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ピズモのブログ一覧

2007年09月23日 イイね!

京田辺の酬恩庵一休寺

この次は、京田辺市にある酬恩庵一休寺を訪れました。
南禅寺の時は晴れていたのですが、いきなりの大雨。でも酬恩庵を訪れる頃には小雨になっていました。雨のお寺もなかなか雰囲気が良いものです。
酬恩庵一休寺の前身は正応年間に南浦紹明が開いた妙勝寺という臨済宗の寺院でした。その後、元弘の戦火にかかり焼失し、衰退していたのを康正2 (1456)年に一休宗純禅師が堂宇を再興し、宗祖の恩に報いるという意味を込めて「酬恩庵」と名づけました。一休禅師は後半生をここで送り、81歳で大徳寺住職となったときもここから通ったそうです。
文明13(1481年)年11月21日、88歳で亡くなりました。
境内には一休禅師の墓があります。一休禅師は、後小松天皇の息子であるので、墓所は宮内庁が管理しています
本堂は、永享年間に足利義教が寄進されたものです。方丈・唐門・庫裏・東司・浴室・鐘楼については慶安3(1650)年に加賀藩主前田利常の寄進により再建されました。これらは重要文化財に指定されています。花堂昭乗、佐川田喜六、石川丈山の合作とつたえられている方丈庭園も見事です。
お土産には一休寺納豆もあります。

一休禅師の像です。




一休さん












一休禅師の墓です。


ここのお寺は、拝観時間終了近くに行ったにもかかわらず、お寺の人の応対もなかなか親切で、気持ちが良かったです。庭も綺麗ですし、なかなかさわやかな気分で一日を締めくくることができました。
Posted at 2007/10/23 23:14:20 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年09月23日 イイね!

南禅寺

無鄰菴の次は南禅寺を訪れました。
南禅寺の三門は日本三大門のひとつといわれています。(他は知恩院・山梨の久遠寺。別に東大寺、法隆寺、東照宮をいう場合もあります。)
ちなみに、知恩院三門、東本願寺御影堂門とあわせて京都三大門といわれたりもするそうです。
この三門は藤堂高虎が大阪夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したもので、寛永5(1628)年の建築です。
楼上からの眺めが素晴らしいの一言です。


南禅寺の境内にある水路閣は、京都の琵琶湖疎水事業の一環として施工された水路橋です。
延長93.17m、幅4.06m、水路幅2.42m、煉瓦造のアーチ構造でその優れたデザインは京都を代表する景観の一つになっています。
ここから西へ500mほどにある「インクライン」は、高低差のある蹴上の舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下2本のレールを敷設して艇架台によって舟を運ぶ施設で、当時の舟運による交通事情がよくうかがえます。
昭和58(1983)年7月1日に「疎水運河のうち水路閣及びインクライン」として京都市指定史跡に指定されました。また、平成8(1996)年6月には、この水路閣やインクラインに加え、第1疎水の第1・第2・第3隧道の各出入口、第1竪坑、第2竪坑、明治36(1903)年に架設された日本初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡第11号橋)、明治37(1904)年架設の山ノ谷橋などが日本を代表する近代化遺産として国の史跡に指定されました。
訪れる前までは、有名な寺院にこの風景はどうかな、とも思いましたが、周囲の雰囲気に良く調和していました。


南禅院は、南禅寺の発祥の地です。鎌倉時代の中頃、文永元(1264)年、亀山天皇は離宮禅林寺殿を造営されました。後に天皇は禅宗に帰依され、出家し法皇となられ離宮を禅寺に寄付して、東福寺の大明国師を開山に、開基を亀山法皇とされました。これが南禅院で、離宮禅林寺殿「上の宮」の遺跡で、南禅寺の発祥の地です。しかし、明徳4(1393)年、応仁元(1467)年の応仁の乱により被災、荒廃しましたが、元禄16(1703)年に徳川綱吉の母、桂昌院の寄進により再建されました。方丈内陣中央には亀山法皇木像が安置されています。
池泉回遊式の庭園は夢窓国師作とされています。天龍寺庭園、苔寺(西芳寺)庭園とともに3名勝史蹟庭園のひとつです。










次は南禅寺の方丈庭園の拝観です。南禅寺は、臨済宗南禅寺派の大本山で、正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺といいます。
由来は、正応4(1291)年、亀山上皇の離宮を大明国師(無関普門)に賜り禅林禅寺としたのに始まり、足利義満の時、五山制度の中で五山を超える「五山之上」と言う禅宗寺院最高の寺格を賜りました。
応仁の乱以降は衰退しましたが、江戸初期に「黒衣の宰相」といわれた、以心崇伝が金地院を移入して再興し、多くの文化財を今に伝えています。
伽藍は西を正面とし、背後に東山を負う。勅使門(重要文化財)は慶長度の内裏日御門を移したものである。
方丈(桃山期、国宝)は大方丈と小方丈からなり、大方丈は天正の内裏清涼殿を移築したものです。小方丈は伏見城の遺構といわれています。写真上の大方丈前面の庭園は小堀遠州の作と伝えられています。大方丈前に白砂を敷き、築地塀に沿って大中小の3石を配し、さらにその前に石を大中小と配しています。この配置が虎が子を連れて川を渡る様子に見立てられ、俗に「虎の子渡し」と呼ばれています。
写真下の小方丈の庭園は、純然たる石庭で白砂に据えられた5つの石はどの方向から見ても「心」字をあらわしています。








次は金地院です。応永年間に洛北の鷹峯に室町幕府4代将軍足利義持が創建した寺を、「黒衣の宰相」と呼ばれた以心崇伝が現在地に移転しました。
崇伝が徳川家光のために作らせた小堀遠州の鶴亀の庭がすばらしいです。徳川家の関わりが深く、東照宮も境内にあります。その他にも慶長10(1582)年に明智光秀が母の菩提のため大徳寺内に建立し、明治元(1868)年に現在地に移築した明智門、小堀遠州好みの茶室で、大徳寺孤篷庵、曼殊院の茶室と共に京都三名席の1つに数えられる茶室・八窓席があります。長谷川等伯筆「猿猴捉月図」、「老松」などの襖絵もあり、見所が多い寺院です。


こちらは、境内にある東照宮です。


南禅寺近くの琵琶湖疎水記念館も訪れました。琵琶湖疎水は、第3代京都府知事となった北垣国道が、明治維新による東京遷都のため沈みきった京都に活力を呼び戻すため,疏水の水力で新しい工場を興し,舟で物資の行き来を盛んにするため、琵琶湖疏水の建設を取り上げました。明治18(1885)年に着工し、明治23(1890)年に完成しました。疎水のおかげで、水力発電で新しい工場ができ、路面電車も走り出し、京都は活力を取り戻しました。更に20年後には京都市長西郷菊次郎(西郷隆盛の子)により明治41(1908)年には第2疎水も着工され明治45(1912)年に完成しました。
琵琶湖疎水記念館は、平成元(1989)年に建設当時の図面や絵図などの資料を展示する記念館として開館しました。

Posted at 2007/10/23 21:49:59 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年09月23日 イイね!

京都の名園・無鄰菴

この日は、京都へ所用があり、そのついでに名所・旧跡散歩です。
左京区の岡崎、無鄰菴に行ってみました。
無鄰菴は、明治・大正の元老山県有朋の京都の別荘です。
無鄰菴の名は、山県有朋が奇兵隊時代に屯所のあった吉田で最初に営んだ草庵(現在の東行庵)が、四隣に隣家のない山麓の閑静な場所であったことに由来します。
明治29(1896)年に母屋が完成し、明治31(1898)年に洋館が完成しました。無鄰菴の庭園は、東山を借景とし、疏水から引き入れた水の流れがゆったりとした曲線を描いています。明治の代表的造園家・小川治兵衛(植治)の作です。昭和26(1951)年に明治時代の名園として国の「名勝」に指定されています。
また、無鄰菴は日露戦争直前の明治36(1903)年4月21日,元老・山県有朋,政友会総裁・伊藤博文,総理大臣・桂太郎,外務大臣・小村寿太郎の4人により、日本の外交方針を決める会議「無鄰菴会議」が無鄰菴の洋館2階で行われたことでその名が知られています。


ここが入口です。


洋館内部です。ここで無鄰菴会議が行われました。


小川治兵衛作庭の庭園です。


こちらは母屋の内部から撮影した坪庭です。









こちらは茶室。


明治の庭園だけあって、従来の日本庭園の形式も巧みに取り入れながら、西欧の「明るい」庭園の要素も上手く組み合わせて設計されているように思います。
山県有朋が明治天皇に「京都には名園がたくさんありますが、御所以外で私の庭園におよぶものはございません」と申し上げたという庭園だけのことはあります。
Posted at 2007/10/21 17:56:17 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年09月16日 イイね!

香寺町の日本玩具博物館と加西市の羅漢寺(北条の五百羅漢)

この日は、所用で加古川まで来ました。
帰りに香寺町の日本玩具博物館に寄りました。香寺町は姫路市に平成18(2006)年3月に吸収合併されました。姫路市の北部の小さな町です。
この博物館は、館長さんが、日本各地や世界各国の玩具をコツコツと集めてきた博物館だそうです。



加西市北条にある羅漢寺の五百羅漢は、大分県耶馬溪山、山梨県吉沢の羅漢とともに全国的に有名な石仏です。素朴な表情豊かなその姿は必ず親や子に似た顔があると言われています。しかし、「いつ頃、誰が、何のために」これを造ったのかはわかっていないようです。



少し天気が悪かったのが残念です。地元にもまだまだ面白いスポットがあると実感させられました。
Posted at 2007/10/21 17:15:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年09月08日 イイね!

石見~長州~豊前ドライブ(4日目その4・門司、そして帰路へ)

次は門司です。
もうこの旅も最終章です。あちこち行ったかなりのハードスケジュールで、少し疲労を覚えています。

門司城は、平知盛が源氏との合戦にそなえて、長門国目代紀井通資に築城させたといわれています。
寛元2(1244)年、下総前司親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、鎌倉幕府より豊前国代官職に任じられて下向しました。
後に、門司六ヶ郷と筑前国香椎院内などを拝領し、親房の子孫は地名により門司氏を称し、門司城を本城に領内に足立・吉志・若王子・三角山・金山の五支城を構えてそれぞれ一族が配置されました。
門司氏はその後およそ350年にわたって北九州の地に続きました。
その間、南北朝時代には門司氏も両派に分かれ、当城には北朝武家方の吉志系門司左近将監親尚が拠り、一方南朝宮方の伊川系門司若狭守親頼は猿喰城に籠もり、骨肉の争いもありました。
室松時代末になると、門司半島は豊後大友氏と大内氏、大内氏滅亡後はかわって毛利氏が争奪するところとなり、当城はその渦中に置かれました。
ことに大友・毛利両氏による永禄の門司城合戦は壮絶を極めました。
その後の門司城は、城主も入れかわりながら続いたが、細川忠興の豊前入国後の元和元(1615)年、一国一城の令により、およそ400年におよぶその歴史を閉じました。
和布刈公園山頂に、門司氏の子孫により石碑が建てられています。ここからは、関門橋が見渡せ、関門海峡の眺望が素晴らしいです。


古城山公園から下る途中にある関門海峡を眼下に見下ろすことのできるめかり第2展望台の木製テラスデッキ横には、高さ3m、長さ44m、有田焼の陶板 1,400枚を使用した有田焼レリーフの源平壇ノ浦合戦の大壁画があります。この壁画は、赤間神宮所蔵の絵図の一部を基に壇ノ浦の合戦の様子を表したものです。
この展望台からは、関門海峡と門司港レトロの眺めが良いところです。


次は、門司港レトロを訪れました。門司港は、明治22(1889)年の開港以来、九州の玄関口として、また神戸、横浜に並ぶ国際貿易の拠点として、近代日本の発展を支えてきた港です。門司港周辺には数多くの歴史的建造物が残り往時の繁栄を物語っています。JR門司港駅周辺地域の建造物とホテル・商業施設などを大正レトロ調に整備した人気の観光スポットです。

北九州市立国際友好記念図書館は、明治35(1902)年、帝政ロシアが大連市に建設したドイツ風建築物を、北九州市・大連市友好都市締結15周年を記念して、平成6(1994)年に複製建築した建物です。1階はレストラン、2階は図書館、3階は資料展示室になっています。


旧門司税関庁舎は、明治45(1912)年に門司税関庁舎として建てられ、15年間使われましたが、昭和2(1927)年に税関の新庁舎が西海岸通り(現在の門司港湾合同庁舎地)に移されたため、その後、民間に払い下げられ、事務所や倉庫などに使われていました。
この「旧門司税関」は、赤レンガ造りの木骨構造で、ルネサンス様式の美を追及した極めて優れた建築物であり、しかも、明治、大正、昭和の門司港の変遷を見守ってきたシンボル的存在であったことから、北九州市が取得し、平成6(1994)年に修復されました。1階はエントランスホール、休憩室、喫茶店「レトロカフェ」、展示室、2階はギャラリーと関門海峡を望める展望室となっています。


海峡ドラマシップは、平成15(2003)年にオープンした、関門海峡の過去から現在をテーマにしたテーマパークです。海峡にまつわる歴史を再現した「海峡アトリウム」「海峡歴史回廊」、大正時代の門司の町並みを再現した「海峡レトロ通り」があります。


JR門司港駅は、明治24(1891)年、門司駅として九州鉄道として開設されました。昭和17(1942)年、関門トンネル開通に伴い、大里駅(だいりえき)が門司駅になり、門司駅は門司港駅に改称されました。
駅舎は大正3(1914)年に建築された九州最古の木造駅舎です。ネオ・ルネッサンス様式の特徴的な建物で、駅舎としては全国で初めて昭和63(1988)年、国の重要文化財に指定されました。


九州鉄道記念館は、平成15(2003)年に開館した鉄道の保存展示施設です。
本館、車両展示場、ミニ鉄道公園があります。
本館は、旧九州鉄道本社(通称:赤レンガ)の社屋を転用しています。
車両の展示などが充実しており、鉄道ファンで賑わっていました。


旧門司三井倶楽部は、は三井物産門司支店の社交倶楽部として、現在の門司区谷町に建築されました。
設計者は、当時九州建築界のリーダーであった松田昌平です。
竣工直後の大正11(1922)年には、アインシュタイン博士も宿泊しています。
この建物は木造2階建ての本館(洋館)と、平屋の附属屋(和館)で構成されており、本館の切妻屋根、切妻型の屋根窓、さらには外壁の柱梁の骨組みを外に見せるハーフティンバー形式が外観上の美しさを際だたせています。
館内には他に、門司生まれの女流作家林芙美子の資料室や「レストラン三井倶楽部」などがあります。


旧大阪商船は、大正6(1917)年に大阪商船門司支店として建築されました。洋風2階建て。煉瓦のように見えるオレンジ色のタイルと、白い石状の帯が外観を覆い、中央部に八角形をした塔屋が印象的に配置された洋風の建築物で、当時は大陸航路の待合室として使用されていました。
現在は門司港レトロの「海事・イベントホール」として、1階は多目的に使用できる海峡ロマンホール、2階はわたせせいぞうギャラリーと海のギャラリーになっています。


これで今回の旅行の日程は終了です。この後は再び関門国道トンネルで下関に戻り、13年前のこの日、平成6年の9月8日にバイク旅行で立ち寄った川棚温泉・ぴーすふる青竜泉に寄りました。リニューアルで建物が新しくなっていましたが、昔ながらの銭湯風の温泉で、シャンプーなどは持ち込みです。写真上が今回のリニューアル後で、写真下がリニューアル前です。少しここでのんびりしました。



この後は小月インターからひたすら中国道で帰りました。今回の旅行はいつもながらのハードスケジュールですが、かなり充実していました。今回は長州に行くことができたので、薩長土肥、残るは肥前佐賀も訪れてみたいです。
Posted at 2007/10/21 00:55:41 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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