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ピズモのブログ一覧

2008年12月31日 イイね!

デジタル一眼レフカメラのイメージセンサーのゴミ問題を解決?

デジタル一眼レフカメラのイメージセンサーについては色々なホームページで取り上げられていますが、ゴミがよく付着するという問題を抱えています。私のCanon EOS 30Dも最近単焦点レンズを使用して、頻繁に屋外でレンズ交換することから、心配していました。最も最近のデジタル一眼レフカメラはイメージセンサーをクリーニングしてくれる便利な機能が標準化されつつありますが、EOS 30Dには搭載されていません。
先日の信州と甲州ドライブで、絞り込んで撮影した時、黒い斑点が付着しているのに気づきました。
風景写真を絞り込んで、露出アンダー気味に撮影すると、黒い斑点が目立ちます。これは一般人が清掃できないとされるイメージセンサーにゴミがついているものと思われます。少しわかりにくいかも知れませんが、赤丸で囲んでいるところに黒い斑点が附いています。かなり酷い状態です。撮影環境によっては目立たないのですが。



これは旅行から帰ってきてからサービスセンターに持ち込むしかないと思いましたが、年末年始はサービスセンターも休み。よって自分で施工できるペンタックスのデジタル一眼レフカメラ向けのイメージセンサークリーニングキット「O-ICK1」を購入してみました。もちろんペンタックスのデジタル一眼レフ向けの製品ですが、CanonのEOS 30Dへの使用にチャレンジしてみました。


まず、カメラ側でイメージセンサーを露出する状態にします。


上向きにカメラを置いてみます。イメージセンサーが露出しています。


スティックを押し当てていきます。


ゴミを粘着シートに付着させます。これで終了。思っていたより簡単でしたが、やはり素人なのであくまで自己責任で。


新しいフルサイズ一眼、Canon EOS 5D MarkⅡが猛烈に欲しいモードに入っていますが、まずは手持ちのカメラを大事にしていくことを心がけ、写真を楽しんでいきたいと思います。
Posted at 2009/01/21 22:26:02 | コメント(4) | トラックバック(0) | デジカメ | 日記
2008年12月29日 イイね!

小県・佐久・甲州ドライブ(3日目その2・北杜市の武田氏関連の史跡)

再び北杜市に戻ります。
この辺りの風景は本当に美しいところが多くてドライブしていても楽しいです。
東沢大橋展望台から八ヶ岳
東沢大橋展望台から八ヶ岳 posted by (C)pismo

まきば公園から八ヶ岳
まきば公園から八ヶ岳 posted by (C)pismo

風林火山館は、平成19(2007)年の大河ドラマ「風林火山」の撮影が行われたオープンセットです。
平成21(2009)年の大河ドラマ「天地人」の撮影も行われています。
残念ながら、平成20(2008)年で一般公開は終了し、撮影専用のスポットになってしまったようです。
そのため、中にはいることはできませんでした。


小荒間古戦場はJR小海線の甲斐小泉駅の近くにあります。
天文9(1540)年2月、信濃の村上義清方の軍勢3500余が小荒間に押し寄せ近郷を焼き払ったので、武田晴信(信玄)は旗本を率いてこれと合戦し、勝利を得た所といわれていわれています。晴信が本陣を敷いた所を「中屋敷」といい、「御座石」、「遠見石」、「鞍掛石」などがあり、西方には「耳塚」と呼ばれる塚があります。このあたり一帯より鏃、仏像、兜などが発掘されたと伝えられている。信玄の軍用道路といわれている「上の棒道」は、この古戦場の近くを南東から西北に延びています。しかし、この戦いは甲陽軍艦に記載されていますが、史実的には怪しいそうです。ただ、鏃や仏像、兜などが発掘されたという話があるので、似たような戦いは会ったのかも知れませんね。


三分一湧水(さんぶいちゆうすい)は、その昔、湧水の利用をめぐり長年続いた水争いを治めるため、三方の村々に三分の一づつ平等に分配できるよう工夫したことからきています。武田信玄により整備されたと言われています。
湧水は、利水権を持つ地区住民で組織する管理組合や地元住民によって管理され、農業用水として重要な役割を果たしています。湧水量は1日8,500トン、水温は年間を通して摂氏10度前後を保っています。
また、三分一湧水は女取湧水とともに八ヶ岳南麓高原湧水群として日本名水百選に数えられています。八ヶ岳の峯々に降り積もった雪は伏流水となり、長い年月をかけ麓に清らかな泉となって湧き出します。八ヶ岳南麓にはこのような湧き水がいくつか知られています。元々は小荒間村の坂本家が管理されていましたが、平成14(2002)年に坂本家から旧長坂町に寄付を受けました。


三分一湧水付近の富士見坂の風景です。
富士見坂から富士山を見る。
富士見坂から富士山を見る。 posted by (C)pismo

谷戸城は甲斐源氏の祖新羅三郎義光の孫逸見清光の居城です。
清光は長男光長を逸見の庄に、二男信義を武田の庄に配したのをはじめとし、十余人の男子を甲斐の要地に拠らせて甲斐源氏の発展の礎を築きました。
発掘調査が行われ14~15世紀の遺物が発見されたそうです。城跡もよく整備され、郭や土塁、空堀などが残る貴重な城跡です。発掘された資料などは平成19(2007)年にオープンした隣接する谷戸城ふるさと資料館に展示しているそうですが、訪れたのが年末年始なので閉まっていました。しかし、八ヶ岳や富士山への眺望も素晴らしく、遺構がよく残っているお城なのでお勧めです。



谷戸城から富士山を望む
谷戸城から富士山を望む posted by (C)pismo

自元寺は、開基は武田二十四将の一人馬場美濃守信房(信春)公、開山は端叟敦的大和尚とする曹洞宗の寺院で山号は白砂山です。
元亀元(1570)年白須坊田に寺を建立しましたが、天保初期に焼失し天保14(1843)年現在地に再建されました。
総門は信房の屋敷(通称梨子の木屋敷)現在の北杜市白州町白須1008-1番地付近から移したものです。ちょうど道の駅はくしゅうから、吉田医院のあるあたりだそうです。
境内には、位牌と墓所が安置されていますが位牌は一般公開されておらず、墓所のみ参拝できます。

平成19(2007)年の大河ドラマ「風林火山」の第38回「村上討伐」の風林火山紀行で紹介されていました。


教来石民部館は、現在の北杜市白州町鳥原にあります。
昭和63(1988)年の発掘調査により、教来石民部館があったことが判ったそうです。館主である教来石氏は、武田家支流の一条氏から派生した在地の武士団の武川衆の一員です。武川衆は武田宗家に忠誠を尽くし、幾多の合戦で勇活躍し、信濃諏訪口の国境防衛にも大きな功績があったと言われています。
教来石民部景政は、後に抜擢され、武田氏重臣(武田二十四将)の列に加わった馬場美濃守信春であることはあまりにも有名です。馬場信春は信玄の命で馬場氏を継いだ後は白州町白須の館(現在の道の駅はくしゅうの付近)に移ったようです。
館跡には雑草だらけで、説明の看板と碑があるのみでした。
ビューファーム鳥原の向かい側(南側)にあります。


教来石民部館付近から八ヶ岳を見るともう夕方だけあって、赤く染まった姿です。
教来石民部屋敷付近からの八ヶ岳
教来石民部屋敷付近からの八ヶ岳 posted by (C)pismo

笹尾塁は、釜無川左岸七里岩の急崖上にあり、釜無川に注ぐ深い侵食谷のため自然の要害に恵まれたところに位置します。築城時期は不明ですが、武田・諏訪両氏の攻防の舞台になりました。また、笹尾石見守の居城と伝えられ、武田信虎の国内統一に重要な役割を果たしたと思われます。
堀切・空堀・土塁などがよく残ります。城山公園として整備されており、駐車場もあります。ただし、野生動物よけの電線には注意しましょう。


笹尾塁からの富士山
笹尾塁からの富士山 posted by (C)pismo


これで今回の2泊3日の旅行は終了です。あとは甲州ほうとうと温泉を楽しんで帰りました。
Posted at 2009/01/18 22:07:58 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年12月29日 イイね!

小県・佐久・甲州ドライブ(3日目その1・佐久往還、北杜市~海ノ口城)

いよいよ最終日です。
韮崎の宿を出発し、まず、若神子にある平賀源心の墓です。
武田信玄の時代、若神子には陣所がおかれ信州への出陣の際には陣立てが行われていました。東西に石塁が置かれて上木戸は「上の棒道」と呼ばれる軍道の起点となっていました。
上木戸を出たところに平賀源心の墓があります。源心は信玄が初陣の時に討ち取った信濃海ノ口城主で、父信虎も落とせなかった城を僅かな兵で奇襲して勝利を得たと言われていますが、諸説があり研究が進められています。
若神子城下、民家の入口の一角にあります。ここにある墓は首塚と言われており、胴の方は海ノ口に近い平沢峠にある胴塚に葬られているそうです。


若神子城は「古城」あるいは「大城」とよばれる遺構を中心に、東に北城、湯沢の西に南城の三ヶ所からなる山城の総称です。
連郭式といわれる中世の古い形態を残す山城で、甲斐源氏の祖新羅三郎義光によって築かれたと言われています。
戦国期には武田軍の信濃攻略への国境玄関として重要視され、佐久口・諏訪口方面からののろしの中継点、陣立ての場所としての機能も持ちました。
天正10(1582)年織田信長の侵攻により武田氏は滅亡しました。その信長もその年本能寺の変で明智光秀に殺され甲斐国は、北条氏直と徳川家康との係争の地となりました。天正壬午の乱といいます。家康は韮崎の新府城に陣し、信州から侵攻した北条氏直が若神子城に陣を構えました。古城に籠もった北条軍が築構した薬研堀、南端部からは見張台の跡と思われる柱穴が検出されています。現在は古城はふるさと公園となっていて、のろし台が復元されています。眺望が良く富士山も見えます。
若神子城 - 06
若神子城 - 06 posted by (C)pismo

若神子城 - 11
若神子城 - 11 posted by (C)pismo

正覚寺は正式には陽谷山正覚寺という曹洞宗の寺院です。
大治2(1127)年、甲斐源氏始祖新羅三郎義光の菩提を弔うため逸見冠者(武田冠者)義清公が創建しました。当初は天台宗で現在の高根町村山北割にありましたが、永享2(1430)年、甲斐源氏の館跡である現在地に移転し曹洞宗に改宗しました。
新羅三郎義光の菩提寺と言うことで訪れました。若神子城は新羅三郎義光の城だったので、恐らく居館を正覚寺のあたりに構えて、若神子城を詰めの城にしたのではないかと思いました。
墓所には新羅三郎義光公と、逸見冠者義清公の供養塔があります。


勝永寺は屋代越中守勝永(秀正)の菩提寺です。屋代氏は、信濃の屋代城を中心とする地域の豪族でしたが政国の時代に武田氏に仕えました。後に荒砥城に移りましたが武田氏の支配下の豪族でした。その後武田氏滅亡の後勝永は織田信長、上杉景勝を経ましたが、信濃に進出してきた徳川家康に内応、荒砥城を失いました。
慶長19(1614)年、甲斐国巨摩郡に領地を拝領し、寛永9(1632)年まで、子・忠正の2代にわたり、上神取に館を構えました。
勝永寺の山門は北杜市指定文化財となっています。この門は江戸時代中期の関所門だそうです。屋代勝永の墓もこの近くにあるそうですが、見つけることはできませんでした。


獅子吼城は別名を「江草城」といい、城山に築かれた中世の山城です。築城時期は不明ですが、鎌倉時代末の元応2(1320)年5月4日夜この城で信田小右衛門実正・小太郎実高、親子とその家来が討死した記録があります。
そして、応永年間(1394~1428年)武田信満の三男江草兵庫助信泰が居城したといわれています。武田信玄の時代には、烽火通信の中継地として重要な場所であった場所で、現在でも塩川上流の「大渡の烽火台」「比志城」「前の山の烽火台」さらに甲信国境の信州峠。また西方には「中尾城」「若神子城」「大豆生田砦」「能見城」「新府城」などまで遠望できます。
天正10(1582)年壬午3月、武田氏は織田信長の甲州攻めで滅亡を遂げ信長も6月に本能寺の変で明智光秀に殺されました。
甲斐国は小田原の北条氏直と徳川家康との係争の地となり(天正壬午の乱)、家康は韮崎の新府城に陣し、氏直は若神子に本陣を構え、大豆生田砦と獅子吼城にそれぞれ兵を配しました。徳川軍は9月の初旬、津金衆・小尾衆など武田の遺臣たちと服部半蔵ひきいる伊賀組とがこの城に夜襲をかけて落城させこの乱は徳川勢の優勢となり、獅子吼城の戦いは甲州における戦国時代最後の合戦となりました。
城跡は西側の根古屋神社から登るのが大手道と思われますが、車を活用して東側から登ると比高差を稼げ楽に登ることができます。
主郭部付近には平らな石を積み上げた石垣が残っています。
獅子吼城 - 03
獅子吼城 - 03 posted by (C)pismo

獅子吼城 - 06
獅子吼城 - 06 posted by (C)pismo

獅子吼城 - 08
獅子吼城 - 08 posted by (C)pismo

山本勘助屋敷の近くから八ヶ岳
山本勘助屋敷の近くから八ヶ岳 posted by (C)pismo

山本勘助屋敷墓です。山本勘助の子孫が今も住んでおられるという屋敷です。
平成19(2008)年の大河ドラマ風林火山の第4回 「復讐の鬼」の風林火山紀行で山本勘助供養塔として紹介されていましたので訪れてみました。ドラマの放映の時には一般公開されていたそうですが、現在は公開されていないそうで、外から屋敷を見たのみです。


旧津金学校の藤村式校舎(明治校舎)は、明治7(1874)年に着工、翌8(1875)年に落成しました。
甲府市にある睦沢学校(躑躅ヶ崎館跡・武田神社境内に移築)などと共に現存する日本最古の年代の擬洋風建築です。藤村式校舎は、近代化を奨励した藤村紫朗県令(知事)に因んだ名称です。
現在は須玉歴史資料館として活用されています。訪れたのが年末のため、閉館していたので外からの見学のみです。


古宮城は、武田氏に仕えて甲信の国境警備を任じた武士団・津金衆の旗頭・津金氏歴代の居城です。
室町時代の文明年間(1469~1486)に常陸佐竹氏の一族である薩摩守胤義と、その子・美濃守胤秀が武田信昌を慕って甲斐国に移住し、戦功により津金郷に封ぜられ、苗字を佐竹から津金へと改めました。
津金氏は世々人材を輩出し、津金衆の旗頭として多くの功績を残し、信濃国境の警備などにあたりました。
武田氏滅亡後は、徳川家康に属し後に尾張徳川家に仕えました。
旧津金学校の裏側にあり、社が建っていて、土塁などが残っています。


JR鉄道最高地点は、野辺山高原、小海線の清里駅と野辺山駅の間にあります。
JRの路線の中でも標高の一番高い1375mの地点を示す「JR鉄道最高地点」の木製の標柱が建っています。
隣には「鉄道神社」があり、線路を挟んだ反対側には、「日本鉄道最高地点」の碑が立っています。


平賀源心の胴塚は、清里アーリーバードゴルフクラブの東側、平沢峠にある獅子岩の近くにあります。源心の胴がこの場所に埋められていると伝えられています。山梨県北杜市須玉町若神子の路傍にあるのは、首塚で首実検のため首だけ持ち帰り若神子に葬ったそうです。
高さ約1メートル直径約4メートル位の築山に、何万個という石が旅人により供えられています。


平沢峠の獅子岩付近は八ヶ岳の撮影スポットとして知られています。
野辺山高原と八ヶ岳、絶景です。
獅子岩(平沢峠) - 02
獅子岩(平沢峠) - 02 posted by (C)pismo

獅子岩(平沢峠) - 03
獅子岩(平沢峠) - 03 posted by (C)pismo

獅子岩(平沢峠) - 05
獅子岩(平沢峠) - 05 posted by (C)pismo

獅子岩(平沢峠) - 14
獅子岩(平沢峠) - 14 posted by (C)pismo

獅子岩(平沢峠) - 17
獅子岩(平沢峠) - 17 posted by (C)pismo
そして、ようやく昨日攻略に失敗した海ノ口城です。

登城口です。ここから少し車で登りました。
海ノ口城 - 01
海ノ口城 - 01 posted by (C)pismo


今回も少し道に迷いました。今までの経験で主郭部と思われる方角を目指したのですが、やはり正しいルートからは登ることができず、直登しました。
無理矢理登ると一の郭への案内看板が建っていました。
海ノ口城 - 03
海ノ口城 - 03 posted by (C)pismo

城の主郭部の搦手の大堀切に出てほっとしました。

海ノ口城 - 08
海ノ口城 - 08 posted by (C)pismo

海ノ口城 - 09
海ノ口城 - 09 posted by (C)pismo

大堀切は、落ち葉で膝まで埋もれる状態でした。
海ノ口城 - 12
海ノ口城 - 12 posted by (C)pismo

海ノ口城 - 13
海ノ口城 - 13 posted by (C)pismo

そして、主郭部です。海ノ口城は、佐久市平賀の平賀城城主平賀源心(成頼)の出城で別名鳥井城ともいいます。
平賀氏は永正、大永年間の頃から甲斐の武田氏としばしば兵を交え文安、宝徳頃(1444~1451)からこの城に拠っていました。平賀源心は剛胆七十人力といわれた武将だったそうです。
天文5(1537)年、武田信虎は兵7、8千人を率い、この城を攻めました。源心はは兵3千で城を固く守り、雪が降ってきたため信虎は一旦兵を引くことにしました。
この時父信虎とともに海ノ口城攻略に加わっていた武田晴信(信玄)は隊列の殿をつとめていましたが、兵三百人を率いて途中より引き返しこの城を奇襲しました。一方平賀源心は武田氏の帰陣するを知り城の守りを解き兵を家に戻しくつろいでいましたが、晴信の奇襲に逢い虚をつかれあえなく戦死し、海ノ口城は落城したと伝えられています。
平成19(2007)年の大河ドラマ「風林火山」の第8回「奇襲!海ノ口」の風林火山紀行で紹介されていました。
海ノ口城 - 16
海ノ口城 - 16 posted by (C)pismo

昔から行ってみたかった城なので満足しました。帰りは「正規」のルートと思われる方から降りてみました。そうすると、昨日もあと一歩までのところまで来ていたことが判明しました・・・
まあ、信虎、晴信親子それぞれの気持ちで海ノ口城を見学できたので、良しとします。でも疲れました・・・
Posted at 2009/01/10 20:22:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年12月28日 イイね!

小県・佐久・甲州ドライブ(2日目・佐久の諸城その2)

望月城は信濃の名族望月氏の居城です。
望月氏は、古代から信濃に強大な勢力を持っていた滋野氏の一族では鎌倉時代に天神城を築城し、室町時代に望月城を築城し居城としたと言われています。戦国時代は武田氏の支配下に入り、武田信繁の息子望月信頼、信永を養子にしましたが、武田氏滅亡後の天正10(1582)年、徳川家康に味方した依田信蕃により攻略され落城しました。
国道142号から旧中山道を通り、老人ホーム望月悠玄荘まで行くと城跡は近くです。
曲輪や空堀等の遺構がよく残っています。
望月城 - 01
望月城 - 01 posted by (C)pismo

望月城 - 03
望月城 - 03 posted by (C)pismo

望月城 - 06
望月城 - 06 posted by (C)pismo

望月城 - 12
望月城 - 12 posted by (C)pismo

望月城 - 13
望月城 - 13 posted by (C)pismo

芦田城は、鎌倉期に滋野系芦田氏により築城された山城といわれています。文明18(1848)年、坂城の村上氏が小県、佐久地方に侵入するに伴い村上氏の配下である小県の依田氏と高井の米持氏は連合して芦田城主滋野(芦田)重房軍を急襲、ついに落城し平安以来続いた滋野系芦田氏は滅亡しました。
新たに領主となった依田又三郎光徳は姓を芦田に改め城を再建整備し居館を芦田川を挟んで城と相対して構えました。
戦国時代、光徳より5代目の芦田信守の代の天文13(1543)年には春日城(佐久市春日・旧望月町)を拠点としました。信守は武田氏が佐久に進出したため信濃先方衆としてとして子の6代目の芦田(依田)信蕃とともに活躍しました。
信蕃は武田氏滅亡後徳川家康の佐久統一の命を受けほぼその任を果たしましたが、弟信幸と供に岩尾城攻めで戦死しました。信蕃の戦功により7代目の長男は14才にして姓を松平、名を康国と主君より康の字を与えられ6万石の小諸城主となりましたが、天正18(1590)年の秀吉の小田原攻めにおいて上野国の石倉城を攻撃中に死亡しました。
城跡は土塁などが残っています。
芦田城 - 1
芦田城 - 1 posted by (C)pismo

芦田城 - 3
芦田城 - 3 posted by (C)pismo

芦田城 - 7
芦田城 - 7 posted by (C)pismo

芦田城 - 8
芦田城 - 8 posted by (C)pismo

芦田城 - 9
芦田城 - 9 posted by (C)pismo

岩尾城は、千曲川と湯川の合流点に近い丘陵上を利用した中世の平山城跡で、文明10(1478)年に佐久郡大井庄の地頭大井氏の支族大井行俊によって、この岩尾の地に築城されたといわれています。室町時代中頃から戦国時代末期までの約百年余にわたり、大井氏一族の五代に及ぶ居城として使用された城跡です。
岩尾大井氏は天文12(1543)年の武田晴信(信玄)の佐久攻めの際には、岩尾城主大井行頼は相木市兵衛の勧めによりみずがら開城したといわれています。晴信は、この要地を真田幸隆に守らせました。 大井行吉の代にも武田氏に従っていましたが、天正10(1582)年の武田氏滅亡後岩尾城に戻りました。そして、天正11(1583)年徳川家康に味方した依田信蕃に行吉守る岩尾城は攻撃されました。しかし、猛反撃し、佐久をほぼ平定した信蕃を鉄砲で弟信幸と共に討ち取るなど善戦しました。しかし、徳川方の軍監柴田康忠の勧告に従い城を明け渡し、上野保渡田に閉居しました。
城跡は、三島神社になっています。千曲川の断崖絶壁がかつての難攻不落であった城跡を偲ばせます。
岩尾城 - 1
岩尾城 - 1 posted by (C)pismo

岩尾城 - 2
岩尾城 - 2 posted by (C)pismo

岩尾城 - 3
岩尾城 - 3 posted by (C)pismo

岩尾城 - 4
岩尾城 - 4 posted by (C)pismo
龍岡城五稜郭は、信州に1万2千石、三河に4千石の封地を持つ三河奥殿藩の大給松平氏が幕末に築いた城郭です。
三河に本拠を持ち、佐久には陣屋をおいて、領内22か村の統治を続けてきましたが、11代乗謨(のりかた)になり幕末激動の情勢に応じて信州に居館を移すことを計画し、元治元(1864)年3月着工、慶応3(1867)年竣工、地字名をとって龍岡城と称しました。
最後の藩主乗謨は明治以降に大給恒と改名し、佐野常民と共に赤十字社の前身である博愛社を創設したことでも知られています。
龍岡城五稜郭から4年前完成した函館五稜郭と共に我が国城址の中においてただ二つの貴重な洋式城郭です。廃藩後明治5(1872)年、城は取り壊しとなりましたが、幸い堀と石垣、建物の一部大台所を残しています。城跡には市立田口小学校が建っていますが、遺構の保存状態は比較的良好です。
龍岡城五稜郭 - 03
龍岡城五稜郭 - 03 posted by (C)pismo

龍岡城五稜郭 - 06
龍岡城五稜郭 - 06 posted by (C)pismo

龍岡城五稜郭 - 09
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龍岡城五稜郭 - 10
龍岡城五稜郭 - 10 posted by (C)pismo

龍岡城五稜郭 - 13
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龍岡城五稜郭 - 15
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龍岡城五稜郭 - 16
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龍岡城五稜郭 - 21
龍岡城五稜郭 - 21 posted by (C)pismo

佐久市歴史の里五稜郭であいの館は、龍岡城五稜郭に関する資料を展示しています。
龍岡城のパンフレットなども貰うことができます。


海尻城は、前山城主伴野氏の家臣井出長門守の築いたものといわれています。
村上氏の臣薬師寺右近らがこの城を守っていたが、天文9(1540)年1月16日に武田の将板垣信方の知略をもってこの城を陥れ、本城を小山田備中守昌行に守らせました。守将にしたのは一説には昌行の父昌辰ともいわれています。二の丸は日向大和守昌時に、三の丸は長坂左衛国清が守りました。しかし、同年12月海尻の地士(じざむらい)等の一揆が村上氏の意に通じ声援を得てこの城を囲み攻め、村上氏の将額岸寺和泉光氏等が二の丸まで陥れましたが、本城は固く守り降らず既に12月晦日甲州より武田の将軍の到着により村上勢は敗退しました。世に言う海尻城の合戦です。武田信虎はこの勝利によって得た海尻城を前進基地としました。
城跡は、医王院の山門横から5~10分程度登れば主郭に到着です。曲輪の跡や大堀切などがよく残っています。

海尻城 - 01
海尻城 - 01 posted by (C)pismo

海尻城 - 02
海尻城 - 02 posted by (C)pismo

海尻城 - 03
海尻城 - 03 posted by (C)pismo

海尻城 - 13
海尻城 - 13 posted by (C)pismo

海尻城 - 04
海尻城 - 04 posted by (C)pismo

海尻城 - 05
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海尻城 - 08
海尻城 - 08 posted by (C)pismo

海尻城 - 09
海尻城 - 09 posted by (C)pismo

この後、同じ南牧村にある武田晴信(信玄)初陣の地である海ノ口城を訪れましたが・・・
海ノ口城 - 1
海ノ口城 - 1 posted by (C)pismo

海ノ口城- 2
海ノ口城- 2 posted by (C)pismo

登城口はわかったのですが、途中で道に迷ってしまいました。日没が迫っていることもあり、この日の登城はあきらめ、撤退することにしました。
武田信虎は、この難攻不落の城に手間取り、降雪のため撤退することを決めて、殿をつとめた晴信が油断をついて落城させたということですが、この日は信虎の気分で撤退を決めました。そして、翌日晴信の気分で再訪することにします。この日は、山梨県に入り韮崎市の宿に宿泊します。
Posted at 2009/01/10 19:57:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年12月28日 イイね!

小県・佐久・甲州ドライブ(2日目・佐久の諸城その1)

2日目です。
この日は佐久地方の武田氏に関わる城などをメインに巡ります。
前山城は、伴野氏の居城です。鎌倉、室町の両時代を通じて、佐久郡西部に威を振るった伴野氏は伴野庄の地頭として当初は野沢館(伴野城・伴野氏館)に館を構えました。しかし、戦乱の世になった室町時代中期にいたって詰の城として前山城を構築し、後に本拠をこの城に移しました。
戦国時代は村上氏と武田氏との攻防の舞台になりました。伴野氏は武田氏に味方しており、天文12(1543)年、長窪城の大井貞隆、天文15(1546)年の内山城の大井貞清を攻める際も武田氏の拠点としました。
天文17(1548)年、武田晴信(信玄)は上田原の戦いで村上義清に敗れ、伴野貞祥も一時村上氏に下りましたが塩尻峠の戦いで小笠原長時を破った武田晴信により攻略され、伴野氏は再び武田の支配下に下りました。以後武田氏の佐久地方の拠点として重要視されました。
天正10(1582)年、武田氏が滅亡すると佐久地方は北条氏が進出し、伴野氏は北条氏に味方しましたが前山城は徳川方の依田(芦田)信蕃に攻められ、城将伴野信守は討死し、兵火に焼かれて落城しました。

城跡は堀切などがよく残っています。私は東側の県道側にある「前山城跡登り口」から登りましたが、他にも登城口はあるようです。
りんご畑の中を進むと主郭部にたどり着きます。主郭部の西側には大堀切が残っています。
前山城 - 01
前山城 - 01 posted by (C)pismo

前山城 - 05
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前山城 - 07
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前山城 - 08
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前山城 - 09
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前山城 - 11
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前山城 - 12
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前山城 - 15
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前山城 - 17
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伴野城は鎌倉時代以来伴野氏の館跡でした。別名を伴野氏館、野沢城といいます。
室町から戦国時代にかけて伴野氏が館跡を本丸として二の丸、三の丸、出丸等を設け土居を築き、堀をめぐらす等順次規模を拡大し野沢城と称しました。
伴野氏は更に防衛のための前山城を築いて本拠をそこに移しましたが、天正11(1583)年依田(芦田)信蕃のために野沢城も前山城もろとも攻略され、兵火で破壊されました。
しかし、旧館本丸だけはかろうじて旧形をとどめることができました。江戸時代以降は官庫、陣屋、岩村田藩出張所等概ね官公地として存続しました。
城跡は公園として整備され、高い土塁と堀跡を見ることができます
伴野城(伴野氏館、野沢城) - 02
伴野城(伴野氏館、野沢城) - 02 posted by (C)pismo

伴野城(伴野氏館、野沢城) - 04
伴野城(伴野氏館、野沢城) - 04 posted by (C)pismo

伴野城(伴野氏館、野沢城) - 06
伴野城(伴野氏館、野沢城) - 06 posted by (C)pismo

伴野城(伴野氏館、野沢城) - 09
伴野城(伴野氏館、野沢城) - 09 posted by (C)pismo

伴野城(伴野氏館、野沢城) - 10
伴野城(伴野氏館、野沢城) - 10 posted by (C)pismo

平賀城は、佐久郡南部に勢力をふるった平賀氏が代々要害とした山城です。
平賀氏は文明3(1446)年頃に滅亡し、その後は大井氏の一族など在地の豪族が平賀氏を名乗り平賀城主となったようです。あの武田信玄が初陣で討ち取った平賀源心は平賀城主だったようです。
その後は武田氏の支配下にあったと思われますが、詳細はよくわかっていません。
城跡は堀切や石垣などがよく残っていて、見応えがあります。
平賀城 - 07
平賀城 - 07 posted by (C)pismo

平賀城 - 09
平賀城 - 09 posted by (C)pismo

平賀城 - 12
平賀城 - 12 posted by (C)pismo

平賀城 - 15
平賀城 - 15 posted by (C)pismo

平賀城 - 16
平賀城 - 16 posted by (C)pismo

平賀城 - 18
平賀城 - 18 posted by (C)pismo

内山城は永正年間(1504~1521)に大井美作入道玄岑が築城したといわれています。 その後、天文15(1546)年に武田晴信(信玄)は大井貞隆の子・貞清が守る内山城を攻め落とし上原伊賀守昌辰(小山田備中守昌辰)を配しました。
天文17(1548)年、上田原の戦いに勝利し佐久に進入した村上義清のが攻めましたが、晴信が
出陣しこれを退けました。
天正10年(1582)に武田氏が滅亡し、佐久の諸城が次々と徳川の手に帰していく中で、内山城も同11(1583)年に家康の麾下依田(芦田)信蕃らの手によって攻略されました。
城跡は園城寺から右手に進み登っていきます。石積みが崩れ、断崖の上に主郭部があります。比高80mにおよぶ断崖上にある城の縄張りは比較的良く保存されています。
園城寺 - 1
園城寺 - 1 posted by (C)pismo

内山城 - 04
内山城 - 04 posted by (C)pismo

内山城 - 06
内山城 - 06 posted by (C)pismo

内山城 - 07
内山城 - 07 posted by (C)pismo

内山城 - 09
内山城 - 09 posted by (C)pismo

内山城 - 10
内山城 - 10 posted by (C)pismo

志賀城の築城時期は不明です。戦国時代は笠原新三郎清繁が城主でした。
笠原清繁は武田晴信(信玄)に対して徹底抗戦の姿勢を崩さず、ついに天文16(1547)年夏には武田軍に包囲されました。
笠原清繁は関東管領平井城主上杉憲政に援軍を要請し、その部下である金井秀景が率いる三千人が碓氷峠を越えて援軍として来ますが、武田勢は志賀城を抑えたまま板垣信方、甘利虎泰などが小田井原に上杉軍と合戦におよび、これを撃破しました。
晴信は小田井原で討ち取った三千人の首を志賀城の周りにかけて威嚇しましたが、それでも志賀城は降伏せずに最後まで戦い、生き残った女・子供も甲府に運ばれて売られたといわれています。
城跡は、雲興寺右手から回り込み、墓地から登城します。
志賀城 - 15
志賀城 - 15 posted by (C)pismo

雲興寺
雲興寺 posted by (C)pismo

墓地の左手の道を真っ直ぐ進みますが、私は右手に進んでしまい。道に迷いました。途中で大きな岩の断崖絶壁に出くわして途方に暮れましたが、左手に一旦回り込み、尾根筋に出てから東側へ向かうのが正解のようです。私はクライミングしてしまいましたが・・・
志賀城 - 02
志賀城 - 02 posted by (C)pismo
武田軍の残酷な話が伝わっているからか、城跡には登城ルートや説明看板などは一切ありません。志賀城は今も昔も難攻不落です。
平成19(2007)年の大河ドラマ「風林火山」の第26回「苦い勝利」で志賀城跡として紹介されました。
志賀城 - 05
志賀城 - 05 posted by (C)pismo

志賀城 - 07
志賀城 - 07 posted by (C)pismo

志賀城 - 08
志賀城 - 08 posted by (C)pismo

志賀城 - 09
志賀城 - 09 posted by (C)pismo

志賀城 - 10
志賀城 - 10 posted by (C)pismo

笠原新三郎首塚です。志賀城の山麓にある雲興寺から長野県道44号下仁田浅科線を東側に進むと、武田軍との攻防に敗れた志賀城主・笠原新三郎清繁の首塚があります。
志賀城跡を望む水田の中にあり、県道沿いに案内看板があります。


大井城は鎌倉・室町時代(13~15世紀)を通じて佐久郡の東部を中心に繁栄した大井氏宗家が城館としていました。大井城は堀切によって三区分され北から石並城(いせならびじょう)、王城、黒岩城とに別れており総称して大井城または岩村田館、岩村田城と呼ばれています。
ちなみに幕末に築かれた岩村田城は別の場所にあります。
文明16(1484)年、大井城は村上氏の攻撃により岩村田市街とともに焼亡し、大井氏宗家は滅亡しました。その後、 大井城は支族によって再興されましたが、天文年間以後は武田氏の支配下に、 そして武田氏滅亡後は徳川家康の武将依田信蕃の支配下に置かれたが廃城となりました。
城跡は、王城が王城公園になっています。「王城のケヤキ」が城跡のシンボルです。
大井城 - 1
大井城 - 1 posted by (C)pismo

大井城 - 2
大井城 - 2 posted by (C)pismo

大井城 - 3
大井城 - 3 posted by (C)pismo

岩村田城は江戸時代末期岩村田藩1万6千石の内藤氏が築城を開始したが、明治維新をむかえて 未完に終わった城です。
元禄16(1703)年に岩村田に入封した内藤氏は陣屋を現在の本町と荒宿の中間に置いたが、 手狭になってきたため、藩士は早い時期から居住地を上ノ城に求めた。安政5(1858)年に 城主格に昇格した藩主内藤正誠は元治元(1864)年、上ノ城に新城の建築を開始しました。
しかしまもなく明治維新となり、岩村田城は取り壊されました。
城跡は現在、岩村田小学校と岩村田公園、藤城神社などになっています。藤城神社境内にに石碑が建っています。
岩村田城 - 1
岩村田城 - 1 posted by (C)pismo

岩村田城 - 5
岩村田城 - 5 posted by (C)pismo

小田井宿は天正年間(1573~92)に誕生し、慶長(1596~1615)以降に宿駅としての機能が整えられました。本陣や問屋、旅籠などが残り、当時の面影を偲ばせています。
文久元(1861)年の皇女和宮のご昼食休みに代表されるように、多くの姫君の休泊に利用され、「姫の宿」とも称されました。和宮より拝領の人形が残され、それにちなんで8月16日には小田井宿祭りが行われます。
現在も古い街並みが残ります。
また、戦国時代の天文16(1547)年武田晴信と関東管領上杉憲政の軍で戦われた小田井原の戦いが行われたのもこのあたりです。志賀城主笠原清繁が武田氏に包囲されたため、上杉憲政は倉賀野党16騎を先陣に金井秀景を大将とする西上野衆を派遣しましたが、志賀城を包囲中の晴信は重臣の板垣信方、甘利虎泰に別動隊を編成させて迎撃に向かわせ勝利しました。その後、晴信は志賀城に対し小田井原の戦いで得た上杉軍の首級を並べて晒し威嚇しました。士気が低下した志賀城に武田軍は総攻撃をかけ、城は落城しました。
平成19(2007)年の大河ドラマ「風林火山」の第26回「苦い勝利」で小田井宿跡として紹介されました。
小田井宿 - 01
小田井宿 - 01 posted by (C)pismo

小田井宿 - 04
小田井宿 - 04 posted by (C)pismo

小田井宿 - 06
小田井宿 - 06 posted by (C)pismo

小田井宿 - 08
小田井宿 - 08 posted by (C)pismo
Posted at 2009/01/04 19:20:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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