この後は熊本市内の史跡めぐりです。
熊本城前、行幸橋のたもとにある
加藤清正公像は 桔梗紋の具足、蛇の目紋の桶側胴、陣羽織、長烏帽子の姿で采配を持ち、治山治水あるいは築城を指揮した姿を表していると言われています。加藤清正公の銅像は、熊本市内では本妙寺にもあります。です。
熊本城前、行幸橋のたもとにある加藤清正公像は 桔梗紋の具足、蛇の目紋の桶側胴、陣羽織、長烏帽子の姿で采配を持ち、治山治水あるいは築城を指揮した姿を表していると言われています。加藤清正公の銅像は、熊本市内では本妙寺にもあります。
熊本城東側の
横井小楠をめぐる維新群像です。横井小楠は、肥後細川藩士です。越前福井藩主松平春嶽が幕府総裁職となった時は顧問として幕政改革に貢献し、勝海舟と親交を深め、坂本龍馬にも影響を与えました。
その後明治元(1868)年、新政府の参与に出仕しましたが、明治2(1869)年に京の町で暗殺されました。明治3(1870)年熊本藩は藩知事細川護久、大参事細川護美の下に、竹崎律次郎、内藤泰吉、嘉悦氏房、徳富一敬、長野濬平、山田武甫等により、実学派の改革を実現しました。
銅像は、横井小楠の生誕190年、没後130年を記念して平成12(2000)年に千葉城に近い高橋公園に建立されました。正面に横井小楠、左側に勝海舟、坂本龍馬、右側に松平春嶽、細川護久の銅像が建ち、下側台座に竹崎律次郎、内藤泰吉、嘉悦氏房、徳富一敬、長野濬平、山田武甫のレリーフが埋め込まれています。台座には小楠がアメリカ留学に旅立つ甥に贈った「尭舜孔子の道を明らかにし 西洋の器械の術を尽くさば 何ぞ富国に止まらん 何ぞ強兵に止まらん 大義を四海に布かんのみ」の言葉が刻まれています。
隣の
谷干城の銅像です。谷干城は天保8(1837年)年に土佐藩士の家に生まれ、戊辰戦争に参戦して功績を挙げました。明治5(1872)年に陸軍少将となり、明治6(1873)年に熊本鎮台司令長官に就任し、佐賀の乱や、台湾出兵にも参戦しました。
神風連の乱後の明治9(1876)年に熊本鎮台司令長官となり、西南戦争では籠城策をとり、52日間にわたる薩軍の猛攻から熊本城を死守して勇名を馳せました。
後に政治家に転じ明治44(1911)年に亡くなりました。
この銅像は朝倉文夫の作品で昭和12(1937)年に西南戦争60年を記念して建設されましたが、第二次世界大戦中に金属供出され、昭和44(1969)年に明治100年を記念して同じ型を使い再建されました。
かつては熊本城本丸御殿跡にありましたが、復元工事に伴い現在は千葉城に近い高橋公園に移設されています。
千葉城は文明年間(1469年-1487年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城を築いたのが始まりです。
その後鹿子木親員(寂心)が居城しましたが明応年間(1492年~1501年)隈本城(隈本古城)を築き、居城としたため千葉城は廃城となりました。
千葉城跡は加藤清正が熊本城を築くとその一角となり、細川忠利時代には宮本武蔵が居を構えたことでも知られています。
現在はNHK熊本放送局の敷地及び千葉城公園となっています。
原道館(げんどうかん)は、幕末の肥後の一大思想家であり大学者でもあった林桜園の家塾でした。
桜園は、寛政9(1797)年に下級藩士の家に生まれ、はじめは藩校時習館に入りましたが、のちに国学者長瀬真幸の門に入り、神道と国学を学びました。
とくに教育者としての活躍には目を見張るものがあり、天保8(1837)年にこの地に居を定めてから明治3(1870)年に没するまでの間に1200余名の門弟を教育しました。その中でも肥後勤王党、敬神党(神風連)の人々に影響を与えました。
石碑が千葉城公園の中に建っています。
宮本武蔵の旧居跡です剣豪宮本武蔵は、寛永17(1640)年、肥後藩主細川忠利の招きにより小倉から客分として熊本に移り住みました。十七人扶持、三百石の待遇で千葉城跡に住んでいました。剣術及び兵法を指南し、美術工芸品を残しました。
熊本西社会保険事務所の敷地の東側の川沿いに木製の標柱が建っています。(写真上)
NHK熊本放送局の敷地内には「武蔵の井戸跡」が残っています。(写真下)
西南戦争籠城将校家族避難跡は、熊本城の二の丸に位置します。
西南戦争で熊本城に籠城する際、鎮台兵士達の妻子達が弾丸の飛来を避けるためこの空堀に天幕を張って避難したそうです。鎮台司令長官谷干城の久万子夫人を中心に負傷者の手当や慰問につとめたそうです。
石碑と説明の標柱が建っています。
時習館は、細川重賢が宝暦5(1755)年に秋山玉山を初代教授に迎え開校しました。
武士や町人の身分を問わず入学を許し、朱子学を中心に学問させて人材を養成しました。
明治3(1870)年に閉校しました。
熊本城二の丸広場に、時習館跡の標柱が建っています。
旧細川刑部邸です。細川(長岡)刑部家(刑部小輔家)は、肥後藩初代藩主細川忠利の弟、細川刑部少輔興孝が、正保3(1646)年2万5千石を与えられて興した家です。
本邸は加藤家時代は重臣の庄林隼人正の屋敷でしたが、延宝6(1678)年に子飼(熊本市東子飼町)にお茶屋をつくり、後に下屋敷としました。刑部家は代々刑部か図書を名乗り、家禄1万石で活躍しました。子飼屋敷は元禄年間や宝永年間に造作が行われ、藩主も度々訪れました。
明治4(1871)年に熊本城が熊本鎮台となり、城内の武家屋敷は一斉に場外に移りました。時の刑部家の当主興増は明治6(1873)年に子飼邸を増改築して男爵家本邸とし整えました。
旧刑部邸は建坪約300坪あり、鉄砲蔵が付属した長屋門から玄関に入ると表客間・書院・春松閣があります。別棟には観川亭・長屋門・蔵・台所などが付属し、格式のある武家屋敷の形式を今に残します。
昭和60(1985)年には熊本県重要文化財に指定されています。
熊本市により平成2(1990)年~5(1993)年にかけて熊本城三の丸に移築復原し、一般公開しています。
神風連の乱・将士奮戦之跡碑です。神風連の乱は、明治9(1876)年に太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎らにより結成された敬神党により廃刀令に反対して熊本鎮台を攻めた旧士族の反乱です。
熊本城二の丸広場に「将士奮戦之跡碑」が建っています。
隈本城(古城)です。加藤清正が今の熊本城を築く前に、隈本城がありました。
鹿子木親員が茶臼山西山麓に隈本城を築きました。その後、城氏が居城としましたが、豊臣秀吉の九州征伐後は佐々成政が城主となりました。しかし、肥後国衆一揆の責任をとらされ切腹を命じられ、加藤清正が城主となりました。
加藤清正も今の熊本城に移るまで二十年近く在城しました。現在は熊本県立第一高等学校の敷地になっています。
加藤清正の銅像は中尾山(本妙寺山)の八合目、清正を葬る浄池廟の上手に屹立しています。
昭和10(1935)年、清正の没後325年忌にあたる年に本妙寺では記念事業として清正の銅像を製作し安置すること年、長崎出身の彫刻家北村西望に依嘱しました。
4月に高さ8.2mに及ぶ銅像は上熊本駅に到着し、現地まで僧たちの読経に合わせて信者たちが紅白の綱を曳いて登り台座に据え付けられました。城地病の裏手から銅像までの石段も25段区切りで300段に作られました。昭和19(1944)年4月に太平洋戦争末期の金属供出により撤去されましたが、昭和35(1960)年4月に再建されました。
雲巌禅寺は、南北朝時代に日本に渡来した元の禅僧・東陵永よ(とうりょうえいよ)が建立したと伝えられる曹洞宗寺院です。
九州西国三十三観音第14番霊場です。
境内には霊巌洞があります。宮本武蔵が熊本での晩年、この霊巌洞に籠もり、「五輪書」を書きました。また、五百羅漢といわれる数多くの羅漢石像があります。
宝物館には宮本武蔵のの木刀、自画像などを展示しています。
宮本武蔵所修練碑・宮本武蔵像です。剣豪として名高い宮本武蔵は、故郷の風景に似たこの地を愛して寛永20(1643)年以降、しばしばこの地を訪れ、観音の霊気に触れて己の人生の集大成である五輪書を書きました。
記念碑は武蔵の没後三百年にあたる昭和19(1944)年に建立されたもので正面の題字は細川護立氏の書、下段には「五輪書」の序の一部が刻まれています。
また、近くの岩戸の里公園の駐車場には勝ち運を呼ぶ武蔵像があります。平成15(2003)年のNHK大河ドラマ「武蔵MUSASHI」の放映記念とテレビ放送開始50周年を記念して故郷の岡山県大原町と熊本城に向けて建てられました。
これでこの日の熊本史跡めぐりは終了です。夜にすこしおまけがありますが・・・