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ピズモのブログ一覧

2007年10月31日 イイね!

剣豪の里・柳生

円成寺を訪れた後は、柳生に向かいます。
もう少し紅葉が深まれば、京都府南部の当尾の里、浄瑠璃寺岩船寺なども良いのですが、今年は紅葉の進み具合が遅いようです。
まずは、芳徳寺を訪れました。
芳徳寺は、寛永15(1638)年に柳生宗矩が父の柳生石舟斎の菩提を弔うために建立した寺です。
開山は柳生宗矩と親交のあった沢庵和尚です。
宗矩の死後の正保4(1467)年、三代将軍徳川家光の内意により、小柳生村の内二百石を寺領として付与されました。また、当時11歳であった末っ子の六ツ丸が仏門に入り、大徳寺の天佑和尚の元に預けられた後、列堂和尚義仙となり芳徳寺の第一世になりました。
当初の一山堂于は宝永7(1711)年の大火で失われましたが、現在も本堂の本尊釈迦如来坐像の隣には江戸時代初期のをはじめ柳生宗矩、沢庵和尚の像が安置されています。また、柳生藩の資料、宝物なども展示しています。
徳川将軍家兵法指南役を務めた柳生藩柳生家代々の菩提所になりました。
また、柳生藩主の墓所も境内にあります。


柳生城〔小柳生城〕の築城時期は不明ですが、柳生家厳、石舟斎宗厳の時代にはここを本拠としていました。
戦国時代、畠山氏の守護代で信貴山城主木沢長政に従っていた柳生家厳は、筒井氏と戦いました。天文11(1542)年、木沢長政が戦死すると天文13(1544)年、筒井順昭は、柳生城を攻略し、家厳、宗厳父子は降伏し、筒井氏に臣従して家名の存続を図りました。
その後、柳生氏は筒井氏、松永氏に臣従し、一時太閤検地の時隠田を摘発され、領地を失いますが、柳生宗矩が徳川家康の剣術指南役となり、江戸時代は大名として幕末まで続きました。
現在は一部は芳徳寺の敷地になっています。芳徳寺の境内に「石舟斎累城址」の石碑があります。
主郭部は芳徳寺の南東側の山です。芳徳寺境内の福祉施設入り口を少し入った右手に主郭部への登城口があります。案内看板などはありません。空堀なども残っています。


柳生正木坂剣禅道場は、芳徳寺の隣接地にあります。
剣道に座禅の心を取り入れた「剣禅一如」の柳生新蔭流を伝える道場です。


柳生陣屋は、柳生新蔭流を生んだ柳生石舟斎宗厳の子、柳生宗矩が亡父宗厳の菩提を弔うため柳生城(小柳生城)の跡に芳徳寺を建てた後、引き続き三年の歳月を費やし寛永19(1642)年に建築したものです。
坪数は1374坪、表は竹の枝門であったそうです。その後宗冬の代に増築整備されましたが延享4(1747)年に火災で焼失し、仮建築のまま明治の廃藩を迎え姿を消しました。
現在は公園になっていてかつての間取りがわかるように部屋跡を切石で囲むなど整備されています。桜の名所だそうです。「柳生城跡」の石碑もありました。


陣屋近くの柳生の摩利支天山です。柳生石舟斎宗厳は、上泉伊勢守信綱から新陰流を学び、「無刀取り」を取得し柳生新陰流として印可を受け継ぎました。五男柳生但馬守宗矩は徳川三代の兵法指南役として柳生藩の大名(一万二千五百石)になりました。「天下治国の剣」を大成させ、武士道の精神を固めました。但馬守の長男、二代柳生十兵衛三厳は柳生正木坂の剣禅道場で一万三千人余りの剣士を養成し全国に広め、その書「月の沙」を書き残しました。
柳生藩第3代、柳生飛騨守宗冬は、徳川四代将軍家綱の兵法指南役でした。
宗冬は、柳生に柳生八坂神社を造成し、石の鳥居を寄進してその横の岡に武道の守り神である摩利支天を祀りました。
現在は祠はありませんが、この山を摩利支天山と呼び、その山頂に記念として摩利支天の石のレリーフを復元しています。


旧柳生藩家老屋敷は、柳生藩財政の立て直しをした家老家老小山田主鈴が隠居後に暮らした屋敷で、石垣に天保12(1841)年尾張石工が築いたと記してあります。
昭和31(1956)年人手に渡りましたが、昭和39(1964)年作家山岡荘八氏の所有となりました。昭和46(1971)年放映のNHK大河ドラマ「春の坂道」もここで構想が練られました。昭和55(1980)年山岡荘八氏の遺志により遺族山岡賢二氏夫妻より奈良市に寄贈されました。奈良市は昭和 56(1981)年これを修復し、母屋の一部に資料を展示し、一般公開を開始しました。


柳の森は、柳生の地名の元になっています。
大昔、この場所に誰かが杖を立てておいたところが、やがてそれが柳の大木となりそこから柳生という地名になりました。この地は「柳の森」と呼ばれるようになりました。
大化の改新の時に「楊生郷」という字で書かれていましたが、南北朝時代に後醍醐天皇に味方して敗れ領地を没収されましたが、建武の中興で復活しました。
それ以降、楊生から柳生に変わったと考えられています。
平安時代の初め、関白藤原基経の領地となり、藤原氏の荘園でしたが平安時代の中期長暦2(1038)年に奈良の春日大社に寄付され社領地となっていました。平安時代の終わりに大膳永家が荘官となりました。その嫡男が地名の柳生から柳生氏を名乗るようになったと言われています。


柳生古城は、元弘元(1331)年、元弘の乱で後醍醐天皇が笠置山で挙兵することとなった際、の際に柳生永珍が古城山において天皇方の糧道を確保しようとしたのが始まりであったとされていいます。
天文13(1544)年に柳生家厳、宗厳父子が筒井順昭の攻撃を受けましたが、その際に本城の柳生城よりも先に落城したとされる外城は、この古城のことといわれています。
堀の跡など遺構が随所に残っています。主郭部には剣豪の里だけあって「剣塚」があります。


十兵衛杉は寛永3(1628)年、独眼竜柳生十兵衛三厳が諸国漫遊に旅立つ際、この杉を植えたといわれています。
樹齢約350年余を経て落雷のため、今は残念ながら枯れてしまっています。それでも立ち枯れの老杉は柳生のシンボルとして現在も残っています。


本日はここで終了。柳生はまだもう少し剣豪の里を偲ばせる史跡が点在していますが、時間切れです。やはりこの日は出発が遅かったのが悔やまれます。
秋のこの時期、この日のように天気が良ければ柳生から笠置、あるいは柳生から柳生街道を経て滝坂の道を歩いて奈良へハイキングするのも楽しいかも知れません。
Posted at 2007/11/11 23:43:41 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年10月31日 イイね!

秋の訪れを告げる奈良の正倉院展

この日は、奈良国立博物館の正倉院展に行ってきました。


しかし、訪れたのが昼前で、かなりの混雑。とても展示物をゆっくり見る雰囲気ではありません。やはり朝一番か、閉館間際じゃないとこの展覧会はだめですね。
ということで、まだ今年は秋の訪れが遅いのですが、奈良には所々秋を感じさせる雰囲気があるのではないかということで、少し散歩してみました。








東大寺南大門
です。
東大寺の正門です。国宝に指定されています。
治承4(1180)年の平重衡の兵火に焼失した後に行われた復興造営の一つとして、鎌倉時代の正治元(1199)年に復興されたものです。
東大寺中興の祖である俊乗坊重源が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(天竺様)を採用した建築として知られています。
門内左右に安置されている木造金剛力士(仁王)像、は運慶、快慶、定覚、湛慶の等20名の慶派の仏師たちが建仁3(1203)年に僅か69日で造り上げた物です。
同様に門内左右に安置されている一対の石造獅子像は、鎌倉復興造営に参画した宋人の石工たちが建久7(1196)年に造ったものです。


そして東大寺大仏殿です。
東大寺は華厳宗大本山で奈良時代に聖武天皇が建立した寺です。
天平13(741)年に聖武天皇が護国信仰に基づいて国分寺の建立を命じられた際、金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と称しました。
天平15(743)年になり聖武天皇は盧舎那大仏造顕の詔を公布し、天平17(745)年に金光明寺にて造営が開始された際、東大寺と改めました。
天平勝宝4(752)年に大仏殿が完成し、開眼供養が行なわれました
伽藍が完成したのは延暦8(789)年です。
その後治承4(1180)年に平重衝の南都焼討で、大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失いました。
しかし、重源の精力的な活動により、文治元(1185)年には再び大仏開眼法要が行われ、建久元(1190)年には、再建大仏殿が完成しました。
しかし、戦国時代の永禄10(1567)年には松永久秀によって伽藍が焼失しました。
江戸時代には公慶上人により、再興され、元禄4(1691)年には大仏が完成し、翌年開眼法要が行われ、宝永6(1709)年には大仏殿が再建されました。


正倉院です。
は、東大寺の倉庫として、貴重な宝物を収蔵していました。
南都七大寺には,重要物品を納める正倉が設けられていました。この正倉が幾棟も集まっている一廓が正倉院と呼ばれましたが、現在は,東大寺正倉院内の正倉一棟を残すのみです。校倉造の建物で屋根は寄棟造、瓦葺。規模は正面約33.1メートル、奥行約9.3メートル、床下の柱の高さ約2.5メートルであり、奈良時代の現存建築物として貴重な建物です。
明治以降は東大寺から国の管理下に置かれ、内務省、農商務省、宮内省そして戦後は宮内庁が管理しています。
古来の正倉のほかに西宝庫と東宝庫があり,いま宝物はこの両宝庫に分納して保存されています。



手向山八幡宮は、天平勝宝元(749)年東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請され東大寺大仏殿近くの鏡池(八幡池)の東側に鎮座したのに始まります。
治承4(1180)年の平重衡に戦火で焼失し、建長2(1250)年に北条時頼が法華堂(三月堂)の南側の現在地に再建しました。



春日大社は、藤原不比等が和銅3(710)年に藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのに始まります。
神護景雲2(768)年、常陸の鹿島神宮から迎えられた武甕槌命、下総の香取神宮から迎えられた経津主命、河内枚岡神社 天児屋根命と比売神を御蓋山の麓の春日の地に迎えて祀りました。
藤原氏の氏神として有名で、藤原家の氏神として栄えました。
境内は広く、豊かな自然と神の使者である鹿がいることでも知られています。
なお、本殿への特別拝観は、初穂料(500円)が必要です。


春日大社の宝物殿は、収蔵品の貴重さから平安時代の「正倉院」と称えられているそうです。
春日大社御鎮座当初の古神宝類、平安、鎌倉、南北朝時代にわたる刀剣、甲冑の優品の数々を含む国宝349点、重要文化財175点、旧重要美術品12点など多数の宝物を収蔵しています。
訪れたときは、源義経奉納の武具や、楠木正成奉納と伝えられている甲冑を展示していました。



そして、柳生街道沿いにある円成寺に行ってみました。ここの浄土式庭園はお気に入りの庭園で何度も訪れています。境内は有料ですが、庭園は無料で見ることができます。








この後は柳生を訪れることにします。

Posted at 2007/11/10 21:59:09 | コメント(5) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年10月26日 イイね!

大阪歴史博物館「NHK大河ドラマ特別展「風林火山 -信玄・謙信、そして伝説の軍師-」に行ってきました。

大阪歴史博物館「NHK大河ドラマ特別展「風林火山 -信玄・謙信、そして伝説の軍師-」に行ってきました。平成19年10月20日(土)~12月3日(月)まで、大阪歴史博物館で「NHK大河ドラマ特別展「風林火山 -信玄・謙信、そして伝説の軍師-」が開催されています。
普段は、午前9時30分から午後5時までの開館ですが、金曜日は午後8時までやっているということで、仕事帰りに寄ってみました。
「土日だと混雑するだろう。」ということと「金曜日に夜遅くまで開催されているのは認知度が低いだろう。」ということで訪れましたが、正解で、比較的空いていました。
その代わり1時間30分程度の観覧時間しかないので、その点気持ち的な慌ただしさはありましたが。
展示している物もなかなか良かったです。山本勘助が実在していることが明らかになった「市河家文書」、武田信玄や上杉謙信の有名な肖像画や謙信の馬上杯、軍配などなかなか楽しい特別展でした。
期間中、展示物の入れ替えもあるようです。
秋は芸術の秋ということで他にも京都国立博物館の、「狩野永徳展」東京国立博物館「大徳川展」など魅力的な物が多いので、できる限り行ってみたいと思います。
Posted at 2007/10/28 20:04:06 | コメント(4) | トラックバック(0) | 歴史・城 | 日記
2007年10月19日 イイね!

雨の越前ドライブ(その2・福井~鯖江~武生)

次は福井市街です。

藤島城は現在の西超勝寺一帯とされており、山門付近に石碑と説明看板が建っています。
足羽七城(和田城、安居城、波羅蜜城、藤島城、高木城、黒龍城、溝ヶ城(高木城))の一つで、南北朝時代、北朝方の斯波高経は、七城を拠点に新田義貞と戦いました。建武5(1338)年、新田義貞は黒丸城の向かい灯明寺に陣を置き、平泉寺僧兵が立て籠もる藤島城を攻撃していました。
黒丸城からも三百騎の斯波軍が藤島城の救援に出撃し、義貞軍と行き当り遭遇戦となり、義貞は深田のなかに倒れ、自刃に追い込まれまし
超勝寺は明徳3(1392)年に本願寺5世綽如が創建したもので、朝倉貞景や織田信長に対抗した越前一向一揆の本願寺派の拠点となりましたが、慶長5(1602)年に本願寺が東西二派に分かれた時に超勝寺も二派に分かれ、東超勝寺と西超勝寺があります。


大安禅寺は、山号を萬松山と号する臨済宗妙心寺派の寺院で、越前松平家の菩提所です。
大安禅寺の境内に広がる渓谷は、1230余年前、泰澄大師が、養老年間に竜王山田谷寺(48坊)を建立し、門前市をなしたと言われ平泉寺、豊原寺、大谷寺などと共に越前庶民信仰の一大道場でした。しかし、天正2(1574)年織田信長の越前攻略に遭い、惜しくも兵火のため全山焼失し、その後10年間草茫々、荒れるに任せていましたが、万治元(1658)年、第4代福井藩主、松平光通公が福井藩歴代の廟所として大安禅寺を建立しました。開山は大愚宗築禅師です。境内には福井藩主から拝領した寺宝を展示する宝物館や、松平家永代墓所の通称「千畳敷」があります。
千畳敷は、藩祖結城秀康から3代松平忠昌、忠昌室道姫、4代松平光通、光通室国姫、5代松平昌親(7代松平吉品)、8代松平吉邦、9代松平宗昌、10代松平宗矩、11代松平重昌の墓石が10基並んでおり、上野寛永寺の徳川将軍家の墓石よりも大きいそうです。
また、花菖蒲の名所としても知られています。江戸時代の建物が残り、結城秀康の系統の松平家の菩提寺にふさわしい風格の寺院です。


次は、新田塚〔燈明寺畷新田義貞戦歿傳説地〕です。新田義貞は建武5年・延元3(1338)年に斯波高経との戦いで藤島城に応援に向かう途中、燈明寺畷で敵と遭遇し、矢に射られ戦死したといわれています。
義貞の遺体は、坂井市丸岡町長崎の「称念寺」に運ばれ、現在、境内に墓所があります。
江戸時代の明暦2(1656)年に、この周辺で地元の農民が、南北朝時代の武将、新田義貞のものといわれる冑を発見しました。冑には元応元(1319)年の年号が記されていました。
その後、福井藩第4代藩主松平光通が万治3(1660)年に「歴翁元年閏七月二日新田義貞戦死此場所」の碑をここに建てて以来、この場所が「新田塚」といわれるようになりました。
 この地は、大正13(1924)年に国の史跡に指定されました。また、冑は明治33(1900)年に国宝に指定され、その後、国の重要文化財(工芸品)に指定されました。冑は、福井市毛矢3丁目の新田一族を祀る藤島神社が所蔵しています。


幕末の福井藩士橋本左内の生家跡です。橋本左内は天保5(1834)年3月11日、藩医橋本長綱の長男としてこの地に生まれ、名を綱紀、通称を左内といい、別名藜園(れいえん)、景岳と号しました。
幼少から学問を好み、藩儒吉田東篁に儒学、大坂の緒方洪庵、江戸の坪井信良、杉田成卿等に蘭学を修めました。
有名な「啓発録」は、15歳の時自戒のために書いたものです。
後に松平春嶽の側近に加えられ、幕政問題などにも活躍しましたが、安政の大獄で捕らえられ、安政6(1859)年江戸伝馬町の獄内にて26歳の短い生涯を終えました。
生誕の地は民家の庭になっていますが、産湯の井、石碑などが残っています。


福井城舎人門遺構は、江戸時代の福井城の門「舎人門」やその一帯を復原したものです。福井市立郷土歴史博物館の建設に先立ち発掘調査を行ったところ、福井城の北の外堀や石垣、土居、門の礎石、砂利敷道路や水路、武家屋敷の跡などが見つかりました。その時の調査結果や、福井城下の絵図などを元に江戸時代の終わり頃(19世紀中頃)の様子が復原されました。


すぐ近くにある養浩館庭園〔旧御泉水屋敷〕です。養浩館は、旧福井藩主松平家の別邸です。越前藩2代忠直に誅伐された重臣永見右衛門の屋敷跡で、3代忠昌時代に藩邸となり、元禄12(1699)年7代吉品の時に回遊式庭園と現在の規模の建物を備えた形になりました。
昭和20(1945)年7月19日の福井大空襲で建物が焼失したが、昭和57(1982)年に、庭園が国の名勝に指定され、平成5(1993)年に復元がされました。
庭園は一部枯山水ですが、基本的には回遊式の林泉庭園です。


福井市立郷土歴史博物館は、昭和28(1953)年、足羽山に開館した歴史博物館です。平成16(2004)年に養浩館庭園の隣接地に移転しました。
越前松平氏の資料や継体天皇の資料など、福井の歴史について詳しく学べる博物館です。
博物館前には幕末の福井藩主、松平春嶽(慶永)公の銅像が建っています。


北の庄城は天正3年(1575年)に越前49万石を与えられた柴田勝家が足羽川と吉野川の合流点であるこの地に北の庄城を築城しました。9層の天守閣を持つ城だったそうです。
天正11年(1583年)に羽柴秀吉が柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った後、この城を攻めましたが、勝家は天守に立てこもり、抵抗を続けた末、妻のお市の方とともに自害しました。
その後は、丹羽氏、堀氏などが城主となりましたが、関が原の戦い後に徳川家康の次男である結城秀康が越前68万石でこの地に入り、北の庄城の北側に福井城を築城しました。
福井城は北の庄城を元に建てられましたが、本丸の位置は異なります。
発掘調査では、福井城の遺構の下に、北の庄城の遺構が見つかっています。柴田公園として整備され、遺構も見学できるようになっています。
公園内には柴田神社もあり、柴田勝家、、妻のお市の方が祀られています。境内には、お市の三人の娘を祀る三姉妹神社、勝家が北ノ庄城の鎮守社として創建した稲荷神社があります。
また、小さいながらも北の庄城址資料館(無料)があります。柴田勝家にまつわる資料や、北の庄城・福井城の歴史などが展示されています。


次は福井市から南下し、鯖江陣屋です。今から、約300年前の享保5(1720)年、越後村上藩主間部詮言が転封を命ぜられ、鯖江藩が成立しました。間部詮言の兄は六代将軍徳川家宣の老中を務めた間部詮房です。詮房は、上州高崎藩主でしたが、徳川慶喜が8代将軍になると解任され、越後村上5万石に移され、詮房の死後詮言が継ぎましたが、鯖江に移封を命ぜられました。
当時の西鯖江村は幕府の代官陣屋が置かれていただけの寒村で、石高800石、家数27軒、人口わずか200人余でした。また、当時は周囲を他藩領に囲まれており城下町の形成には、適していなかったということです。
陣屋は当初は天領時代の旧代官所をそのまま使用していましたが、2代目の詮片が入部する際整備拡張されたようです。
7代藩主詮勝が老中になったとき、鯖江城の築城が計画されましたが、天保の大飢饉などで頓挫したそうです。
陣屋跡の遺構は何一つといっていいほど残っていません。わずかに陣屋跡の公園、屋形稲荷などがかつての陣屋を偲ばせる程度です。
写真は陣屋跡の公園で説明板がありました。説明板には、概要の説明と鯖江城下町絵図が描かれています。


越前市、かつての武生市にある府中三人衆、佐々成政の居城・小丸城です。天正3(1575)年、越前に再侵攻し一向一揆を平定した織田信長は、柴田勝家に越前を与えて北の庄城に配し、与力として佐々成政・不破光治・前田利家を府中・今立・南条二郡十万石の領主としました。
三人は「府中三人衆」といわれました。
この時前田利家は府中城(武生市府中)を、佐々成政は小丸城(武生市五分市町)を、不破光治は龍門寺城(武生市本町)をそれぞれ居城とし、各々三万三千三百石を領することになりました。
その後、佐々成政は天正9(1581)年、越中富山の城主になるまで、小丸城を居城としていました。
城は味真野(あじまの)の扇状台地末端に、野々宮廃寺跡の一部を取り組んで造られたものです。
小丸城は佐々成政が去った後は廃城とされましたが、在城期間が短いため、未完に終わったとの説もあります。
なお、昭和7(1932)年に小丸城北西隅の乾櫓を掘削中に、前田利家が一揆衆を弾圧した様子を記した文字瓦が出土したそうです。
本丸に残る石垣と堀が現存しています。


鞍谷御所は、足利義満が天皇にさせようとした次男の義嗣の子・嗣俊が居住し、鞍谷姓を称したのが始まりといわれています。鞍谷氏は足利嗣俊の系統に、朝倉孝景に擁立された斯波義俊(義敏)の系統が女婿として入り、鞍谷氏を継承しました。
その後、一乗谷に居住しましたが文明18(1486)年にこの地に移りました。朝倉氏と婚姻関係を結びながら居住し、朝倉氏滅亡後は小丸城を築城した佐々成政と臣従関係を結んだそうです。
また、太古では、継体天皇となる大迹王がこの地に住んでいたといわれ、御所跡には継体天皇を祀る味真野神社(あじまのじんじゃ)が建立されています。


前田利家の居城だった越前府中城です。利家が拠ったとされる府中城は、朝倉氏の府中奉行所が前身といわれ、その位置は現在の越前市役所一帯といわれています。利家は、能登一国の大名となる天正9(1581)年まで6年間在城し、その後は長子の利長(利勝)が府中に領地をあてがわれ府中城に入りました。 
府中城は、天正11(1583)年、賤ヶ岳合戦で敗走する柴田勝家を追った羽柴秀吉を利家が迎えた城としても知られています。
府中城は結城秀康の付家老として慶長6(1601)年の本多富正の入府によって、さらに整備拡張されました。
現在は、府中城の遺構は残念ながら残っておらず、越前市役所玄関前に「越府城址」の石碑と、本多富正公顕彰碑があるのみです。


これでこの日の越前ドライブは終了です。
この後は、花はす温泉そまやまで疲れを癒しました。ドライブの最後はいつも温泉ですが、この日は雨だったのでいつもよりも疲労を感じていただけにありがたさも倍増です。


この後は、木ノ芽峠を越え、湖西道路を通って帰宅しました。

一乗谷の裏山の詰城跡、一乗谷城にも登城しようとしましたが、まだ記憶に新しい平成16年の福井豪雨の復興対策として、堰堤工事などが行われており、登城道は塞がれていました。他にも登城口を探しましたが、雨で足場が悪いこともあり、登城を断念しました。残念です。この日の目的の一つでしたので・・・
この後は、福井市の中心部に向かいます。

Posted at 2007/11/05 23:50:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年10月19日 イイね!

雨の越前ドライブ(その1・一乗谷周辺)

この日は雨の中、福井県へドライブです。
まずは、一乗谷を目指します。
鯖江インターからの途中、越前時代の明智光秀の屋敷跡に建立された明智神社に寄ってみました。
明智光秀は、弘治2(1556)年、美濃から越前に逃れ、当初は丸岡の称念寺に妻子を仮寓させ、自らは旅に出て文武両道を極めました。このことから越前朝倉市に鉄砲指南役に迎えられ、一乗谷から京への大手筋にあたる朝倉街道筋の大味村土井の内(福井市東大味)を所領として与えられました。一乗谷より小峠を越えたここに屋敷を構えて、妻子共々暮らしたといわれています。この地で玉、後の細川ガラシャが生まれました。
その後、将軍義昭の擁立のため光秀は織田信長に仕えました。信長の朝倉攻めの際や一向一揆との戦乱から東大味の人々を守るため、天正元(1573)年に織田信長が朝倉氏の本拠一乗谷を攻めたときも、柴田勝家、柴田勝定に依頼し、この地が戦乱に巻き込まれないようにしました。
このときの柴田勝家、勝定の安堵状が今も東大味の西蓮寺に残されています。東大味の人々は、光秀に恩義を感じ、逆臣と言われた時代にも、明智屋敷跡の三軒の農家は「光秀の木像」を密かに守り続けました。明治19(1886)年になってその明智屋敷に祠が建てられました。高さ6寸ほどの「光秀の木像」を御神体として「明智神社」と命名されました。
敷地内には東大味歴史文化資料館も設置(無料)されています。


さらに一乗谷を目指すと途中に東郷槙山城がありました。
朝倉氏3代氏景の次男正景が、15世紀の前半、一条家の荘園であった東郷荘を預けられ、東郷下総守と称しましたが、槙山城はこの頃築城されたものと思われます。
文明3(1471)年頃、朝倉氏が一乗谷に本拠を移してからはその支城としての役割を担いました。尾根続きの御茸山までには大規模な四箇所の堀切があり、一乗谷と密接に結ばれていたことが想像できます。
朝倉氏の滅亡後、柴田勝家を経て天正12(1584)年に長谷川秀一が城主となり、東郷の地を治めています。秀一が朝鮮出兵で陣没すると、北の庄城の丹羽長秀の次男丹羽長昌が城主となりましたが、慶長5(1600))年の関ヶ原の戦いでは大谷吉継に与して西軍に属したため所領を没収され、槙山城は廃城となりました。現在城跡は公園になっており、本丸跡には長谷川秀一の碑が残っています。土塁も一部残っています。


ここからは一乗谷です。一乗谷の北側入口・下城戸です。
朝倉氏は一乗谷の北側の谷が最も狭まるところに土塁を設け、下城戸を構築しました。土塁は、幅約15m、高さ約4.5m、堀は幅10m、深さ3mあります。土塁の西側には巨石を組み合わせた通路があり、ここが城下町への出入り口となっていました。


朝倉義景館跡は、一乗谷朝倉氏遺跡の中心的存在で戦国大名である朝倉氏の居館跡です。朝倉氏の当主が住み、政治や行事などさまざまなものごとを行った館の跡で、土塁や濠をふくめた敷地面積は10,628平方メートルあり、土塁内部は6,425平方メートルあり、幅約8m、深さ約3mの堀で囲んでいます。
義景館跡の正面、濠に面して建つ唐門は五代義景の菩提を弔うために建てられた松雲院の寺門です。豊臣秀吉が朝倉義景の善提を弔うために寄進したものと伝えられ、幅2.3mの向唐門形式で、質素な中にも堂々たる気品を伝えています。館跡には朝倉義景の墓があります。寛文3(1663)年、福井藩主松平光通が建立しました。


湯殿跡庭園は、一乗谷で最も古い4代孝景の頃の廻遊式林泉庭園です。昭和5(1930)年に諏訪館跡庭園・南陽寺跡庭園とともに国の名勝に指定され、平成 3(1991)年には、この3つの庭園に館跡庭園を加えた4つの庭園が国の特別名勝に指定されました。庭池は南北に細長く、汀線は複雑に入り組んだ形で、周囲には山石の巨石による護岸石組や滝石組、三尊石組などの豪快な石組みがなされています。滝副石は左右ほぼ同じ高さで、水落石は1段、滝口の前には水分石があります。
往事は池に水がたたえられていました。中島は亀島、西橋の大石は鶴石とも言われています。右方には園路の跡があり、池尻付近には橋挟石に相当する石もみられ、石橋が架けられていたと推定されています。排水路の出口は空堀石垣で壊されています。観音山を背景に、林立する苔むした庭石群は、一幅の水墨画を連想させます。


中の御殿跡は、朝倉義景の実母光徳院の館と伝えられています。この高台は、南陽寺跡や湯殿跡、諏訪館跡とならび義景時代の華やかな生活の場であり、朝倉義景館近傍の屋敷に朝倉氏当主の妻子などが居住したであろう事が想像できます。
屋敷は南の道路に対して門を構え、この道路に面する南辺と東辺に土塁、さらに東辺土塁の外側と北辺に空堀を巡らしています。屋敷内には、門を入って右手に小規模な建物と、さらに奥に庭園(砂利敷部分)が検出されています。
また、庭園北側に規模は明らかではありませんが、礎石建物が検出されており、主たる建物があったと考えられています。これより北東奥には南北7間、東西2間を基本とする建物が検出されており、規模や位置等から、日常の建物と考えることが可能です。


諏訪館は、朝倉義景の夫人「小少将」の屋敷跡と伝えられています。庭園は一乗谷で最も規模の大きい、廻遊式林泉庭園です。
上、下2段の構成で、上段には滝石組と湧泉石組があります。
導水路は、東側の土塁部では暗渠になっている。大きな礎石は、輪蔵のものとみられています。下段の滝副石は、高さ413cmで日本最大です。弘化4(1847)年朝倉教景、貞景、孝景の法名を刻み供養しています。
落差が大きく水落石は4段に組まれています。水分石や礼石、橋狭石なども形通り据えられ、当時の庭園様式を良く伝えています。構成は大変形式的で専門の庭師の作庭によると推察されます。天端の平な石が多く安定感にとみ、実生のヤマモミジの巨木が庭石によく調和し、豪壮華麗な庭園美をつくっています。
昭和42(1967)年に復元整備され、平成3(1991)年に行われた導水路の整備により、清水の流れる往時の景観が再現されました。


英林塚です。朝倉孝景は、朝倉氏七代目当主です(一乗谷の数え方では初代)。教景、敏景、孝景と改名しています。十代目(四代目)の当主も孝景なので、少しややこしいです。七代目孝景は、主家の斯波氏を圧倒し、越前国守護になりました。
墓は敏景の法名である一乗寺殿英林宗雄から英林塚と呼ばれています。高さ約2mの笏谷石製の宝筐印塔が英林塚で、現在は保存のため建物に覆われています。
昔から、越前に危機が迫ると鳴動するとの言い伝えがあります。
詰城である一乗谷城への登城口が近くにあります。


南陽寺跡です。南陽寺は、朝倉一族により創建され、3代貞景が再興したと伝えられている尼寺です。
永禄11(1568)年、朝倉義景が足利義秋(義昭)を招き観桜の歌会を催し、糸桜を題材にした和歌を詠んだことで知られています。
 「もろともに月も忘るな糸桜 年の緒長き契と思はゞ」義秋
 「君が代の時にあひあふ糸桜 いともかしこきけふのことの葉」義景
の石碑が建っています。


上城戸は、館の南約600mの谷幅がもっとも狭まった場所に築かれており、土塁と濠によって構成されている城下町の防禦施設です。
土塁は、土を盛って作った施設であり、長さ105m、幅20m、高さ5mをがあり、土塁の外側には幅12m、深さ3mを測る素掘りの濠が作られていました。


安養寺は、浄土宗西山禅林寺派に属する寺院で、文明5年(1473)に朝倉孝景によって建立されたと伝えられ、真盛上人が説法を説いたり、天文16、17 年(1547、48)には、著名な儒学者である清原宣賢が『大学』『中庸』の講義をおこなった由緒ある寺院でした。天正元(1573)年一乗谷滅亡のときに焼かれたものと考えられています。現在は福井市足羽1丁目に移されています。
安養寺跡は、平成8(1996)年に発掘され、平成11(1999)年に整備工事が行われました。


安養寺の北隣の御所跡です。御所跡は永禄10、11年(1567、68)にかけての9ヶ月間、後の室町幕府15代将軍となる足利義秋(義昭)のために屋敷が建てられた場所として知られています。
昭和45(1970)年、平成7(1995)年に発掘調査が行われ、平成11(1999)年に整備工事が実施されました。
本地点は過去におこなわれた土地改良事業により大きく削平を受けていたため、溝や用途不明の石積施設などが少数検出されたにすぎず、建物配置などは不明です。


西山光照寺は当時隆盛を極めた天台宗真盛派の大寺院の一つです。
一説には、朝倉一族内の争いに敗れた鳥羽将景(初代朝倉孝景の叔父)の菩提を弔うために建てられ、盛舜上人によって再興された寺院と伝えられています。
寺跡には大型の石仏が約40体、向かい合うように並べられています。
山道を奥にあがると、谷の斜面に墓地跡とみられる平坦地があり、一石五輪塔や石仏が数多く残されています。これらの石塔、石仏は昭和47(1972)年~49(1974)年の調査により、340体以上あることが確認されています。
平成6(1994)年度から平成7(1995)年度に発掘調査を、平成9(1997)年度から平成10(1998)年度に整備工事と石仏覆屋の修復工事が実施されました。
礎石建物跡を中心に、陶磁器などの優品が出土した地下式倉庫跡や、石組溝、石積施設などを復原しています。南側の石仏覆屋に沿う石垣は西側半分が検出され、補修を加えて整備し、全体の景観を考慮して池の修景も行われました。


朝倉景鏡館跡は、「一乗谷古絵図」により朝倉式部大輔景鏡があったところと推定されています。景鏡は朝倉氏最後の城主義景の従兄弟に当たり、朝倉一族の中でも特に地位が高く、大野郡司も務めていました。屋敷の南北には外堀と土塁が巡り、敷地の規模は5000平方メートル以上と推定され、朝倉義景館に次ぐ広さです。
発掘調査では礎石建物、通路、溝などが検出されたそうです。
遺物では地鎮具が発掘されています。越前焼の小壺の中に銅製の仏花瓶が納められており、中には米、麦、ゴマ、金泥を塗った杉の小枝、琥珀などが入っていたそうです。天目茶碗、尺八の一種である一節切が出土しています。


一乗谷の裏山の詰城跡、一乗谷城にも登城しようとしましたが、まだ記憶に新しい平成16年の福井豪雨の復興対策として、堰堤工事などが行われており、登城道は塞がれていました。他にも登城口を探しましたが、雨で足場が悪いこともあり、登城を断念しました。残念です。この日の目的の一つでしたので・・・
この後は、福井市の中心部に向かいます。

Posted at 2007/11/03 22:41:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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