました。成羽城とも呼ばれています。
高さ4m、幅8mの土塁に囲まれ、その外側に深い壕をめぐらせていました。
おそらくは鶴首城を詰めの城にして、平時はこの地に居館を構えていたと想像されます。成羽川を北へ渡り、道なりに折れ曲がった先の左手にある公園に説明看板と、説明看板の裏側に遺構と思われる井戸がありました。


次は再び高梁市街地に戻り、国道180号を北上します。
高梁市中井町西方地区は、山田方谷ゆかりの史跡があります。
方谷駅は高梁市北部のJR伯備線の駅です。
昭和3(1928)年、伯備線開通当時の鉄道省は、この地の駅名を中井・西方または、長瀬の中からと考えていました。しかし、この地は山田方谷の長瀬塾の跡であるため、地元の人は山田方谷の名を方谷駅として残したいと願っていました。
そこで地元では、方谷というのは西方の谷のことで人名ではないと陳情を重ね、遂に当時としては国鉄では全国唯一の方谷駅という人名駅が誕生しました。
※注 大正12(1923)年には鳳来寺鉄道(現在のJR飯田線)に長篠の戦いで亡くなった鳥居強右衛門にちなんだ鳥居駅という駅が開業しています。


長瀬塾跡〔開墾屋敷・山田方谷旧宅跡〕は、山田方谷が、備中松山藩の元締役を退いた後の安政6(1859)年、55歳の時に土着政策を自ら実践するため、現在の方谷駅構内のこの地に移住して開いた塾です。開墾屋敷ともいいます。この年には越後長岡藩士で後に藩政改革で功績を挙げた河井継之助が訪れています。
明治2(1869)年、塾舎を増築して子弟教育に努めていましたが、亡母の霊を慰めるため大佐町小阪部に住居を移転し、長瀬塾は嗣子の山田耕蔵に託しました。
明治14(1881)年、耕蔵の没後、遺族は元の山田家跡(現在の高梁市中井町西方)へ移りました。
大正9(1920)年、山田方谷に縁のあった人々は、旧宅跡が分からなくなることを恐れ、屋敷跡に「山田方谷先生旧宅跡」と石碑を建てました。
昭和3(1928)年の伯備線敷設に伴い、石碑を現在の場所へ移設しました。
方谷駅のプラットホームから見て山側に石碑があります。


見返りの榎は、山田方谷の長瀬塾のあった現在の方谷駅の南東側の国道180号沿いにあります。
安政6(1859)年7月、長瀬塾の山田方谷に入門した河井継之助は、方谷が江戸へ出府したため2ヶ月後、九州遊学に向かいます。しかし方谷が備中松山に戻ると、継之助も再び長瀬塾に戻りました。
方谷の元にいた継之助は充実していたらしく、継之助が方谷のもとを去るとき、舟で対岸に渡ったあと、見返りの榎のある場所で何度も振り返っては土下座し感謝を表したといいます。
写真は方谷駅から撮影したものです。


方谷駅からさらに北東に行った山中に方谷園があります。方谷園は明治43(1901)年、備中松山藩士の漢学者で備中聖人といわれた山田方谷を追慕する人々の寄付や中井村民の奉仕により、山田方谷の生家近くにある山田方谷の墓に設けられた公園です。
園内には三島中洲撰文の方谷園記碑、茶席倚松庵、風神亭、斎月亭、からかさ亭、犬養毅の書による「方谷園」の石碑や山田方谷一族の墓所があります。


この後は、以前に訪れた吹屋のふるさと村へ向かいます。目的は、吹屋小学校のライトアップです。吹屋小学校の校舎は、吉岡銅山本部敷地跡に建てられました。
切妻平屋建東西二棟が、明治33(1900)年、中央本館が明治42(1909)年に落成しました。
木造二階建、寄棟造、桟瓦葺の本館は、下見板張壁、下部羽目板囲い、引き違い窓、玄関をはじめ要所に嵌め殺しの明かり取り窓を取り入れた優美な外観を持ち、吊り格天井の講堂、二階昇降階段、頑丈な吹き抜け大廊下等々、当時の洋風木造建築の粋を伝える全国最古級の校舎で、岡山県の重要文化財(建築物)に指定されています。

Canon PowerShot G9








Canon EOS30D+SIGMA 20mm F1.8 DG RF


人里離れた山里ですが、今も現役の小学校。なかなかいい雰囲気でした。
この日の観光はここまで。この後はのんびり温泉に入って、ETC割引が適用されるよう時間調整しながらゆっくりと車の少ない中国道ドライブを楽しみながら帰りました。
Posted at 2007/12/02 19:11:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年11月23日 イイね!

備中史跡めぐり(その4・備中松山城下、高梁の町散歩)

この後は備中松山城下を散歩です。
司馬遼太郎氏の小説「峠」の主人公でもある長岡藩士河井継之助は、まだ書生の時代、陽明学者で備中聖人といわれた山田方谷を訪れました。山田方谷は農民の出身でしたが、備中松山藩において、見事に藩政改革を成功させたことで当時から有名だったようです。
高梁の城下町には、山田方谷ゆかりの史跡が点在しています。高梁には何度か来たことがあるので、今回は未訪問の山田方谷ゆかりの史跡を中心に巡ってみました。

中洲公園は、三島中洲が開いた虎口渓舎の跡です。
三島中洲は、備中国窪屋郡中島村(現在の倉敷市)の出身で、14歳で山田方谷に入門し、後に江戸に出て佐藤一斎に学びました。
30歳で備中松山藩に仕官し、藩学有終館の学頭となり、山田方谷の備中松山藩での藩政改革では中心的存在でした。
明治10(1877)年には、二松學舍大学の前身、漢学塾二松學舎を創設しました。また、東京帝国大学教授や宮中顧問官などの要職を歴任し、大正天皇が皇太子時代、漢学を進講しました。
虎口溪舎は、文久元(1861)年、中州が家塾として備中松山城下に開いたものです。現在は中州公園として整備されています。訪れたのが秋でしたので紅葉も綺麗でした。


牛麓舎は、幕末に備中松山藩の藩政改革に取り組んだことで知られる山田方谷の家塾です。
方谷は藩校有終館の学頭をつとめながら、家塾を開きました。三島中洲、矢吹久次郎、進鴻渓といった人がこの地で学びました。
場所が臥牛山の麓にあったため「牛麓舎」という名があります。現在は市内循環バスの松山城登山口バス停の隣に石碑が建っています。


備中松山城御根小屋は備中松山藩の藩主の居館であり、藩の政務を行う役所です。
備中松山城が標高430メートルにあるため、平時の政庁として御城山の麓に造られました。
北は臥牛山に接し、南は小高下谷川を堀に見立て、西は現JR伯備線で限られたほぼ三角形の地形で、その面積は約34000平方メートルです。廃藩後は旧制高梁中学校(現在の岡山県立高梁高等学校)は、その跡地に建てられており、石垣は御根小屋の原型を今に伝えています。
御根小屋の創建年代は不明ですが、天正3(1575)年の兵乱で焼失した記録があるそうです。現在の姿は、江戸時代初期の天領時代に代官の小堀遠州が再建をはかり、天和3(1683)年当時の藩主水谷勝宗により完成しました。
平成3(1991)年、岡山県の史跡に指定されました。


油屋旅館です。幕末の長岡藩執政になった河井継之助が、備中松山の藩政改革を行った山田方谷を訪ねて訪れたとき泊まったのが「花屋」という宿でした。元々は紺屋川沿いにありましたが、現在は国道沿いに移転し、「油屋旅館」に名を変えています。
与謝野鉄幹、晶子夫妻や、山田洋次監督、渥美清さんも宿泊されたそうです。
城下町にふさわしく、趣のある建物です。


紺屋川美観地区の「本町樽井線・下町薬師院線」は日本の道百選に選ばれているそうです。 柳と桜並木が植えられた川沿いの道は風情があります。


有終館は備中松山藩の学校です。
天保3(1832)年の大火により、内山下にあった元有終館が類焼しました。時の学頭奥田楽山が中之町に再興しました。
その後、天保10(1839)年にはまたまた焼失し、嘉永4(1851)年に山田方谷が再興しました。明治維新後の明治4(1871)年に閉校しました。
現在、当時の建物はなく同敷地内には高梁幼稚園が建っています。
幼稚園の門前には石碑が建てられています。山田方谷が藩校を再興したときに植えたと言われる大松「山田方谷手植松」が当時を偲ばせます。


高梁キリスト教会堂は、紺屋川美観地区にあるレトロな建物です。
教会堂は明治15(1882)年に設立されました。当初は投石などの迫害にあいましたが、教育や医療等の分野にも影響を与えました。
現在の建物は明治22(1889)年のもので、岡山県下最古の教会堂として、岡山県の重要文化財に指定されています。


石火矢町ふるさと村・武家屋敷街は、武家屋敷通りとしての面影を今も深くとどめています。
土塀、石垣、しっくい壁の昔ながらの武家屋敷街の雰囲気が今でも残っています。


松連寺は山号は東向山、真言宗御室派仁和寺の中本寺で、本尊は大日如来です。
戦国時代には備中兵乱により毛利氏との戦いに敗れた三村元親が松連寺で自害したことが知られています。
現在の寺は明暦3(1657)年、市内奥万田より水谷伊勢守勝隆により移築されたものです。
備中松山城の砦の役割を果たすため、城郭づくりそのままの石垣が見事です。
本堂右にある観音堂には、豊臣秀吉が朝鮮出兵をした文禄の役の総督、岡山城主宇喜多秀家の御座船の格天井と船戸があるそうです。


武家宿の花屋跡は、幕末、山田方谷に入門するため備中松山城下を訪れた河井継之助も宿泊したそうです。現在は油屋旅館として本町に移転しています。跡地は今は高梁鍛冶町郵便局になっており、木製の標柱が立っています。


山田方谷寓居跡です。頼久寺の第2駐車場(頼久寺の南側、行き止まり道路の突き当たり)の南側、民家との境界付近に「山田方谷先生寓居址の碑」がありました。


最後に以前も訪れた山中鹿之介〔山中鹿介幸盛〕の墓にお参りしました。山中鹿介幸盛は天文14(1545)年、出雲国に生まれました。尼子氏に仕えて尼子十勇士の一人に数えられました。尼子氏の居城月山富田城落城後も「我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈ったという故事は有名で、尼子氏再興に力を注ぎました。
播磨の上月城に尼子勝久を擁して籠城しましたが、毛利氏により落城し、囚われの身となり備中松山城へ護送される途上、この阿井の渡場に不意討ちにより斬殺されました。現在の墓碑は正徳3(1713)年備中松山藩主石川氏の家臣前田時棟が建てたものです。


高梁は山間部の城下町ですが、戦国から幕末など、かつての面影を残す雰囲気の良い城下町です。他にもまだまだ史跡が残っていそうです。
この後は、高梁市に合併された旧成羽町を訪れます。
Posted at 2007/12/01 23:27:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年11月23日 イイね!

備中史跡めぐり(その4・備中松山城〔大松山城〕と野生の猿)

備中松山城はもともと臥牛山の最北端に主郭部がありました。三村氏滅亡後、南側からの攻撃に備えて毛利氏が主郭部を現在の場所に移しました。かつての主郭部を大松山城、現在に至る主郭部を小松山城と呼んで区別しています。
備中松山城は、相模三浦氏の一族の秋庭三郎重信が承久の乱の軍功で有漢郷の地頭となり、延応2(1240)年に有漢郷の地頭である大松山に砦を築いたのが始まりです。
その後、鎌倉時代末から南北朝時代にかけて、高橋宗康、高師秀(師直の兄)と城主が変りましたが、その後、秋庭重明が城主となり、永正6(1509)年まで秋葉氏が居城としていました。その間、城の規模も小松山(現在備中松山城がある山)まで拡張されました。
その後室町時代には、上野頼久、庄為資が城主となり、戦国時代は三村氏の居城でした。

石垣があちこちに点在しており、遺構も探すといろいろありそうです。


途中の天神丸跡は臥牛山の標高が一番高いところにあり、三村氏の最後の戦いとなった天正3(1575)年には天神丸を部下の裏切りにより奪われたことが敗戦の時期を早めたといわれています。


主郭部近くの大池付近では天然記念物の野生の猿をたくさん見ることができます。


主郭部付近と大池です。


紅葉も綺麗です。






再び野生の猿を発見。




この後は、小松山城に戻り、ふいご峠から駐車場までシャトルバスで戻りました。そして、城下町高梁を散策することにします。
Posted at 2007/11/26 22:59:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年11月23日 イイね!

備中史跡めぐり(その3・備中松山城〔小松山城〕)

次は備中松山城です。
ここは以前2回ほど訪れたことがあります。その内直近に訪れたときは平成の大修復中でしたので、今回は修復してから初めて訪れます。
土日祝日は最寄りのふいご峠駐車場へ車へは乗り入れできないため、城見橋公園駐車場へ車を駐め、シャトルバスでふいご峠駐車場に登ることになります。ここから歩いて15分程度かかりります。
備中松山城は、仁治元(1240)年に秋葉重信が備中有漢の地頭となり、大松山に城を築いたのが始まりとされています。その後、元弘年間に高橋宗康が小松山まで城を拡張しました。その後、城主は高氏、上野氏、庄氏、尼子氏と変わりました。
永禄4(1561)年、毛利元就の支援を得た三村家親が尼子氏の加番吉田左京亮を討ち、城主となりました。
三村氏は、大松山から小松山まで天神丸、佐内丸、太鼓丸、馬酔木丸などの出城や出丸が設けられた一大城郭を築きました。しかし、元亀3(1572)年、足利義昭の仲裁により毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると、宇喜多氏と戦っていた三村元親は、織田信長と結び毛利氏に反旗を翻しました。この備中兵乱により天正3(1575)年に毛利軍に攻められ落城しました。以後、毛利氏の所有となりました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで毛利輝元が周防・長門に所領を削減された後、
天領となり国奉行として小堀正次、政一(遠州)父子が赴きました。小堀氏は頼久寺で政務を行っていましたが、政一は慶長10(1606)年に御根小屋と備中松山城の修復を行っています。その後鳥取から池田長幸が入封しましたが、その子長常に嗣子がなく断絶し、寛永19(1642)年に水谷勝隆が入封しました。
現存する天守は、天和3(1683)年に水谷勝宗により修築されたものといわれています
水谷(みずのや)氏は三代続きましたが、元禄6(1693)年、水谷勝美は嗣子が無かったため、改易となりました。浅野内匠頭長矩が城の受け取りにあたり、大石内蔵助良雄は一年近く在番として備中松山城にとどまりました。
その後、安藤重博、信友、石川総慶が城主となりましたが、延享元(1744)年板倉勝澄が入城し、幕末まで板倉氏が城主でした。
標高430m付近に位置する天守閣は、現存天守が全国で最も高いところにあることで有名です。

EOS30D+SIGMA 20mm F1.8 DG RF 


EOS30D+SIGMA 20mm F1.8 DG RF 厩曲輪の石垣


EOS30D+SIGMA 20mm F1.8 DG RF 三の丸の土塀




EOS30D+SIGMA 20mm F1.8 DG RF 天守閣


EOS30D+SIGMA 20mm F1.8 DG RF 二重櫓




EOS30D+SIGMA 20mm F1.8 DG RF 搦手門付近


PowerShot G9


紅葉は終わりかけでしたが、落葉のある風景も古城には似合っていてなかなか風情のあるものです。
この後は少し足を伸ばし、中世の備中松山城の大松山城へ足を伸ばしてみることにします。
Posted at 2007/11/25 23:13:13 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年11月23日 イイね!

備中史跡めぐり(その2・井山宝福寺の紅葉)

次は、井山宝福寺の紅葉を見に行きました。
宝福寺は、臨済宗東福寺派の寺院です。創建年代は不詳ですが、元々天台宗の寺院を貞永元(1232)年に備中国真壁(現在の総社市真壁)出身の禅僧・鈍庵慧總によって禅寺に改められました。
戦国時代の備中兵乱で天正3(1575)、三重塔を残して消失しましたが、江戸時代に山門、仏殿、方丈、庫裏、禅堂、鐘楼堂、経蔵の七塔伽藍を備える禅宗様式の人として復興されました。
三重塔は、高さ18.5mあり、北条時頼の寄進と伝えられていましたが、昭和42(1967)年の解体修理の際、南北朝時代の永和2(1376)年の建築であることが判明しました。
また、宝福寺は雪舟の伝説でも知られています。少年時代、宝福寺で修行を行っていましたが、絵に心を奪われていた雪舟をこらしめるため住職が柱に縛ったところ、泣いた涙でネズミの絵を足で描いたという話があります。
紅葉の名所としても知られており、多くの方が訪れていました。

EOS30D+SIGMA 20mm F1.8 DG RF


EOS30D+SIGMA 20mm F1.8 DG RF


EOS30D+SIGMA 20mm F1.8 DG RF


EOS30D+SIGMA 20mm F1.8 DG RF


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EOS30D+SIGMA 20mm F1.8 DG RF


EOS30D+SIGMA 20mm F1.8 DG RF


PowerShot G9


PowerShot G9


次は、高梁市を目指します。
Posted at 2007/11/25 22:11:56 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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