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ピズモのブログ一覧

2011年03月17日 イイね!

安芸・史跡めぐり(1日目その3・広島城周辺)

次は広島市の中心部、広島城周辺の史跡です。

不動院は、正式には新日山安国寺不動院という真言宗別格本山の寺院です。
は江戸時代の「新山雑記」では、当寺の開基は僧空窓であると伝えられていますが、創建の時代や由緒については判然としていません。ただ、金堂内に安置されている本尊薬師如来座像が定朝様式であることから、当寺は平安時代には創建されていたと推察されています。
当寺が安国寺不動院と呼ばれる由縁は、足利尊氏、直義公兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺であったことに由来します。
以降、安芸国安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。しかし、戦国時代の大永年間(1521~27)、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。その後50年は藁屋に本尊薬師如来を安置する有様であったと記録されています。
当時を復興したのが、戦国大名、毛利氏の外交僧として、また豊臣秀吉公直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊です。恵瓊はこの間当寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備し、寺運は隆盛を極めました。しかし関ヶ原の合戦で西軍に組した恵瓊は非業の死をとげ、毛利氏も防長二国に国替えとなりました。恵瓊なき後、寺領は没収となり、寺運は次第に衰えてゆきました。
毛利氏が去った後、福島正則が芸備両国49万石の大名として入国し、正則公の祈祷僧である宥珍が入り、住持となりました。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を不動院と称しました。後に当寺全体を不動院を称するようになりました。正則公の治世は20年足らずで終わり、浅野氏が新しい国主として広島に入りました。以降藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受け、概ね安定した時期が続きました。やがて明治に至り、当寺は時代の権力者の手から離れ、庶民の信仰の場となりました。
原子爆弾投下に際しても地理的条件が幸いして本堂の柱が折れたものの災難を免れ、被爆者の受け入れ先となりました。
金堂は国宝で大内義隆が周防山口に建てたものを安国寺恵瓊が移建し、仏殿にしたと伝えられています。
その他楼門、鐘楼堂などが国の重要文化財に指定されています。
境内には、武田刑部少輔之墓、豊臣秀吉の遺髪の墓、安国寺恵瓊の墓、福島正則の墓があります。
不動院 - 01
不動院 - 01 posted by (C)pismo

不動院 - 02
不動院 - 02 posted by (C)pismo

不動院 - 03
不動院 - 03 posted by (C)pismo

不動院 - 04
不動院 - 04 posted by (C)pismo

不動院 - 05
不動院 - 05 posted by (C)pismo

不動院 - 06
不動院 - 06 posted by (C)pismo

不動院 - 07
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不動院 - 08
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不動院 - 09
不動院 - 09 posted by (C)pismo

不動院 - 10
不動院 - 10 posted by (C)pismo


次は昨年も訪れた広島城です。
広島城 - 01
広島城 - 01 posted by (C)pismo

広島城 - 02
広島城 - 02 posted by (C)pismo

広島城 - 03
広島城 - 03 posted by (C)pismo

広島城 - 04
広島城 - 04 posted by (C)pismo

広島城 - 05
広島城 - 05 posted by (C)pismo

広島城 - 06
広島城 - 06 posted by (C)pismo

広島城 - 07
広島城 - 07 posted by (C)pismo

広島城 - 08
広島城 - 08 posted by (C)pismo

広島城 - 09
広島城 - 09 posted by (C)pismo

広島城 - 10
広島城 - 10 posted by (C)pismo



饒津神社は、天保6(1835)年、浅野斎粛が始祖長政を祀るために広島城の鬼門(東北)に明星院境内の西半分を咲いて創建しました。祭神はのちに浅野長政夫人末津姫・幸長・長晟・長勲を合祀しています。
昭和20(1945)年8月、原子爆弾により建物は全焼し、石灯籠、手水鉢などの石造物のほか、十数本の松が残るのみとなる甚大な被害を受けました。
昭和21(1946)年仮社殿を建立、昭和24(1949)年9月本殿が再建されました。
昭和59(1984)年6月本殿、拝殿が戦前の姿に復興され、平成12(2000)年を機に悲願の向唐門が復元されました。
平成15(2003)年、最後の被爆松が枯死しました。
饒津神社 - 01
饒津神社 - 01 posted by (C)pismo

饒津神社 - 02
饒津神社 - 02 posted by (C)pismo

饒津神社 - 03
饒津神社 - 03 posted by (C)pismo

饒津神社 - 04
饒津神社 - 04 posted by (C)pismo

饒津神社 - 05
饒津神社 - 05 posted by (C)pismo

饒津神社 - 06
饒津神社 - 06 posted by (C)pismo


明星院は、正式には月光山大日蜜寺明星院という真言宗御室派の寺院です。
毛利輝元が母の位牌所として建立し、当時は妙寿寺(院号明星院)といいました。
その後、福島正則は寺領200石を附して祈祷寺を命じました。
その後、浅野氏のとき藩祖長政夫妻の位牌を安置し領内鎮護のための祈祷所となりました。
天保6(1835)年、藩主浅野斉尭(なりたか)が境内の西半分に(饒津)神社を造営の後は饒津神社の別当寺とされました。
 昭和20(1945)年、原爆により全焼し、現在の建物は昭和49(1974)年に再建されたものです。堂内には赤穂浪士四十七士の木造が安置されています。
明星院 - 01
明星院 - 01 posted by (C)pismo

明星院 - 02
明星院 - 02 posted by (C)pismo

明星院 - 03
明星院 - 03 posted by (C)pismo

明星院 - 04
明星院 - 04 posted by (C)pismo


鶴羽根神社は、二葉山麓に建立された椎の木八幡宮が前身といわれています。
源頼政の室・菖蒲の前が賀茂郡西條郷(現在の東広島市西条町)に落ち延びその没後に遺志により元久年間(1204-1206)家臣・池田左衛門が二葉山麓に当社を創建し、修理料として椎木を付けたので椎の木八幡宮と称しました。
その後、元亨年間(1321-1324)に火災に遭い、また、後の戦乱により荒廃したが、近世になって復興されました。天保4(1833)年2月12日明星院より出火、類焼し、天保6(1835)年現在地に遷座して社殿を再興しました。
明治元(1868)年、明星院より独立し、明治2(1869)年浅野長勲の撰名で鶴羽根八幡宮と改称し、明治5(1872)年鶴羽根神社と改められました。社名は背後の山が羽根を広げた鶴に似ているので名付けられたといわれています。
昭和20(1945)年8月6日の原爆により社殿は廃燼に帰すが再興されました。石鳥居、石畳のそり橋、石灯籠は幸いにも残り、往事を伝えています。
鶴羽根神社 - 1
鶴羽根神社 - 1 posted by (C)pismo

鶴羽根神社 - 2
鶴羽根神社 - 2 posted by (C)pismo

鶴羽根神社 - 3
鶴羽根神社 - 3 posted by (C)pismo

広島東照宮は、徳川家康を祀る神社です。
正保3(1646)年に広島藩主の浅野光晟(生母が家康の3女振姫)が造営を開始し、御神体は正保4(1647)年江戸上野青龍院にて開眼、これを迎えて遷宮祭を行い、慶安元(1648)年に完成しました。明治の神仏分離までは長尾山松栄寺(東照宮の西隣にあった)を別当寺としていました。
昭和20(1945)年8月6日原爆によって本殿、拝殿などは倒壊・焼失しました。
当時、第二総軍の通信隊が常駐しており通信兵の消火活動で全焼は免れ、唐門、翼廊、手水舎などが残りました。
昭和40(1965)年、社殿を再建、昭和59(1984)年に本殿及び拝殿を建て替えました。
平成20(2008)年から平成23(2011)年にかけて、被爆により傾いた唐門、翼廊の保存修理が行われています。

広島東照宮 - 1
広島東照宮 - 1 posted by (C)pismo

広島東照宮 - 2
広島東照宮 - 2 posted by (C)pismo

広島東照宮 - 3
広島東照宮 - 3 posted by (C)pismo

広島東照宮 - 4
広島東照宮 - 4 posted by (C)pismo

広島東照宮 - 5
広島東照宮 - 5 posted by (C)pismo
Posted at 2011/07/19 20:09:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年03月17日 イイね!

安芸・史跡めぐり(1日目その2・広島市安佐北区・安佐南区)

次は広島市北部、安佐北区と安佐南区を訪れました。

伊勢が坪城は熊谷氏の城です。承久3(1221)年、承久の変で討死した熊谷直国の功績が鎌倉幕府に認められその子熊谷直時は安芸国三入荘の地頭に任ぜられました。
武蔵国熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)からこの地に赴任した直時は三入荘北部の比高30mばかりのこの小高い山に伊勢が坪城を築きました。
三入荘での地歩を固めた熊谷氏は、その勢力の拡大をはかって戦略的により優れた高松山にやがて本拠を移しました。
高松山へ遷城後の伊勢が坪城はしばらくの間は隠居所として利用されていたといわれています。
(説明看板などより)
大林八幡宮の裏山が城跡です。東側に登城口があります。
昭和45(1970)年、広島県の史跡に指定されています。
伊勢が坪城 - 01
伊勢が坪城 - 01 posted by (C)pismo

伊勢が坪城 - 02
伊勢が坪城 - 02 posted by (C)pismo

伊勢が坪城 - 03
伊勢が坪城 - 03 posted by (C)pismo

土居屋敷は、伊勢が坪城から高松城に本拠を進めた熊谷氏が、天正19(1591)年に毛利氏に従って広島に移るまで、平生使用していた屋敷・政庁跡です。
背後に高松城をひかえ、前面の根之谷川を天然の堀とした要害の地にあります。
屋敷跡の広さは約20アールと推定されていて、現在は、わずかにL字型に残る石垣にその跡をとどめます。
なお、正面中央付近の「切りかけ」は門跡と考えられています。
また、この付近一帯の字を土居というが、これは有力な地方豪族の屋敷を中心とした中世の集落が、この地に存在していたことを物語っています。
(説明看板より)
共同住宅の裏側に石積が残っています。少し場所がわかりにくいです。
周囲は道路が狭く、車を駐める場所に苦労します。
土居屋敷跡 - 1
土居屋敷跡 - 1 posted by (C)pismo

土居屋敷跡 - 2
土居屋敷跡 - 2 posted by (C)pismo

土居屋敷跡 - 3
土居屋敷跡 - 3 posted by (C)pismo

土居屋敷跡 - 4
土居屋敷跡 - 4 posted by (C)pismo


菩提所観音寺跡は、熊谷氏の菩提所です。
熊谷氏は当初大林の伊勢が坪城を本拠としていましたが、戦略的により優れた高松山に本拠を進め、麓に屋敷を構えました。
そして熊谷氏の土居屋敷を根之谷川を挟んで向かい合う位置に一族の菩提所・正法山観音寺を営みました。
かつては大内義隆が宿泊したこともある大寺でしたが、天正19(1591)年熊谷氏が広島城下に移ってからは次第にさびれ、今では巨石で築いた100mに及ぶ石垣と、熊谷氏の定紋(穂矢)を刻んだ古い須弥檀を安置した小さな観音堂に、当時の面影をわずかにとどめています。
観音堂南側の墓所には40基余りの古い五輪塔、宝篋印塔がある。熊谷氏代々の墓と伝えていますが、形が崩れてはっきりしません。
しかし慶長5(1600)年熊谷氏が毛利氏に従って萩に移ってからも、度々家臣を墓参させていたといわれています。
また境内の井戸は、有田合戦で討死した熊谷元直の腕を彼の妻が元直の遺体を、家臣が持ち帰らなかったことに憤慨し、女一人で有田まで出掛け、夫の元直の遺体を探し、遺体は見付けたものの、女手で持ち帰るにはあまりにも重く、泣く泣く元直の右腕を切断して持ち帰洗い清めたという言い伝えがあります。
(説明看板などより)
昭和26(1951)年、広島県の史跡に指定されています。
観音寺跡 - 01
観音寺跡 - 01 posted by (C)pismo

観音寺跡 - 02
観音寺跡 - 02 posted by (C)pismo

観音寺跡 - 03
観音寺跡 - 03 posted by (C)pismo

観音寺跡 - 04
観音寺跡 - 04 posted by (C)pismo

観音寺跡 - 05
観音寺跡 - 05 posted by (C)pismo

高松城は、熊谷氏の居城です。
承久の変の後、安芸国三入庄の地頭職を与えられ、武蔵国熊谷郷から大林の伊勢が坪に移って来て居城を構えましたが、に三入庄の南の入り口に位置するこの高松山へ居城を移しました。
築城は四代目直経の時代でしたが、実際の入城は勢力が強大になった十二代目信直の時代と思われます。しかし入城の年代には諸説があって明確ではないそうです。
熊谷氏は武田氏に随っていましたが、後に毛利氏の傘下に入り毛利輝元が天正19(1591)年に広島城を築いて移城すると、熊谷氏もこの高松城を廃して広島に入りました。
更に熊谷氏は、関ヶ原の戦いの後に毛利氏に従って山口県の萩に移りました。
 西方眼下に根の谷川が南流し、北方は桐原の渓谷が大きく空掘の役目を果たしたこの急傾斜の高松城は、容易に人馬の登はんを許さず、守りやすく攻めにくいこの近辺では希に見る名城と言われ、鎌倉時代の典型的山城です。
山頂近くに本丸、二の丸、馬場(井戸跡がある)、鐘ノ段、明覚寺跡、与助の丸など大きい郭が残っています
熊谷氏の遺跡として、この高松城跡と伊勢が坪城跡(大林)、菩提所観音寺跡(三入)、土居屋敷跡(三入)の四つが広島県の史跡指定を受けています。

高松山上には享保5(1720)年に建てられた高松神社があります。毎年5月最後の土・日曜日に大文字祭りが行われています。
(説明看板などより)
高松城 - 01
高松城 - 01 posted by (C)pismo

高松城 - 02
高松城 - 02 posted by (C)pismo

高松城 - 03
高松城 - 03 posted by (C)pismo

高松城 - 04
高松城 - 04 posted by (C)pismo

高松城 - 05
高松城 - 05 posted by (C)pismo

高松城 - 06
高松城 - 06 posted by (C)pismo

高松城 - 07
高松城 - 07 posted by (C)pismo

八木城は、香川氏の居城です。
貞応元(1222)年、香川経景は承久の変の功により安芸国八木を与えられ、その子香川景光が相模国高座郡香川荘から地頭として八木村へ移住し、城を築いて居城としました。
香川氏は武田氏に仕えていましたが、有田合戦で香川行景は武田元繁と共に戦死し、その後武田氏が内部分裂して滅んだ後、毛利氏に仕え、その後、吉川元春に仕えました。
関ヶ原の戦いの後、吉川広家に従い岩国へ移りました。
安佐病院、城山北中学校の南側が城跡です。
城跡には香川氏の始祖鎌倉権五郎景政を祀った権五郎神社があります。
八木城
八木城 posted by (C)pismo

次は広島城周辺を回ります。
Posted at 2011/07/19 19:54:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年03月17日 イイね!

安芸・史跡めぐり(1日目その1・大竹市・廿日市市)

亀居城は慶長8(1603)年から福島正則が5年の歳月をかけ築城した城です。
城が亀の伏した形に似ていたことから亀居城と称されていました。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後、福島正則が芸備二ヶ国を与えられました。広島に入った正則は直ちに領国の経営に乗り出す一方、小方・三次・東城・三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めました。
このとき小方には甥の福島伯耆(一万石)を配備して、慶長8(1603)年から築城をはじめました。
築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮にあたりました。五年の歳月を経た慶長13(1608)にこの城は完成しましたが、不幸にして城将福島伯耆は完成の前年他界したので、これに代わって守将山田小右衛門、森佐助の両名が兵を率いて入城しました。
亀居城は広島本城の支城として、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びましたが、この頃正則に対する幕府の圧力は非常に厳しく、完成後間もない慶長16(1611)年、この城は取り壊される運命となりました。
現在亀居公園となっており、石垣もきれいに修復されて保存されています。
亀居城 - 01
亀居城 - 01 posted by (C)pismo

亀居城 - 02
亀居城 - 02 posted by (C)pismo

亀居城 - 03
亀居城 - 03 posted by (C)pismo

亀居城 - 04
亀居城 - 04 posted by (C)pismo

亀居城 - 05
亀居城 - 05 posted by (C)pismo

亀居城 - 06
亀居城 - 06 posted by (C)pismo

亀居城 - 07
亀居城 - 07 posted by (C)pismo

亀居城 - 08
亀居城 - 08 posted by (C)pismo
長州の役戦跡です。

慶応元(1865)年、第二次長州征伐においての芸州(大竹)口の戦いの古戦場です。
芸州大竹口の幕府軍は彦根(井伊氏)、高田藩(榊原氏)を先鋒とし大竹口から岩国へ攻め入ろうと小瀬川を挟んで対峙しました。6月14日、戦いの火ぶたが切られ、未明に彦根軍の使番竹原七郎平と曽根佐十郎の二騎に小瀬川を渡らせましたがが、岩国軍に狙撃されました。
戦いは圧倒的に不利と見られた岩国軍が西洋式の軍式により旧式装備の幕府軍を破りました。
その後、幕府軍は勝海舟を遣わし、芸州口の戦いを休戦に持ち込みました。
青木神社の道路を挟んだ小瀬川沿いに石碑が建っています。
長州之役戦跡 - 1
長州之役戦跡 - 1 posted by (C)pismo

長州之役戦跡 - 2
長州之役戦跡 - 2 posted by (C)pismo

大竹駅前にはモニュメントも。

大竹駅前 長州戦争モニュメント - 1
大竹駅前 長州戦争モニュメント - 1 posted by (C)pismo



洞雲寺は、山号は応龍山、曹洞宗の寺院です。大内氏の重臣陶氏の菩提寺である山口県・龍文寺の僧金岡用兼(きんこうようけん)を開祖とし、桜尾城主であった厳島神主藤原教親・宗親父子により、長享元(1487)年その菩提寺として創建されました。
金岡禅師は当時、名僧として名高く、本山永平寺の諸伽藍の復興をなしとげ、また、阿波国の守護大名細川成之)の帰依を受け、同国の丈六寺と桂林寺も管轄していました。
現在、洞雲寺に所蔵されている「正法眼蔵」(県重文)は、禅師みずからがこの桂林寺において書写したものです。
藤原氏は宗親のあとも代々菩提寺として洞雲寺に領地を与え、その死亡後も代わって大内氏がこれらの寺領を認め、さらに毛利氏の時代には、重臣の桂元澄、ついで元就の四男元清が桜尾城代として洞雲寺を菩提寺と同じように保護したため、寺には40通に及ぶ戦国期の貴重な古文書(県重文)が残されています。
また、寺内には友田(藤原)興藤、桂元澄、毛利(穂井田)元清夫婦の墓や陶晴賢の首塚(いずれも市重文)などがあります。
(説明看板などより)
洞雲寺 - 1
洞雲寺 - 1 posted by (C)pismo

洞雲寺 - 2
洞雲寺 - 2 posted by (C)pismo

洞雲寺 - 3
洞雲寺 - 3 posted by (C)pismo
Posted at 2011/07/19 19:43:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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