次はいよいよ宮島です。広島県もよく訪れている県ですが、宮島は子供の時に訪れて以来の訪問です。
おそらく宮島では車を使用することはないということで車を宮島口駅付近にとめて、フェリーに乗船しました。
フェリーから眺める海に浮かんでいるような厳島神社の姿はやはり魅力があります。
宮島の桟橋を降りてすぐの所に、
日本三景碑があります。
日本三景碑は、平成11(1999)年に建てられた碑で、儒学者「林春斎」によって寛永20(1643)年に書かれた「日本国事跡考」より抜粋された「安芸厳島、陸奥松島、丹後天橋立、三処を奇観と為す」との意味の漢文が刻まれています。
宮島桟橋の近くにあります。
宮尾城は厳島の標高30メートルほどの要害山に築かれた城です。
弘治元(1555)年です。陶晴賢との対決を控えた毛利元就は、陶軍の広島湾進出を阻止し、厳島に陶軍をおびき寄せるため厳島のこの地に築城し囮の城としました。守りには厳島神領衆の己斐豊後守や新里掃部介ら300名余を詰めさせました。
9月、厳島を戦略拠点とすべく島に上陸した陶方二万の兵は五重塔がある塔の岡付近に本陣を置き宮尾城へと攻めかかりました。陶軍は激しく攻撃しましたが300名が守る宮尾城はよく守り、10日間も耐えました。元就は主力の軍を率いて包ヶ浦から上陸し、山を越え背後から陶軍の本陣を急襲し、宮尾城の兵も主力軍に呼応して陶軍を壊滅させました。
城の遺構は殆ど残っていませんが、宮島桟橋近くにあり、急な階段を上っていきます。そこが城跡で説明看板が建っています。
千畳閣は天正15(1587)年、豊臣秀吉が戦没将兵の慰霊のため、大経堂として建立しました。畳857枚分の広さがあることから「千畳閣」と呼ばれるようになりました。秀吉の死により工事が途中で中止され、板壁も天井の板もない未完成の状態のままとなっています。明治初年の神仏分離により本尊の釈迦如来座像は大願寺に遷され、厳島神社末社・豊国神社とされました。
また、この辺りは塔の岡といい、厳島の戦いの時に陶軍が陣を構えたところです。
五重塔は、千畳閣の隣、塔の岡に建つ応永14(1407)年に建立されたものです。
高さ約28mの檜皮葺きの塔で立派な建造物です。
厳島神社は、宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)を祀る神社です。推古天皇元(593)年、土地の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝えられています。
平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、仁安3(1168)年頃に平清盛が現在の社殿を造営し、平家一門の隆盛とともに繁栄しました。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けました。
毛利元就が弘治元(1555)年の厳島の戦いで勝利を収め、厳島を含む一帯を支配下に置き大掛かりな社殿修復を行いました。豊臣秀吉も九州遠征の途上で当社に参り、大経堂を建立しました。
清盛神社は、厳島神社の末社で平清盛を祀る神社です。昭和29年(1954)年、平清盛の没後770年を記念し建立されました。
宮島歴史民俗資料館は、江戸時代から明治にかけて栄えた豪商の江上家の屋敷の母屋と土蔵の一部をそのまま保存して資料館として公開しています。宮島の歴史、文化を学びながらかつての豪商の家の庭園や建物を見学できます。
厳島神社宝物館です。厳島神社は歴史のある神社だけあって奉納された数々の美術工芸品や武具、資料などが奉納されてきました。宝物館では平家納経や武将達が奉納した刀剣類などを所蔵しています。平家納経は普段はレプリカを展示しています。
大願寺は、正式には亀居山方光院大願寺という真言宗の寺院です。
室町時代末期に厳島神社の修理造営権を握り、道本・尊海・円海と相次いで傑出した住職が出て、厳島神社諸建築の建造や復旧に当たったことで知られています。
書院では、幕末の第二次長州征伐の際、幕府側の勝海舟と長州藩の広沢兵助(真臣)・井上聞多(馨)らとの講和交渉が行われました。
境内には伊藤博文が植えたと伝えられている「大願寺の九本松」があります。
多宝塔は、大永3(1523)年僧周歓の創建によるものです。上層は円形、下層は方形、屋根は上下とも方形となっている珍しい構造です。重要文化財に指定されています。
またこの地は弘治元(1555)年の厳島合戦において陶晴賢が陣所を置いた所にあたります。高台に位置し、五重塔と共によく目立ちます。
勝山城は大永4(1524)年大内義興により築かれたと言われています。)。
弘治元(1555)年の厳島の戦いでは陶晴賢が大元浦に上陸し最初に本陣を設けた所でもあります。
遺構などはあまり残っていないようです。多宝塔の南側のすこし高台になったところに石碑が建っています。
林家住宅〔上卿屋敷〕です。林家は古くから厳島神社の神職をつとめ、朝廷の差し遣わされる奉幣使の代参をつとめて「上卿」(しょうけい)と呼ばれていました。
現在の建物は元禄時代の建築で、全国的にも数少ない社家の一つで国の重要文化財に指定されています。
内部は非公開で、入口付近に説明看板が建っています。
棚守屋敷跡は厳島神社の神職として棚守職をつとめた野坂家の屋敷跡です。厳島神社の鎮座にあずかった佐伯氏の子孫には、平清盛の信任を受けて社殿の大造営をなしとげた佐伯景弘などがいましたが、鎌倉時代には関東の御家人であった藤原親実が神主職となり子孫として続き、佐伯氏は棚守職を世襲して野坂氏を称し、左舞師を兼ねました。大内義隆、毛利元就と親交のあった野坂房顕、江戸時代の末に舞楽の抜頭の秘曲を天王寺怜人に伝授した野坂元貞などは著名です。
屋敷のあったこの付近は棚守屋敷に続き祝師、上卿などの屋敷が並んでいました。棚守屋敷跡は現代の家が建っていますが、石段が残っていて往事を偲ぶことが出来ます。
この次は宮島ロープーウェイで弥山に登ります。一度乗り換えて2回のロープーウェイの登山。景色が綺麗です。
獅子岩展望台は、宮島ロープウェー終着点の獅子岩駅を降りてすぐの所にある展望台です。
瀬戸内海の島々の眺望が素晴らしい展望台です。
獅子岩からさらに弥山に登っていきます。
弥山は大同元(806)年弘法大師が百日間の求聞持の修法を行った
場所で、阿波の大龍嶽・土佐の室戸岬とともに、真言密教の日本三大道場となっています。
本堂、霊火堂、三鬼堂、文殊堂・観音堂など多くの堂社があります。
弥山展望台です。弥山は、厳島(宮島)の中心にそびえる535mの山です。
伊藤博文は「宮島の真価は弥山の頂上からの眺めにあり」と名言を残しました。
標高535mの山頂にある展望台からの眺めは素晴らしいと思います。
山頂は巨石がたくさんあります。
宮島ロープーウェイの終点、獅子岩駅からは歩いて40分から1時間程度かかりますが、絶景なので足を伸ばす価値はあります。
さらに奥の
駒ヶ林まで歩いていきました。厳島の山塊は弥山、駒ヶ林、岩舟山の集まりです。駒ヶ林は標高509mで山頂部は大きな花崗岩の岩石で出来ています。岩登りのトレーニングをする人もいるそうです。
また、駒ヶ林は弘治元(1555)年の厳島の戦いで、龍ヶ馬場の攻防が行われた場所です。
厳島の戦いは、10月1日寅の刻、毛利軍が奇襲攻撃したため、陶軍は敗れました。陶軍の勇将、弘中三河守隆包は、主君陶晴賢を大元へ落とした後、百騎ほどの兵と共に弥山に登り、この駒ヶ林へ立てこもりました。吉川元春率いる毛利軍は数倍の軍勢でこれを取り囲みましたが、弘中隆包の必至の働きによりどうしても討ち取ることが出来ず、兵糧攻めの作戦をとりました。このため、さすがの弘中隆包も力尽き、二日後の10月3日、嫡子の弘中隆助(中務)と共に井上源右衛門らにより討ち取られ、厳島の戦いは終わりを告げました。
ここも弥山とならぶ眺望スポットです。巨大な岩からの宮島の眺めは素晴らしいです。
ここからは、歩いて弥山に戻り、更にロープーウェイ沿いに徒歩で下山することになりました。あまりロープーウェイ沿いのルートは歩くような酔狂な人も少ないのか、草も多くて結構歩きにくい道でした。
博奕尾は厳島の戦いゆかりの地です。
弘治元(1555)年9月30日、夜半に包ヶ浦に上陸した毛利元就は、この博奕尾にたどり着きました。
元就は、傍らの兵にこの地の名を尋ねて「博奕尾」であると聞くと「昔、源義経は勝浦に上陸して屋島の平家に勝った。今、我らはこの博奕尾に登った、博奕もうつもの、この戦いはもはや打ち勝った。」と兵士を鼓舞しました。ここから五重塔のある塔の岡にむけて毛利軍は進軍していきました。闇の中で道に迷ってしまった毛利軍の前に牡鹿が現れ塔の岡へ導いたと伝えられています。
博奕尾付近からは塔の岡の五重塔、厳島神社の鳥居を見ることができます。
そして麓にたどり着きました。表参道を歩くと、
宮島の大杓子がありました。
宮島の大杓子は、宮島町が伝統工芸である宮島細工を後生に残すとともに、杓子発祥の地である宮島のシンボルとして製作し、平成8(1996)年12月の厳島神社の世界遺産登録を機に展示を始めました。宮島の杓子は江戸時代の寛政年間(1789~1800)、宮島の時寺の僧、誓真が弁財天の夢を見て、その手にしたびわの形の美しさを杓子にうつし、それを作ることを島の人に教えたのが最初とされています。
大きさは長さ7.7m、最大幅2.7m、重さ2.5t、材質は樹齢270年のケヤキ、制作期間は昭和55(1980)年5月から昭和58(1983)年3月の2年10ヶ月間、宮島細工協同組合が制作し、製作に関わったのは延べ300人だそうです。
表参道商店街に展示されています。
そして最後に厳島の戦いで、暴風雨の中、毛利元就が上陸を果たした
包が浦を訪れることにしました。もうさすがに歩く体力がなかったので、タクシーを使用しました。
弘治元(1555)年9月30日、毛利元就は毛利隆元、吉川元春以下2千の本軍を率いて対岸の地、御前火立岩から折からの暴風雨をついて船出し、亥の刻(午後10時)にこの地に上陸しました。一兵も失うことなく上陸を終えると元就は、この浦の名を「包が浦」と聞いて「包はうつべきもの。もはや敵は打たれたも同然」と正平を鼓舞し、、直ちに水軍の将児玉就方に命じて兵船をすべて対岸に帰させました。そして「我今九死に一生の戦に臨む。幸いに利あらば晴賢を得ん。もし利なければ即ち死あるのみ。」と文字通り背水の陣をしき、陶軍の背後にあたる博奕尾を目指して、風雨ようやく収まった夜半に進撃命令を下しました。
タクシーの運転手さんと話をしていると、やはり歴史ファンはここを訪れる人が多いようです。
現在は「毛利元就上陸之跡」と刻まれた石碑が建てられています。石碑は車のロータリーの中央部にあります。
ただし、この石碑は以前は海岸の砂浜近くの所にあったそうです。平成9(1997)年の大河ドラマ「毛利元就」を機に、わかりやすい場所の現在の所に変更したようです。
宮島の麓の建造物群、そして弥山の自然。どれも素晴らしいものでした。1日の滞在ではまだまだすべての魅力を感じることはできていないと思います。できれば1週間くらい滞在してみたいところでした。