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ピズモのブログ一覧

2012年12月29日 イイね!

越後・会津・信濃紀行(2日目その6・会津若松の美酒で乾杯)

史跡めぐりを終えて、夜は友人と会津若松の夜で一杯やりました。
宿泊先からタクシーで移動。会津若松市役所庁舎の前で下車。
市役所の建物は、なかなか趣があります。
会津若松市役所 - 1
会津若松市役所 - 1 posted by (C)pismo

会津若松市役所 - 2
会津若松市役所 - 2 posted by (C)pismo

そして、「籠太」というお店で会津の美酒を堪能。食事もなかなか美味しかったです。

籠太 - 1
籠太 - 1 posted by (C)pismo

郷土料理の「こづゆ」
籠太 - 2
籠太 - 2 posted by (C)pismo

籠太 - 3
籠太 - 3 posted by (C)pismo

宿泊先までは徒歩で帰りました。市内は「八重の桜」一色です。
市内の八重の桜展示 - 1
市内の八重の桜展示 - 1 posted by (C)pismo

関連情報URL : http://www.kagota.co.jp
Posted at 2013/02/07 19:56:14 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年12月29日 イイね!

越後・会津・信濃紀行(2日目その5・御薬園と飯盛山)

御薬園は、室町時代の永享4(1432)年の頃、蘆名氏10代蘆名盛久が霊泉の湧きだしたこの地に別荘を建てたのがはじまりと言われています。
蘆名氏は16代蘆名盛氏の時代、全盛期で盛氏は別荘を復興しました。これが御薬園の創始とされています。
松平氏の藩祖保科正之は霊地の由緒をただして、庭園を整備し、保養所として用いるようになりました。
寛文10(1670)年2代藩主正経(まさつね)は貧しい農民を疫病から救い、病気の予防や治療などを施したいとの願いから、園内に薬草園を設け、各種の薬草栽培を試みました。
現在の庭園は三代正容の元禄9(1696)年、小堀遠州の流れをくむ、園匠・目黒浄定と普請奉・行辰野源左衛門の手に成るもので、規模を拡大し借景を取り入れた築泉回遊式の大名庭園に大補修を加えたものです。中央に池を広くとり、中島をおき茶亭を設けて楽寿亭と称しています。
池の奥、右に男滝、左に女滝があり、後方に低い築山を設けて、東山連峯の風景を豊かにとり入れています。
昭和7(1932)年に徳川時代の代表的な大名型山水庭園として国の名勝に指定されています。しかし、この時の指定は旧入口、池水取入口などが範囲外となっていましたが、昭和54(1979)年庭園に併置された旧薬園跡を含む敷地のほぼ全域が追加指定されいました。
江戸期に各種薬草を栽培する薬草園があったことから、御薬園の名前がついたとされているそうです。現在でも会津産薬草約200種を含め約400種の薬草が栽培されています。
また、敷地内には重陽閣があります。重陽閣は、松平容保の孫にあたる秩父宮妃勢津子殿下の御家族が、昭和3(1928)年会津若松にお越しの際に宿泊された東山温泉新瀧旅館別館だったものです。昭和48(1973)年、ゆかりの深い御薬園に移設され、妃殿下のお誕生日が、重陽の節句の9月9日であることから、妃殿下ご自身によって重陽閣と命名されました。

御薬園 - 01
御薬園 - 01 posted by (C)pismo

御薬園 - 02
御薬園 - 02 posted by (C)pismo

御薬園 - 03
御薬園 - 03 posted by (C)pismo

御薬園 - 04
御薬園 - 04 posted by (C)pismo

御薬園 - 05
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御薬園 - 06
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御薬園 - 07
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御薬園 - 08
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御薬園 - 09
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御薬園 - 10
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御薬園 - 11
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御薬園 - 12
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飯盛山・白虎隊十九士の墓です。明治元(1868)年の戊辰戦争において飯盛山で自刃した十九士の墓です。8月23日(新暦10月8日)自刃した隊士の遺骸は、西軍により手をつけることを禁じられていました。約3ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙園寺に運ばれ仮埋葬され、後この自刃地に改葬されました。
墓域には色々な碑が建っています。
・少年武士慰霊碑
 白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び新潟・栃木・京都で戦い、戦死した会津藩少年武士(白虎隊の仲間達)の慰霊碑です。

・松平容保公 弔歌の碑
  戊辰戦役当時自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し、九代藩主松平容保公が次の弔歌を詠まれたのを現河東町八田野の篤志家八田宗吉氏がこの碑に 刻み建てたものです。
 「幾人の涙は石にそそぐともその名は世々に朽しとぞ思う」
      源 容保
・会津藩殉難烈婦の碑
 会津戊辰戦役で自刃又は戦死した婦女子二百余名の霊を弔うため昭和3(1928)年4月旧藩士山川健次郎氏(男爵、理学博士、帝大総長)等の篤志家によって建てられた顕彰碑です。

・ローマ市寄贈の碑
 白虎隊の精神に深い感銘を受けたローマ市は昭和3(1928)年ローマ市民の名をもって、この碑が贈られました。
 この碑の円柱は赤花崗で、ベスビアス火山の噴火で埋没したポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱です。
 基石表面にイタリー語で「文明の母たるローマは、白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為め、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」裏面に「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが第2次世界大戦後占領軍の命により削り取られた。
・フォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑
 昭和10(1935)年6月ドイツ国(現ドイツ連邦共和国)大使館政治担当外交官 Hasso Von Etzdorf氏が白虎隊精神を賛美して贈られた碑文と十字章です。 
 碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」
 第2次世界大戦後アメリカ進駐軍の手によって碑面を削り撤去されたものを昭和28(1953)年再刻のうえ復元されたものです。
(現地説明板などより)
飯盛山・会津藩殉難烈婦の碑 - 01
飯盛山・会津藩殉難烈婦の碑 - 01 posted by (C)pismo

飯盛山・白虎隊十九士の墓 - 02
飯盛山・白虎隊十九士の墓 - 02 posted by (C)pismo

飯盛山・少年武士慰霊碑・松平容保公 弔歌の碑 - 03
飯盛山・少年武士慰霊碑・松平容保公 弔歌の碑 - 03 posted by (C)pismo

飯盛山・ローマ市寄贈の碑 - 04
飯盛山・ローマ市寄贈の碑 - 04 posted by (C)pismo

飯沼貞吉〔貞雄〕の墓です。
白虎隊士自刃者の内、唯一人の蘇生者である飯沼貞吉(後、貞雄) は印出新蔵の妻ハツに助けられ、後逓信事業省の技師となり 仙台逓信局工務部長に進み、逓信事業に挺身し多大な功績をなし 昭和6(1931)年78歳で仙台市において亡くなりました。
白虎隊の実録は、飯沼貞雄氏によって知ることができました。
昭和32(1957)年9月、戊辰戦役90年祭に、財団法人前島会仙台支部の手によって ここに墓碑と顕彰碑が建てられました。
飯盛山・飯沼貞雄の墓 - 05
飯盛山・飯沼貞雄の墓 - 05 posted by (C)pismo

白虎隊自刃の地です。この場所が白虎隊が最期にたどり着いた場所で、ここから鶴ヶ城が炎上するのを見て自刃を決めました。この場所からは会津若松市中心部が一望でき当時を思い起こすことが出来ます。
戸ノ口原の戦に利あらず白虎隊士20名が西軍の追撃を受けながらやむなく戸ノ口洞穴をくぐり、この地に辿り着いた時は鶴ヶ城附近の侍屋敷が大火災を起し、天守閣炎と黒煙に包まれており、主君のもとに馳せ帰るべき最後の望みを失われていました。
最早や落城は目前に迫る吾等君国に殉ずるはこの機なり、と全員遥かにお城に拝し従容として自刃し相果てた聖地です。
(現地説明板より)

飯盛山・白虎隊自刃の地 - 06
飯盛山・白虎隊自刃の地 - 06 posted by (C)pismo

飯盛山・白虎隊自刃の地 - 07
飯盛山・白虎隊自刃の地 - 07 posted by (C)pismo

飯盛山・白虎隊自刃の地 - 08
飯盛山・白虎隊自刃の地 - 08 posted by (C)pismo

凌霜隊の碑です。
美濃の郡上藩青山氏は、大政奉還後朝廷に恭順しましたが、江戸家老朝比奈藤兵衛は、幕府軍が勝利した際のことを考え、17歳の朝比奈茂吉を隊長に、佐幕派として幕府軍方の一隊として「凌霜(りょうそう)隊」が結成されました。
その後、会津若松で白虎隊らと共に戦い、開城の日まで西出丸を守りました。しかし、会津開城後は囚人同様に郡上八幡に護送され、赤谷揚屋に閉じこめられました。
揚屋の環境は極悪で、病人が続出し、慈恩寺の住職の嘆願により郡上の寺院などに移りました。しかし赦免後も世間の目は冷たく、隊士のほとんどは郡上から離散したそうです。
この碑は昭和59(1984)年、郡上の石で郡上の人達の浄財により建立されたものです。
飯盛山・凌霜隊の碑 - 09
飯盛山・凌霜隊の碑 - 09 posted by (C)pismo

宇賀神堂はさざえ堂に隣接した所にあります。
創建は寛文年間(1661~1672)に会津藩三代藩主松平正容が宇賀神を勧請し弁財天像を神像として社殿を建立した事が始まりです。
社殿は桁行3間、梁間2間、入母屋、銅板葺きの建物です。
明治23(1890)年、白虎隊士の墓の改修に際し、自刃した白虎隊士19名の霊像が奉納、安置されました。

飯盛山・宇賀神堂 - 10
飯盛山・宇賀神堂 - 10 posted by (C)pismo

さざえ堂(旧正宗寺・円通三匝堂)は、寛政8(1796)年に実相寺の郁堂和尚が考案建立したものです。
六角三層高さ約16m、昇降別々のらせん形通路により階段がなく一方通行で上下するという日本唯一、世界にも例のない名建築とされています。
昔は西国三十三観音像を安置していました。つまり正面から昇りスロープを参拝しながら頂上に至り、別の下りスロープに移って続いて巡拝しながら裏口に降りるようになっているつくりです。明治以降は皇朝二十四考(会津藩道徳教本)の絵額が掲げられています。
平成7(1995)年に国指定重要文化財に指定されています。
飯盛山・さざえ堂〔旧正宗寺・円通三匝堂〕 - 11
飯盛山・さざえ堂〔旧正宗寺・円通三匝堂〕 - 11 posted by (C)pismo

飯盛山・さざえ堂〔旧正宗寺・円通三匝堂〕 - 12
飯盛山・さざえ堂〔旧正宗寺・円通三匝堂〕 - 12 posted by (C)pismo

飯盛山・さざえ堂〔旧正宗寺・円通三匝堂〕 - 13
飯盛山・さざえ堂〔旧正宗寺・円通三匝堂〕 - 13 posted by (C)pismo

厳島神社は古くから信仰の対象となっていた神社で永徳年間(1381~83)に勧請されたと言われています。
当初は宗像神社と称しbまた、弁天堂とも云いましたので飯盛山も弁天山と呼ばれていました。
神仏習合であり、祭神である市杵島姫命は弁才天と習合し、別当には正宗寺があたりました。
会津藩三代藩主松平正容は元禄13(1700)年に御神像及び土地が寄進されました。
明治時代、神仏分離令により正宗寺が廃され厳島神社と改名されました。
飯盛山・厳島神社 - 14
飯盛山・厳島神社 - 14 posted by (C)pismo

戸ノ口堰洞穴は、猪苗代湖北西岸の戸ノ口から、会津盆地へ引く用水堰で、全長31kmに及びます。元和9(1623)年、八田野村の肝煎八田内蔵之助が私財を投じ工事行い、寛永18(1641)年八田野村までが掘削されました。明暦3(1657)年には、大野原から延長工事が始まり、元禄年間には若松城下への延伸が決まり、工事が進められました。
天保3(1832)年会津藩士佐藤豊助が藩命により、普請奉行を命じられ飯盛山の山腹約150mを人工的に穴をあけ、使役人夫5万5千人と3ヶ年の歳月を費して天保6(1835)年に遂に完成しました。
明治元(1868)年、戊辰戦争の際、白虎隊士中二番隊は戸ノ口原に布陣している味方軍応援のため派遣されましたが戦いに利あらず、鶴ヶ城の安否を確かめようと帰城の途中隊士20名が通過した洞穴としても知られています。
飯盛山・戸ノ口堰洞穴 - 15
飯盛山・戸ノ口堰洞穴 - 15 posted by (C)pismo

飯盛山・戸ノ口堰洞穴 - 16
飯盛山・戸ノ口堰洞穴 - 16 posted by (C)pismo
Posted at 2013/02/07 00:53:35 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年12月29日 イイね!

越後・会津・信濃紀行(2日目その4・会津若松城とその周辺)

白露庭は、旧会津藩家老2200石、内藤介右衛門の屋敷跡に残る庭園です。
この庭園の年代、作者等は明らかではありませんが、庭園様式はいわゆる江戸時代遠州流の流れを汲んだ由緒ある名園です。
現在は、福島地方裁判所会津若松支部の敷地になっています。庭園は自由に鑑賞でき、東側には「旧会津藩家老内藤邸跡」の石碑と説明看板が建っています。
白露庭(内藤邸跡) - 1
白露庭(内藤邸跡) - 1 posted by (C)pismo

白露庭(内藤邸跡) - 2
白露庭(内藤邸跡) - 2 posted by (C)pismo

西郷邸跡です。西郷家は藩祖以来の重臣で、戊辰戦争の際の当主は国家老1700石の西郷頼母近悳でした。
明治元(1868)年8月23日朝、西軍が鶴ヶ城下に侵入し、急を告げる早鐘が打ち鳴らされると会津藩士・家族達は籠城戦に備え競って入城を急ぎました。
西郷邸では、頼母の留守を預かる妻・千恵子が長男吉十郎を城に送り出した後、最早これまでと一族を集め、幼い者や子女は足手まといになり、恥辱を受ければ家名の恥になると説き聞かせ、母・律子(58歳)をはじめ、季子(2歳)までの21人揃って辞世の和歌を詠み自刃しました。
「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」 千恵子(34歳)
「死にかへり幾度世には生きるとも ますら武雄となりなんものを」妹 眉寿子(26歳)
「武士の道と聞きしをたよりにて 思いたちぬる黄泉の旅かな」 妹 由布子(23歳)
「手をとりてともに行なばまよはじよ いざたどらまし死出の山みち」
 長女 細布子(16歳)下の句 次女 瀑布子(13歳)上の句

この日、郭内では230余名の婦女子が自刃するという大きな悲劇を生む戦いとなりました。
西郷一族21人の墓は、鶴ヶ城南、門田町北青木善龍寺にあり、毎年5月、その霊を弔う「なよ竹祭り」がしめやかに行われています。
西郷邸跡 - 1
西郷邸跡 - 1 posted by (C)pismo

西郷邸跡 - 2
西郷邸跡 - 2 posted by (C)pismo

会津若松城の前身は黒川城です。至徳元年(1384年)、蘆名直盛が黒川城として築城し、戦国時代は蘆名氏の居城でした。伊達政宗は豊臣秀吉の命令を無視して蘆名氏を滅ぼし、黒川城を手にしました。伊達政宗が秀吉に降った天正18(1590)年、蒲生氏郷が居城としました。
近代城郭の姿を整え、城の名を鶴ヶ城と改め、7層の天守を築き城下町を若松と名づけました。
その後、慶長3(1598)年には上杉景勝が会津入りし、出羽3郡、佐渡3郡を加えて120万石を領しました。
関ヶ原の戦いの敗戦で上杉景勝は米沢に移ることになり、慶長6(1601)年には蒲生秀行が再び城主となりました。慶長16(1611)年には会津地方を大地震が襲い天守は傾きました。
その後、寛永4(1627)年には加藤嘉明が入城し、跡を継いだ加藤明成は寛永16(1639)年、天守を五層とし、西出丸、北出丸を増築しました。
しかし、寛永20(1643)年には重臣堀主水と対立したのをきっかけに、会津四十万石は幕府に召し上げられることになり、保科正之が入城しました。
そして、元禄9(1696)年には三代正容が将軍の命により松平の姓と葵の紋を与えられ、幕末まで会津松平氏の居城でした。
慶応4(1868)年、戊辰戦争の激戦でかなりの損傷を被り、明治7(1874)年天守は取り壊されました。
昭和9(1934)年、国の史跡に指定されています。
昭和40(1965)年天守などが復元され、平成2(1990)年には茶室麟閣を本丸内に移築し、平成13(2001)年、天守に続く南走長屋と干飯櫓が復元されました。
平成18(2006)年には、日本100名城に選定されています。
平成22(2010)年から天守の屋根瓦を明治時代に解体される前の赤瓦葺に復元される工事が行われ、平成23(2011)年に竣工しました。
今後、御三階櫓が復元される予定です。
会津若松城(鶴ヶ城) - 01
会津若松城(鶴ヶ城) - 01 posted by (C)pismo

会津若松城(鶴ヶ城) - 02
会津若松城(鶴ヶ城) - 02 posted by (C)pismo

会津若松城(鶴ヶ城) - 03
会津若松城(鶴ヶ城) - 03 posted by (C)pismo

会津若松城(鶴ヶ城) - 04
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会津若松城(鶴ヶ城) - 05
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会津若松城(鶴ヶ城) - 06
会津若松城(鶴ヶ城) - 06 posted by (C)pismo

麟閣は、会津若松城本丸にあります。
豊臣秀吉の奥州仕置により天正18(1590)年蒲生氏郷がは会津黒川城の城主となりました。
氏郷は黒川を若松と改め城下町を発展させました。氏郷は織田信長の娘婿で勇猛な武将であるとともにこの時代を代表する文化人で、特に茶道に親しみ、のち利休七哲の筆頭にあげられるほどでした。
天正19(1591)年2月28日、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放された折り、氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけました。
その結果、文禄3(1594)年と推定される「少庵召出状」が出されたのです。
少庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦(そうたん)に引き継がれました。
そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれました。 かくまわれている間、氏郷のために造ったと伝えられているのが「麟閣」であり、以来、鶴ヶ城(若松城)内で大切に使用されてきました。
しかし、戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治初年、鶴ヶ城が取り壊される際、石州流会津怡渓派の森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しみ、明治5年(1872)年5月、自宅へ移築し、以来百二十年にわたり、森川家はその保全に努めてこられました。
会津若松市では平成2(1990)年9月12日、市制90年を記念してこの氏郷・少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、鶴ヶ城内の元の場所へ移築しました。
会津若松城(鶴ヶ城)・麟閣 - 07
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会津若松城(鶴ヶ城)・麟閣 - 08
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会津若松城(鶴ヶ城)・麟閣 - 09
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会津若松城(鶴ヶ城)・麟閣 - 10
会津若松城(鶴ヶ城)・麟閣 - 10 posted by (C)pismo

会津若松城(鶴ヶ城)・麟閣 - 11
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会津若松城(鶴ヶ城)・麟閣 - 12
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会津若松城(鶴ヶ城) - 13
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日本100名城スタンプラリー 取得実績
04 弘前城     H24/7/12
05 根城      H24/7/13
06 盛岡城     H24/7/13
07 多賀城     H24/7/15
08 仙台城     H23/10/25
09 久保田城    H24/7/14
10 山形城     H24/7/15
12 会津若松城   H24/12/29
23 小田原城    H23/12/29
24 武田氏館    H23/12/30
30 高遠城     H23/12/30
31 新発田城    H24/12/28
32 春日山城    H24/12/28
33 高岡城     H24/4/28
34 七尾城     H23/7/23
35 金沢城     H24/4/28
36 丸岡城     H23/6/18
37 一乗谷城    H24/4/28
38 岩村城     H24/6/23
39 岐阜城     H23/4/16
40 山中城     H23/12/29
41 駿府城     H23/12/28
42 掛川城     H23/12/28
43 犬山城     H24/6/23  
44 名古屋城    H24/3/24
45 岡崎城     H24/10/8  
46 長篠城     H24/10/8  
47 伊賀上野城   H24/4/1
48 松坂城     H24/3/8
49 小谷城     H23/12/23
50 彦根城     H24/1/14
51 安土城     H23/4/9
52 観音寺城    H24/1/14
53 二条城     H23/11/3
54 大阪城     H23/11/19
55 千早城     H23/12/10
56 竹田城     H23/11/16
57 篠山城     H23/11/26
58 明石城     H23/12/24
59 姫路城     H24/1/28
60 赤穂城     H24/1/28
61 高取城     H24/1/22
62 和歌山城    H24/2/18
63 鳥取城     H24/7/27
64 松江城     H23/6/27
65 月山富田城   H24/9/21
67 津山城     H24/4/14
68 備中松山城   H24/10/20
69 鬼ノ城     H24/10/20
70 岡山城     H24/1/7
71 福山城     H24/2/4
72 郡山城     H23/3/18
73 広島城     H23/3/17
76 徳島城     H24/5/21
77 高松城     H24/5/12
78 丸亀城     H24/5/12
86 大野城     H24/9/3
88 吉野ヶ里遺跡  H24/9/1
89 佐賀城     H24/9/2
90 平戸城     H24/9/1
91 島原城     H23/9/17
92 熊本城     H23/9/18
93 人吉城     H23/9/15

H24/12/29現在 63/100城
Posted at 2013/02/02 00:16:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年12月29日 イイね!

越後・会津・信濃紀行(2日目その3・恵倫寺、建福寺、善龍寺)

恵倫寺(えりんじ)は、山号は金剛山、曹洞宗の寺院です。
天正18(1590)年蒲生氏郷が父賢秀の菩提を弔うために建立しました。
尊敬する下総国結城郡安穏寺の高僧、曹月存靏を迎えて開山しました。
当時は鶴ヶ城の西の米代にありましたが、慶長17(1612)年、現在の小田山麓に移転されました。会津領の僧録寺として天寧寺、善龍寺とともに各寺院を管轄しました。
戊辰戦争の戦火にあい山門、鐘楼など七堂伽藍が消失しました。大正8(1919)年、本堂が再建され、昭和30年代以降、位牌堂と開山堂の併設、庫裏や会館の建立、無縁仏整理や境内墓地の整理が進み、平成10(1998)年に山門が完成しました。
境内には蒲生賢秀の墓、柴四朗、五郎はじめ柴家の墓があります。
恵倫寺 - 1
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恵倫寺 - 2
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恵倫寺 - 3
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建福寺は、山号は大宝山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
元々は信濃高遠にありましたが、保科正之が最上、会津に転封となった時移転しました。
高遠にも建福寺は残り、武田勝頼の母諏訪御料人の墓があります。
寛永20(1643)年、保科正之に従った鉄舟和尚により開山され、延宝8(1680)年に現在の地に堂塔伽藍を建立しました。
貞享2(1685)年、3代藩主松平正容は、江戸芝東禅寺の黙水和尚を迎えました。
士族寺として隆盛をきわめましたが、戊辰の戦火により、堂塔伽藍は焼失しました。
明治3(1870)年再建されましたが、寺域はかなり縮小されました。
少し離れた山側の墓地には長岡藩家老河井継之助の遺骨を最初に埋骨したところがあります。
あまりに雪が深かったため、お参りすることができなかったのが残念です。
建福寺 - 1
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建福寺 - 2
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善龍寺は山号は祥雲山、曹洞宗の寺院です。
寛永20(1643)年、曹洞一派の泉海という僧侶が会津藩祖保科正之の会津入部にともない市内花畑に建立しました。
その後寛文7(1667)年、現在の地に移りました。保科家の祖保科筑前守正則の霊を守る保科家の菩提所として発展しました。
戊辰戦争の際、本堂は焼けてしまいましたが、寛政9(1797)年に建造されたといわれる山門は戦火をまぬがれ、今もなお当時の面影を残しています。この山門は、竜宮門あるいは竜宮造と呼ばれる珍しい様式で、この地方ではほとんど例を見ない山門です。
奥にある墓地には西郷頼母夫妻の墓や西郷邸で自決した「二十一人の墓」があります。会津の人々に深く信仰されていたお寺。その境内には、会津藩家老・西郷頼母や妻・千重子、頼母の母など西郷一族21人を祀った「二十一人の墓」や会津戦争で戦死した会津藩士の遺体の埋葬に尽力した伴百悦の墓、明治期の外交官・赤羽四郎の墓など、多くの会津藩士のお墓があります。
その他、「なよ竹の碑」が有名です。家老西郷頼母の妻千重子のか弱い婦女子の心を曲がらぬ竹の節になぞらえ、会津女子の精神の強さを歌い上げた辞世の句「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」というから名づけられたもので、戊辰戦争終結から60年目に当たる昭和3(1928)年、「なよ竹の碑」として善龍寺に建立されました。碑の裏には戊辰戦争で散った233名の会津藩の婦人名が刻まれています。 毎年5月1日に奈与竹墓前祭がおこなわれます。
善龍寺 - 01
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善龍寺 - 02
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善龍寺 - 03
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Posted at 2013/02/01 22:18:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年12月29日 イイね!

越後・会津・信濃紀行(2日目その2・会津藩主松平家墓所〔院内御廟〕、天寧寺)

会津藩主松平家墓所とは、会津松平家初代・保科正之が眠る猪苗代町見禰山の「土津神社」と会津若松市の「院内御廟」2カ所の総称で、昭和62(1987)年に国の史跡に指定をされています。
「院内御廟」は明暦3(1657)年、正之の長男・正頼が亡くなった時に、墓をこの場所に定めたのが最初で、以後、保科家(松平家)の墓所に定められたといわれています。
2代正経は仏教で、3代正容から9代・容保まで神道で葬られており、他に家族や子孫の墓があります。神道の墓所は、碑石、表石、鎭石の3体からなっています。
西之御庭、中之御庭には各代藩主の夫人、側室、子女が葬られており、正之の嗣子正頼の墓もあります。
会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 01
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 02
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 03
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 04
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 05
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 07
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 08
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会津藩主松平家墓所・松平家廟所(院内御廟) - 09
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天寧寺は、山号は萬松山、曹洞宗の寺院です。
応永28(1422)年、会津にきた傑堂禅師が11代蘆名盛信の建立により創建されました。
かつては会津曹洞宗の僧録司で、末寺33カ寺、12の寺院をかぞえました。
蘆名氏は、天正17(1589)年の摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ、天寧寺も焼失しました。蘆名氏の菩提寺としての面影は、本堂の礎石にわずかに残るのみです。 
天寧寺の裏手の墓地には新選組の近藤勇の墓があります。土方歳三が遺髪もしくは首を持っていて会津での戦いの際、ここに仮埋葬したといいます。
墓石には貫天院殿純忠誠義大居士の法号と、その上に丸に三つ引の近藤家の家紋が彫られています。4月25日の命日には、墓前祭りが開催されます。隣には土方歳三慰霊碑が後世建てられました。
また、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、戊辰戦争の責任者となり明治2(1869)年に切腹した萱野権兵衛と、その次男郡長正の墓もあります。会津萱野家の始祖は萱野権兵衛長則と称し、加藤嘉明の上級家臣として国替えにより会津に移りましたが、嘉明の嫡子明成が石見に減封された後、会津藩主として高遠藩から最上を経て入府した保科正之に召しかかえられました。長則は寛文6(1666)年没し、ここ天寧寺に葬られ、代々天寧寺が萱野家の菩提寺となりました。
郡長正は戊辰戦争後の明治3(1870)年、会津の教学復興のために選ばれた藩内の少年7名の一人として現福岡県豊津町の小笠原藩藩校育徳館に留学しました。
郡長正は最年少ながら文武ともに秀でていましたが、郷愁を覚え母へ手紙を書きました。しかし、後に届いた母からの戒めの手紙を落とし、小笠原藩士に大衆の面前で罵られ、会津武士道を汚したとして明治4(1871)年5月1日、異郷の地において切腹しました。時に16歳でした。
小笠原藩は郡長正の死を悼み、会津の方角に向けて墓をたて、その霊を弔いました。
境内には会津藩の家老田中家の墓や、会津士魂の碑、小説「会津士魂」の作者、早乙女貢氏の墓もあります。
天寧寺 - 01
天寧寺 - 01 posted by (C)pismo

天寧寺 - 02
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天寧寺 - 03
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天寧寺 - 04
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天寧寺・近藤勇の墓 - 05
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天寧寺・近藤勇の墓、土方歳三の供養碑 - 06
天寧寺・近藤勇の墓、土方歳三の供養碑 - 06 posted by (C)pismo

天寧寺・会津士魂の碑 - 07
天寧寺・会津士魂の碑 - 07 posted by (C)pismo

天寧寺・郡長正の墓 - 08
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天寧寺・萱野権兵衛の墓 - 09
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Posted at 2013/01/21 22:57:46 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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