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ピズモのブログ一覧

2011年12月29日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(2日目その6・小田原市内史跡〜石垣山城〜大観山)

今井陣場〔徳川家康陣地跡〕は、天正18(1590)年の小田原戦役の際、徳川家康が陣を張った場所です。石碑は陣地跡に建設されたものです。
碑文は、小田原城主大久保忠真(ただざね)の作で、藩士岡田左太夫光雄に書かせ天保7年(1836)9月17日建立しました
徳川家康は、この戦役に豊臣方の先鋒として、約3万人の兵を率いて出陣し、兵を三方に分けて箱根を越えました。三島から宮城野を経て、明神岳を越え、久野諏訪原に出た軍と、鷹ノ巣城(箱根町)を陥れて湯坂越えした軍、そして足柄城(南足柄市)、新荘城(山北町)を陥れ、足柄越えした別の軍が合流し、小田原城の東方、今井(寿町4丁目)に布陣しました。
陣所は、当時、今井に住んでいた柳川和泉守泰久の宅地で、ここを本陣とし、北条氏が降伏して開城するまでの、およそ110日間滞留していたといわれます。
(説明看板より)
今井陣場 - 1
今井陣場 - 1 posted by (C)pismo

今井陣場 - 2
今井陣場 - 2 posted by (C)pismo

小田原駅近くの繁華街の中に北条氏政・氏照の墓所があります。北条氏政は、北条氏第4代目当主です。
氏照は、氏政の弟で八王子をはじめ5つの城主でした。
天正18(1590)年に豊臣秀吉が、北条氏を攻略した際に、時の城主氏直は高野山に追放され、父氏政、その弟氏照の両人は責任を負って自刃しました。
自刃の場所は、城下の田村阿安斎邸(南町)で、遺骸は北条氏の氏寺であった伝心庵に埋葬されました。北条氏滅亡後、大久保氏の時代になって伝心庵は寺町(中町)に移され、その跡に永久寺を建立したので、この墓所は永久寺の所有となりました。
なお、この墓所は永く放置されてあったものを、稲葉氏が城主の時、北条氏追福のため造り直しましたが、大正12(1923)年関東大震災で埋没しする被害をうけましたが、翌年地元の有志によって復興されました。
中央に氏政の墓、左側に氏照の墓があり、右側の大きい方の五輪塔は、北条氏政夫人の墓と伝えられていますが、確証はありません。
五輪塔の前の平たい石の上で、氏政、氏照が自刃したと伝えられています。
稲葉氏が建立した笠塔婆型墓碑には、氏政・氏照の法号(戒名)が次のとおり刻まれています。

「慈雲院殿勝岩傑公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政」
「青霄院殿透岳關公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條陸奥守氏照」
(説明看板などより)
また、この墓所には「幸せの鈴」があります。
墓所に置かれている2つの箱の中に、鈴が入っていてこの鈴に願いをかけて持ち帰り、願いがかなったら、この場所に返しにくるということです。
北条氏政・氏照の墓所 - 01
北条氏政・氏照の墓所 - 01 posted by (C)pismo

北条氏政・氏照の墓所 - 02
北条氏政・氏照の墓所 - 02 posted by (C)pismo

北条氏政・氏照の墓所 - 03
北条氏政・氏照の墓所 - 03 posted by (C)pismo

北条氏政・氏照の墓所 - 04
北条氏政・氏照の墓所 - 04 posted by (C)pismo

小田原駅西口のロータリー内に北條早雲公像が建っています。

北條早雲公(伊勢新九郎長氏、のち宗瑞、早雲庵。法名・早雲寺殿天岳瑞公)は、戦国時代に相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関八州のほか伊勢、駿河に勢威を及ぼした北條五代の祖です。
『北條記』によれば、明応4(1495)年伊豆韮山から箱根を越えて小田原に進出した時、牛の角にたいまつを結んで大軍の夜襲に見せかけた、いわゆる「火牛の計」の戦法を用いて大森氏を打ち破ったといわれています。
その後小田原は96年間にわたり北條氏の城下町として繁栄し、東国一の都市に発展しました。
(北條早雲像建立期成会の現地説明板より一部抜粋)

北条早雲公の像 - 1
北条早雲公の像 - 1 posted by (C)pismo

北条早雲公の像 - 2
北条早雲公の像 - 2 posted by (C)pismo

石垣山城〔一夜城〕は、豊臣秀吉が天正18(1590)年の小田原攻めの際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に築城した城です。
小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側に一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たしたといわれています。
この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みでした。
大正12(1923)年、関東大震災で大部分の石垣が崩壊しました。
昭和34(1959)年、「石垣山」として国の史跡に指定され、現在は石垣山一夜城歴史公園として整備されています。
石垣山一夜城 - 01
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石垣山一夜城 - 02
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石垣山一夜城 - 03
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石垣山一夜城 - 04
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石垣山一夜城 - 05
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石垣山一夜城 - 06
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石垣山一夜城 - 07
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石垣山一夜城 - 08
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石垣山一夜城 - 09
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石垣山一夜城 - 10
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石垣山一夜城 - 11
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もうここで暗くなってしまったので、この日はここで終了。箱根ターンパイクの大観山から箱根の上から夜の富士山がみえるかとシャッターをきりましたが、「かすかに」しか見えず失敗しました。
大観山 - 1
大観山 - 1 posted by (C)pismo
Posted at 2012/01/09 18:45:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年12月29日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(2日目その5・小田原城)

小田原城は、室町時代に大森氏が築城しました。このころの小田原城の位置は正確には分かっていませんが、県立小田原高等学校の東の高台付近と想定され、規模の小さな山城であったと考えられています。
後に伊勢新九郎盛時(長氏、北条早雲)が攻め落とし、氏綱の代に小田原北条氏の居城としました。
その間上杉、武田氏に攻められたこともあったが耐え抜きました。天正18(1590)年、豊臣秀吉と対峙した小田原合戦の時点では、周囲の山の中腹や海岸線などに、総延長九キロメートルに及ぶ土塁や空堀を巡らし、町屋や農地までも城下に取り込んだ壮大な城構(総構)が築かれ、日本最大の中世城郭に発展しました。
しかしながら北条氏は結局降伏し、徳川氏の元で大久保氏、稲葉氏が主に城主となりました。
明治後廃城となり、二の丸平櫓を除き建物は解体されました。
しかし、関東大震災で二の丸平櫓や石垣などが倒壊しました。
昭和初期には平櫓が復元され、昭和35(1960)年に天守閣、昭和46(1971)年に常磐木門、そして平成9(1997)年には銅門、平成21(2009)年には馬出門を復元され、城としての往事の姿がよみがえりつつあります。
また、平成18(2006)年に日本100名城に選定されています。
小田原城 - 01
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小田原城 - 02
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小田原城 - 03
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小田原城 - 04
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小田原城 - 05
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小田原城 - 06
小田原城 - 06 posted by (C)pismo

小田原城 - 07
小田原城 - 07 posted by (C)pismo

小田原城歴史見聞館は小田原城址公園二の丸跡にあり、戦国、江戸時代そして現在までの小田原城の歴史を目と耳で楽しむことのできる、体験型の情報館です。
北条5代についての展示もあります。
小田原城歴史見聞館- 08
小田原城歴史見聞館- 08 posted by (C)pismo

小田原城 - 09
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小田原城 - 10
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小田原城 - 11
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小田原城 - 12
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小田原城 - 13
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小田原城 - 14
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小田原北条氏時代の小田原城は、全国でも稀に見る規模の大きな縄張りを持った城郭として知られています。
その構築法は、内城(本丸・二の丸・三の丸等)と城下町を囲んだ大外郭を設けて、城下町を戦禍から保護するとともに、城外に雄大な防禦線を張ろうとする構えで、当時これは「総構」「総曲輪」と呼ばれ、また大外郭は土塁とその外堀とで作られているところから「総堀」ともいわれています。
小田原城総曲輪は、おそらく小田原北条氏三代氏康の永禄年間頃からつくり始められ、上杉謙信、武田信玄による再度の来攻の経験などにより次第に拡大され、五代氏直の時、豊臣秀吉の小田原の陣が始まる直前の天正18(1590)年早春に完成したものと思われます。
小峯の大堀切(小峯御鐘ノ台大掘切)は、東堀、中堀、西堀の3本からなる戦国時代に構築された空堀です。
北条氏は、天正18年(1590)年の豊臣秀吉の小田原攻めに対して、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、その中に城のみならず城下町までを取り込んだ戦国最大級の城郭を築きました。
この大堀切東堀は、総構以前に構築された三の丸外郭に相当し、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断しており、敵の攻撃を防御するために築かれた空堀です。小田原城中にある三丘陵即ち、谷津丘陵・八幡山丘陵・天神山丘陵の分岐点であり、総構とともに小田原城の西側を守る最も重要な場所であったと考えられます。
この空堀・土塁は小田原城の残存遺構の中で最大のものです。
東堀は幅が約20m〜30m、深さは堀底から土塁の上面(天端)まで約12〜15mあり、堀の法面は50〜60度という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模のものといえます。
発掘調査によると、堀には堀障子や土橋状の堀り残し部分の他、横矢折れとよばれるクランク部分などが設けられていることが確認されました。こうした堀の構造は北条氏が積極的に用いたもので、戦国時代の小田原城の特色をよく表しています。
(説明看板などより)
小峯の大堀切 - 01
小峯の大堀切 - 01 posted by (C)pismo

小峯の大堀切 - 02
小峯の大堀切 - 02 posted by (C)pismo

小峯の大堀切 - 03
小峯の大堀切 - 03 posted by (C)pismo

小峯の大堀切 - 04
小峯の大堀切 - 04 posted by (C)pismo

小峯の大堀切 - 05
小峯の大堀切 - 05 posted by (C)pismo

小峯の大堀切 - 06
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小峯の大堀切 - 07
小峯の大堀切 - 07 posted by (C)pismo
Posted at 2012/01/09 16:51:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年12月29日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(2日目その4・石橋山古戦場)

石橋山の戦いは、治承4(1180)年、以仁王の遺命を受けて源頼朝が平家追討の挙兵をしたところです。
この時、相模の名族三浦党の岡崎四郎義実や、その子佐奈田(真田)与一義忠も参陣しました。しかし、急の挙兵のため頼朝軍は僅か300で、攻撃の平家軍は大庭景親以下3000であったため頼朝軍は忽ち苦戦となりました。この時佐奈田与一は15騎で大庭景親の弟、豪勇俣野五郎景久の75騎と戦い、両将組討ちとなり与一が勝ちましたが、俣野は組み敷かれ、与一はこれを討とうとしましたが、刃に付いた血が固まり短刀がさやから抜けず手間取ったうちに駆けつけた敵のために25歳の命を花と散らしました。
与一の郎党文三(豊三)家康(家安)は、主の討死を聞き群がる敵中に飛び入り主人の後を追い討死しました。この後討死の地には与一塚が建てられ与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られました。
佐奈田霊社は、与一が組み合っていたとき、痰がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えによりせき、ぜんそくなどに霊験があるといわれています。
その先100mの処には文三を祀る文三堂があり、共に県指定史跡になっています。
頼朝は建久元(1190)年、伊豆山権現参詣の帰途両墓を訪れ、両人の忠節を偲び涙を流したと伝えられています。
(説明看板などより)
佐奈田霊社 - 01
佐奈田霊社 - 01 posted by (C)pismo

佐奈田霊社 - 02
佐奈田霊社 - 02 posted by (C)pismo

佐奈田霊社 - 03
佐奈田霊社 - 03 posted by (C)pismo

佐奈田霊社 - 04
佐奈田霊社 - 04 posted by (C)pismo

佐奈田霊社 - 05
佐奈田霊社 - 05 posted by (C)pismo

佐奈田霊社 - 06
佐奈田霊社 - 06 posted by (C)pismo

佐奈田霊社 - 07
佐奈田霊社 - 07 posted by (C)pismo

佐奈田霊社 - 08
佐奈田霊社 - 08 posted by (C)pismo

佐奈田霊社 - 09
佐奈田霊社 - 09 posted by (C)pismo

佐奈田霊社 - 10
佐奈田霊社 - 10 posted by (C)pismo

石橋山古戦場・佐奈田与一義忠討死の地〔ねじり畑〕です。
佐奈田与一義忠は、治承4年(1180)8月23日、石橋山の戦いで敵の豪将俣野五郎景久を組み伏せましたが、 駆けつけた敵方長尾新六に首を斬られました。この畑に作物を植えると、すべてねじれてしまうという言い伝えがあるそうです。
佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑) - 1
佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑) - 1 posted by (C)pismo

文三堂は佐奈田与一義忠の郎党、文三(豊三)家康(家安)を祀ってあるところです。
佐奈田与一義忠は、治承4年(1180)8月23日、石橋山の戦いで敵の豪将俣野五郎景久を組み伏せましたが、 駆けつけた敵方長尾新六に首を切られ、この地で討死したと伝えられています。佐奈田与一は15騎で大庭景親の弟、豪勇俣野五郎景久の75騎と戦い、両将組討ちとなり与一が勝ちましたが、俣野は組み敷かれ、与一はこれを討とうとしましたが、刃に付いた血が固まり短刀がさやから抜けず手間取ったうちに駆けつけた敵のために25歳の命を花と散らしました。
与一の郎党文三(豊三)家康(家安)は、主の討死を聞き群がる敵中に飛び入り八人を討ち取った後主人の後を追い討死しました。
頼朝は建久元(1190)年、伊豆山権現参詣の帰途両墓を訪れ、両人の忠節を偲び涙を流したと伝えられています。
与一塚と共に共に県指定史跡になっています。
文三堂 - 1
文三堂 - 1 posted by (C)pismo

文三堂 - 2
文三堂 - 2 posted by (C)pismo

佐奈田霊社の駐車場すぐ近くに石橋山古戦場の碑があります。
治承4(1180)年、以仁王の遺命を受けて源頼朝が平家追討の挙兵をしましたが、石橋山の戦いでは敗れ安房に逃れました。
その後、多くの豪族を味方につけ、鎌倉に戻ることができました。
石碑は源頼朝挙兵八百年祭実行委員会により昭和55(1980)年4月に建立されたものです。題字は当寺の小田原市長 中井一郎氏によるものです。

石橋山古戦場 - 1
石橋山古戦場 - 1 posted by (C)pismo

石橋山古戦場 - 2
石橋山古戦場 - 2 posted by (C)pismo

石橋山古戦場 - 3
石橋山古戦場 - 3 posted by (C)pismo
Posted at 2012/01/08 22:08:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年12月29日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(2日目その3・湯河原町)

ここからは、箱根から湯河原町へ下っていきます。

最初に訪れたのが、しとどの窟〔土肥椙山巌窟〕です。
このあたりは、今から7・8百年前には杉林でおおわれていたので、土肥椙山と呼ばれていました。 新崎川の上流の山間に杉の埋れ木が発見されるので、当時を想像することができます。
このしとどの窟(土肥椙山巌窟)は、石橋山の戦いで敗れた源頼朝が、身を潜めていたところといわれています。
8月17日、三島大社の祭典の晩、北条時政らと平兼隆の首を取り、伊豆の源氏に組する者たちを集め、 8月19日伊豆を出発し、土肥実平の道案内で日金山を越え、土肥郷(現湯河原町)に着きました。
そして土肥実平の館において作戦を練り、300騎を以て館を出発、いよいよ平家追討の旗挙をし、8月23日に石橋山に於て平家の軍勢総大将大庭景親3000余騎と戦いましたが、およそ10倍以上の敵に多勢に無勢で破れ、一旦土肥へ引返しました。そして、堀口の合戦(鍛冶屋瑞応寺附近)にも敗れたため、土肥実平の守護とみちびきによって 土肥の椙山に逃げかくれました。
実平のお陰で人の知らない谷底のしとどの窟や大木の洞(土肥の大杉)に隠れたり、又小道地蔵において僧純海の気転により床下にかくれ一命を救ってもらいました。そしてこの窟に5日間隠れていました。
その時、梶原景時が、頼朝の居場所を知るが情をもってこれを隠し、この山に人跡なく、向こうの山が怪しいと景親らを導き、頼朝の命を救ったといわれています。
そして、8月28日、真鶴から安房へ向かったといわれています。
この窟は関東大震災にため入口が崩れましたが、水は一年中湧いています。しとどの窟バス停から徒歩10分〜15分程度でつきます。バス停からは谷底へ向かって歩いて行きます。
また、窟の中には観音像群が並んでいます。立像及び座像61体で、小松石に彫刻され、これが安置されている巌窟と共に 中世以後、近郷庶民の信仰習俗を知る上に貴重な資料です。
(説明看板などより)
しとどの窟 - 01
しとどの窟 - 01 posted by (C)pismo

しとどの窟 - 02
しとどの窟 - 02 posted by (C)pismo

しとどの窟 - 03
しとどの窟 - 03 posted by (C)pismo


しとどの窟 - 04
しとどの窟 - 04 posted by (C)pismo

しとどの窟 - 05
しとどの窟 - 05 posted by (C)pismo

しとどの窟 - 06
しとどの窟 - 06 posted by (C)pismo


しとどの窟 - 07
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しとどの窟 - 08
しとどの窟 - 08 posted by (C)pismo

しとどの窟 - 09
しとどの窟 - 09 posted by (C)pismo

土肥城は、築城時期や城主などは不明です。
一説は、湯河原駅付近にあった土肥氏の土肥館の詰城だったともいわれています。
ただし、現在に残る曲輪や遺構は戦国時代のもので、北条氏が小田原城の支城としてなんらかの修築をしたものとも想像されます。
現在は、主郭付近の「土肥城趾」石碑、硯石があります。
「土肥城趾」石碑は、揮毫したのは男爵小早川四郎です。小早川氏は、土肥実平の子孫が安芸沼田荘を与えられ、小早川を姓としました。小早川氏は小早川秀秋が関ヶ原の戦いの後断絶しましたが、明治維新の後毛利氏の一門として復活しました。
硯石は、源頼朝が力試しに石を踵で蹴ったところ、その跡が凹んで硯石のようになったことに由来するそうです。
城跡は、しとどの窟バス停の入口から登っていきます。しとどの窟はバス停から下がっていきますが、土肥城は一度登った後なだらかに下がっていきます。
その他城山入口バス停から登っていくルートもあります。しかし、本当は土肥館があった湯河原町市街地の城願寺から登るのが正しいのでしょう。
土肥城 - 01
土肥城 - 01 posted by (C)pismo

土肥城 - 02
土肥城 - 02 posted by (C)pismo

土肥城 - 03
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土肥城 - 04
土肥城 - 04 posted by (C)pismo

土肥城 - 05
土肥城 - 05 posted by (C)pismo

土肥城 - 06
土肥城 - 06 posted by (C)pismo

土肥氏館です。
土肥氏は中村荘司宗平の次男、実平が土肥次郎を名乗ったのが始まりです。
治承4(1180)年源頼朝が伊豆に挙兵した際、石橋山の戦いで危急を救い、鎌倉幕府草創にも活躍しました。
その子孫は安芸の小早川氏、越中土肥氏などです。
湯河原駅前に城址碑があります。またその隣には土肥實平公並びに夫人像が建っています。
源頼朝旗揚げから800年を迎え、土肥会創設50周年を併せた記念として建立されたものとのことです。
(説明看板などより)
土肥氏館跡・土肥實平並びに夫人像 - 1
土肥氏館跡・土肥實平並びに夫人像 - 1 posted by (C)pismo

土肥氏館跡・土肥實平並びに夫人像 - 2
土肥氏館跡・土肥實平並びに夫人像 - 2 posted by (C)pismo

土肥氏館跡・土肥實平並びに夫人像 - 3
土肥氏館跡・土肥實平並びに夫人像 - 3 posted by (C)pismo

城願寺は山号は萬年山、曹洞宗の寺院です。
土肥氏の持仏堂跡に土肥実平・遠平父子がが建立した寺院で、境内には土肥氏一族の墓地や、樹齢800年の実平手植えのビャクシンの大樹(国指定天然記念物)、七騎堂などがあります。
土肥氏墓所は、広さが10坪、66基の墓石が有り、嘉元2(1304)年7月の銘のある五層の鎌倉様式の重層塔や、永和元(1375)年6月の銘がある宝篋印塔なをはじめ塔芯が球形をした五輪塔など各種の墓型が残っています。
七騎堂は、謡曲「七騎落」にで知られている話で、石橋山の戦いで敗北した頼朝主従八騎は、船で安房に向かうことになるが、頼朝は、源氏にとって「八騎」というのは不吉な数であることから、七騎にするよう土肥実平に命じました。実平は、自分の息子遠平を下船させましたが、遠平は和田義盛の船に救われ、一同が歓喜の酒宴の舞を催したという話です。
七騎堂には、安達盛長、岡崎義実、新開忠氏、源頼朝、土屋宗遠、土肥実平、田代信綱が祀られています。
(説明看板などより)
城願寺 - 01
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城願寺 - 02
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城願寺 - 03
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城願寺 - 04
城願寺 - 04 posted by (C)pismo

城願寺 - 05
城願寺 - 05 posted by (C)pismo

城願寺 - 06
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Posted at 2012/01/08 20:32:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年12月29日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(2日目その2・箱根関所と恩賜箱根公園)

箱根関所は、「入鉄砲」と「出女」を厳しく取り締まったことで知られる江戸幕府の治安維持の重要な拠点でした。
現在の場所に設置されたのは、江戸時代の初期、元和5(1619)年のことといわれています。
中山道の木曽福島、碓氷、東海道の新居、そして箱根の4ヶ所は特に規模も大きく、重要な関所と考えられていました。
明治2(1869)年に明治政府が諸国の関所を全廃したときに廃止されました。
昭和58(1983)年、静岡県伊豆の国市(旧韮山町)にある江川文庫から江戸時代末期、慶応元年(1865)に行われた箱根関所の解体修理の詳細な報告書である「相洲箱根御関所御修復出来形帳」が発見されました。そこで、平成11(1999)年〜平成13(2001)年にかけて、箱根関所の跡地一帯の発掘調査を行い、大番書、上番休憩所、馬屋、雪隠、京口御門などの建物、石垣、石段など構造物の復元を行い、平成16(2004)年度からこれらの建物の公開を始めました。
その後、平成16年(2004)度からは屏風山側の整備を行い、遠見番所、足軽番所、江戸口御門、足軽番所雪隠、京口御門から芦ノ湖へ続く石垣や京口千人溜斜面の石垣の復元工事を行い、さらに周辺整備工事として電線類の地中化の準備や杉並木の保全を行い、平成19(2007)年春に全面公開されました。
前回訪れたのは約10年前、復元はまだされていませんでした。今回復元が完成された姿を見ることができてなによりでした。
箱根関所 - 01
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箱根関所 - 02
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箱根関所 - 03
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箱根関所 - 04
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箱根関所 - 05
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箱根関所 - 06
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箱根関所 - 07
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箱根関所 - 08
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箱根関所 - 09
箱根関所 - 09 posted by (C)pismo

恩賜箱根公園は明治19(1886)年、皇室の避暑と外国からの来客用として建てられた箱根離宮の跡地を一般開放した公園です。ここも約10年ぶりに訪れました。
明治初期の建築様式を取り入れた湖畔展望館があり、離宮建設計画の史料や模型を展示しているのですが、年末年始は閉館していました。10年前、ここは霧に包まれ湖以外は何も見えませんでしたが、公園からは雲の合間から富士山を眺めることができてなによりでした。
県立恩賜箱根公園 - 01
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県立恩賜箱根公園 - 02
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県立恩賜箱根公園 - 03
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県立恩賜箱根公園 - 04
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Posted at 2012/01/05 22:54:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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