大阪市立美術館の後は少し天王寺を散歩しました。
慶沢園は、住友家がこの地に移った際、約10年をかけて本邸(茶臼山邸)とともに造営した庭です。大名庭園をモデルとした林泉式回遊庭園で、山県有朋の無鄰菴なども手がけた庭師小川治兵衛の作庭です。
住友家15代吉左衛門(春翠)は明治28(1895)年からこの地の用地買収を始め、同41(1908)年に着工した。大正4(1915)年にはまず本邸を鰻谷から移転しましたが、その間、春翠は庭園を「恵沢園」と命名し、大正7(1918)年の完工時に「慶沢園」と改めました。
大正14(1925)年、住友家は神戸住吉に本邸を移し、翌昭和元年(1926)に敷地12,940坪を大阪市へ寄贈しました。
昭和9(1934)年に一般公開されました。
四天王寺は今から1400年以前、推古天皇元(593)年に聖徳太子が建立された日本仏法最初の官寺です。太子が四天王寺を創建したときには、敬田、悲田、施薬、療病の四箇院を構え、以って鎮護国家の道場として、また済世利民の実践所として物心両面の救済により、平和国家の樹立と文化国家の荘厳を果たされ、その意味で当寺が政治外交上の中枢となったのみならず、美術工芸産業あらゆる方面に於いて日本文化の発生地となりました。
度重なる戦災、天災などで焼失と再建を繰り返してきました。昭和20(1945)年3月14日の空襲により七堂伽藍の大半は焼失しましたが、元和年間に再建された西門石鳥居、本坊通用門、六時堂、五智光院、元三大師堂、湯屋方丈などの建物は焼失を免れました。中心伽藍は昭和38(1963)年に飛鳥時代創建当時の様式で復元されました。ただし鉄筋コンクリート造りです。
四天王寺の
本坊庭園「極楽浄土の庭」は、極楽浄土を再現した庭園です。中国の僧侶である善導が説いた「二河白道」の喩話に基づいて造られています。自然のわき水を利用した2つの小川「水の河」と「火の河」があり、水の河は人生の順境にあるときの貪(むさぼる)のことで、火の河は人生の逆境にあるときの瞋(じん、怒り恨むこと)です。この二つの河に挟まれた白道が極楽浄土への道と喩えているそうです。
そして2つの池「瑠璃光の池」と「極楽の池」が配されています。
この広さ1万m²の池泉廻遊式庭園の造園は江戸時代初頭とされ、現在の庭は明治時代初期に、火災による焼失から復興されたもので、このときにの喩話に基づいた作庭がなされました。
「極楽浄土の庭」では湯屋方丈とその前庭である座視式庭園「補陀落の庭」、ルネッサンス様式の西洋建築「八角亭」、五智光院なども見ることができます。
Posted at 2007/12/18 22:01:43 | |
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