この日は、奈良県天理市の龍王山城と、京都府木津川市の鹿背山城を訪れました。
歴史的に見れば、有名な城ではないのかもしれませんが、大和最大級(高取城は中世山城時代の規模が不明)、南山城最大の冠がつく、規模の大きな中世の山城です。
龍王山城は、奈良盆地の東にそびえる龍王山頂上(標高585m)に築かれた山城です。
城は、南・北二つの峰に別れていて、北の方が60mほど低いですが、北城の方が大規模です。
南北両城を合わせると、大和随一の中世城郭です。
二ヶ所に別れてながら、互いに呼応しあって、一つの城を形づくっているのを別城一郭の構えといいます。
北城(城台)は、標高521.7mの郭を中心に、太鼓ノ丸、辰巳ノ櫓、時ノ丸、五人衆の郭、茶屋ノ屋敷、西ノ大手ノ丸など郭が幾重にも重なり、土居や掘割、井戸、それに「馬ヒヤシ」と称する水溜などもあって、中世城郭として原形をよく留めています。
城郭の特徴から南城が古い形態を保ち、北城が後に築かれたものと考えられています。
南北朝の頃、小さな砦をつくられたのがはじめてで、天文年間(16世紀)十市遠忠が小さな砦をもとに一大城郭を築きました。
遠忠は大和武士として知られたのみならず歌人として、とくにすぐれていました。
その子遠勝の時、永禄11(1568)年7月末ほとんど抵抗することもできずに、龍王山城を明け渡して十市平城(橿原市十市)へ退いてしまい、華々しい籠城も行わず、秋山氏の手に渡してしまったようです。
天正6(1578)年に破却され、廃城になったようです。
(説明看板などより)
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鹿背山城は、南山城最大の山城であるだけでなく、戦国末期の特徴をよく残す点で城郭史上注目される城郭です。
鹿背山城は、中世に地元の領主であった木津氏が築いたのが始まりでした。
15世紀に南都興福寺の北方防御の拠点として史料上に登場し、古市氏以下興福寺傘下の武将がしばしば入城しました。
その後、永禄5(1562)年〜永禄11(1568)年にかけて大和北半部を支配した松永久秀は多聞山・信貴山・龍王山とともに拠点として重視し、改修を加えました。
木津の町には当時松永久秀と争っていた三好政康も城を築き、両勢力の境目にありました。
城域の西北・東南の二か所に畝状空堀群を採用して防御上の弱点を補い、主郭北斜面の水の手をカバーする竪堀・竪土塁で北面防御を完結させたほか、主郭東南隅の櫓台の切岸直下の隘路に通路を導いて城虎口(出入り口)とするなど、織豊城郭登場前夜の築城技術の水準を示す貴重な遺構を残しています。
(説明看板などより)
城跡は西念寺から登ります。周囲に駐車場がないのがネックですが、遺構はよく残っています。
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Posted at 2012/12/25 22:47:49 | |
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