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ピズモのブログ一覧

2009年02月28日 イイね!

坂越・赤穂・上郡・相生ドライブ(その3・上郡、相生)

赤穂を訪れた跡は上郡町にある白旗城を訪れました。
白旗城は、標高440mの白旗山上に築かれた南北朝から戦国時代にあった山城です。
建武3(1336)年に足利尊氏に与した赤松円心によって築かれ、新田義貞率いる軍勢による50余日の城攻めに耐えた堅固な城です。
以後、嘉吉元(1441)年に嘉吉の乱で赤松氏が一旦滅びるまで、播磨・備前・美作の守護大名赤松氏の本城でした。
現在残る縄張りは戦国時代に築かれたもので、本丸・二の丸・三の丸・櫛橋丸・馬場丸・侍屋敷・桜門と伝えられる曲輪跡や堀切・土塁・石積などの防御施設がのこっています。
城跡へは、細野口・野桑の両方から山陽自然歩道を通って登ることができます。白旗城跡は、感状山城跡(相生市矢野町)・置塩城跡(飾磨郡夢前町)とともに国指定史跡になっています。
白旗城 - 01
白旗城 - 01 posted by (C)pismo

白旗城 - 02
白旗城 - 02 posted by (C)pismo

白旗城 - 03
白旗城 - 03 posted by (C)pismo

白旗城 - 04
白旗城 - 04 posted by (C)pismo

白旗城 - 05
白旗城 - 05 posted by (C)pismo

白旗城 - 06
白旗城 - 06 posted by (C)pismo

白旗城 - 07
白旗城 - 07 posted by (C)pismo

もう暗くなってきました、感状山城も行ってみたかったのですが断念し、比較的近い相生市の若狭野陣屋を訪れました。
若狭野陣屋は、寛文11(1671)年、赤穂藩主浅野長直の孫、浅野長恒が分家し、陣屋を構えたことに始まります。所領は若狭野十二ヶ村三千石で、直参旗本です。
陣屋は三千石の旗本宅としては豪壮で、1600㎡の敷地内に本宅(六室)内庭のほか、門・倉庫・馬屋・武器庫などがありました。
現在、札座(藩札をつくったところ)の建物であった法界庵が残っています。
そして、相生市の那波野西法寺には移築された陣屋門が残っています。
若狭野陣屋
若狭野陣屋 posted by (C)pismo

ここでこの日のドライブは終了です。
Posted at 2009/03/22 18:50:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年02月28日 イイね!

坂越・赤穂・上郡・相生ドライブ(その2・赤穂)

花岳寺は、山号は台雲山、曹洞宗の寺院です。
江戸時代の正保2(1645)年、常陸笠間から赤穂に移封された浅野長直が菩提寺として創建しました。元禄14(1701)年、浅野長矩の吉良義央への刃傷事件で改易され、翌年の元禄15(1702)年に吉良邸への討ち入りが起きました。
その後、赤穂には永井氏、森氏が入り花岳寺を菩提寺としました。
現在は義士の寺として知られています。なお、山門は、赤穂城の塩屋総門を移築したものです。浅野家、森家及び四十七士の墓碑や義士木像堂、宝物館があります。(有料)
花岳寺 - 01
花岳寺 - 01 posted by (C)pismo

花岳寺 - 02
花岳寺 - 02 posted by (C)pismo

花岳寺 - 03
花岳寺 - 03 posted by (C)pismo

息継ぎ井戸は花岳寺近くにある赤穂浪士ゆかりの史跡です。
元禄14(1701)年3月14日に江戸城松の廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけるという刃傷事件が起こりました。
早水藤左衛門と萱野三平がその大事件を知らせる為、江戸から早かごに乗り、4日半かかって19日の早朝赤穂城下に到着しています。その時、この息継ぎ井戸で二人の使者が水を飲み、一息ついて赤穂城へ向かったと伝えられています。
息継ぎ井戸
息継ぎ井戸 posted by (C)pismo

大石邸長屋門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が57年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋です。
屋根瓦には双ツ巴の大石家の家紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっています。
内蔵助と主税の親子が朝夕出入りし、又元禄14(1701)年3月主君の刀傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門です。
安政3(1856)年に大修理が行われ、大正12(1923)年、国の史跡に指定されました。
更に昭和37(1962)年に屋根の修理を、昭和52(1977)~53(1978)年に解体修理が行われ、現在に至っています。
大石邸長屋門
大石邸長屋門 posted by (C)pismo

近藤源八宅跡長屋門は、大石邸長屋門の向かい側にあります。近藤源八正憲は赤穂藩士で甲州流軍学を修め、千石番頭の重職でした。源八の妻は、大石内蔵助良雄の叔母にあたり、大石家とは親戚関係にありましたが、最初から義盟には加わりませんでした。
源八の父である三郎左衛門正純も、甲州流軍学者であり、赤穂城築城の縄張り設計を行いました。 近藤源八宅跡長屋門は、「源八長屋」の愛称で親しまれていますが、現存している建物は長屋門の長屋部分のみです。
赤穂城内に残された江戸期の建物は、大石邸長屋門とこの近藤源八宅跡長屋門のみで、礎石や、柱材、梁材、天井、瓦、壁等の一部を保存し、 平成11(1999)年3月に解体復元整備が完了しました。
近藤源八宅跡長屋門 - 1
近藤源八宅跡長屋門 - 1 posted by (C)pismo

近藤源八宅跡長屋門 - 2
近藤源八宅跡長屋門 - 2 posted by (C)pismo

大石神社は旧赤穂城内の大石邸内にある神社です。
明治33(1900)年に政府から許可され、大正元(1912)年に社殿が竣工しました。
大石内蔵助良雄ら四十七士と、萱野三平を主祭神とし、浅野三代(長直、長友、長矩)、森家の祖先七武将が合祀されています。義士の遺品などを陳列する義士宝物殿、浅野長矩・四十七士らの木像を展示する木像館があります。
大石神社 - 1
大石神社 - 1 posted by (C)pismo

大石神社 - 2
大石神社 - 2 posted by (C)pismo

赤穂城は、文正元(1466)年~文明15(1483)年頃に、岡豊前守光広が加里屋城を築いたのが始まりです。
天正14(1586)年には、生駒親正が6万石で配置され、翌年には親正が讃岐に移され、宇喜多秀家が赤穂を領しました。
関ヶ原の戦いの後、池田輝政が播磨を与えられ、輝政の弟・長政が赤穂領主となり、大鷹城を築城しました。以後輝政の子忠継、政綱、輝興が赤穂を領しましたが、正保2(1645)年に池田輝興が改易となると、浅野長政の三男、浅野長重の子浅野長直が常陸笠間より5万3千5百石で赤穂に移封されました。
浅野長直は10数年を費やして現在の赤穂城を築城、寛文元(1661)年に完成しました。
元禄14(1701)年、3代藩主長矩が江戸城内において刃傷事件を起こし浅野家は改易されました。元禄15(1702)年、下野国烏山藩から永井直敬が3万3千石で赤穂に入封しましたが、宝永3(1706)年、備中国西江原藩より森長直が2万石で入封し、以後明治維新まで赤穂を領しました。
昭和30(1955)年に、大手隅櫓、大手高麗門及び土塀が、平成8(1996)年に本丸門枡形、櫓門、高麗門、土塀が再建されました。
赤穂城には、五層天守が建てられる予定だったそうです。
赤穂城 - 01
赤穂城 - 01 posted by (C)pismo

赤穂城 - 02
赤穂城 - 02 posted by (C)pismo

赤穂城 - 03
赤穂城 - 03 posted by (C)pismo

赤穂城 - 04
赤穂城 - 04 posted by (C)pismo

赤穂城 - 05
赤穂城 - 05 posted by (C)pismo

赤穂城 - 06
赤穂城 - 06 posted by (C)pismo

赤穂城 - 07
赤穂城 - 07 posted by (C)pismo

赤穂城 - 08
赤穂城 - 08 posted by (C)pismo


赤穂城 - 09
赤穂城 - 09 posted by (C)pismo

赤穂城 - 10
赤穂城 - 10 posted by (C)pismo

赤穂市立歴史博物館は、平成元(1989)年に建設された赤穂の歴史資料の収集展示を行っている歴史博物館です。
「塩と義士の館」という愛称を持ち、製塩道具や赤穂城、赤穂義士、旧赤穂上水道をテーマにした常設展示がされています。
赤穂市立歴史博物館 - 1
赤穂市立歴史博物館 - 1 posted by (C)pismo

赤穂市立歴史博物館 - 2
赤穂市立歴史博物館 - 2 posted by (C)pismo

Posted at 2009/03/22 17:55:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年02月28日 イイね!

坂越・赤穂・上郡・相生ドライブ(その1・坂越)

この日は赤穂市を訪れました。
忠臣蔵でおなじみですが、城下町がある赤穂市街地から東の港町に「坂越」という古い街並みが残っているところがあります。最初に坂越を散歩してみました。

小倉御前の墓は南北朝時代の後亀山天皇の皇子小倉宮の墓とつたえられている五輪石塔です。坂越の海岸の表通りの道路から奥まったところにひっそりと建っています。皇子は、京都嵯峨の小倉山に住んだことから小倉宮といわれていましたが、将軍家との争いのために坂越へ逃れて隠れ住みました。しかし、争いに負けたことを知った小倉宮は坂越浦にに身を投げて亡くなったと伝えられています。その場所を御前岩と言い、船祭りの日にお供えをして供養をしているそうです。
小倉御前の墓 - 1
小倉御前の墓 - 1 posted by (C)pismo

大避神社は、644年に蘇我入鹿の迫害を避け、坂越にたどり着き千種川流域を開拓した秦河勝を祀る神社です。聖徳太子に仕え、広隆寺を建立したことで知られています。
現在の本殿、拝殿などは江戸時代の再建です。坂越の船祭りはこの神社の祭礼で、瀬戸内海三大祭りの一つです。平成4(1992)年、国の無形民俗文化財に指定されています。
大避神社 - 01
大避神社 - 01 posted by (C)pismo

大避神社 - 02
大避神社 - 02 posted by (C)pismo

大避神社 - 03
大避神社 - 03 posted by (C)pismo

坂越浦城は坂越浦砦、坂越城とも呼ばれる城で室町時代に播磨を支配した山名氏により築かれたと言われています。
その後、龍野城主赤松村秀の城となり、坂越を支配しました。
江戸時代には赤穂藩の御番所が置かれ、坂越浦に出入りする船の監視を行いました。
現在は公園となっています。船の監視を行った御番所が置かれただけあり坂越浦が見渡せます。
坂越浦城
坂越浦城 posted by (C)pismo

坂越浦城の近くに児島高徳の墓があります。児島高徳は南北朝時代の武将です。
後醍醐天皇が鎌倉幕府により隠岐島に流された際、院庄の行在所に忍び込みで「天莫空勾踐時無笵蠡」の十字の詩を書き残して天皇を慰めました。
建武の新政の後、備前熊山城の野戦で高徳は落馬し、重傷を負いました。回復の後、四国、淡路方面の豪族を味方につけ、上洛軍を導く作戦に出陣しましたが、正平20(1365)年5月13日、坂越浦で54歳の生涯を閉じました。
明治天皇により従三位の位階を追贈され、大正3(1914)年5月13日、坂越浦の旧家奥藤謹治氏を会長とする児島贈従三位旧跡保存会により船岡園を設置し、墓前祭を執り行っています。
児島高徳の墓
児島高徳の墓 posted by (C)pismo

妙見寺は、山号は宝珠山で通称は妙見寺観音堂といわれています。
天平勝宝(749~757)頃に行基によって創建され、大同年中(806~810)の空海の再興を経て、盛時には16坊5庵を抱えた大山岳寺院であったといわれています。
観音堂は、万治2(1659)年に、妙見寺の奥の院として宝珠山上に建立されましたが、後に大破したため享保7(1722)年に現在地に再建されたものです。
妙見寺 - 01
妙見寺 - 01 posted by (C)pismo

妙見寺 - 02
妙見寺 - 02 posted by (C)pismo

妙見寺 - 03
妙見寺 - 03 posted by (C)pismo

妙見寺 - 04
妙見寺 - 04 posted by (C)pismo

茶臼山城は山名氏により築かれた坂越浦城の詰城です。
宝珠山山頂にあります。遺構は判然としませんでした。頂上にはNHKのテレビの中継塔があるのみです。
眺めが良く、坂越浦が一望できます。
茶臼山城 - 1
茶臼山城 - 1 posted by (C)pismo

茶臼山城 - 2
茶臼山城 - 2 posted by (C)pismo

宝珠山頂すぐの所に、「和田備後守範長公一族五霊位の墓所」があります。
南北朝時代、備前熊山城主児島高徳公の義父、和田範長は、後醍醐天皇に味方して各地に転戦し、脇屋義助の本隊に合流しようと坂越浦へたどりつきました。
和田範長は、熊山城の夜戦で重傷の高徳公を妙見寺の僧に託し、83騎の手勢を率い那波浦を駆け抜け、赤松円心の追手勢と10数回の合戦の末、力つき、延元元(1336)年4月22日、阿弥陀が宿の辻堂で一族 5名自害討死しました。敵将宇野重氏は大日寺で懇ろに葬礼を指示し、遺骨を郷里に送り届けました。
昭和55(1980)年4月18日、此の地で5基の五輪塔を発掘、地輪石を現状の儘保存、当時の住僧が遺骨を埋葬した事を考証しました。墓所内の五輪塔は左側から、和田備後守範長公、今木太郎範季公、今木次郎範仲公、中西四郎範顕公、松崎彦四郎範代公のお墓です。
現在の五輪塔は、平成7(1995)年6月22日、岡山の施主家のご芳志に奉納されたものです。
和田備後守範長公一族五霊位の墓所 -  1
和田備後守範長公一族五霊位の墓所 - 1 posted by (C)pismo

和田備後守範長公一族五霊位の墓所 -  2
和田備後守範長公一族五霊位の墓所 - 2 posted by (C)pismo

旧坂越浦会所は、坂行政や商業などの事務をとるための村会所として天保2~3(1831~1832)年に建築された建物です。
会所であると同時に、赤穂藩の茶屋としての役割をもっており、2階に藩主専用の部屋「観海楼」が設けられているのが特徴です。
現在は無料の休憩処として活用されています。

旧坂越浦会所 -  1
旧坂越浦会所 - 1 posted by (C)pismo
旧坂越浦会所 -  2
旧坂越浦会所 - 2 posted by (C)pismo

旧坂越浦会所 -  3
旧坂越浦会所 - 3 posted by (C)pismo

坂越大道に入ると、古い街並みが見事に残っています。

坂越 -  1
坂越 - 1 posted by (C)pismo

坂越 -  2
坂越 - 2 posted by (C)pismo

坂越 -  3
坂越 - 3 posted by (C)pismo

坂越 -  4
坂越 - 4 posted by (C)pismo

坂越 -  5
坂越 - 5 posted by (C)pismo

妙道寺は山号は光明山、坂越大道沿いに建つ浄土真宗本願寺派の寺院です。
創建は天文元(1532)年で本尊である木造阿弥陀如来像は寛永9(1632)年2月18日に高砂沖で魚網にかかり引き上げられたもので、奥藤又次郎が本堂に安置したとされ、本尊には貝殻が付着した痕跡が残っているそうです。
坂越で初めての寺子屋はここで開かれました。

妙道寺
妙道寺 posted by (C)pismo

坂越まち並み館は、大正時代に奥藤銀行坂越支店として建設された建物です。
平成6(1994)年10月から12月にかけて補修整備工事を行い、坂越まち並み館として竣工しました。
館内1階では坂越の名所・旧跡、特産品に関する資料が展示されています。

坂越まち並み館
坂越まち並み館 posted by (C)pismo

奥藤酒造は、坂越に400年以上も続く酒造会社です。銘酒「忠臣蔵」で知られています。
奥藤酒造は会社の一角に設けられている資料館です。
酒造りに関する資料や、船、生活用具に関する資料が蔵に展示してあります。
奥藤酒造郷土館 -  1
奥藤酒造郷土館 - 1 posted by (C)pismo

奥藤酒造郷土館 -  2
奥藤酒造郷土館 - 2 posted by (C)pismo

奥藤酒造郷土館 -  3
奥藤酒造郷土館 - 3 posted by (C)pismo

大道井は、生島の舟井、海雲寺の寺井と共に坂越の三井といわれた古い井戸でした。
千石船や浦人たちの生活用水として大切にされてきました。
大坂夏の陣で手柄を立てた姫路藩の稲垣平馬が脱藩して坂越から紀州へ逃れようとし、赤穂藩の澤野市郎右衛門とこの井戸のところで一騎打ちとなり、澤野が平馬を討ち取っています。
昭和31(1956)年12月に道路拡幅のため地上の姿を消しました。石の井桁が一個保存され、釣瓶の縄の食い込みが往時を偲ばせるのみです。
大道井
大道井 posted by (C)pismo
Posted at 2009/03/15 15:54:04 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年02月25日 イイね!

ナビ・MAX850HDの地図をClarion ROAD EXPLORER HDD6.0に更新

ナビ・MAX850HDの地図をClarion ROAD EXPLORER HDD6.0に更新ナビを導入して速くも3年、新しい道路がどんどんできて、ナビの地図が最近道路のないところを走るような場所が増えて、地図を更新してみたくなりました。今の地図は新名神や、北近畿豊岡道などよく使うような道路が対応しておらず、神戸空港は海の上。
快適さに欠けます。今回3年目の車検であまり車を使用しない状態なので、よい機会だと思い、地図を更新することにしました。しかし値段は高いし、HDDはメーカーに送らなくてはならないというのはかなり不便です。
せめて工賃を浮かそうと、DIYで行うことにしました。通販でバージョンアップキットを購入し、メーカーに送って取り付けました。
詳しい情報はこちらで。

パーツレビュー
Clarion ROAD EXPLORER HDD6.0 MAXシリーズ用(QHP-500-540)

整備手帳
ナビの地図更新のためのHDD取り外し

MAX850HDの地図をClarion ROAD EXPLORER HDD6.0に更新

なお、DIYでやるのはメーカーは推奨しておらず、販売店でやるのが原則です。自己責任でお願いします。
Posted at 2009/02/25 23:01:00 | コメント(3) | トラックバック(0) | | 日記
2009年02月13日 イイね!

パイオニア薄型テレビ撤退! KUROは・・・

パイオニア薄型テレビ撤退! KUROは・・・Pioneer KURO PDP-508HXを昨年夏に買った私としては残念なニュースです。
もっとも、現行モデルを最後にパネルは自社製作から撤退し、次期モデルからはパネルはパナソニックから供給することになっていたのですが・・・

KUROは買って本当に良かったと思えるテレビです。その名の通り「黒」を中心とした表現力は素晴らしく、夜景や美術番組、映画などを見るとその良さが実感できます。しかし、価格が高く他社に比べて競争力が落ち、「画質にこだわるマニア向け」という位置づけになってしまっていました。
会社自身もこの大不況で株価が1年で10分の1になってしまったので、残念ながらこういう決断をせざるを得なかったのでしょう。技術力があり、良いモノを作っても商売としてはそれだけでは成り立たないというのはパイオニアに限らず、車の世界でもよくあることだと思います。
友人たちにもこのテレビは勧めていますが「良さはわかるのだけども、価格が・・・」という反応が大半です。もっとも先日1人KUROを買った知人がいて、撤退のニュースを聞いてもテレビの性能に満足されているので今の内に手に入れられて良かったという感想を聞きました。

フジテレビの朝の情報番組、特ダネの小倉智昭氏と笠井アナもKUROユーザーらしくて、この撤退のニュースに涙ぐまんばかりにKUROの良さについて熱弁をふるっていました。
小倉氏は「今の間にKUROをもう1台買う」そうです。(リンク参照)

428HXは在庫限りですがKakaku.comでは20万円を切っています。フルHDではありませんが、画質の良さを考えればバーゲン価格だと思います。

これからはナビなど車載製品に注力するそうです。せめて音響機器だけは撤退して欲しくないと思います。
Posted at 2009/02/17 23:24:56 | コメント(3) | トラックバック(0) | オーディオ&ビジュアル | 日記

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「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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