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ピズモのブログ一覧

2014年10月04日 イイね!

伏見稲荷大社

この日の最後に、伏見稲荷大社を訪れました。
伏見稲荷大社は、全国に約三万社あるといわれる稲荷神社の総本宮で、宇迦之御魂大神を主神とし、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神を祀る神社です。
和銅4(711)年に秦氏が稲荷山上に創祀し、後にこの地に社殿が造営されたといわれています。仁寿2(852)年の雨祈奉幣以来、朝廷から度々、勅使が遣わされ、五穀豊穣、家業繁栄の神として庶民の深い信仰を集めました。
古くから山全体が信仰の対象とされる稲荷山には、清少納言も詣でたことが「枕草子」に記されており、願い事が「通る」という意味から、多数の朱の鳥居が奉納され、今日に至っています。約1万基の鳥居は、千本鳥居といわれ名所となっています。
応仁の乱で焼失した本殿は、明応8(1499)年に再建された後、幾度かの修造を重ね、現在は重要文化財に指定されています。
また、御茶屋は後水尾院から拝領し、当社に移建された御所の御殿で、これも重要文化財となっています。楼門は、豊臣秀吉が母の病気平癒祈願が成就したため寄進したものです。
また、江戸時代の国学者荷田春満は、伏見稲荷神社の社家出身です。また、平成26(2014)年のトリップアドバイザー「外国人に人気の日本の観光スポット」調査では、1位を獲得しています。
この神社の素晴らしさを体験するには、本殿にお参りするだけでなく、千本鳥居をくぐって稲荷山を回るべきだと思います。体力は使いますが、眺望の良い所や、先人達の稲荷信仰について感じることができます。
伏見稲荷大社 - 01
伏見稲荷大社 - 01 posted by (C)pismo

伏見稲荷大社 - 02
伏見稲荷大社 - 02 posted by (C)pismo

伏見稲荷大社 - 03
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伏見稲荷大社 - 04
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伏見稲荷大社 - 05
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伏見稲荷大社 - 06
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伏見稲荷大社 - 07
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伏見稲荷大社 - 08
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伏見稲荷大社 - 09
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伏見稲荷大社 - 10
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伏見稲荷大社 - 13
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伏見稲荷大社 - 14
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伏見稲荷大社 - 15
伏見稲荷大社 - 15 posted by (C)pismo
Posted at 2014/10/27 00:01:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年10月04日 イイね!

聚楽第と平安宮などの史跡めぐり(後編)

400年の歴史がある「梅雨の井」は、聚楽第内にある唯一の地上遺跡といわれています。
昭和25(1950)年には井戸の石組みが崩落し、現在は立て札と手押しポンプのみが残っています。井戸の跡の東の空地にはかつて八雲神社という小社が祀られており、聚楽第内にあったと伝えられるモチの木を神木として建立されましたが、平成2(1990)年に地上げにあい神社も取り壊され、モチの木も切り倒されてしまいました。現在は「梅雨の井を守る会」の努力により保存されていますが、敷地内で鉄柵で立ち入り禁止になっています。
場所は路地に入り組んだところにあって、わかりにくいですが、大宮通側に下側写真の案内看板があります。大宮通からすこし西側に入って、民家の北裏側に井戸はあります。
聚楽第・梅雨の井 - 1
聚楽第・梅雨の井 - 1 posted by (C)pismo

鵲橋は、聚楽第の南二ノ丸の南東の内郭の堀にあったといわれています。
昭和36(1961)年にこの周辺で下水道工事が行われた際、多くの石の欄干や擬宝珠が出土したといわれています。
松永稲荷に石碑が建っています。
聚楽城鵲橋跡 - 1
聚楽城鵲橋跡 - 1 posted by (C)pismo

聚楽城鵲橋跡 - 2
聚楽城鵲橋跡 - 2 posted by (C)pismo

松林寺(しょうりんじ)は、山号は龍護山、浄土宗の寺院です。
慶長13(1608)年、僧清印により創建されました。当初は東山黒谷にありましたが、後に洛陽川原町に移転し、元禄年間に現在地に移転しました。
幕末には見廻組の屯所があり、佐々木只三郎が滞在していたといわれています。
松林寺の境内は、周辺より一段低くなっています。
これは、聚楽第の南外濠跡に当たることによります。
また、松林寺境内の西域は、「源氏物語」の舞台ともなった内裏の東限に当たり、内裏にある四つの門のうち東側の外郭築地に設けられたのが建春門です。
この門を入り、次の内郭回廊に設けられた宣陽門をくぐると、温明殿・綾綺殿を経て紫宸殿に至ります。
またこの門には、左衛門府の官人が詰めていたことから、左衛門陣とも呼ばれました。
天長10(833)年、建春門の北側に雌雉が集まり、衛士に射獲されたこと、延喜7(907)年、醍醐天皇が仁和寺への行幸に際して建春門から出御したことなどが文献に見えます。
門前に石碑が建っています。
(現地説明板などより)
聚楽第南外濠跡 - 1
聚楽第南外濠跡 - 1 posted by (C)pismo

聚楽第南外濠跡 - 2
聚楽第南外濠跡 - 2 posted by (C)pismo

聚楽第南外濠跡 - 3
聚楽第南外濠跡 - 3 posted by (C)pismo

聚楽第南外濠跡 - 4
聚楽第南外濠跡 - 4 posted by (C)pismo

内裏の後宮七殿五舎の一つ・平安宮内裏昭陽舎〔梨壺〕跡です。
内裏の後宮七殿五舎の一つで、淑景舎の南に位置します。庭に梨を植えたことから梨壺と呼ばれました。
建物は南北に二宇並び、南の正舎は東西五間、南北二間の母屋の四方に庇、北に孫庇があって四面に簀子、北舎は東西五間、南北二軒の母屋に東西に庇が付き四面に簀子がめぐっていました。
10世紀前半に東宮敦良親王(後朱雀天皇)の居所として用いられて以後、東宮御所として使用されるようになりました。
歴史上の梨壺女御として有名な人は村上天皇中宮の藤原安子です。
10世紀中頃、梨壺の一郭に村上天皇の命で撰和歌所が置かれ、大中臣能宣、清原元輔(清少納言の父)らによって「後撰和歌集」が編纂されたので、編纂者たちを「梨壺の五人」と呼びました。
(現地説明板などより)
平安宮内裏昭陽舎〔梨壺〕跡 - 1
平安宮内裏昭陽舎〔梨壺〕跡 - 1 posted by (C)pismo

綾綺殿は、天皇の住まいである内裏の中心建物である仁寿殿の東にあった南北に長い建物で、東側は壺庭を挟んで温明殿、南には宣陽殿がありました。
いわゆる内裏十七殿の一つで、宮中の舞などが行われ、「年中行事絵巻」にも女楽人や六名の妓女が艶やかに舞う姿が活写されています。
身舎は東西二間で、南北九間のうち南五間を納殿として使用し、宮中恒例の行事に使用する御物などが納められていました。
(現地説明板などより)
平安宮内裏綾綺殿跡
平安宮内裏綾綺殿跡 posted by (C)pismo

宜陽殿は、内裏紫宸殿の東にあって軒廊でつながっていました。
南北九間、東西二間の母屋の南北と東に庇がある建物で、内裏造営当初からあったものと思われます。
母屋は累代の御物を納める納所で、「枕草子」には累代の楽器をほめて「それは宣陽殿の一の棚に置かれるもの」とあります。
また「源氏物語」「若菜上」で兵部卿宮が弾いた琴は宣陽殿の御物といわれています。
このように宣陽殿には当時の一級品が納められていました。
また、西庇は公卿座、北庇は脇陣と次将座、東庇の大臣宿・上官侍などが置かれ、南庇には議所があって叙位・除目など公卿会議が行われました。
(現地説明板などより)
平安宮内裏宣陽殿跡
平安宮内裏宣陽殿跡 posted by (C)pismo

国の史跡に指定されている平安宮内裏内郭回廊跡です。
桓武天皇延暦13年(794)に遷都された平安京の中心をなす宮殿の一画は現在の千本丸太町一帯の地に置かれていました。
そのうち天皇の住居であった内裏は、大極殿のあった千本丸太町東北方のこの地域に東西57丈(約173m)、南北72丈(約218m)の広さで造られていました。
天皇の居所である内裏は、内外二重の郭で囲まれ、厳重な築地回廊で囲まれてました。
内側を内郭回廊と呼び、築地を挟んで内と外に回廊がめぐり、衛士らが厳重に警護していました。
その遺跡の一部は昭和38(1963)年の下水道工事で知られ、昭和44(1969)年、昭和48(1973)年の発掘調査でさらに明らかとなりました。
その結果、ここには内裏内郭の築地回廊の西南部が埋れており、その基壇西縁の凝灰岩羽目石、束石、覆石が遺存し、約30mの長さにわたって南北方向に延びていることが確かめられました。この回廊の幅は約35尺(10.5m)で平城宮、長岡宮の内裏築地回廊と同規模ですが、内裏の南西にあった朝堂院の回廊(11.58m)よりも狭いことが分かっています。
この回廊跡は、現在知られている、内裏の確実な遺跡としては唯一のものであり、朝堂院、豊楽院における遺跡の一部と共に、平安京研究上重要な基準となるものです。
現在、当該地は国の史跡に指定され遺構が保存されています。
(現地説明板などより)
平安宮内裏跡(内郭回廊跡) - 1
平安宮内裏跡(内郭回廊跡) - 1 posted by (C)pismo

平安宮内裏跡(内郭回廊跡) - 2
平安宮内裏跡(内郭回廊跡) - 2 posted by (C)pismo

木村長門守重成公旧舘地の碑は、弘誓寺の門前にあります。
周辺は長門町といい、そこから長門守が官位の木村重成の屋敷があったと言われるようになったようですが、木村重成は文禄2(1593年)年頃の生まれで聚楽第が破却された年が文禄4(1595)年であり、時代があわないため、実際に館を構えていたとは考えにくいです。当時長門守に任官していたのは大垣城主だった伊藤盛景が該当します。子の伊藤盛正は、関ヶ原の戦いの際に石田三成の要請で大垣城を明け渡し、西軍に参戦しました。
木村長門守重成公旧館地 - 1
木村長門守重成公旧館地 - 1 posted by (C)pismo

木村長門守重成公旧館地 - 2
木村長門守重成公旧館地 - 2 posted by (C)pismo

佐々木酒造は京都の洛中に現存する唯一の蔵元です。
俳優の佐々木蔵之介さんの実家として知られています。
明治26(1873)年、佐々木次郎吉が創業しました。
聚楽第のあった場所に位置することから「聚楽第」という銘柄などがあります。
蔵元で造っているお酒も販売しています。
佐々木酒造 - 1
佐々木酒造 - 1 posted by (C)pismo

地名などで推定される上杉景勝屋敷跡、直江兼続屋敷跡推定地です。
当地は平安京の表記では、左京二条二坊八町にあたります。「拾芥抄」によれば、皇太子の事務を行う春宮坊の役人の住む町(東宮町)でした。
平安後期の承保4(1077)年9月、春宮権亮 源師忠の母が住んでいることが分かっています。(「水左記」)。
応仁の乱の戦禍によって首都京都は一旦壊滅したが、天下統一を進める豊臣秀吉によって近世都市として甦りました。その中心は、居城聚楽城と武家地(大名屋敷地区)です。
当地付近もその範囲に含まれ、北国大名の上杉景勝、およびその重臣直江兼続の屋敷が営まれたと思われます。
直江兼続は、秀吉からみれば陪臣にあたりますが、上杉景勝と同様に豊臣姓を賜るなど優遇されました。
「上杉年譜」によれば、天正17年(1589)、上洛した出羽国(現山形県)の大名、大宝寺千勝丸(のち義勝)が直江兼続屋敷を旅館に使用したとあり、洛中に同屋敷は確実に存在しました。
その位置は不明ですが、江戸中期の宝暦12(1762)年刊行の「京町鑑」は、当地の南隣の「直家町」を直江屋敷跡と伝承します。
江戸初期に描かれた「京都図屏風」をみれば、当町はもと「なおい町」でした。兼続屋敷の重要参考地といえます。
上杉景勝屋敷は天正16(1588)年に得た一条戻橋西入ルの地が知られていますが、輝元公上日記によると、同じ頃、聚楽城の東南方向の毛利輝元屋敷の右側に宇喜多秀家屋敷があり、洛左側には上杉屋敷もありました。
これは一条戻橋屋敷ではありえません。 現「浮田町」・「森中町」をそれぞれ宇喜多・毛利両屋敷の遺称地と推定できるため、その東隣でで当地北向かいの「長尾町」が、上杉屋敷跡(長尾は旧名字)に比定されます。
すると先にふれた「直家町」(兼続屋敷推定地)と「長尾町」が近接することに気づきます。景勝・兼続の深い関係を鑑みれば十分ありえることでしょう。
(現地説明板などより)
聚楽第・上杉景勝屋敷跡・直江兼続屋敷跡推定地 - 1
聚楽第・上杉景勝屋敷跡・直江兼続屋敷跡推定地 - 1 posted by (C)pismo

聚楽第・上杉景勝屋敷跡・直江兼続屋敷跡推定地 - 2
聚楽第・上杉景勝屋敷跡・直江兼続屋敷跡推定地 - 2 posted by (C)pismo

平安京の首都警察だった検非違使庁址です。
東を堀川小路(堀川通)、北を鷹司小路(下長者町通)、西を猪隈小路(猪熊通)、南を近衛大路(出水通)に囲まれた範囲は、平安京左京一条二坊七町にあたります。
平安時代前期から中期にかけ、この地には平安京の「首都警察」であった検非違使庁が存在しました。
検非違使は弘仁6(815)年頃に令外官として創設され、当初は左右両庁に分かれていたましが、天暦元(947)年(九四七)にひとつに統合されました。
この左京一条二坊七町の地は、もとは左衛門府の一部でしたが、分割されて検非違使の庁舎の敷地にあてられました。
検非違使の職掌は警察、裁判、科刑に及んでいましたが、時代を経るに従ってその役割は拡張され、やがては京内の行政全般にわたる広範な権限を持つに至りました。ただ、平安時代後期になると検非違使の事務は別当(長官)の私邸でおこなわれるようになり、左京一条二坊七町の庁舎は廃絶しました。
(現地説明板などより)
検非違使庁跡 - 1
検非違使庁跡 - 1 posted by (C)pismo
Posted at 2014/10/22 23:49:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年10月04日 イイね!

聚楽第と平安宮などの史跡めぐり(前編)

京都国立博物館の後は、聚楽第の史跡めぐりをしました。
軍師官兵衛の官兵衛紀行で、聚楽第の黒田如水邸や千利休屋敷跡がとりあげられたのも理由の一つです。
また、平安宮の史跡なども点在しています。

石造りのアーチが一際目をひく堀川第一橋は、二条城と御所とを結ぶ公儀橋として明治6年(1873)に架橋されました。
今でも残るその美しく重厚なデザインは 堀川の歴史と文化を感じさせてくれます。
また下流の下立売には 翌年の明治7(1874)年に架橋された同じく石造りのアーチ橋である堀川第二橋が残されていますが、南北へ新しく拡幅されているため、その姿は橋の下からしか確認できません。
第一橋は「鶴の橋」、第二橋は「亀の橋」と呼ばれ 古くから人々に親しまれてきました。
(現地説明板より)
中立売橋(堀川第一橋) - 1
中立売橋(堀川第一橋) - 1 posted by (C)pismo

中立売橋(堀川第一橋) - 2
中立売橋(堀川第一橋) - 2 posted by (C)pismo

中立売橋(堀川第一橋) - 3
中立売橋(堀川第一橋) - 3 posted by (C)pismo

「あの世」と「この世」をつなぐ橋とも言われていた一条戻橋です。
延喜18年(918)、文章博士・三善清行が亡くなった時、父の死を聞いた熊野の僧「浄蔵」が紀州熊野から京都に馳せ帰ってみると、その葬列は丁度この橋の上を通っていました。
浄蔵は柩にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠を込めて祈願したところ、不思議にも清行は一時蘇生して父子物語を交したという伝説から戻橋と名付けられたと言われています。
太平記、剣の巻によれば、その頃、源頼光の四天王の1人であった渡辺綱が深夜この橋の東詰で容貌美しい女子に「夜更けが怖いから送って欲しい」と頼まれたので、馬に乗せたら女はたちまち鬼と化し、渡辺綱が腕を切り落とした、と記されています。
また、一条戻橋は「あの世」と「この世」をつなぐ橋とも言われていました。伝説では、平安時代の天才陰陽師として名高い安倍晴明の父である保名が殺害された場所であり、晴明が呪法を駆使して保名を蘇生させた場所とも言われています。
以上のような歴史を持つ一条戻橋ですが、現在の橋は平成7(1995)年に新築されたものです。
(現地説明板より)
一条戻橋 - 1
一条戻橋 - 1 posted by (C)pismo

藤原道綱母子・源頼光一条邸跡、応仁の乱洛中最初合戦地・小松帯刀寓居参考地・近衛家堀川邸跡です。
この地は平安京の左京北辺二坊五町にあたり、「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされます。
付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地でもあります。
応仁元(1467)年5月26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦いました。
そのため、当時この北方にあった革堂(行願寺)・百万遍(知恩寺)・誓願寺などが焼亡しました。以後洛中の寺社、貴族・武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅しました。
江戸時代には、筑前福岡黒田家邸となりました。
同家御用達商人だった古高俊太郎(桝屋喜右衛門)も出入りしたと推定されます。
元治元(1864)年6月5日、古高の政治活動をキャッチした新選組は彼を逮捕、池田屋事件の導火線となりました。
なお当地の向かいは、五摂家筆頭の近衛家の堀川邸で、内部に「御花畑」がありました。
薩摩島津家の家老小松帯刀は「御花畑」のある近衛邸を寓居としたとされるため、当邸は有力候補地といえます。
慶応2(1866)年1月、小松寓居には長州毛利家の桂小五郎(木戸孝允)が入り、その地で薩長同盟が締結された可能性があります。
当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地でした。
(現地説明板より)
小松帯刀寓居参考地・近衛家堀川邸跡他 - 1
小松帯刀寓居参考地・近衛家堀川邸跡他 - 1 posted by (C)pismo

小松帯刀寓居参考地・近衛家堀川邸跡他 - 2
小松帯刀寓居参考地・近衛家堀川邸跡他 - 2 posted by (C)pismo

晴明神社は、天文博士、安倍晴明を祀る神社です。
安倍晴明は朱雀、村上、冷泉、円融、花山、一条の六朝に仕え天文学に通じ、移りゆく星をみて宮中の変革、遺国の吉凶を判断したといわれ、一条天皇の時に天文博士となりました。
寛弘2(1005)年に亡くなりましたが、寛弘4(1007)年、一条天皇によって晴明の邸は東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売の各通りに及ぶ広大なものでしたが、これを社域とし、創建されました。
その後、たびたびの戦火によって衰えたままであったのを、近年晴明九町組を中心とする崇敬者によって復興され、年を追って現在の規模になりました。
(現地説明板などより)
晴明神社 - 01
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晴明神社 - 02
晴明神社 - 02 posted by (C)pismo

晴明神社 - 03
晴明神社 - 03 posted by (C)pismo

晴明神社 - 04
晴明神社 - 04 posted by (C)pismo

晴明神社 - 05
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晴明神社 - 06
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晴明神社 - 07
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晴明神社 - 08
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晴明神社 - 09
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聚楽第にあった千利休の屋敷跡は「葭屋町元誓願寺下ル町」にあったとされています。
天正19(1591)年2月28日、千利休が秀吉の命によりこの屋敷で切腹しました。
また、利休が茶の湯に使ったといわれている「晴明井」は晴明神社の境内に現存しています。
平成16(2004)年に晴明神社の入口に「千利休居士聚楽屋敷趾」の石碑が建立されました。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の第41回「男たちの覚悟」の「官兵衛紀行」で紹介されました。
晴明神社・聚楽第千利休屋敷跡 - 10
晴明神社・聚楽第千利休屋敷跡 - 10 posted by (C)pismo

豊臣秀次を追善するため建立された村雲御所(瑞龍寺)跡です。
村雲御所瑞龍寺は,豊臣秀吉の姉瑞竜院日秀が、豊臣秀吉に追放され自害した豊臣秀次を追善するため建立した寺院です。
この附近を村雲と称し,宮家や摂関家からの入寺があったため村雲御所と呼ばれる日蓮宗唯一の尼門跡寺院です。
堀川通りの拡張工事に伴い、昭和38(1963)年近江八幡城跡に移転しました。
西陣織会館の西陣織の歴史を記した「西陣」の碑のとなりに石碑が建っています。
村雲御所跡 - 1
村雲御所跡 - 1 posted by (C)pismo

聚楽第跡に「如水町」や「小寺町」の地名が残る黒田如水邸跡です。
天正15(1587)年、秀吉は京の都に新たな住まいとなる聚楽第をつくりました。
聚楽第は金をふんだんに使った豪華絢爛な建物で、周辺の武家屋敷にも金箔瓦が使われたといわれています。
黒田官兵衛孝高(如水)もこの聚楽第の近くに屋敷を構えました。この周辺には「如水町」「小寺町」と官兵衛をゆかりにした地名が残っています。
平成23(2011)年の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の第19回「初の縁談」の「江紀行」及び平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の第39回「跡を継ぐ者」の「官兵衛紀行」で紹介されました。
聚楽第・黒田如水邸跡 - 1
聚楽第・黒田如水邸跡 - 1 posted by (C)pismo

聚楽第の周辺にあった上杉屋敷・上杉景勝屋敷跡です。
当地は平安京一条大路のすぐ北にあたります。つまり平安遷都当初は都市域ではありませんでしたが、西隣地(一条大宮上ル西側一帯)に平安中期の能書家、藤原行成が世尊寺を創建したと推定されており、京外ではあるが当地も早くから開発されたと思われます。
室町時代には、備中国に勢力をもつ細川勝久の屋敷が営まれました。応仁の乱では一族の細川勝元に属したため、応仁元年(1467)5月、当地も洛中での最初の合戦にまきこまれました。
応仁の乱から約120年後、天下一統を進める豊臣秀吉は、京都に本拠を定めました。征夷大将軍ではなく、関白として、天皇のそばでの政権維持を考えたためです。
そのため洛中に本格的な城郭を建設した。現在の一条大宮の西南一帯に位置した聚楽第です。注目すべきは、全国の大名が、秀吉の命により聚楽第のそばに大名屋敷を営んだことです。すなわち京都は単なる豊臣家の中心地ではなく、「武家国家の首都」になったのです。
当地にはその際、北国の大名、上杉(弾正少弼)景勝の屋敷がつくられました。重臣直江兼続も出入りしたことは間違いと思われます。
当地が上杉屋敷跡であることは、信用できる同時代史料により、一条戻橋ちかくに存在したこと、そのすぐ西側に大宮通りが通っていたと分かるほか、少なくとも江戸初期から当地の地名が、上杉弾正少弼に通ずる「弾正町」であるため確実と考えられます。
「京都歴史地理同考会」(NPO法人)が、 NHK大河ドラマ「天地人」を記念し、平成21(2009)年4月26日に「聚楽城 武家地 上杉景勝屋敷跡碑」(村田眞一氏寄贈)が設置されました。
(現地説明板より)
聚楽第・上杉景勝屋敷跡 - 1
聚楽第・上杉景勝屋敷跡 - 1 posted by (C)pismo

一条天皇の里内裏の一条院跡と名和長年が戦死した地で現在は名和児童公園となっている名和長年殉節之地です。
名和長年は伯耆国出身の武将で,伯耆国名和(鳥取県大山町)を拠点に海運業を行う豪族でした。
鎌倉幕府倒幕を計画して隠岐に配流されていた後醍醐天皇が隠岐を脱出して名和湊に上陸し同国船上山に逃れて以来,天皇に従い,建武政権では伯耆守に任ぜられ、帆掛け舟の家紋を与えられました。戦では、弓の名手であったと伝えられています。
その後、建武の新政下において要職を担いましたが、建武3(1336)年6月30日、九州から京都へ攻め入った足利尊氏軍との内野(平安京大内裏跡地)の戦いで敗れ戦死しました。
また、この地は一条院跡です。
一条院は、平安宮の北東に隣接した邸宅で、一条天皇の里内裏として有名(一条院内裏)です。
東西二町のうち御所として用いられたのは西側の一町で、東側は附属する財政や物資の調達を担当する別納でした。
この邸は10世紀前半の藤原師輔から子の伊尹・為光へと伝えられ、富裕な受領の佐伯公行が買得して東三条院(円融天皇女御の藤原詮子)に献上されました。
女院は子の一条天皇の御所として修造し、長保元(999)年の内裏焼亡(一条天皇の代には内裏が三度焼亡)から寛弘8(1011)年の崩御まで里内裏として使用されました。
東の別納は道長・中宮彰子(しょうし)父娘の直蘆(宿泊所)が設けられていました。
中宮彰子に仕えた紫式部が日記に書いている内裏はこの一条院内裏で、一条天皇時代の文化サロンの舞台となりました。
現在は名和児童公園となっています。
(現地説明板などより)
名和長年公殉節碑・一条院跡 - 1
名和長年公殉節碑・一条院跡 - 1 posted by (C)pismo

名和長年公殉節碑・一条院跡 - 2
名和長年公殉節碑・一条院跡 - 2 posted by (C)pismo

聚楽第は,豊臣秀吉が関白就任の翌年、天正14(1586)年から着工し、翌年完成した京での邸宅兼政庁です。建設地には、平安京の大内裏旧跡が選ばれ、北は元誓願寺通,東は堀川通,南は下立売通,西は千本通を外郭とし,内郭には本丸を中心に北ノ丸,南二ノ丸,西ノ丸の曲輪が築かれたと推定されています。聚楽第の周辺には千利休、徳川家康などの諸大名等の屋敷が造られました。「如水町」「浮田町」「飛弾殿町」「福島町」など地名がかつてを偲びます。
天正16(1588)年、には後陽成天皇の行幸を迎えて、権威を示しました。天正19(1591)年後に甥の豊臣秀次に関白を譲ると、聚楽第も秀次に譲りましたが、文禄4(1595)年,秀吉は秀次を謀反の疑いで自害に追いやった際、秀次の居所となっていた聚楽第も破却しました。
大宮通と中立売通の交差点北西側が東濠跡で、正親小学校北東側が西濠跡ということで、2ヶ所に聚楽第跡の石碑が建っています。
平成23(2011)年の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の第19回「初の縁談」の「江紀行」及び平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の第39回「跡を継ぐ者」の「官兵衛紀行」で紹介されました。
聚楽第跡 - 1
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聚楽第跡 - 2
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令制八省の一つ・平安宮大蔵省跡です。大蔵省は令制八省の一つで、多くの倉庫があった大蔵を合わせて平安宮の北八町を占めていました。
出納・収納・度量衡などを職務とし、諸国から貢進される調庸・銭ないし金銀以下の貢献物を、正倉などの倉庫に納め、官人給与の禄やさまざまな財源に充てられました。
大宿直は平安宮内に置かれた内裏警護人の詰め所で1町(120m四方)の規模がありました。長和3(1014)年に焼失し、内蔵寮・掃部寮なども類焼しています。
なお、正親小学校の校内西は大蔵省跡、東は大宿直跡に当たり、さらにこの付近は安土桃山時代に築かれた聚楽第の本丸西濠跡にあたる場所です。
(現地説明板などより)
平安京大蔵省跡
平安京大蔵省跡 posted by (C)pismo

幕末の唐津藩小笠原家の藩邸跡・唐津小笠原藩邸跡です。
幕末の肥前国唐津藩主小笠原長国の養子小笠原長行は,世子の身で文久元(1861)年老中となり、第二次長州征伐では小倉口の総督となりました。
戊辰戦争では徹底抗戦を主張し、箱館戦争を戦いました。一方藩主長国は新政府軍に帰順し、長行を義絶しました。
藩邸は慶応4(1868)年刊「改正京町御絵図細見大成」に描かれていて、聚楽第西濠跡及び平安宮大蔵省跡と同じく正親小学校北東角付近に石碑が建っています。
唐津小笠原藩邸跡
唐津小笠原藩邸跡 posted by (C)pismo

聚楽第の外堀があった付近はこんな感じで下り坂になっています。
聚楽第外堀跡の落ち込み - 1
聚楽第外堀跡の落ち込み - 1 posted by (C)pismo

淀殿の妹江が嫁いだ豊臣秀勝邸の伝承地です。このあたり一帯は、古代において、平安京大内裏(平安宮)のうち、天皇の住まいだった内裏跡の蘭林坊の跡でもあります。
なかでも当地は、陽明文庫蔵「内裏図」により、蘭林坊跡と考えられています。蘭林坊とは、天皇一代の大イベント大嘗祭などに使用される品物の保管場所です。
昭和49(1974)年、平安博物館の行った発掘調査によって、蘭林坊の東南隅の築地に関わる溝のような痕跡などがみつかっています。
その後、火災などにより内裏は別の場所に営まれ、この地は荒野となりました。内裏跡ですので「内野」と呼ばれました。天皇への遠慮(タブー)があったようで、長くここに住居などが建てられることはありませんでした。
この地の再利用に着手したのは、豊臣秀吉でした。長い戦国時代をおわらせ、天下統一の実現が求められていました。秀吉は関白となり、天皇の伝統的権威をかりての政権構想をもちます。そのため本拠は、大坂ではなく京都に定まりました。それが内野に建設された城郭、聚楽第(聚楽城)です。
聚楽第はながく正確な位置が不明でした。が、森島康雄さんや百瀬正恒さん、馬瀬智光さんたちの考古学的研究により、全貌が明らかになりつつあります。
聚楽第の周囲には全国の大名の屋敷が営まれました。安芸広島浅野家旧蔵の「諸国古城之図」の聚楽城図には具体的な人物の名前が記されています。馬瀬智光さんの復原図によって推定すれば、当地には秀吉の姉の子(甥)で、養子でもあった豊臣秀勝(丹波少将)の邸宅があったといえそうです。
豊臣秀勝の妻は、淀殿(茶々)の末妹・江です。二人は天正13年10月18日(1585年12月9日)に結婚し(「兼見卿記」同年同月20日条)、娘をさずかりました。(完子。誕生年不明)。この一家の住居こそ当地であった可能性があります。
天正20年9月9日(文禄元年、1592年10月14日)、不幸にも秀勝は、出兵中に朝鮮で急死します。
その後、江は徳川秀忠と再婚しますが、完子は同行しませんでした。豊臣家の大事な娘ですので、おそらく秀吉が禁じたと思われます。
秀吉の死後も生母江と暮らすことはなく、淀殿の猶子として大坂城で養育され、慶長9年6月3日(1604年6月29日)、豊臣家から五摂家の九条忠栄(幸家、のち関白)に嫁ぎます(「慶長日件録」)。」
完子は多く子をうみ、その子孫は公家社会の維持に寄与しました。近代に入り子孫のひとり九条節子は、嘉仁親王(のち大正天皇)に嫁ぎ、裕仁親王(のち昭和天皇)を生みます。豊臣家の血統は、完子を通じて現在の皇室にも及んでいるようです。
NHKの大河ドラマ「江」を記念し、平成23(2011)年9月29日、建碑されました。
(現地説明板などより)
聚楽第・豊臣秀勝邸跡伝承地 - 1
聚楽第・豊臣秀勝邸跡伝承地 - 1 posted by (C)pismo

聚楽第・豊臣秀勝邸跡伝承地 - 2
聚楽第・豊臣秀勝邸跡伝承地 - 2 posted by (C)pismo

平成24年の発掘調査で石垣が出土・聚楽第本丸南堀石垣出土地です。
この場所は、天正15(1587)年に豊臣秀吉が造った聚楽第の本丸南堀北側にあたります。
聚楽第は桃山文化を代表する豪華な城館で、その美しい姿は「聚楽第図屏風」などに描かれています。しかし、完成からわずか数年後に秀吉自身の手によって破壊され、地上から完全に姿を消してしまいました。
平成24(2012)年、この敷地の発掘調査で聚楽第の石垣が東西約32mの長さにわたって見つかりました。石垣の石材は非常に大きく、高度な技術で積まれていました。秀吉の栄華を物語る貴重な遺構です。調査の後、石垣は地下にそのまま保存されました。
案内板の横にある石材の真下に、石垣が保存されています。
(現地説明板などより)
聚楽第本丸南堀石垣出土地 - 1
聚楽第本丸南堀石垣出土地 - 1 posted by (C)pismo

幕末の佐賀藩邸・佐賀鍋島藩屋敷跡です。
幕末の佐賀藩は、藩主鍋島斉正(直正、閑叟)の元、は財政改革と軍事力を強化し、雄藩としてその力を蓄えました。
佐賀鍋島藩の藩邸ははじめ堺町通四条下ルにありましたが、幕末にいたりこの地に移りました。
佐賀鍋島藩屋敷跡
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後編へ続く。
Posted at 2014/10/22 22:04:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年10月04日 イイね!

京都国立博物館・平成知新館オープン記念展「京(みやこ)へのいざない」

京都国立博物館は、明治30(1897)年に開館した帝国京都博物館が前身です。その後、京都帝室博物館、恩賜京都博物館と名を変え、昭和27(1952)年に京都国立博物館となりました。
明治古都館は片山東熊博士の設計によるもので、明治25(1892)年に着工し、明治28(1895)年に竣工した建物で、本館として利用されていましたが、平成26(2014)年に平成知新館のオープンに伴い明治古都館と改められました。
新館は昭和40(1965)年に竣工した森田慶一博士の設計による建物でしたが、平成21(2009)年から谷口吉生氏の設計による建物に建て替えが開始され、平成26(2014)年、平成知新館としてオープンしました。明治古都館は特別展示館として利用され、平成知新館は平常展示館となります。
京都国立博物館では、平成知新館のオープンを記念して「京(みやこ)へのいざない」という催し物を行っています。
京都国立博物館収蔵の名品が一堂に会する展覧会です。
9月13日(土)~11月16日(日)の開催ですが、10月13日までと10月15日からで一部入れ替えが行われます。
伝源頼朝像、伝平重盛像など、学校の教科書にもでてきたような有名な文化財の数々を楽しむことができました。
京都国立博物館 - 01
京都国立博物館 - 01 posted by (C)pismo

京都国立博物館 - 02
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京都国立博物館 - 03
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京都国立博物館 - 04
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京都国立博物館 - 06
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Posted at 2014/10/16 19:12:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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