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ピズモのブログ一覧

2008年09月06日 イイね!

福岡・熊本・太宰府紀行(2日目その3・熊本城のライトアップ)

熊本の夜は馬刺しの寿司と焼酎を楽しんだ後、熊本城を再び訪れました。ライトアップされていて非常に美しい姿です。
残念ながら本丸などの主要な櫓群のみです。しかも本丸には入ることができません。8月までは開放していたようですが。少し残念。しかし宇土櫓のライトアップされている姿を楽しむことができました。

飯田丸五階櫓と天守閣


宇土櫓






宇土櫓と大天守、小天守


宇土櫓と大天守


宇土櫓と大天守、小天守


五間櫓


Posted at 2008/09/22 20:14:05 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2008年09月06日 イイね!

福岡・熊本・太宰府紀行(2日目その2・熊本市内の史跡)

この後は熊本市内の史跡めぐりです。
熊本城前、行幸橋のたもとにある加藤清正公像は 桔梗紋の具足、蛇の目紋の桶側胴、陣羽織、長烏帽子の姿で采配を持ち、治山治水あるいは築城を指揮した姿を表していると言われています。加藤清正公の銅像は、熊本市内では本妙寺にもあります。です。
熊本城前、行幸橋のたもとにある加藤清正公像は 桔梗紋の具足、蛇の目紋の桶側胴、陣羽織、長烏帽子の姿で采配を持ち、治山治水あるいは築城を指揮した姿を表していると言われています。加藤清正公の銅像は、熊本市内では本妙寺にもあります。


熊本城東側の横井小楠をめぐる維新群像です。横井小楠は、肥後細川藩士です。越前福井藩主松平春嶽が幕府総裁職となった時は顧問として幕政改革に貢献し、勝海舟と親交を深め、坂本龍馬にも影響を与えました。
その後明治元(1868)年、新政府の参与に出仕しましたが、明治2(1869)年に京の町で暗殺されました。明治3(1870)年熊本藩は藩知事細川護久、大参事細川護美の下に、竹崎律次郎、内藤泰吉、嘉悦氏房、徳富一敬、長野濬平、山田武甫等により、実学派の改革を実現しました。
銅像は、横井小楠の生誕190年、没後130年を記念して平成12(2000)年に千葉城に近い高橋公園に建立されました。正面に横井小楠、左側に勝海舟、坂本龍馬、右側に松平春嶽、細川護久の銅像が建ち、下側台座に竹崎律次郎、内藤泰吉、嘉悦氏房、徳富一敬、長野濬平、山田武甫のレリーフが埋め込まれています。台座には小楠がアメリカ留学に旅立つ甥に贈った「尭舜孔子の道を明らかにし 西洋の器械の術を尽くさば 何ぞ富国に止まらん 何ぞ強兵に止まらん 大義を四海に布かんのみ」の言葉が刻まれています。


隣の谷干城の銅像です。谷干城は天保8(1837年)年に土佐藩士の家に生まれ、戊辰戦争に参戦して功績を挙げました。明治5(1872)年に陸軍少将となり、明治6(1873)年に熊本鎮台司令長官に就任し、佐賀の乱や、台湾出兵にも参戦しました。
神風連の乱後の明治9(1876)年に熊本鎮台司令長官となり、西南戦争では籠城策をとり、52日間にわたる薩軍の猛攻から熊本城を死守して勇名を馳せました。
後に政治家に転じ明治44(1911)年に亡くなりました。
この銅像は朝倉文夫の作品で昭和12(1937)年に西南戦争60年を記念して建設されましたが、第二次世界大戦中に金属供出され、昭和44(1969)年に明治100年を記念して同じ型を使い再建されました。
かつては熊本城本丸御殿跡にありましたが、復元工事に伴い現在は千葉城に近い高橋公園に移設されています。


千葉城は文明年間(1469年-1487年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城を築いたのが始まりです。
その後鹿子木親員(寂心)が居城しましたが明応年間(1492年~1501年)隈本城(隈本古城)を築き、居城としたため千葉城は廃城となりました。
千葉城跡は加藤清正が熊本城を築くとその一角となり、細川忠利時代には宮本武蔵が居を構えたことでも知られています。
現在はNHK熊本放送局の敷地及び千葉城公園となっています。


原道館(げんどうかん)は、幕末の肥後の一大思想家であり大学者でもあった林桜園の家塾でした。
桜園は、寛政9(1797)年に下級藩士の家に生まれ、はじめは藩校時習館に入りましたが、のちに国学者長瀬真幸の門に入り、神道と国学を学びました。
とくに教育者としての活躍には目を見張るものがあり、天保8(1837)年にこの地に居を定めてから明治3(1870)年に没するまでの間に1200余名の門弟を教育しました。その中でも肥後勤王党、敬神党(神風連)の人々に影響を与えました。
石碑が千葉城公園の中に建っています。


宮本武蔵の旧居跡です剣豪宮本武蔵は、寛永17(1640)年、肥後藩主細川忠利の招きにより小倉から客分として熊本に移り住みました。十七人扶持、三百石の待遇で千葉城跡に住んでいました。剣術及び兵法を指南し、美術工芸品を残しました。
熊本西社会保険事務所の敷地の東側の川沿いに木製の標柱が建っています。(写真上)
NHK熊本放送局の敷地内には「武蔵の井戸跡」が残っています。(写真下)


西南戦争籠城将校家族避難跡は、熊本城の二の丸に位置します。
西南戦争で熊本城に籠城する際、鎮台兵士達の妻子達が弾丸の飛来を避けるためこの空堀に天幕を張って避難したそうです。鎮台司令長官谷干城の久万子夫人を中心に負傷者の手当や慰問につとめたそうです。
石碑と説明の標柱が建っています。


時習館は、細川重賢が宝暦5(1755)年に秋山玉山を初代教授に迎え開校しました。
武士や町人の身分を問わず入学を許し、朱子学を中心に学問させて人材を養成しました。
明治3(1870)年に閉校しました。
熊本城二の丸広場に、時習館跡の標柱が建っています。


旧細川刑部邸です。細川(長岡)刑部家(刑部小輔家)は、肥後藩初代藩主細川忠利の弟、細川刑部少輔興孝が、正保3(1646)年2万5千石を与えられて興した家です。
本邸は加藤家時代は重臣の庄林隼人正の屋敷でしたが、延宝6(1678)年に子飼(熊本市東子飼町)にお茶屋をつくり、後に下屋敷としました。刑部家は代々刑部か図書を名乗り、家禄1万石で活躍しました。子飼屋敷は元禄年間や宝永年間に造作が行われ、藩主も度々訪れました。
明治4(1871)年に熊本城が熊本鎮台となり、城内の武家屋敷は一斉に場外に移りました。時の刑部家の当主興増は明治6(1873)年に子飼邸を増改築して男爵家本邸とし整えました。
旧刑部邸は建坪約300坪あり、鉄砲蔵が付属した長屋門から玄関に入ると表客間・書院・春松閣があります。別棟には観川亭・長屋門・蔵・台所などが付属し、格式のある武家屋敷の形式を今に残します。
昭和60(1985)年には熊本県重要文化財に指定されています。
熊本市により平成2(1990)年~5(1993)年にかけて熊本城三の丸に移築復原し、一般公開しています。


神風連の乱・将士奮戦之跡碑です。神風連の乱は、明治9(1876)年に太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎らにより結成された敬神党により廃刀令に反対して熊本鎮台を攻めた旧士族の反乱です。
熊本城二の丸広場に「将士奮戦之跡碑」が建っています。


隈本城(古城)です。加藤清正が今の熊本城を築く前に、隈本城がありました。
鹿子木親員が茶臼山西山麓に隈本城を築きました。その後、城氏が居城としましたが、豊臣秀吉の九州征伐後は佐々成政が城主となりました。しかし、肥後国衆一揆の責任をとらされ切腹を命じられ、加藤清正が城主となりました。
加藤清正も今の熊本城に移るまで二十年近く在城しました。現在は熊本県立第一高等学校の敷地になっています。


加藤清正の銅像は中尾山(本妙寺山)の八合目、清正を葬る浄池廟の上手に屹立しています。
昭和10(1935)年、清正の没後325年忌にあたる年に本妙寺では記念事業として清正の銅像を製作し安置すること年、長崎出身の彫刻家北村西望に依嘱しました。
4月に高さ8.2mに及ぶ銅像は上熊本駅に到着し、現地まで僧たちの読経に合わせて信者たちが紅白の綱を曳いて登り台座に据え付けられました。城地病の裏手から銅像までの石段も25段区切りで300段に作られました。昭和19(1944)年4月に太平洋戦争末期の金属供出により撤去されましたが、昭和35(1960)年4月に再建されました。


雲巌禅寺は、南北朝時代に日本に渡来した元の禅僧・東陵永よ(とうりょうえいよ)が建立したと伝えられる曹洞宗寺院です。
九州西国三十三観音第14番霊場です。
境内には霊巌洞があります。宮本武蔵が熊本での晩年、この霊巌洞に籠もり、「五輪書」を書きました。また、五百羅漢といわれる数多くの羅漢石像があります。
宝物館には宮本武蔵のの木刀、自画像などを展示しています。


宮本武蔵所修練碑・宮本武蔵像です。剣豪として名高い宮本武蔵は、故郷の風景に似たこの地を愛して寛永20(1643)年以降、しばしばこの地を訪れ、観音の霊気に触れて己の人生の集大成である五輪書を書きました。
記念碑は武蔵の没後三百年にあたる昭和19(1944)年に建立されたもので正面の題字は細川護立氏の書、下段には「五輪書」の序の一部が刻まれています。
また、近くの岩戸の里公園の駐車場には勝ち運を呼ぶ武蔵像があります。平成15(2003)年のNHK大河ドラマ「武蔵MUSASHI」の放映記念とテレビ放送開始50周年を記念して故郷の岡山県大原町と熊本城に向けて建てられました。


これでこの日の熊本史跡めぐりは終了です。夜にすこしおまけがありますが・・・

Posted at 2008/09/22 00:18:31 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2008年09月06日 イイね!

福岡・熊本・太宰府紀行(2日目その1・熊本城)

この日は熊本まで高速で一走りし、今回の旅行の最大の攻略目標である熊本城へ向かいました。いわずと知れた加藤清正の築いた天下の名城です。
熊本城は、最初は隈本城といい、文明年間に肥後守護菊池氏の一族、出田氏が茶臼山に築いたのが始まりです(千葉城)。その後、鹿子木親員が茶臼山西山麓に隈本城を築きました。その後、城氏が居城としましたが、豊臣秀吉の九州征伐後は佐々成政が城主となりました。しかし、肥後国衆一揆の責任をとらされ切腹を命じられ、加藤清正が城主となりました。
清正は天正19(1591)年から茶臼山丘陵から、千葉城、隈本城を取り込んだ壮大な城を築き始め、慶長12(1607)年にほぼ完成させ、隈本を熊本と改めました。
加藤氏は清正の子、加藤忠広が寛永9(1632)年に改易され、細川忠利が入城し、明治維新まで細川氏の居城でした。
明治10(1877)年の西南戦争では、原因不明の出火で大天守・小天守などを焼失しましたが、谷干城の指揮下の元よく戦い、西郷軍は熊本城を落とすことができませんでした。
昭和35(1960)年、鉄筋コンクリート造りの大小天守が再建されました。平成18(2006)年には日本100名城に指定されました。平成19(2007)年には築城400年祭が行われ、これを機に主要建造物の復元が行われていきました。
平成20(2008)年には本丸御殿が復元されました。
籠城戦に備え、加藤清正が銀杏の木を植えたといわれており、銀杏城ともいわれています。
大天守・小天守・宇土櫓といった通常の城の天守閣クラスが3つあるというのもすごいです。

西大手(櫓)門
昭和56(1981)年の復元。寛永9(1632)年、細川忠利が加藤家に代わり入国した時、「謹んで肥後54万石を拝領します」とこの門の前で駕籠を降りて深く頭を下げたという逸話があります。


地図石です。
日本地図、熊本城城下町図、熊本城平面図などを表現したとか諸説がありますが、数寄屋丸二階御広間への参入口の装飾であったと考えられています。


西南戦争で焼失した本丸御殿が平成20(2008)年4月に復元されました。
竹の丸や二の丸から本丸御殿へ向かうには闇御門を抜けることになります。


闇御門から先に続く闇通路です。


茶臼山の頂上部に築かれた天守閣です。
昭和35(1960)年の再建。


銀杏城の別名を持つ熊本城です。それが別名の由来となった銀杏の木です。
清正が亡くなるときに、「この銀杏の木が天守閣と同じ高さとなったときに、何か異変が起こるであろう」と予言し、それが奇しくも明治10年(1877年)の西南戦争のときであったとも言われています。現在の木は西南戦争で燃えたあとに、芽吹いた脇芽が成長したものです。


本丸御殿内部です。これは大広間(鶴之間、梅之間、櫻之間、桐之間)。


昭君の間です。中国の漢の宮女「王昭君」の悲話をモチーフにした障壁画が描かれています。昭君の名については、清正が「将軍」つまり豊臣秀頼を招くために造ったとも言われています。







天守閣から本丸御殿を撮影。


本城で最も私が好きな宇土櫓です。
熊本城は天守閣を含め6棟の五階櫓があったとされていますが、明治10(1877)年の西南戦争などで失われたため、現存するのはこの櫓のみです。
かつて小西行長の宇土城から移築したと考えられていますが、調査の結果当初から熊本城の櫓であることが判明しています。
関ヶ原の戦いの後、召し抱えた小西行長の家臣団が櫓の管理をしたことからこの名があるとも言われています。左手は続櫓です。


二様の石垣です。築城当初の熊本城は隅石に同じ大きさの石を積む打ち込みハギといわれる工法を採用していましたが、継ぎ足した石垣部分は長方形の石の長辺と短辺を交互に積む算木積みで築かれています。


飯田丸五階櫓です。加藤清正の重臣、飯田角兵衛が守っていたことからこの名があるといわれています。木造三層五階建の櫓は明治期に取り壊されましたが、平成16(2004)年12月に復元されました。


竹の丸から飯田丸、天守閣を撮影


竹の丸から飯田丸五階櫓を撮影。


熊本城はまさに天下の名城だけあって見学するのにはかなりの時間が必要です。どこを見ても素晴らしいお城です。私の一番お勧めは石垣と宇土櫓、復元された本丸御殿の「昭君の間」です。
後で熊本市役所の展望ロビーから熊本城天守閣と本丸御殿を一望できることを聞いてちょっと後悔しています。
この後は熊本城の周りの史跡を巡ります。
Posted at 2008/09/15 23:27:27 | コメント(5) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記

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ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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