この次は高月町へ向かいます。
目的は最近朝鮮通信使400年の特集のテレビなどで通信使にかかわった雨森芳洲の資料館があるということで訪れてみました。
しかし、まず目に入ったのが
天川命神社(あまのかわみことじんじゃ)の大銀杏です。「宮さんの大イチョウ」として昔から地域住民に親しまれている大銀杏です。銀杏としては県内有数の巨木です。かなり遠い場所からも見えて立派なものです。訪れる人も少ないようですが、その場に居合わせお話しをした人は「知らなかったけどこんな立派な銀杏があるものなんですね」と感心しておられました。
この神社の由来は、太古に天川命がこの地に天降り、その神孫が開拓した場所にあり、かつては、天降りの里と称し、後世雨森の文字を用いるようになりました。
平安時代に天川命ノ御祖先神及び御子孫等五十八座を併祀し、中臣、藤原両氏の御祖神総社として崇敬を集めました。
正慶2(1333)年、六波羅滅亡の時、光嚴天皇他二皇子等、坂田郡番場より逃れ、本社の神殿に難をさけられたとの由緒から、光厳天皇と二皇子を相殿に祀りました。
東アジア交流ハウス雨森芳洲庵は、昭和59(1984)年に、滋賀県の「小さな世界都市づくりモデル事業」の指定を受け、雨森芳洲の出身地に建設したものです。
雨森芳洲は江戸時代の儒学者で、対馬藩に仕え、生涯藩の文教と対朝鮮外交に尽くしました。
雨森芳洲庵は、芳洲の著書や遺品、芳洲が深く関わった朝鮮通信使の資料などを展示しています。
欅(けやき)の老木に囲まれた静かな敷地内には、遠州流庭園や芳洲神社があります。
雨森の集落は水車のある風情のある町です。
雨森から少し北上すると井口という集落があります。
ここの、
円満寺・日吉神社は紅葉の名所です。
円満寺は中世、比叡山延暦寺の荘園、富永庄の預所で、神社も延暦寺の麓坂本の日吉神社を勧請したといわれています。
神池は古代からのものだそうです。神池や境内の紅葉の美しさは魅力的です。
この後は再び木之本町に戻り、宿場町の風景を見ることにします。
木之本地蔵院は正式には長祈山浄信寺という時宗の寺院です。
天武天皇の時代に難波浦に金光を放つ地蔵菩薩像が漂着し、これを祀った金光寺を難波の地に建てたのが始まりと言われています。
奈良薬師寺の開山祚蓮上人(それんしょうにん)が勅命をうけ北国街道を通っていたところ、休憩のため地蔵像を柳の下に降ろしたところ、そこから動かなくなったため、この地を安置場所と定め、柳本山金光善寺と号して一寺を建立しました。後にこの地は、「柳の本(やなぎのもと)」と言われ、さらに「木之本(きのもと)」と言われるようになったといわれています。
その後、弘仁3(812)年には空海が修復し、昌泰元(898)年には醍醐天皇の勅旨により菅原道真が参拝して現在の長祈山浄信寺となったと言われています。
賤ヶ岳の戦いで焼失し、慶長6(1601)年に豊臣秀頼の命で片桐且元が再建しました。元文4(1739)年に再び焼失し、現在の本堂は宝暦年間に再建したものです。庭園は、池泉観賞式庭園で国指定の名勝となっています。
木ノ本の牛馬市は室町時代から昭和の初期まで毎年二回この地区二十軒ほどの民家を宿として開かれていました。藩の保護監督の下近江、但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭などから数百頭の牛馬が集まり盛況を極めていました。
山内一豊の妻が夫のためにと備えていた金子で買い求めた摺墨の名馬はこの木之本の「馬宿平四郎がらでたと伝えられています。
現在は建物の中は資料館として公開されているようですが、訪れた時は閉まっていました。
平成18(2006)年の大河ドラマ功名が辻の第21回「開運の馬」の「功名が辻紀行」でも紹介されました。
これで今回のドライブは終了です。
Posted at 2008/12/21 11:48:26 | |
トラックバック(0) |
ドライブ | 日記