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ピズモのブログ一覧

2009年07月27日 イイね!

「独眼竜政宗」&「炎立つ」&「南部氏」の史跡めぐり(4日目その5・矢巾町〜紫波町〜花巻市)

いよいよこの旅行も最終章です。
いわて花巻空港に向かう途中、少しばかり史跡に立ち寄ってみました。

徳丹城(とくたんじょう、とくたんのき)は、弘仁3(812)年、の征夷大将軍であった文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)によって造られた律令制度最後の城柵です。 志波城が雫石川の度重なる水害によって、その機能を果たせなくなったため、志波城を解体し建てられました。
外郭・内郭という基本的な構造は変わりませんが、志波城に比べ規模は外郭が一辺約350m(志波城は約900m)、内郭が一辺約80m(志波城は約150m)と大幅に縮小されました。
9世紀の中頃、徳丹城は廃絶したと考えられています。
昭和44(1969)年、国の史跡に指定されました。
現在は史跡公園として整備されています。
徳丹城 - 01
徳丹城 - 01 posted by (C)pismo

徳丹城 - 02
徳丹城 - 02 posted by (C)pismo

徳丹城 - 03
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徳丹城 - 04
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徳丹城 - 05
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徳丹城 - 06
徳丹城 - 06 posted by (C)pismo

高水寺城は、斯波氏の居城です。
斯波氏は足利氏の一族で足利家氏が陸奥の斯波郡(岩手県紫波郡)を所領としたことから斯波氏と称するようになりました。
南北朝時代、足利尊氏は、家氏の曾孫の高経の嫡男斯波家長を奥州総大将(後の奥州管領)に任じ、高水寺城を本拠として奥州における北朝方の重鎮として活躍しました。しかしその後、北畠顕家と鎌倉で戦いで敗北し戦死しました。
家長の末裔が高清水斯波氏となり紫波(しわ)郡一円の領主として地歩を確立し斯波御所と尊称されました。斯波詮高の代には岩手郡滴石(岩手県雫石町)の戸沢氏を攻略し、角館へ退去させるなど勢力を拡大しました。詮高は、庶子を新領に配置し、それらは居館の地名から「滴石御所」、「猪去御所」と呼ばれるようになりました。
しかし、戦国時代になると三戸南部氏に圧迫され、詮直の時代の天正16(1588)年、南部信直に敗れ斯波氏は滅亡しました。
高水寺城を占領した南部氏は、城名を郡山城と改称して城代を配し盛岡城完成までの間に一時居城としましたが、寛文7(1667)年に至って城代制は廃止され、城も破却されました。
現在は城山公園となっています。
高水寺城(郡山城) - 01
高水寺城(郡山城) - 01 posted by (C)pismo

高水寺城(郡山城) - 02
高水寺城(郡山城) - 02 posted by (C)pismo

高水寺城(郡山城) - 03
高水寺城(郡山城) - 03 posted by (C)pismo

高水寺城(郡山城) - 04
高水寺城(郡山城) - 04 posted by (C)pismo

花巻城は、平安時代は鳥谷ヶ崎城(とやがさきじょう)といい、安倍頼時が築城したと言われています。
中世に入り、稗貫氏がこの地方を領し、永禄年間に鳥谷ヶ崎城を居城としました。
稗貫氏は天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めに加わらなかったため、領地を没収されました。
翌天正19(1591)年、この地方は南部氏の一族である北秀愛が稗貫・和賀2郡の8千石の城代となり、 鳥谷ヶ崎城を花巻城に改めました。
慶長3(1598)年、秀愛が死去し、かわって父の北信愛(松斎)が城代となりました。
慶長5(1600)年9月、関ヶ原の戦いでは、南部氏が山形へ出陣している隙を狙い、旧領主和賀氏、稗貫氏の残党が、 伊達政宗の援助で一揆を起こしました。花巻城の夜討ちは有名な戦いで一揆軍が御台所前御門まで押し寄せ、三ノ丸、二ノ丸を落とされ本丸を残すのみになるなど落城寸前までになりましたが、 松斎は少しの兵力でよくこれを防ぎました。
慶長19(1614)年、南部利直の庶子南部政直が稗貫・和賀2万石の花巻城主となったが、故あって寛永元(1624)年 に非業の死を遂げ、以降は藩士が交代で城代となりました。
明治2(1869)年廃城となり建物は取り越されました。
平成7(1995)年、西御門が復元されました。
花巻城(鳥谷ヶ崎城) - 01
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花巻城(鳥谷ヶ崎城) - 02
花巻城(鳥谷ヶ崎城) - 02 posted by (C)pismo

花巻城(鳥谷ヶ崎城) - 03
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花巻城(鳥谷ヶ崎城) - 04
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花巻城(鳥谷ヶ崎城) - 05
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花巻城(鳥谷ヶ崎城) - 06
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花巻城(鳥谷ヶ崎城) - 07
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この日は九戸城〜花巻城まではかなりよく雨が降っていました。
びしょびしょになりながらの史跡めぐりになってしまいましたが、以前から行きたいと思っていた史跡を数多く訪れることができ充実した旅行でした。
来年くらいは出羽も攻略したいと思います。
この後はいわて花巻空港に戻り、レンタカーを返却後、大阪に帰りました。
Posted at 2009/08/27 21:49:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2009年07月27日 イイね!

「独眼竜政宗」&「炎立つ」&「南部氏」の史跡めぐり(4日目その4・九戸城〔二戸市〕)

ここからは再び岩手県に戻ります。
南部氏の史跡で最も関心のあった九戸城〔福岡城〕を訪れました。
九戸城は南部氏の一族、九戸氏の居城です。
有名な九戸政実の4代前の光政が明応年間(1492~1501)に築城しました。
天正8(1580)年三戸城主南部晴政が死去。跡を継いだ晴継も急死し、晴政の養子で晴継誕生前までは跡継ぎとしていた一族の田子信直と九戸政実の弟実親が跡継ぎを巡って争いますが、南部氏は信直が跡を継ぐことになりました。
天正18(1590)年、秀吉は小田原城攻略後、奥州仕置を開始しました。しかし奧州は一揆などが起き政情は不安定でした。この機に乗じ九戸政実は翌天正19(1591)年3月に挙兵しました。信直は苦戦を強いられます。信直の要請で秀吉は羽柴秀次を大将とし、蒲生氏郷、浅野長政、堀尾吉晴、徳川家康の部将井伊直政を派遣しました。奧州の小野寺義道、戸沢政盛、秋田実季なども参陣し6万の大軍となりました。豊臣軍は九戸領を攻撃し、やがて九戸城を包囲しました。籠城軍は5千人でしたがよく善戦し豊臣軍は4日、九戸氏菩提寺の和尚を使者に、政実の武勲を称え、婦子女や下級武士の助命を条件に和議を勧告します。
政実はこれを呑み開城しますが、これは謀略で、悉く撫で斬りにされ九戸城はあえなく落城し政実、実親兄弟は処刑されました。
この戦いを九戸政実の乱と言います。小田原攻めで秀吉の天下統一がなったとよく言われますが、この九戸城の戦いで秀吉の天下統一がなったという言い方の方が正しいと思います。
信直に和賀・稗貫・志和の三郡を加封、蒲生氏郷に命じ九戸城を改修し近世城郭に改めました。
南部信直は九戸城を福岡城と改め南部氏の居城としました。しかし、この地は和賀・稗貫・志和の三郡を加えた南部氏にとって北に偏りすぎているため、信直は不来方の地に居城を移すことを決意。利直は不来方の城を盛岡城と命名し居城を移し、福岡城は廃城となりました。
石垣、空堀、土塁、郭などがよく保存され、国の史跡に指定されています。

九戸城(福岡城) - 01
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九戸城(福岡城) - 02
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九戸城(福岡城) - 03
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九戸城(福岡城) - 04
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九戸城(福岡城) - 05
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九戸城(福岡城) - 06
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九戸城(福岡城) - 07
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九戸城(福岡城) - 08
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九戸城(福岡城) - 10
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九戸城(福岡城) - 11
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九戸城(福岡城) - 12
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九戸城(福岡城) - 13
九戸城(福岡城) - 13 posted by (C)pismo

もうあまりこの旅行も終わりに近づいてきました。本当は一戸、二戸、三戸・・・・と戸のつく地名の史跡を色々回ってみたい気持ちもあったのですが、時間がありません。
帰りはいわて花巻空港から大阪空港へ戻るプランなので、ここから再び一気に南下します。
Posted at 2009/08/25 22:49:28 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2009年07月27日 イイね!

「独眼竜政宗」&「炎立つ」&「南部氏」の史跡めぐり(4日目その3・南部町、三戸町)

「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われた南部氏。南部町と三戸町は南部氏が鎌倉時代から戦国大名へ発展するまでの拠点となった地です。

三光寺は、臨済宗の寺院で山号は福寿山、南部氏の菩提寺です。南部実光の開基と伝えられています。
南部実光の墓、南部信直の墓、南部利康霊屋、南部利直の霊屋などがあります。
南部利康は南部利直の四男でしたが、24歳で死去しました。
傍らに利康に殉死した忠臣八木橋藤十郎の墓もあります。
利康の霊屋は覆堂の中にあります。桃山様式の華麗なものだそうで、国の重要文化財に指定されています。拝観は出来ますが、12時〜13時は休みのようです。訪れたのがあいにくその時間帯のため霊屋の拝観はパスしました。
三光寺 - 1
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三光寺 - 2
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三光寺 - 3
三光寺 - 3 posted by (C)pismo

聖寿寺館(しょうじゅじだて)は、後世留ヶ崎に築かれた三戸城と区別するため本三戸城ともいう南部氏の居城です。
平安時代末期、奥州征伐で勲功を挙げた南部光行は陸奥国糠部郡に所領を与えられ建久2(1191)年、三戸に赴きました。
建久3(1192)年に光行は平良ヶ崎城(へらがさきじょう)を築くと、代官を置いて鎌倉に帰りました。南部家の系図によると、光行は長男行朝を一戸に、次男実光を三戸に、三男実長を八戸に、四男朝清を七戸に、五男宗朝を四戸に、六男行連を九戸に所領を分知したとされています。
実光の系統はやがて聖寿寺館を築き、居城としました。
南部氏は南部晴政が当主であった戦国時代の天文8(1539)年、聖寿寺館は家中の混乱に乗じて家臣赤沼備中の放火に遭い、重代の古文書・宝物類とともに焼失しました。
その後 南部晴政は領内留ヶ崎に三戸城を新たに築き、居城を移しました。
平成16(2004)年、聖寿寺館は国の史跡に指定されました。
城跡は空き地、果樹園、民家などになっていますが現在も発掘調査が行われているようです。
聖寿寺館〔本三戸城〕-1
聖寿寺館〔本三戸城〕-1 posted by (C)pismo

聖寿寺館〔本三戸城〕 - 2
聖寿寺館〔本三戸城〕 - 2 posted by (C)pismo

平良ヶ崎城(へらがさきじょう)は南部氏の拠点の一つです。聖寿寺館(しょうじゅじだて)、馬場館( ばばだて)、大向館( おおむかいだて) を三戸五ヶ城といい、平良ヶ崎城は政庁として使われたともいわれています。
築城は平安時代末期、奥州征伐で勲功を挙げた南部光行は陸奥国糠部郡に所領を与えられ建久2(1191)年、三戸に赴き翌建久3(1192)年に平良ヶ崎城を築いたといわれています。
南部氏は南部晴政が当主であった戦国時代の天文8(1539)年、聖寿寺館は家中の混乱に乗じて家臣赤沼備中の放火に遭い焼失した後、留ヶ崎に三戸城を新たに築き、居城を移しました。
昭和36(1961)年、南部中学校が建てられましたが、平成14(2002)年に南部町大字沖田面字沖中101に移転しました。平良ヶ崎城も中学校の移転後発掘調査が行われ、史跡公園として整備されるそうです。
平良ヶ崎城 - 1
平良ヶ崎城 - 1 posted by (C)pismo

平良ヶ崎城 - 2
平良ヶ崎城 - 2 posted by (C)pismo

三戸城(留ヶ崎城)は、南部晴政が築いた城です。
天文8(1539)年に晴政に謀反を企てた家臣・赤沼備中に放火され、聖寿寺館(本三戸城)が焼失したため、永禄年間(1558〜69) に晴政が留ヶ崎(とどめがさき)に新たに居城として築きました。
天正19(1591)年、南部信直は同族の九戸政実の乱を豊臣秀吉軍と共に平定すると、九戸城を福岡城と改称し居城としました。三戸城は九戸一揆平定後、奥州仕置軍を率いた蒲生氏郷らにより石垣を持った城に普請され、本丸に三層三階の御三階櫓が上げられたと考えられています。
しかし、三戸や九戸はが南部藩領内の北辺に寄りすぎていることもあり、 本拠を岩手郡不来方に移すことになりました。南部利直の時に盛岡城を居城とし、利直の子南部重直の時代に完成しました。それより三戸城は貞享年間(1684〜1687)からは代官が常駐して、城の名も三戸御古城と呼ばれるようになりました。
三戸城跡は城山公園として整備され、山上には昭和42(1967)年に「温故館」という三層四階の模擬天守が築かれました。内部は三戸町立歴史民俗資料館になっています。
城内にある糠部神社は南部光行を祀ります。
平成元(1989)年には綱御門が復元されています。模擬天守があるので近世城郭風ですが、石垣だけではなく、土塁や郭、空堀など中世の城の雰囲気も残しています。
残念ながら訪れたのが月曜日で資料館は見ることができませんでした。
三戸城 - 01
三戸城 - 01 posted by (C)pismo

三戸城 - 02
三戸城 - 02 posted by (C)pismo

三戸城 - 03
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三戸城 - 04
三戸城 - 04 posted by (C)pismo

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三戸城 - 06
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三戸城 - 12
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三戸城 - 13
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この次は岩手県に戻り、二戸市の九戸城へ向かいます。
Posted at 2009/08/24 23:33:13 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2009年07月27日 イイね!

「独眼竜政宗」&「炎立つ」&「南部氏」の史跡めぐり(4日目その2・八戸市、根城と八戸城)

盛岡から一気に八戸に来ました。
八戸→南部→三戸→二戸(九戸城)と回る予定です。
さて、八戸といえば「美しすぎる市会議員」を見に行ったわけではありません。
日本100名城に指定されている根城、八戸城を見に来ました。
根城は、元弘3・正慶2(1333)年北畠顕家が陸奥国司として後醍醐天皇の皇子義良親王を奉じて奥州に下向した際、甲斐源氏の流れを汲む南部光行(南部氏の祖)から四代目にあたる南部師行が国司代に任じられて同行し、翌年の建武元(1334)年糠部郡八森(現在の八戸)の地に築城した城です。
奥州における南朝方の拠点となる城であることから「根城」と命名したといわれています。
しかし、師行は延元3・暦応元(1338)年北畠顕家とともに足利尊氏追討の遠征軍に参加し、和泉(大阪)で戦死しました。
師行の後を継いだ南部政長は室町幕府を開いた足利尊氏から度々降伏勧告を受けましたが、これを退けました。
南部氏の系統はその後も続きます。(根城南部氏、八戸氏)
室町時代には三戸南部氏が惣領家として力を持つようになり、根城南部氏はその傘下に入りました。
江戸時代の寛永4(1627)年南部利直によって根城南部氏22代直義は遠野に国替えとなり(遠野南部氏)、根城は廃城となりました。
昭和16(1941)年に根城は国史跡に指定されました。
平成6(1994)年10月、本丸主殿などが復元され「史跡 根城の広場」として公園化されています。
平成18(2006)年、日本100名城に指定されています。
残念ながら訪れたのが月曜日で、本丸部分には入ることが出来ませんでしたが遺構がよく残っており、日本100名城の名にふさわしい城跡です。
根城 - 01
根城 - 01 posted by (C)pismo

根城 - 02
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根城 - 03
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根城 - 04
根城 - 04 posted by (C)pismo

根城 - 05
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根城 - 06
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根城 - 11
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根城 - 12
根城 - 12 posted by (C)pismo

根城 - 13
根城 - 13 posted by (C)pismo


根城 - 14
根城 - 14 posted by (C)pismo

根城 - 15
根城 - 15 posted by (C)pismo

根城 - 16
根城 - 16 posted by (C)pismo

根城 - 17
根城 - 17 posted by (C)pismo

八戸城は、建武元(1334)年陸奥国司北畠顕家の国司代南部師行が糠部郡八戸に根城を築いて間もない時に、その孫信助が支城としてこの地に中館(なかだて)を築いたのが始まりとされています。根城南部氏はは根城・ 中館および新田館に居住し、八戸地方を治めてきました。
三戸南部氏を継いだ南部信直は根城南部氏を傘下におさめ、江戸時代、信直の子南部利直は、寛永4(1627)年に根城南部氏を遠野に移して、八戸を直支配とし、みずから縄張りをして近世の八戸城を築きました。
寛文4(1664)年、南部重直が後嗣を定めないまま没したとき、 幕府は遺領10万石を分割し、南部重信に本家盛岡8万石と、南部直房に2万石が与えられ八戸藩が誕生しました。
寛文6(1666)年、直房は八戸城に入り、幕末まで八戸藩南部氏の居城でした。
八戸藩南部氏は城主格でしたが、八戸城は陣屋扱いで八戸陣屋といわれていました。
本丸は三八城公園(みやぎこうえん)となっており、新羅三郎義光・南部光行・南部直房を祀る三八城神社があります。ちなみに「三八城」は、三戸郡の「三」、八戸城の「八」、「城」でみやぎと読みます。

八戸城 - 01
八戸城 - 01 posted by (C)pismo

八戸城 - 02
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八戸城 - 03
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八戸城 - 04
八戸城 - 04 posted by (C)pismo

南部直房公銅像が建てられています。
八戸城 - 05
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八戸城 - 06
八戸城 - 06 posted by (C)pismo

三八城公園の向かい側の南部会館の表門は、八戸城角御殿表門として使用されていた門です。
八戸角御殿表門(南部会館)
八戸角御殿表門(南部会館) posted by (C)pismo

この後は、南部町へ向かいます。
Posted at 2009/08/23 00:45:44 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2009年07月27日 イイね!

「独眼竜政宗」&「炎立つ」&「南部氏」の史跡めぐり(4日目その1・盛岡市)

いよいよ最終日になってしまいました。
最終日は南部氏の史跡に古代史跡を加えながら、岩手県、青森県と回るプランです。
最初に宿泊した盛岡市内の史跡です。

桜山神社は、寛延2(1749)当時の8代藩主・南部利視が、初代藩主・南部信直の没後百五十年に あたりの功績を称え、盛岡城内の淡路丸に勧請し社殿を建立したのがはじまりで、 当初は盛岡城の淡路丸にあった事から淡路丸大明神と呼ばれていました。
そして文化9(1812)年、神社付近にあった桜の木にちなんで桜山神社と改称したといわれています。明治維新後、盛岡城が廃城となり桜山神社は妙泉寺山に遷座し、戦後になって現在地(藩政時代には八幡神社が鎮座)に再び遷座しました。
現在は南部信直の他南部氏の祖南部光行、、2代藩主利直、11代藩主利敬の4人の藩主が祀られています。
境内には烏帽子岩があります。盛岡城築城時、南部利直が三の丸を整地するためこの地を掘り下げたときに、大きさ2丈ばかり突出した大石が出てきました。この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰されています。
桜山神社 - 01
桜山神社 - 01 posted by (C)pismo

桜山神社 - 02
桜山神社 - 02 posted by (C)pismo

桜山神社 - 03
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桜山神社 - 04
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桜山神社 - 05
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盛岡城は南部氏の居城です。
南部信直は天正18(1590)年、豊臣秀吉に本領を安堵され、翌19(1591)年、九戸政実の乱を平定した後、三戸城から九戸城に居城を移し、九戸城を福岡城と改めました。
しかし、福岡城は領土の北側に偏っていたため、不来方の地に新城を築くことにしました。
慶長2(1597)年信直は嫡子利直に命じ鋤初め(起工)を行い、、翌3(1598)年に豊臣秀吉の許可を得て本格的築城が始められました。信直は慶長4(1599)年に没し、慶長年間にほぼ完成しました。利直は不来方の地を盛岡と改めました。寛永10(1633)年、利直の子南部重直の時代に完成しました。
明治維新後、盛岡城は陸軍省の所管をへて、明治39(1906)年、岩手県が城跡を中心に整備を加え、岩手公園として開園しました。昭和9(1934)年に盛岡市に移管され、同12(1937)年国史跡に指定されました。
平成18(2006)年、日本100名城に指定されました。現在は岩手公園の愛称として「盛岡城跡公園」という名称も使われています。
盛岡城 - 01
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盛岡城 - 02
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盛岡城 - 03
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盛岡城 - 04
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盛岡城 - 05
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盛岡城 - 06
盛岡城 - 06 posted by (C)pismo

盛岡城 - 07
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盛岡城 - 08
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志波城(しわじょう、しわのき)は、延暦22(803)年、坂上田村麻呂が征夷の北の拠点として、胆沢城造営に続いて築城しました。
志波城の北には雫石川が、東には北上川が流れ、郭内北部には小河川を取り込み、水運に利用していたと思われますが、雫石川の氾濫に悩まされ、約10年で徳丹城へ移り、役目を終えました。
昭和51(1976)年からの東北自動車道建設のための発掘調査によって、それまで太田方八丁(おおたほうはっちょう)遺跡と呼ばれていた場所が志波城であることが昭和54(1979)年に確定しました。
昭和59(1984)年には国指定の史跡となり、平成3(1991)年から復元工事がなされ、平成9(1997)年、志波城古代公園として開園されました。
志波城 - 01
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志波城 - 02 posted by (C)pismo

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志波城 - 05 posted by (C)pismo

厨川柵は、安倍氏の拠点の一つです。
安倍氏は、奥六郡を中心に勢力を持ち衣川柵を中心に城柵を設け、最北端の拠点の厨川柵には安部貞任が守っていました。
天喜4(1056)年からの前九年の役では当初安倍氏が有利でしたが、源頼義、義家父子は出羽の豪族清原氏を味方にすることに成功し、安倍氏の勢力は徐々に後退し康平5(1062)年厨川柵に全勢力を挙げて、最後の決戦を行いましたが敗れて滅亡しました。
文治5(1189)年、源頼朝が奥州藤原氏を征伐した際には平泉を落とした後、厨川柵まで進駐しました。
その後頼朝は御家人の工藤行光を岩手郡の地頭としました。
室町時代、工藤氏は里館(厨川館)を拠点にしましたが、後に新たに厨川城(安倍館遺跡)を築き移りました。
江戸時代から明治時代までは、安倍館遺跡が厨川柵とされていたましが、 大正以降では安倍館、里館(さたて、天昌寺台地)を含む広範な地域を厨川柵あるいは嫗戸(おばと)柵とする見解が示されています。
写真は天昌寺です。
厨川柵〔里館〕
厨川柵〔里館〕 posted by (C)pismo

安倍館(厨川城)は古くから、安倍氏の厨川柵または嫗戸柵、工藤氏の居城跡として伝えられてきました。
しかしながら安倍氏の柵跡については、今のところ正確なことは不明です。江戸時代から明治時代までは、 安倍館遺跡が厨川柵とされていましたが、大正以降では安倍館、里館(さたて、天昌寺台地)を含む広範な地域を厨川柵あるいは嫗戸柵とする見解が示されています。
安倍氏、奥州藤原氏の滅亡後、源頼朝は御家人の工藤行光を岩手郡の地頭とし、工藤氏は厨川の地を拠点としました。室町時代の工藤氏は里館(厨川館)を拠点にしていましたが、戦国時代に入り、より堅固で大きな城が必要となったため、安倍館遺跡のある地に新たに厨川城を築いたと言われています。
現在は空堀などが残っています。
郭には「貞任宗任神社」などがあります。
安倍館〔厨川城〕 - 1
安倍館〔厨川城〕 - 1 posted by (C)pismo

安倍館〔厨川城〕 - 2
安倍館〔厨川城〕 - 2 posted by (C)pismo

安倍館〔厨川城〕 - 3
安倍館〔厨川城〕 - 3 posted by (C)pismo

安倍館〔厨川城〕 - 4
安倍館〔厨川城〕 - 4 posted by (C)pismo

安倍館〔厨川城〕 - 5
安倍館〔厨川城〕 - 5 posted by (C)pismo
この後は、一気に北上、東北自動車道と八戸自動車道を通り青森県八戸市を目指します。
Posted at 2009/08/22 01:05:36 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記

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