醍醐桜など桜を満喫した後は、大佐町、現在は合併して新見市になっていますが、幕末の老中板倉勝静に仕えた有名な儒学者山田方谷ゆかりの史跡を訪れてみました。
山田方谷に関心を持ったのは越後長岡藩家老河井継之助を描いた司馬遼太郎の小説「峠」で山田方谷についてかなり詳しく取り上げていたので興味を持ちました。
方谷庵は幕末の政治家、学者教育者で備中聖人と呼ばれた山田方谷(1805~1877)が明治5(1872)年に外祖父母の霊を弔うため、母の生家西谷家の菩提寺である金剛寺境内に建立したものです。
外祖父母の位牌を祀る仏間(三畳)と炉のある床の間(三畳)を中心とした平屋建、切妻造、桟瓦葺(もと柿葺)の簡素な茶室風の建物で正しくは継志祠堂と呼ばれています。
山田方谷は、文化2(1805)年に阿賀群西方村(現高梁市)に生まれ新見の儒者丸川松隠に学んだのち、備中松山藩に召出され、藩校有終館の会頭・学頭として子弟の教育に当たりました。
嘉永2 (1849)年藩主板倉勝静の信任を得て藩政改革を進め藩財政の立直しに貢献し、また勝静が幕府老中首座のときそれを援けて活躍しました。
明治維新後は小阪部に隠棲し、小阪部塾を開いて子弟の教育に当たるとともに、しばしば当庵を訪れ、祖先の霊を弔って晩年を過しました。
方谷庵 posted by
(C)pismo
山田方谷記念館は、幕末の儒学者の山田方谷の母の出身地で、方谷自身が晩年を過ごした大佐小阪部の地に偉業を伝える資料館として平成16(2004)年にオープンしました。方谷山田先生遺蹟碑拓本複製や、大政奉還上奏文の草案、書などの展示やビデオコーナーなどがあります。
山田方谷記念館 - 1 posted by
(C)pismo
山田方谷記念館 - 2 posted by
(C)pismo
方谷園は、幕末備中松山藩に仕えた儒学者山田方谷が、明治3(1870)年、水谷氏の小阪部陣屋に私塾を開いた場所です。
園内にある「方谷山田先生遺蹟碑」は勝安房(勝海舟)による題字、三島中洲の撰文、筆は金井之恭によるもので、石碑は明治29(1896)年12月、小阪部塾で方谷が息を引き取った時、枕のあった地点に建てられたもので、大正12(1923)年、方谷園として開園式が行われました。
方谷園(小阪部陣屋) - 1 posted by
(C)pismo
方谷園(小阪部陣屋) - 2 posted by
(C)pismo
小阪部知行所〔小阪部陣屋〕は、寛文4(1664)年7月、水谷新右衛門勝能は、2千石で分家し、知行所を構えました。
勝能は備中松山藩主水谷勝隆の次男で、勝隆の死後水谷勝宗が跡を継ぎましたが、勝隆の遺領の中から小阪部村、永富村、千谷村及び小南村を与えられました。後には長男勝阜(かつおか)に千7百石、次男勝睦(かつちか)に小南村3百石を分与しましたが、両家とも幕末まで続きました。
藩主は江戸住まいで、代官を派遣して統治していたそうです。
敷地は方谷園の付近で、方谷園の中に石碑と説明看板が建っています。
方谷園(小阪部陣屋) - 3 posted by
(C)pismo
次は高梁市へ向かいます。
Posted at 2009/04/30 21:50:34 | |
トラックバック(0) |
ドライブ | 日記