この日は、奈良へ行きました。
今年の1月から3月にかけて玉木宏、綾瀬はるかの「鹿男あをによし」というドラマが放送されていましたが、奈良を舞台にしたドラマだけにあちこちの歴史的名所が登場しました。綾瀬はるかが歴史マニアの教師役だったので、歴史好きとしても楽しく見ることができました。
柳本古墳群にある
黒塚古墳は、三角縁神獣鏡の過去最多の33枚という大量出土により一躍有名になりました。。
中世には柳本陣屋の一郭に活用されたため形状が著しく変形されています。
三角縁神獣鏡は卑弥呼が中国の魏の国から与えられた鏡という説があり、 邪馬台国畿内説の有力な証拠とされるものです。卑弥呼の墓と言われている箸墓古墳も比較的近くにあります。
天理市立黒塚古墳展示館は、隣接する黒塚古墳から平成10(1998)年に出土した三角縁神獣鏡、大量の鉄製刀剣類などの資料を展示する資料館です。
黒塚古墳の石室が原寸大で復元されており、鉄器などの出土品を展示しています。三角縁神獣鏡33面、画文帯神獣鏡1面はレプリカを展示しています。
フジテレビ系のドラマ「鹿男あをによし」でも藤原道子(綾瀬はるか)と小川孝信(玉木宏)がこの資料館を訪れて、復元石室の周りで藤原先生が「三角縁神獣鏡」について詳しく解説していたシーンがありました。
天理から次は奈良市に向かいます。
平城宮跡です。平城京は、和銅3(710)年藤原京より遷都されました。
天平12(740)年、恭仁京への遷都によって平城京は一時的に放棄されましたが、天平17(745)年には、再び平城京に遷都され、その後延暦3(784)年長岡京に遷都されるまで都がおかれました。
その後、平城天皇が位を退いた後こちらに居住し、大同5(810)年には、平安京を廃し平城京へ遷都する詔を出して薬子の変が起こりました。結果は失敗し、この後平城京へ遷都されることはありませんでした。その後、農地になっていましたが、大正11(1922)年、国の史跡に指定され、昭和 27(1952)年には特別史跡平城宮跡として保存され、同時に発掘調査が進んでいます。
朱雀門の復元工事は平成3(1991)年から始まり、平成9(1997)年10月17日に完成しました。
平成10(1998)年には「古都奈良の文化財」の一つ平城宮跡として世界遺産にも登録されています。
平成22(2010)年には、平城遷都1300年事業の一つとして大極殿も復元される予定になっています。
「鹿男」には登場しませんが、
多聞城は松永久秀が永禄3(1560)年に奈良の東大寺、興福寺の近くに築いた城です。多聞山城ともいわれてます。
四重櫓は、近世城郭における天守の先駆けといえるものだったようです。全国の城に「多聞櫓」という櫓があるのは多聞城からきたものだそうです。
永禄10(1567)年松永久秀の大和侵出によって大和北方から追われた筒井順慶は三好三人衆と結束して多聞城に攻め寄せましたが、久秀は東大寺大仏殿を焼討ちにするなど、奇襲に奇襲を重ねてこれを撃退しました。
永禄11(1568)年織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、松永久秀は信長に属し、大和一国の所領を安堵されました。
天正元(1573)年、松永久秀は、足利義昭と同盟し織田信長に反旗を翻し信貴山城に籠城しましたが、降伏し多聞城を明け渡しました。
以後、多聞城は信長配下の明智光秀、佐久間信盛らが城番となりましたが、天正4(1576)年に大和一国は筒井順慶に与えられ、多聞城は破却されました。
城跡は奈良市立若草中学校になっていて、中学校の入口付近に石碑が建っています。
次は
東大寺です。さすがに鹿がいっぱいいます。東大寺は華厳宗大本山で奈良時代に聖武天皇が建立した寺です。
天平13(741)年に聖武天皇が護国信仰に基づいて国分寺の建立を命じられた際、金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と称しました。
天平15(743)年になり聖武天皇は盧舎那大仏造顕の詔を公布し、天平17(745)年に金光明寺にて造営が開始された際、東大寺と改めました。
天平勝宝4(752)年に大仏殿が完成し、開眼供養が行なわれました
伽藍が完成したのは延暦8(789)年です。
その後治承4(1180)年に平重衝の南都焼討で、大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失いました。
しかし、重源の精力的な活動により、文治元(1185)年には再び大仏開眼法要が行われ、建久元(1190)年には、再建大仏殿が完成しました。
しかし、戦国時代の永禄10(1567)年には松永久秀によって伽藍が焼失しました。
江戸時代には公慶上人により、再興され、元禄4(1691)年には大仏が完成し、翌年開眼法要が行われ、宝永6(1709)年には大仏殿が再建されました。
南大門は東大寺の正門です。国宝に指定されています。
治承4(1180)年の平重衡の兵火に焼失した後に行われた復興造営の一つとして、鎌倉時代の正治元(1199)年に復興されたものです。
東大寺中興の祖である俊乗坊重源が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(天竺様)を採用した建築として知られています。
門内左右に安置されている木造金剛力士(仁王)像、は運慶、快慶、定覚、湛慶の等20名の慶派の仏師たちが建仁3(1203)年に僅か69日で造り上げた物です。
同様に門内左右に安置されている一対の石造獅子像は、鎌倉復興造営に参画した宋人の石工たちが建久7(1196)年に造ったものです。
興福寺は、藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8(669)年山背国山階に創建した山階寺が起源です。その後、天武天皇元(672)年、山階寺は藤原京に移り、地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺と称するようになりましたが、和銅3(710)年の平城遷都に際し、鎌足の子藤原不比等が厩坂寺を現在地に移転し、「興福寺」と名付けました。その後、藤原北家の興隆と共に栄え、京都の比叡山延暦寺と共に「南都北嶺」と呼ばれ栄えました。その後、兵火や廃仏毀釈で衰えましたが、創建1300年の平成22(2010)年完成をめざし、創建当初の姿を再現した中金堂の建設と境内の整備が進められています。
興福寺国宝館は昭和34(1959)年に、旧食堂・細殿跡に興福寺宝物収蔵庫として建設された奈良時代からの仏像などを収蔵・展示する美術館です。
なかでも、「阿修羅像」「千手観音像」「金剛力士像」などの国宝の数々を見ることができます。
