雪の高野山にやってきました。豪雪状態で、STiのスポイラーはラッセル車状態です。
壇上伽藍は、弘仁7年(816)から弘法大師が建立した高野高野山の真言密教の信仰の中心です。金堂、根本大塔、西塔、御影堂などが立ち並んでいます。
徳川家霊台は、徳川家康と秀忠を祀っています。
元々聖派大徳院の境内でしたが、明治になって他の寺院と合併し、霊台だけが残りました。
寛永20(1643)年に竣工し、落慶法要が行われました。江戸時代初期の代表的霊廟建築として、大正15(1926)年、国の重要文化財に指定されました。
蓮華定院は、鎌倉時代の始め行勝上人により創建された宿坊寺院です。
信濃国の小県郡、佐久郡の豪族と宿坊の契約が結ばれ、真田氏とも密接な関係のある寺院です。
関ヶ原の戦いで、紀伊国に流罪になった真田昌幸、信繁(幸村)父子はしばらく蓮華定院に滞在し、後に九度山に移りました。
宿坊なので、一般の人も泊まれるようです。一度宿坊での経験を持つのも良いかも知れません。
女人堂は、明治5(1872)年に女人禁制が解かれるまで、女性は高野山に入れなかったため、女性の為の参籠所として設けられていました。
高野山への入口は、高野七口と言われるように、七つの入口があり、それぞれに女人堂がありました。
現在残る女人堂は、不動坂口の参籠所一箇所のみです。
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橋本警察署高野幹部交番は、高野山という立地に配慮して、社寺建築の意匠が取り入れられています。平成17(2007)年、全国の警察庁舎で初めて有形文化財に指定されました。
無量光院は高野山の宿坊寺院です。
平安時代、白河法皇の第4皇子・覚法親王の創建と伝えられています。
戦国時代、上杉謙信が、無量光院の清胤を師として上洛のたびに訪れたと言われています。天正2(1574)年には清胤が越後を訪問し、謙信の出家の導師をつとめたと言われています。
苅萱堂です。無常を悟って出家した苅萱道心とその子石童丸が親子の名乗りをあげないまま修行に明け暮れたという話が残っています。
清浄心院は、高野山の塔頭・宿坊寺院で開基は空海、平宗盛が再興したと言われています。
平家物語では滝口入道が出家後住んだ寺と書かれています。戦国時代の武将、上杉謙信ともゆかりが深く、上杉謙信、景勝に関係する所蔵品が沢山あるそうです。
高野山奥の院は空海(弘法大師)入定の地です。空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま、永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥の院で生きていると信じられています。2㎞に渡る参道にはあらゆる人々が墓碑を建立し、何十万基にも登る数のお墓があります。戦国武将や、江戸時代の大名家の墓も沢山あります。
この後、龍神温泉にも行きたかったのですが、残念ながら積雪のため、高野龍神スカイラインは通行止めでした。近畿圏の史跡でこれだけの雪が見る機会が今まであまりなかったので、貴重な経験をしました。
今度は、金閣寺や銀閣寺の積雪している姿を見てみたいものです。
Posted at 2008/02/27 22:57:40 | |
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