この日は、雲海の
竹田城のシーズンということで、早朝訪れてみることにしました。
竹田城は、嘉吉(1441-1443)年間山名宗全の家来太田垣光景が築城したとされています。
太田垣輝延が城主の時の天正5(1577)年、羽柴秀吉は但馬に侵攻し、竹田城は落城しました。天正8(1580)年山名氏の後ろ盾となっていた毛利氏が但馬から撤退し、 太田垣氏による支配は完全に終焉し、秀吉の弟・羽柴小一郎長秀(秀長)が城代となりましたが、後に秀長は出石・有子山城の城主になったため、 秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となりました。天正13(1585)年に桑山重晴は和歌山城に転封となり、 替わって龍野城主赤松広秀(斎村政広)が城主となりました。
しかし、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍に味方しその責任を問われ鳥取市真教寺にて自刃したため、赤松氏は断絶し、竹田城も廃城となりました。
平日の早朝に訪れたにもかかわらず、駐車場は結構車が止まっていました。
城跡もそれなりに人が居て、あらためて竹田城の人気を知りました。
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竹田城下の寺町通りです。
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寺町通りには、雰囲気のあるお寺が並んでいます。
法樹寺は、山号は見星山、浄土宗の寺院です。
天正6(1578)年勝誉上人の開祖により、河原町(現在の東町)に創建されました。
慶長11(1606)年、竹田城の最後の城主赤松広秀の居住地を、生野代官中野吉兵衛から寄進を受けて河原町から移転しました。
巌誉上人は、竹田城の楼閣を用いて薬師堂を建立し、朝来山中腹の温泉郷にあった御仏を移され祀られていましたが、平成16(2004)年の台風により崩壊し、薬師如来像のみ本堂に安置されています。
境内の裏手には、赤松広秀の墓碑が祀られています。広秀は、永禄5(1562)年、龍野城主赤松政秀の子として生まれ、16歳で竹田城主となりました。天正5(1577)年、秀吉の大軍に下りましたが、秀吉の家臣となり、天正13(1585)年、竹田城主となりました。竹田城主として広秀は九州島津攻め、小田原北条攻めに参戦したほか、文禄元(1592)年の朝鮮の役には他の但馬衆と共に渡鮮しています。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは西軍に組したことなどにより家康の忌避にふれ、同年10月28日、鳥取の真教寺にて自刃しました。享年39歳でした。
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常光寺は、山号は黒田山、真宗大谷派の寺院です。
祐教上人が教如上人の但馬開教の命により、文禄3(1549)年、町の東(金梨山の麓)に草庵を創設しました。
慶長15(1610)年に草庵は町の大火により焼失し、同年初秋に古城山の麓の現在地に仮堂を建て、慶安2(1649)年に本格的な本堂を建てました。
境内には竹田城初代城主太田垣光景の墓碑(供養塔)があります。
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Posted at 2011/11/24 20:42:28 | |
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