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ピズモのブログ一覧

2010年05月01日 イイね!

H22越後上杉紀行(1日目その3・木場城〜水原城〜笹岡城〜安田城)

天神山城など岩室地域で時間を使ったのもう夕方になってしまいました。
この日の宿泊は新潟市なので、周辺の城を巡ってみます。

木場城は、天正9(1581)年に上杉景勝により築かれた城です。
当時景勝は、当時、景勝は織田信長の結んだ新発田城の新発田重家と争っていて木場城は景勝の前線基地でした。
景勝は、木場城の実城(本丸)に蓼沼友重、二の郭には山吉景長を配属し、新潟に拠点を置く新発田勢と戦いました。
戦いは主に舟を使って火矢を放つ焼き打ち合戦でした。
木場城勢が新潟を攻略したり、新発田勢が木場城を攻略したり戦いは一進一退を繰り返しながら6年余りも続きました。
木場城は、天正15(1587)年 新発田氏が滅亡したあとも存続しましたが 
慶長3(1598)年の上杉家の会津移封ににより廃城となりました。木場城は木場集落の西端にあったと推定されていますが、遺構は確認されていなく正確な位置は分かっていないそうです。
主郭部と推定される位置に、木場八幡宮が祀られていて、木場八幡宮を含む跡地全体を「宮のもり・木場城公園」として整備されています。
木場城 - 01
木場城 - 01 posted by (C)pismo

木場城 - 02
木場城 - 02 posted by (C)pismo

木場城 - 03
木場城 - 03 posted by (C)pismo

木場城 - 04
木場城 - 04 posted by (C)pismo

水原城は、伊豆の豪族大見家秀が源頼朝の挙兵に功績があり、白川荘地頭に任ぜられ、その子孫が安田氏となりその庶流が水原の地を分与され水原氏を称しました。
戦国時代、水原氏は上杉謙信に仕え、御館の乱では水原満家が上杉景勝に味方しました。
新発田重家の乱では、満家は景勝方として戦いましたが、天正11(1583)年、新発田城の包囲を解いて退却する途中、新発田重家の追撃を受け、殿として戦い戦死しました。
その際、水原城は新発田方に攻め落とされました。
天正12(1584)年には、一度水原城は上杉景勝が奪還しましたが、新発田方はよく戦い、再び水原城は新発田方のものとなりました。
天正13(1585)年、景勝は水原城を再び攻め、内通により火を放たせようやく落城させました。
その後、景勝は水原城に大関弥七親憲を入れ、水原常陸介親憲と名乗らせました。
水原親憲は、関ヶ原の戦いの長谷堂城からの撤退戦や、大坂冬の陣で活躍しました。大坂の陣の際、徳川秀忠から感状を貰いましたが、その際宛名が「杉原常陸介」となっていたので、杉原(読みはすいばら)親憲と改めました。
「子供の石合戦で感状を賜るとは」と言っていたそうです。
水原城は、慶長3(1598)年、水原親憲が上杉景勝の会津移封に従い会津へ移ったため廃城となりました。
水原代官所は、江戸時代の延享3(1746)年、水原城跡地に幕府により設けられた天領の代官所です。支配高は時代により増減がありますが、5万石前後から7万石、多い時は10万石にも及び、専任の代官は22代を数え、慶応4(1868)年に会津藩預かりとなるまで約120年間続きました。
現在の水原代官所は、平成5(1993)年、代官所平面図を基に復元が計画され、平成7(1995)年に完成したものです。
もう夕方と言うことで閉まっていたので、また明日訪れてみることにします。
水原代官所・水原城 - 1
水原代官所・水原城 - 1 posted by (C)pismo

水原代官所・水原城 - 2
水原代官所・水原城 - 2 posted by (C)pismo

水原代官所・水原城 - 3
水原代官所・水原城 - 3 posted by (C)pismo

笹岡城は貞和年間(1345~1350)篠岡中将資尚が築城したといわれています。
また、一説には、和田義盛の子、三郎五郎兵衛義茂の子が中条郷の地頭となり、その居城であったといわれています。
応永の乱の際には、中条房資(奥山荘中条)が一時期ここに派兵して築城しました。
戦国時代には、山浦国清(村上義清の子)の居城でしたが、上杉景勝の時代、今井源右衛門国広が御館の乱の功績で魚沼上郷城から転封され、酒井新左衛門、黒金宮内の二人がこれを守りました。
新発田重家の乱の際には、鉢盛城とともに新発田城攻撃の前線基地として重要な役割を果たしていました。
天正13(1585)年には、新発田重家により落城し、その後城主がなく廃城となりました。
城跡主郭部は公園になっています。鑑洞寺や稲荷神社も城域です。
笹岡城 - 01
笹岡城 - 01 posted by (C)pismo

十郎杉は、十郎丸という連絡船を繋いだとか、十郎という人が植えたとか、城楼杉から転じて十郎杉で。笹岡城の望楼の役目を果たしたとか、女郎杉が転じて十郎杉となり笹岡城の奥女中を葬ったとか、宿場町笹岡の遊女を葬ったとかいろいろな説があり、阿賀野市(旧笹神村)の指定文化財になっています。
笹岡城 - 02
笹岡城 - 02 posted by (C)pismo

笹岡城 - 03
笹岡城 - 03 posted by (C)pismo

笹岡城 - 04
笹岡城 - 04 posted by (C)pismo

笹岡城 - 05
笹岡城 - 05 posted by (C)pismo

笹岡城から安田城から移動途中、田園風景の夕日をみることができました。
新潟県の田園風景は関西では見ることができない、広大な田園風景です。
阿賀野市福井付近の夕日
阿賀野市福井付近の夕日 posted by (C)pismo

安田城は大見氏の子孫安田氏の居城です。
柏崎市にも安田城がありますが、あちらは毛利一族の系統の安田氏の居城です。
中世の安田町周辺は白河庄と呼ばれる荘園で摂関家の領地でした。
鎌倉幕府が創設されると、源頼朝挙兵に参陣して功績のあった関東御家人伊豆の大見氏が地頭職として着任し、のちに安田氏を名乗りました。
安田氏は安田城を拠点地に守護上杉氏や上杉謙信に仕え、数々の戦功をたてました。安田長秀は川中島の戦いの際、同じ揚北衆の色部勝長・中条藤資らと共に「血染めの感状」を貰っています。(感状を貰ったのは長秀ではなく、長秀の子安田有重という説もあります。)
慶長3(1598)年上杉景勝の会津若松城移封で安田氏も同行し、 村上城主村上義明の重臣吉竹右近が在番しました。
元和4(1618)年、村上氏の改易により村上城主となった堀直竒の支配となったが、元和元(1615)年の一国一城令のもとに、 元和8(1622)年安田城は破却されました。
寛永16(1639)年、直竒は63歳で没し、その遺言により次男直時が3万石を分与され、安田に居城を構えて立藩しました。
正保元(1644)年、直時の子直吉が領地替えで村松城へ移り、安田城は廃されました。
現在は教習所風?の公園、公民館、体育館などの敷地になっています。水堀が残っています。
安田城 - 01
安田城 - 01 posted by (C)pismo

安田城 - 02
安田城 - 02 posted by (C)pismo

安田城 - 03
安田城 - 03 posted by (C)pismo

安田城 - 04
安田城 - 04 posted by (C)pismo

五泉城は永禄2(1382)年、長尾憲顕により築かれました。
初代城主は五泉数馬です。
天正11(1583)年、上杉景勝の家臣甘糟備後守景継は、護摩堂城(田上町)より2万石を与えられ五泉城に移りました。
甘糟景継は、上田長尾家の家臣、登坂家の出身で、景勝が上杉家の養子に迎えられたときも春日山城へ入城しました。
文禄2(1593)年、五泉城から庄内の酒田城へ移り、上杉家が会津に移封された際には白石城主となりました。
五泉はその後天領となり、五泉城は五泉八幡宮社地として整地し、慶安2(1649)年、社殿を調えて宮腰より遷宮しました。
もうほとんど真っ暗になっていたので「甘糟備後守城」の石碑があると聞いていますが、見つけることが出来ませんでした。
五泉八幡宮 - 1
五泉八幡宮 - 1 posted by (C)pismo

この日の行程はここまでで、二日目に続きます。
Posted at 2010/05/09 19:12:10 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年05月01日 イイね!

H22越後上杉紀行(1日目その2・弥彦山周辺)

次は、越後で著名な山、弥彦山周辺です。
昨年、与板に行った際に、登山靴と杖という姿で与板城に登った際、地元の方に「山がお好きなら是非に」と勧められた山です。
ただ、今回は時間の都合上、弥彦山には弥彦山スカイラインで車で登ってしまう計画になってしまいました。
まず訪れたのが彌彦神社
彌彦神社(いやひこじんじゃ、やひこじんじゃ)は、弥彦山を神域とし、越後国開拓の祖神・伊夜彦神を祭る越後国一宮の神社です。
永禄7(1564)年には、上杉輝虎(謙信)がおさめた自分の戦いの「義」を明らかにした願文が今も彌彦神社に残されています。
現在の社殿は大正5(1916)年の再建です。
新潟県道29号吉田弥彦線にある大鳥居は、昭和57(1982)年に上越新幹線開通を記念して建てられた、高さ30mの大鳥居です。
弥彦神社 - 01
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弥彦神社 - 02
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弥彦神社 - 03
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弥彦神社 - 04
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弥彦神社 - 05
弥彦神社 - 05 posted by (C)pismo

弥彦神社 - 06
弥彦神社 - 06 posted by (C)pismo

弥彦神社 - 07
弥彦神社 - 07 posted by (C)pismo

弥彦神社 - 08
弥彦神社 - 08 posted by (C)pismo

弥彦神社 - 09
弥彦神社 - 09 posted by (C)pismo

弥彦神社 - 10
弥彦神社 - 10 posted by (C)pismo

弥彦神社 - 11
弥彦神社 - 11 posted by (C)pismo

弥彦神社 - 12
弥彦神社 - 12 posted by (C)pismo

弥彦神社 - 13
弥彦神社 - 13 posted by (C)pismo

弥彦神社 - 14
弥彦神社 - 14 posted by (C)pismo

弥彦神社 - 15
弥彦神社 - 15 posted by (C)pismo

弥彦神社 - 16
弥彦神社 - 16 posted by (C)pismo

黒滝城の築城時期は定かではありませんが、鎌倉時代末期小国氏一族が在城していたそうです。
天文14(1545)年、黒田和泉守秀忠が出雲崎の新山城とこの城で長尾晴景に反抗し、天文15(1546)年晴景の弟長尾景虎(上杉謙信)に討ち取られました。
謙信は、後任に上杉家の重臣山岸出雲守光祐を城主としました。
後に山岸秀能、村山慶綱らが城主となりました。謙信が没した後の後継者争いの「御館の乱」では、山岸氏はは景勝方に味方しました。御館の乱後、直江兼続は「深沢弥七郎(後の山岸尚家)」を当城の山岸家に入れ城主としました。
景勝の会津移封で山岸尚家も同行し廃城となりました。
現在は黒滝城址森林公園として整備されており、主郭近くまで道は狭いですが車で登ることが出来ます。
黒滝城 - 01
黒滝城 - 01 posted by (C)pismo

黒滝城 - 02
黒滝城 - 02 posted by (C)pismo

黒滝城 - 03
黒滝城 - 03 posted by (C)pismo

黒滝城 - 04
黒滝城 - 04 posted by (C)pismo

黒滝城 - 05
黒滝城 - 05 posted by (C)pismo

黒滝城 - 06
黒滝城 - 06 posted by (C)pismo

黒滝城 - 07
黒滝城 - 07 posted by (C)pismo

黒滝城 - 08
黒滝城 - 08 posted by (C)pismo

黒滝城 - 09
黒滝城 - 09 posted by (C)pismo

黒滝城 - 10
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黒滝城 - 11
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黒滝城 - 12
黒滝城 - 12 posted by (C)pismo

黒滝城 - 13
黒滝城 - 13 posted by (C)pismo

弥彦山スカイラインを走り、弥彦山頂上付近に到着しました。
眺望も良く、なかなか良い雰囲気です。
弥彦山 - 01
弥彦山 - 01 posted by (C)pismo

弥彦山 - 02
弥彦山 - 02 posted by (C)pismo

弥彦山 - 03
弥彦山 - 03 posted by (C)pismo

弥彦山 - 04
弥彦山 - 04 posted by (C)pismo

越後平野を一望する霊峰、弥彦山(標高638m)の山頂にある御神廟は、山頂に祭られる彌彦神社の御祭神の御廟(奥宮)のことです。
御祭神である天香山命は、国土を平定された神武天皇より、越後地方の開拓の勅命を受け、越の国の野積浜(現在の長岡市寺泊町野積地区)に上陸されました。
そこで早速漁民たちに海水を焚いて塩を作ることや、網や釣針を用いて魚を捕る術を教えられ、さらに弥彦に宮居を定められてから越後を平定し、さらに住民に稲作をはじめ諸産業のご指導をされたと伝えられています。
千年以上も昔から、弥彦神社は越後一宮として「おやひこさま」の敬称で親しまれています。
弥彦山 - 05
弥彦山 - 05 posted by (C)pismo

弥彦山 - 06
弥彦山 - 06 posted by (C)pismo

弥彦山 - 07
弥彦山 - 07 posted by (C)pismo

弥彦山 - 08
弥彦山 - 08 posted by (C)pismo

弥彦山 - 09
弥彦山 - 09 posted by (C)pismo

天神山城(てんじんざんじょう)は小国氏(大国氏)の居城です。
仁平3(1153)年、源頼政の弟小国頼行が天神山に城を築き嫡子宗頼を住まわせたのが始まりといわれています。
その後、安元2(1176)年、小国頼継(頼連)の代から天神山城を居城としました。
戦国時代、小国氏は上杉謙信に仕え、小国頼村は天文23(1554)年の川中島の戦いに参陣、永禄3(1560)年、小国重頼は北条氏康との戦いで武功を上げました。
御館の乱の後の天正10(1582)年、上杉景勝の命により直江兼続の弟樋口与七が養子として小国氏を継ぎ、小国実頼となりました。天正15(1587)年には、景勝の使いとして上京し秀吉と謁見し、その際小国から大国に改め大国但馬守実頼と改めました。
慶長3(1598)年、上杉家の会津移封により大国実頼も会津に移り、445年続いた天神山城も廃城となりました。
岩室温泉丸小山公園、岩室神社付近から登城できます。
城跡は空堀、土塁、石塁などよく残っています。
王子製紙元会長で大国実頼の末裔にあたる大國昌彦氏の揮毫による石碑が本丸に建てられています。
平成21(2009)年の大河ドラマ天地人・第27回「与六と与七」の天地人紀行で「兼続の弟・大国実頼(新潟県新潟市)」として紹介されました。
天神山城 - 01
天神山城 - 01 posted by (C)pismo

天神山城 - 02
天神山城 - 02 posted by (C)pismo

天神山城 - 03
天神山城 - 03 posted by (C)pismo

天神山城 - 04
天神山城 - 04 posted by (C)pismo

天神山城 - 05
天神山城 - 05 posted by (C)pismo

天神山城 - 06
天神山城 - 06 posted by (C)pismo

天神山城 - 07
天神山城 - 07 posted by (C)pismo

天神山城 - 08
天神山城 - 08 posted by (C)pismo

天神山城 - 09
天神山城 - 09 posted by (C)pismo

松ヶ岳城 (松岳山城、松嵩山城)は、岩室神社の裏にそびえる標高174mの松ヶ岳(松岳山)にある山城です。
詳しい実態や来歴は不明ですが、恐らく小国氏(大国氏)の居城天神山城の支城として機能していたと考えられています。
岩室神社からと天神山城からハイキングルートが通じています。
松ヶ岳城 - 01
松ヶ岳城 - 01 posted by (C)pismo

松ヶ岳城 - 02
松ヶ岳城 - 02 posted by (C)pismo

松ヶ岳城 - 03
松ヶ岳城 - 03 posted by (C)pismo

松ヶ岳城 - 04
松ヶ岳城 - 04 posted by (C)pismo

岩室神社は、弘化2(1854)年、神明社、十二神社、諏訪社、稲荷神社の5社を神明社の地(現在の岩室神社)に合祀して建立されました。
松岳山城の登城口にあります。
岩室神社 - 1
岩室神社 - 1 posted by (C)pismo

岩室神社 - 2
岩室神社 - 2 posted by (C)pismo
次は、新潟市郊外の城めぐりです。
Posted at 2010/05/08 21:14:28 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年05月01日 イイね!

H22越後上杉紀行(1日目その1・柏崎市)

今年の越後上杉紀行は、柏崎市からです。
上条城は、上条上杉氏の居城です。読み方は「じょうじょうじょう」です。
上条上杉氏は、越後守護、上杉房方の次男、上杉清方が初代です。
上条定憲は、越後守護上杉定実(上条上杉氏出身)と長尾為景の戦いでは定実方に味方し、為景方の安田景元、北条光広らと戦いました。
その後、定憲は晴景、景虎に従属しますが、実子なく断絶しました。元亀2(1571)年、上杉謙信は養子としていた畠山義隆の次男畠山義春に上条氏の名跡を継がせ、上条弥五郎政繁(義春の父が政繁という説もあり)と改名させました。
政繁は天正6(1578)年の御館の乱では景勝に味方しますが、天正14(1586)年に上杉家を出奔しました。上条城は、村山安芸守が入城しましたが、慶長3(1598)年に上杉氏が会津に転封されると廃城となりました。
上条城 - 1
上条城 - 1 posted by (C)pismo

上条城 - 2
上条城 - 2 posted by (C)pismo

上条城 - 3
上条城 - 3 posted by (C)pismo

上条城 - 4
上条城 - 4 posted by (C)pismo

安田城は、越後毛利氏の系統を受け継ぐ安田憲朝が築いた城です。
安田氏は、大江広元の子孫の越後毛利氏より分家した家柄で、揚北衆の安田氏とは別系統です。
上杉謙信、景勝に仕えた武将としては、安田景元、顕元、能元などが著名です。
景元は、謙信の父長尾為景、兄晴景の代から仕え、天文23(1554)年、近くの同族北条城主北条高広の叛意を伝えました。顕元は景元の嫡子で、飯山城主になるなど謙信麾下として活躍し、御館の乱では景勝側として景虎側の国人を調略するなど活躍しましたが、恩賞が上田衆寄りになったことから国人衆の反発を買い自害しました。
能元は、顕元の弟で顕元死後家督を継ぎ、武勇に優れ新発田重家の乱、関ヶ原の戦い、大坂冬の陣に活躍すると共に内政手腕にも優れた武将でした。
安田城は、顕元が慶長3(1598)年の上杉景勝の会津移封に従い廃城となりました。
現在は、安田の城之組集落内の安田城跡公園にあり、東屋や石碑が整備されています
本丸は、二の丸などの郭跡、空堀など遺構もよく残っています。
安田城 - 01
安田城 - 01 posted by (C)pismo

安田城 - 02
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安田城 - 03
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安田城 - 04
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安田城 - 05
安田城 - 05 posted by (C)pismo

安田城 - 06
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北条城(きたじょうじょう)は、築城時期は不明ですが北条毛利氏が居城とした城です。
謙信の時代は北条高広が居城としていました。
天文23(1554)年、北条高広は武田信玄の調略に応じ、上杉謙信に背いて挙兵したが、謙信の軍に城を包囲され、翌弘治元(1555)年降伏しました。
高広は許され、永禄6(1563)年、謙信の関東出陣の際、上州厩橋城の城代を命ぜられました。
しかし、永禄10(1567)年、北条氏康に通じましたが、上杉氏と北条氏が和睦し後、高広は謙信に再度帰参しました。
天正6(1578)年、謙信の死後勃発した御館の乱で、高広の子・北条丹後守景広が上杉三郎景虎に与し景虎方の主力として活躍しましたが、景広は天正7(1579)年戦死し、北条城も上杉景勝方に攻められ落城しました。
高広は北条城落城後に武田勝頼を頼り、武田氏が滅亡後は滝川一益に仕えたとも伝えられていますが、詳しい消息は不明です。
城跡は、専称寺から歩いて登る方法、専称寺の西側から林道を走り、主郭部下から歩く方法があります。土塁、空堀、郭など遺構がよく残っています。
北条城 - 01
北条城 - 01 posted by (C)pismo

北条城 - 02
北条城 - 02 posted by (C)pismo

北条城 - 03
北条城 - 03 posted by (C)pismo

北条城 - 04
北条城 - 04 posted by (C)pismo

北条城 - 05
北条城 - 05 posted by (C)pismo

北条城 - 06
北条城 - 06 posted by (C)pismo

北条城 - 07
北条城 - 07 posted by (C)pismo

北条城 - 08
北条城 - 08 posted by (C)pismo

北条城 - 09
北条城 - 09 posted by (C)pismo

北条城 - 10
北条城 - 10 posted by (C)pismo

北条城 - 11
北条城 - 11 posted by (C)pismo

専称寺は永仁元(1293)年、一遍上人の高弟真教が開山したと伝えられています。
中世は北条(毛利)氏の菩提寺となり応長元(1311)年に北条時元が寺領を寄進時宗道場としています。
御館の乱で北条景広は上杉景虎側に付いて討死し専称寺も衰退しますが、享保2(1717)年に説賢和尚によって再興されました。
山門は北条城時代の大手門と伝えられています。
また、境内には初代北条城主毛利丹後守時元の墓があります。
専称寺 - 01
専称寺 - 01 posted by (C)pismo

専称寺 - 02
専称寺 - 02 posted by (C)pismo

専称寺 - 03
専称寺 - 03 posted by (C)pismo

この後は、弥彦山方面へ向かいます。
Posted at 2010/05/06 22:37:25 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年05月01日 イイね!

越後上杉紀行を前に・・・昨年の天地人を振り返ると・・・

越後上杉紀行を前に・・・昨年の天地人を振り返ると・・・振り返ると昨年のGW、大河ドラマ天地人が放映していたこともあり「天地人紀行」と銘打って富山県から新潟県を旅行しました。







天地人紀行(1日目その1・魚津城、松倉城、天神山城など)
天地人紀行(1日目その2・秀吉、景勝会見の地「勝山城」から「御館」周辺の史跡めぐり)
天地人紀行(1日目その3・春日山城周辺の史跡めぐり)
天地人紀行(1日目その4・高田城~箕冠城~鮫ヶ尾城)
天地人紀行(2日目その1・直峰城から坂戸城周辺の南魚沼市〔六日町エリア〕の史跡探訪)
天地人紀行(2日目その2・南魚沼市〔旧塩沢町エリア〕~湯沢町)
天地人紀行(2日目その3・天地人紀行番外編、北越戦争紀行・小千谷市)
天地人紀行(3日目その1・天地人紀行・長岡市の北越戦争史跡など)
天地人紀行(3日目その2・栖吉城~栃尾城~河井継之助記念館)
天地人紀行(3日目その3・直江氏の本拠だった与板、そして最後に琵琶島城へ)


新潟県はなかなか史跡も豊富で、人情も温かい感じで非常に楽しいドライブでしたが、一方のドラマ「天地人」については少し不満が残りました。
なぜなら「揚北衆(阿賀北衆)」がほとんどドラマに登場しなかったことです。
阿賀北衆は阿賀野川より北部の越後国にいる豪族のことで、小泉荘の本庄氏、色部氏、奥山荘の中条氏、黒川氏、加地荘の加地氏、竹俣氏、新発田氏、五十公野氏、白河荘の水原氏、安田氏などのことをいいます。
越後は守護の上杉氏、守護代の長尾氏が統治していましたが、揚北衆は、独立性が強く、容易に従わなかったことでも知られています。武田信玄と通じて謙信に対して挙兵した本庄繁長や御館の乱の論功行賞のもつれなどから上杉景勝に長年抵抗した新発田重家などが有名です。
天地人ではあまりにも景勝の出身である上田長尾氏の上田衆に重点を置きすぎ、揚北衆の上杉家臣団がほとんど登場しませんでした。
一番不満だったのが「新発田重家の乱」がまったくといっていいほど取り上げられなかったこと。
これは以前「新発田重家が結局登場しなかった天地人」というテーマでブログにアップしました。

ということで今年のGWは、揚北衆の史跡をメインに、昨年行けなかった柏崎の上条氏、安田氏、北条氏の史跡も加えてドライブすることにします。
Posted at 2010/05/06 22:14:56 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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