この日は赤穂市を訪れました。
忠臣蔵でおなじみですが、城下町がある赤穂市街地から東の港町に「坂越」という古い街並みが残っているところがあります。最初に坂越を散歩してみました。
小倉御前の墓は南北朝時代の後亀山天皇の皇子小倉宮の墓とつたえられている五輪石塔です。坂越の海岸の表通りの道路から奥まったところにひっそりと建っています。皇子は、京都嵯峨の小倉山に住んだことから小倉宮といわれていましたが、将軍家との争いのために坂越へ逃れて隠れ住みました。しかし、争いに負けたことを知った小倉宮は坂越浦にに身を投げて亡くなったと伝えられています。その場所を御前岩と言い、船祭りの日にお供えをして供養をしているそうです。
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大避神社は、644年に蘇我入鹿の迫害を避け、坂越にたどり着き千種川流域を開拓した秦河勝を祀る神社です。聖徳太子に仕え、広隆寺を建立したことで知られています。
現在の本殿、拝殿などは江戸時代の再建です。坂越の船祭りはこの神社の祭礼で、瀬戸内海三大祭りの一つです。平成4(1992)年、国の無形民俗文化財に指定されています。
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坂越浦城は坂越浦砦、坂越城とも呼ばれる城で室町時代に播磨を支配した山名氏により築かれたと言われています。
その後、龍野城主赤松村秀の城となり、坂越を支配しました。
江戸時代には赤穂藩の御番所が置かれ、坂越浦に出入りする船の監視を行いました。
現在は公園となっています。船の監視を行った御番所が置かれただけあり坂越浦が見渡せます。
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坂越浦城の近くに
児島高徳の墓があります。児島高徳は南北朝時代の武将です。
後醍醐天皇が鎌倉幕府により隠岐島に流された際、院庄の行在所に忍び込みで「天莫空勾踐時無笵蠡」の十字の詩を書き残して天皇を慰めました。
建武の新政の後、備前熊山城の野戦で高徳は落馬し、重傷を負いました。回復の後、四国、淡路方面の豪族を味方につけ、上洛軍を導く作戦に出陣しましたが、正平20(1365)年5月13日、坂越浦で54歳の生涯を閉じました。
明治天皇により従三位の位階を追贈され、大正3(1914)年5月13日、坂越浦の旧家奥藤謹治氏を会長とする児島贈従三位旧跡保存会により船岡園を設置し、墓前祭を執り行っています。
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妙見寺は、山号は宝珠山で通称は妙見寺観音堂といわれています。
天平勝宝(749~757)頃に行基によって創建され、大同年中(806~810)の空海の再興を経て、盛時には16坊5庵を抱えた大山岳寺院であったといわれています。
観音堂は、万治2(1659)年に、妙見寺の奥の院として宝珠山上に建立されましたが、後に大破したため享保7(1722)年に現在地に再建されたものです。
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茶臼山城は山名氏により築かれた坂越浦城の詰城です。
宝珠山山頂にあります。遺構は判然としませんでした。頂上にはNHKのテレビの中継塔があるのみです。
眺めが良く、坂越浦が一望できます。
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宝珠山頂すぐの所に、
「和田備後守範長公一族五霊位の墓所」があります。
南北朝時代、備前熊山城主児島高徳公の義父、和田範長は、後醍醐天皇に味方して各地に転戦し、脇屋義助の本隊に合流しようと坂越浦へたどりつきました。
和田範長は、熊山城の夜戦で重傷の高徳公を妙見寺の僧に託し、83騎の手勢を率い那波浦を駆け抜け、赤松円心の追手勢と10数回の合戦の末、力つき、延元元(1336)年4月22日、阿弥陀が宿の辻堂で一族 5名自害討死しました。敵将宇野重氏は大日寺で懇ろに葬礼を指示し、遺骨を郷里に送り届けました。
昭和55(1980)年4月18日、此の地で5基の五輪塔を発掘、地輪石を現状の儘保存、当時の住僧が遺骨を埋葬した事を考証しました。墓所内の五輪塔は左側から、和田備後守範長公、今木太郎範季公、今木次郎範仲公、中西四郎範顕公、松崎彦四郎範代公のお墓です。
現在の五輪塔は、平成7(1995)年6月22日、岡山の施主家のご芳志に奉納されたものです。
和田備後守範長公一族五霊位の墓所 - 1 posted by
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和田備後守範長公一族五霊位の墓所 - 2 posted by
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旧坂越浦会所は、坂行政や商業などの事務をとるための村会所として天保2~3(1831~1832)年に建築された建物です。
会所であると同時に、赤穂藩の茶屋としての役割をもっており、2階に藩主専用の部屋「観海楼」が設けられているのが特徴です。
現在は無料の休憩処として活用されています。
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坂越大道に入ると、古い街並みが見事に残っています。
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妙道寺は山号は光明山、坂越大道沿いに建つ浄土真宗本願寺派の寺院です。
創建は天文元(1532)年で本尊である木造阿弥陀如来像は寛永9(1632)年2月18日に高砂沖で魚網にかかり引き上げられたもので、奥藤又次郎が本堂に安置したとされ、本尊には貝殻が付着した痕跡が残っているそうです。
坂越で初めての寺子屋はここで開かれました。
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坂越まち並み館は、大正時代に奥藤銀行坂越支店として建設された建物です。
平成6(1994)年10月から12月にかけて補修整備工事を行い、坂越まち並み館として竣工しました。
館内1階では坂越の名所・旧跡、特産品に関する資料が展示されています。
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奥藤酒造は、坂越に400年以上も続く酒造会社です。銘酒「忠臣蔵」で知られています。
奥藤酒造は会社の一角に設けられている資料館です。
酒造りに関する資料や、船、生活用具に関する資料が蔵に展示してあります。
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大道井は、生島の舟井、海雲寺の寺井と共に坂越の三井といわれた古い井戸でした。
千石船や浦人たちの生活用水として大切にされてきました。
大坂夏の陣で手柄を立てた姫路藩の稲垣平馬が脱藩して坂越から紀州へ逃れようとし、赤穂藩の澤野市郎右衛門とこの井戸のところで一騎打ちとなり、澤野が平馬を討ち取っています。
昭和31(1956)年12月に道路拡幅のため地上の姿を消しました。石の井桁が一個保存され、釣瓶の縄の食い込みが往時を偲ばせるのみです。
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Posted at 2009/03/15 15:54:04 | |
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