次は福井市街です。
藤島城は現在の西超勝寺一帯とされており、山門付近に石碑と説明看板が建っています。
足羽七城(和田城、安居城、波羅蜜城、藤島城、高木城、黒龍城、溝ヶ城(高木城))の一つで、南北朝時代、北朝方の斯波高経は、七城を拠点に新田義貞と戦いました。建武5(1338)年、新田義貞は黒丸城の向かい灯明寺に陣を置き、平泉寺僧兵が立て籠もる藤島城を攻撃していました。
黒丸城からも三百騎の斯波軍が藤島城の救援に出撃し、義貞軍と行き当り遭遇戦となり、義貞は深田のなかに倒れ、自刃に追い込まれまし
超勝寺は明徳3(1392)年に本願寺5世綽如が創建したもので、朝倉貞景や織田信長に対抗した越前一向一揆の本願寺派の拠点となりましたが、慶長5(1602)年に本願寺が東西二派に分かれた時に超勝寺も二派に分かれ、東超勝寺と西超勝寺があります。
大安禅寺は、山号を萬松山と号する臨済宗妙心寺派の寺院で、越前松平家の菩提所です。
大安禅寺の境内に広がる渓谷は、1230余年前、泰澄大師が、養老年間に竜王山田谷寺(48坊)を建立し、門前市をなしたと言われ平泉寺、豊原寺、大谷寺などと共に越前庶民信仰の一大道場でした。しかし、天正2(1574)年織田信長の越前攻略に遭い、惜しくも兵火のため全山焼失し、その後10年間草茫々、荒れるに任せていましたが、万治元(1658)年、第4代福井藩主、松平光通公が福井藩歴代の廟所として大安禅寺を建立しました。開山は大愚宗築禅師です。境内には福井藩主から拝領した寺宝を展示する宝物館や、松平家永代墓所の通称「千畳敷」があります。
千畳敷は、藩祖結城秀康から3代松平忠昌、忠昌室道姫、4代松平光通、光通室国姫、5代松平昌親(7代松平吉品)、8代松平吉邦、9代松平宗昌、10代松平宗矩、11代松平重昌の墓石が10基並んでおり、上野寛永寺の徳川将軍家の墓石よりも大きいそうです。
また、花菖蒲の名所としても知られています。江戸時代の建物が残り、結城秀康の系統の松平家の菩提寺にふさわしい風格の寺院です。
次は、
新田塚〔燈明寺畷新田義貞戦歿傳説地〕です。新田義貞は建武5年・延元3(1338)年に斯波高経との戦いで藤島城に応援に向かう途中、燈明寺畷で敵と遭遇し、矢に射られ戦死したといわれています。
義貞の遺体は、坂井市丸岡町長崎の「称念寺」に運ばれ、現在、境内に墓所があります。
江戸時代の明暦2(1656)年に、この周辺で地元の農民が、南北朝時代の武将、新田義貞のものといわれる冑を発見しました。冑には元応元(1319)年の年号が記されていました。
その後、福井藩第4代藩主松平光通が万治3(1660)年に「歴翁元年閏七月二日新田義貞戦死此場所」の碑をここに建てて以来、この場所が「新田塚」といわれるようになりました。
この地は、大正13(1924)年に国の史跡に指定されました。また、冑は明治33(1900)年に国宝に指定され、その後、国の重要文化財(工芸品)に指定されました。冑は、福井市毛矢3丁目の新田一族を祀る藤島神社が所蔵しています。
幕末の福井藩士
橋本左内の生家跡です。橋本左内は天保5(1834)年3月11日、藩医橋本長綱の長男としてこの地に生まれ、名を綱紀、通称を左内といい、別名藜園(れいえん)、景岳と号しました。
幼少から学問を好み、藩儒吉田東篁に儒学、大坂の緒方洪庵、江戸の坪井信良、杉田成卿等に蘭学を修めました。
有名な「啓発録」は、15歳の時自戒のために書いたものです。
後に松平春嶽の側近に加えられ、幕政問題などにも活躍しましたが、安政の大獄で捕らえられ、安政6(1859)年江戸伝馬町の獄内にて26歳の短い生涯を終えました。
生誕の地は民家の庭になっていますが、産湯の井、石碑などが残っています。
福井城舎人門遺構は、江戸時代の福井城の門「舎人門」やその一帯を復原したものです。福井市立郷土歴史博物館の建設に先立ち発掘調査を行ったところ、福井城の北の外堀や石垣、土居、門の礎石、砂利敷道路や水路、武家屋敷の跡などが見つかりました。その時の調査結果や、福井城下の絵図などを元に江戸時代の終わり頃(19世紀中頃)の様子が復原されました。
すぐ近くにある
養浩館庭園〔旧御泉水屋敷〕です。養浩館は、旧福井藩主松平家の別邸です。越前藩2代忠直に誅伐された重臣永見右衛門の屋敷跡で、3代忠昌時代に藩邸となり、元禄12(1699)年7代吉品の時に回遊式庭園と現在の規模の建物を備えた形になりました。
昭和20(1945)年7月19日の福井大空襲で建物が焼失したが、昭和57(1982)年に、庭園が国の名勝に指定され、平成5(1993)年に復元がされました。
庭園は一部枯山水ですが、基本的には回遊式の林泉庭園です。
福井市立郷土歴史博物館は、昭和28(1953)年、足羽山に開館した歴史博物館です。平成16(2004)年に養浩館庭園の隣接地に移転しました。
越前松平氏の資料や継体天皇の資料など、福井の歴史について詳しく学べる博物館です。
博物館前には幕末の福井藩主、松平春嶽(慶永)公の銅像が建っています。
北の庄城は天正3年(1575年)に越前49万石を与えられた柴田勝家が足羽川と吉野川の合流点であるこの地に北の庄城を築城しました。9層の天守閣を持つ城だったそうです。
天正11年(1583年)に羽柴秀吉が柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った後、この城を攻めましたが、勝家は天守に立てこもり、抵抗を続けた末、妻のお市の方とともに自害しました。
その後は、丹羽氏、堀氏などが城主となりましたが、関が原の戦い後に徳川家康の次男である結城秀康が越前68万石でこの地に入り、北の庄城の北側に福井城を築城しました。
福井城は北の庄城を元に建てられましたが、本丸の位置は異なります。
発掘調査では、福井城の遺構の下に、北の庄城の遺構が見つかっています。柴田公園として整備され、遺構も見学できるようになっています。
公園内には柴田神社もあり、柴田勝家、、妻のお市の方が祀られています。境内には、お市の三人の娘を祀る三姉妹神社、勝家が北ノ庄城の鎮守社として創建した稲荷神社があります。
また、小さいながらも北の庄城址資料館(無料)があります。柴田勝家にまつわる資料や、北の庄城・福井城の歴史などが展示されています。
次は福井市から南下し、
鯖江陣屋です。今から、約300年前の享保5(1720)年、越後村上藩主間部詮言が転封を命ぜられ、鯖江藩が成立しました。間部詮言の兄は六代将軍徳川家宣の老中を務めた間部詮房です。詮房は、上州高崎藩主でしたが、徳川慶喜が8代将軍になると解任され、越後村上5万石に移され、詮房の死後詮言が継ぎましたが、鯖江に移封を命ぜられました。
当時の西鯖江村は幕府の代官陣屋が置かれていただけの寒村で、石高800石、家数27軒、人口わずか200人余でした。また、当時は周囲を他藩領に囲まれており城下町の形成には、適していなかったということです。
陣屋は当初は天領時代の旧代官所をそのまま使用していましたが、2代目の詮片が入部する際整備拡張されたようです。
7代藩主詮勝が老中になったとき、鯖江城の築城が計画されましたが、天保の大飢饉などで頓挫したそうです。
陣屋跡の遺構は何一つといっていいほど残っていません。わずかに陣屋跡の公園、屋形稲荷などがかつての陣屋を偲ばせる程度です。
写真は陣屋跡の公園で説明板がありました。説明板には、概要の説明と鯖江城下町絵図が描かれています。
越前市、かつての武生市にある府中三人衆、佐々成政の居城・
小丸城です。天正3(1575)年、越前に再侵攻し一向一揆を平定した織田信長は、柴田勝家に越前を与えて北の庄城に配し、与力として佐々成政・不破光治・前田利家を府中・今立・南条二郡十万石の領主としました。
三人は「府中三人衆」といわれました。
この時前田利家は府中城(武生市府中)を、佐々成政は小丸城(武生市五分市町)を、不破光治は龍門寺城(武生市本町)をそれぞれ居城とし、各々三万三千三百石を領することになりました。
その後、佐々成政は天正9(1581)年、越中富山の城主になるまで、小丸城を居城としていました。
城は味真野(あじまの)の扇状台地末端に、野々宮廃寺跡の一部を取り組んで造られたものです。
小丸城は佐々成政が去った後は廃城とされましたが、在城期間が短いため、未完に終わったとの説もあります。
なお、昭和7(1932)年に小丸城北西隅の乾櫓を掘削中に、前田利家が一揆衆を弾圧した様子を記した文字瓦が出土したそうです。
本丸に残る石垣と堀が現存しています。
鞍谷御所は、足利義満が天皇にさせようとした次男の義嗣の子・嗣俊が居住し、鞍谷姓を称したのが始まりといわれています。鞍谷氏は足利嗣俊の系統に、朝倉孝景に擁立された斯波義俊(義敏)の系統が女婿として入り、鞍谷氏を継承しました。
その後、一乗谷に居住しましたが文明18(1486)年にこの地に移りました。朝倉氏と婚姻関係を結びながら居住し、朝倉氏滅亡後は小丸城を築城した佐々成政と臣従関係を結んだそうです。
また、太古では、継体天皇となる大迹王がこの地に住んでいたといわれ、御所跡には継体天皇を祀る味真野神社(あじまのじんじゃ)が建立されています。
前田利家の居城だった
越前府中城です。利家が拠ったとされる府中城は、朝倉氏の府中奉行所が前身といわれ、その位置は現在の越前市役所一帯といわれています。利家は、能登一国の大名となる天正9(1581)年まで6年間在城し、その後は長子の利長(利勝)が府中に領地をあてがわれ府中城に入りました。
府中城は、天正11(1583)年、賤ヶ岳合戦で敗走する柴田勝家を追った羽柴秀吉を利家が迎えた城としても知られています。
府中城は結城秀康の付家老として慶長6(1601)年の本多富正の入府によって、さらに整備拡張されました。
現在は、府中城の遺構は残念ながら残っておらず、越前市役所玄関前に「越府城址」の石碑と、本多富正公顕彰碑があるのみです。
これでこの日の越前ドライブは終了です。
この後は、
花はす温泉そまやまで疲れを癒しました。ドライブの最後はいつも温泉ですが、この日は雨だったのでいつもよりも疲労を感じていただけにありがたさも倍増です。
この後は、木ノ芽峠を越え、湖西道路を通って帰宅しました。
一乗谷の裏山の詰城跡、一乗谷城にも登城しようとしましたが、まだ記憶に新しい平成16年の福井豪雨の復興対策として、堰堤工事などが行われており、登城道は塞がれていました。他にも登城口を探しましたが、雨で足場が悪いこともあり、登城を断念しました。残念です。この日の目的の一つでしたので・・・
この後は、福井市の中心部に向かいます。