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ピズモのブログ一覧

2009年09月21日 イイね!

加賀〜越前ドライブ(その2・小松市)

次は小松市です。
最初に、前田利常候灰塚を訪れました。
加賀藩第3代藩主前田利常は、藩祖前田利家の四男で、兄の第2代藩主利長の養嗣子となり藩主となりました。
万治元(1658)年に亡くなり、当時加賀国能美郡小松邑の東北二里にあった徳橋郷三宅野と言っていたこの地で火葬にしました。遺骨を野田山に葬り、燃え残りをこの地に埋め、灰塚と称しました。
明治11(1878)年、第13代の加賀藩主であった前田斉泰が石碑を建てました。
石碑には「加越能国主従二位前田利常公灰塚之址」の文字が記されています。
前田利常候灰塚 - 1
前田利常候灰塚 - 1 posted by (C)pismo

芦城公園は、小松城三ノ丸跡です。時が移り、幕末から明治にかけて小松城が次第に取り壊され、跡地が民間へと売り払われていく中で小松の人々により公園設置の気運が高まりました。
その結果、この跡地を大蔵省に申請し、明治37(1904)年、永代無償借下の許可を得て開園し、明治39(1906)年、正式に芦城公園と名付けられました。
公園内には、大正5(1916)年、加賀百万石を盤石にし、小松発展の礎となった前田利常の遺徳を称え、銅像が創建されています。
現在は、図書館や、博物館、本陣記念美術館、茶室「仙叟屋敷ならびに玄庵」などの施設が設置されています。
小松城 - 01
小松城 - 01 posted by (C)pismo

小松城 - 02
小松城 - 02 posted by (C)pismo

小松城 - 03
小松城 - 03 posted by (C)pismo

小松城 - 04
小松城 - 04 posted by (C)pismo

小松城 - 05
小松城 - 05 posted by (C)pismo

小松城 - 06
小松城 - 06 posted by (C)pismo

小松城は、天正4(1576)年、加賀一向一揆方の一向一揆勢の若林長門が築城したのが最初と言われています。織田信長の武将柴田勝家により攻められ、村上頼勝、丹羽長重が城主となりました。
関ヶ原で西軍に付いた丹羽長重は金沢城主前田利長と浅井畷で戦いましたが、戦後所領を没収され、小松は前田家のものとなりました。その後、一国一城令で一旦廃城となりましたが、寛永16(1639)年に三代藩主前田利常が隠居城とし、大改修を加えました。その後は加賀藩の支城となり、城番により統治され、明治維新を迎えました。
明治5(1872)年、小松懲役場が三の丸に置かれ、囚人の役務として城の取り壊しが行われたため、現在は小松高校の敷地西側に本丸櫓台や井戸、堀石垣が残るのみです。
小松城 - 07
小松城 - 07 posted by (C)pismo

小松城 - 08
小松城 - 08 posted by (C)pismo

小松城 - 09
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小松城 - 10
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小松城 - 11
小松城 - 11 posted by (C)pismo

小松城 - 12
小松城 - 12 posted by (C)pismo

浅井畷古戦場は、慶長5(1600)年8月9日、東軍に味方した金沢城主前田利長と西軍に味方した小松城主丹羽長重の軍が関ヶ原の戦いの前哨戦として戦った古戦場です。
大聖寺城を攻略した後、前田利長の本隊は越後に赴こうとして寺井の三道山に引き揚げましたが、前田軍の最後尾部隊であった長連龍の部下が、本隊と合流しようとして御幸塚城から近道をとり、大領野を過ぎようとしたとき、いきなり丹羽軍の伏兵の急襲を受けて、堀内一秀軒景広、鹿島路六左衛門、柳弥平次、八田三助吉信、長中務連朗、小林平左衛門秀備、隠岐(沖)覚右衛門、鈴木権兵衛重国、岩田新助吉忠、の九人が戦死しました。
九基の墓が建てられており、いずれもこの戦いで倒れた方向に向かって建てられたと伝えられています。
このうち、堀内景広の墓は、万治3(1660)年に建てられたもので鹿島路六左衛門以下の墓八基は、若杉村の十村役であった林八郎兵衛が寛政年間に建てたものです。
昭和16(1941)年7月26日、石川県の指定史跡になっています。
浅井畷古戦場 - 01
浅井畷古戦場 - 01 posted by (C)pismo

浅井畷古戦場 - 02
浅井畷古戦場 - 02 posted by (C)pismo

浅井畷古戦場 - 03
浅井畷古戦場 - 03 posted by (C)pismo

那谷寺は白山信仰の寺で、養老元(717)年、泰澄禅師によって開創されました。
禅師は夢にみられた十一面千手観世音菩薩のお姿を自らお造りになり、洞窟内に安置し白山開拓の鎮守神とされました。そしてこの地にお堂を建立され、自生山岩屋寺と名づけました。
その後、寛和2(986)年、西国三十三番札所を開かれた花山法皇がこの地に行幸された際、窟で輝く観音三十三身の姿を感じ、求る観音霊場三十三カ所はすべてこの山に凝縮されるとし、西国三十三観音の一番「那智」と三十三番「谷汲」の山号から一字ずつを取り「自主山厳屋寺」から「那谷寺」へと改名しました。 往時は寺院二百五十ヶ坊に及び隆盛を極めましたが、延元3(1338)年、南北朝の争い、文明6(1474)年、一向一揆により坊舎が焼きつくされました。
しかし寛永17(1640)年、加賀藩主前田利常公がその荒廃を嘆き、後水尾天皇の勅命を仰ぎ、岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院等を再建、境内の一大庭園を復興され今日の御祈願所とされました。
那谷寺 - 01
那谷寺 - 01 posted by (C)pismo

那谷寺 - 02
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那谷寺 - 03
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那谷寺 - 04
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那谷寺 - 05
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那谷寺 - 06
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那谷寺 - 07
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那谷寺 - 08
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那谷寺 - 09
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那谷寺 - 10
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那谷寺 - 11
那谷寺 - 11 posted by (C)pismo

次は、加賀市へ向かいます。
Posted at 2009/10/03 00:07:57 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年09月21日 イイね!

加賀〜越前ドライブ(その1・白山市)

シルバーウィークを迎えて、あちこち混雑しているので遠出もしんどいな、と思っていましたが、やはり史跡めぐりの熱意は衰えず、この日は石川県に向かいました。
目指すは、白山市。
最初の訪れたのが、旧松任市です。

松任城は、松任範光が鎌倉時代初期に築城したといわれています。
長享年間(1487~1489)に鏑木常専が松任城主となり、鏑木頼信、勘解由と三代にわたり加賀一向一揆宗徒の中で重きをなしました。
天正5(1577)年に上杉謙信に包囲されるが、落城せず和議を結びました。
天正8(1580)年、柴田勝家が松任城を落城させ、家臣の徳山則秀が在城しました。天正11(1581)年、前田利長が松任4万石を与えられ越前府中城より移りました。
天正13(1585)年、秀吉の直轄領となり寺西治兵衛秀則が代官となり入城しました。
その後、天正15(1587)年に丹羽長重が城主となりましたが、慶長3(1598)年、長重は加賀小松城に移りました。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで松任城は金沢城主・前田利長に加増され、利長家臣の赤座吉家が城代となりました。 
しかし、慶長19(1614)年、一国一城令に先んじて廃城となりました。
現在は公園となっており、ほとんど遺構は残っていません。本丸櫓台跡には、松任城本丸址の石碑が建てられています。公園はかつて「おかりや公園」という名でしたが「松任城址公園」に改められたようです。
松任城 - 01
松任城 - 01 posted by (C)pismo

松任城 - 02
松任城 - 02 posted by (C)pismo

次は旧美川町の手取川古戦場です。
手取川の戦いは、天正5(1577)年、上杉謙信と柴田勝家を大将とする織田信長の軍が戦った古戦場です。
9月15日、能登の七尾城を攻略した上杉謙信は織田信長軍総勢5万が加賀の手取川を越えたという報を聞き、9月18日、南下しました。
織田軍は柴田勝家を大将に、前田利家、滝川一益らが謙信を待ち受けていましたが、七尾落城の報により浮き足立ち士気が低下したため振りを覚った織田軍は9月23日、夜陰に紛れて退却を始めました。
ところが手取川は増水していたため、織田軍は逃げ場を失い、千余人が討ち取られ、川に流されたものその数を知れずといわれたほどの大敗を喫しました。
手取川での両軍の戦いを後世の人々は「上杉に逢うては織田も名取川(手取川) はねる謙信 逃ぐるどぶ長(信長)と狂歌に詠んでいます。
現在は呉竹文庫の駐車場に石碑が建っています。
手取川古戦場 - 01
手取川古戦場 - 01 posted by (C)pismo

手取川古戦場 - 02
手取川古戦場 - 02 posted by (C)pismo

手取川古戦場 - 03
手取川古戦場 - 03 posted by (C)pismo

次は旧鶴来町です。
白山比咩神社は、霊峰白山を神体山として白山比咩大神(しらやまひめのおおかみ)伊邪那岐尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナミ)の三神を祀る神社です。
社の創建は、祟神天皇の七年と伝えられ、延喜式内の名社で古来「下白山」と称えられ「白山本宮」「加賀一宮」として尊崇され、「白山さん」として親しまれています。
旧社地は北陸鉄道加賀一の宮駅前の古宮址安久涛の森ですが、文明12(1480)年、大火により四十有余の堂塔伽藍が悉く焼失しましたのでその後は末社三宮神社の境内である現在地を本宮鎮座の地と定めて今日に至ったものです。
白山比咩神社 - 01
白山比咩神社 - 01 posted by (C)pismo

白山比咩神社 - 02
白山比咩神社 - 02 posted by (C)pismo

白山比咩神社 - 03
白山比咩神社 - 03 posted by (C)pismo

次は旧鳥越村です。
鳥越城は、天文年間、二曲城に次ぐ第2の城として本願寺山内門徒の武将、鈴木出羽守により築かれました。
天正8(1580)年、石山合戦終了後も抵抗を続ける鈴木出羽守に柴田勝家は和睦と偽り松任城に呼び出し謀殺しました。
その後、織田方の吉原次郎兵衛が鳥越城を管理していましたが、山内衆は戦いを挑み、一度は二曲城、鳥越城を奪還しました。
しかし、天正10(1582)年、佐久間盛政により鎮圧され、300余人が捕らえられ磔にされました。
二曲城と共に国の史跡に指定されています。
発掘調査をもとに門や石垣が復元されています。
鳥越城 - 01
鳥越城 - 01 posted by (C)pismo

鳥越城 - 02
鳥越城 - 02 posted by (C)pismo

鳥越城 - 03
鳥越城 - 03 posted by (C)pismo

鳥越城 - 04
鳥越城 - 04 posted by (C)pismo

鳥越城 - 05
鳥越城 - 05 posted by (C)pismo

鳥越城 - 06
鳥越城 - 06 posted by (C)pismo

鳥越城 - 07
鳥越城 - 07 posted by (C)pismo

白山市立鳥越一向一揆歴史館では、一揆の誕生から終焉までを映像や展示でわかりやすく紹介しています。鳥越城からの出土品も展示されています。
白山市立鳥越一向一揆歴史館
白山市立鳥越一向一揆歴史館 posted by (C)pismo

二曲城(ふとげじょう)は、鳥越城と共に織田信長に最後まで抵抗した白山山麓の一向一揆の拠点となった城です。
二曲の地は、白山山麓門徒の指導者であった鈴木(二曲)氏の本拠で、二曲城は山麓の殿様屋敷の詰城でした。
二曲右京進はの子または孫と言われる鈴木出羽守は鳥越城を築きましたが、二曲城は鳥越城の支城として三坂峠を押さえる役割を担っていました。
天正8(1580)年11月、鳥越城と共に二曲城も落城しましたが、一揆の抵抗は続き、天正9(1581)年、加賀一向一揆は柴田勝家の軍を討ち果たし、鳥越城と共に奪還しました。しかしまたも佐久間盛政に奪還されます。
翌天正10(1582)年、再度鳥越城、二曲城は一向一揆に奪還されますが、やがて鎮圧され、生け捕りになった一揆衆300余人は磔になりました。
昭和60(1985)年、鳥越城附二曲城は、国の史跡に指定されました。
二曲城 - 01
二曲城 - 01 posted by (C)pismo

二曲城 - 02
二曲城 - 02 posted by (C)pismo

二曲城 - 03
二曲城 - 03 posted by (C)pismo

二曲城 - 04
二曲城 - 04 posted by (C)pismo

二曲城 - 05
二曲城 - 05 posted by (C)pismo
Posted at 2009/09/29 23:41:00 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年09月17日 イイね!

姫路城のライトアップ

もう暗くなってきましたが、今回は姫路城のライトアップ風景をカメラに納めるべく撮影スポットを巡ります。
最初に訪れたのが姫路城の北西、男山配水池公園です。
姫路城の夜景・男山配水池公園から - 01
姫路城の夜景・男山配水池公園から - 01 posted by (C)pismo

姫路城の夜景・男山配水池公園から - 02
姫路城の夜景・男山配水池公園から - 02 posted by (C)pismo

姫路城の夜景・男山配水池公園から - 03
姫路城の夜景・男山配水池公園から - 03 posted by (C)pismo

シロトピア記念公園は、姫路市制百周年の記念イベント「'89姫路シロトピア博」の跡地を利用して整備された公園です。姫路城の北に位置し、「姫路城十景」のひとつとされています。
姫路城の夜景・シロトピア公園から - 1
姫路城の夜景・シロトピア公園から - 1 posted by (C)pismo

姫路城の東側からの風景です。
姫路城・姫路文学館の夜景 - 1
姫路城・姫路文学館の夜景 - 1 posted by (C)pismo

姫路城・姫路文学館の夜景 - 2
姫路城・姫路文学館の夜景 - 2 posted by (C)pismo

姫路城の夜景・搦手側 - 1
姫路城の夜景・搦手側 - 1 posted by (C)pismo

姫路城の夜景・搦手側 - 2
姫路城の夜景・搦手側 - 2 posted by (C)pismo

南側の三の丸広場からの風景です。
姫路城の夜景・三の丸広場 - 1
姫路城の夜景・三の丸広場 - 1 posted by (C)pismo

姫路城の夜景・三の丸広場 - 2
姫路城の夜景・三の丸広場 - 2 posted by (C)pismo

大手門です。
姫路城の夜景・大手門 - 1
姫路城の夜景・大手門 - 1 posted by (C)pismo

最後に訪れたのがイーグレひめじ
イーグレひめじは、姫路市本町の再開発ビルです。
5Fの屋上展望台からは姫路城全体を眺めることが出来ます。
姫路城の夜景・イーグレひめじから - 1
姫路城の夜景・イーグレひめじから - 1 posted by (C)pismo

姫路城の夜景・イーグレひめじから - 2
姫路城の夜景・イーグレひめじから - 2 posted by (C)pismo

昼間とは異なる、夜の闇に浮かび上がる天守閣はなかなか美しいと思います。
ホワイトバランス、露出の設定が難しいですね。
Posted at 2009/09/27 22:01:37 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年09月17日 イイね!

歴史秘話ヒストリア「姫路城 美と強運の400年物語 ~巨大迷宮の秘密を探る旅~」の影響を受けて姫路城散策

9月9日にNHKの歴史秘話ヒストリア「姫路城 美と強運の400年物語 ~巨大迷宮の秘密を探る旅~」が放送されていました。
姫路城の魅力をわかりやすく伝えていて楽しく見ることができました。
今までは前番組の「その時、歴史が動いた」の方が面白かったな、と思っていたのですが、今回の放送は本当に良かったです。
さて、姫路城は平成21年10月より「平成の大修理」が行われます。
平成21年の10月に着工~足場の撤去までを実5年で実施されるということで、しばらくは外から天守を見ることができなくなります。
ということで、修復前の姫路城を写真で撮っておこうということで訪れてみました。
姫路城は、正平元(1346)年の赤松則村(円心)の子、貞範が築城したといわれています。
その後、室町時代を通して赤松氏の城で、嘉吉の乱の没落後は山名氏が播磨を治めましたが、応仁の乱後播磨は再び赤松氏のものとなりました。
そして戦国時代には赤松氏の支族の小寺氏のものとなりました。そして、天文24(1555)年から永禄4(1561)年の間に小寺氏の家臣、黒田重隆がその子職隆とともに新城を建設し、御着城の出城としました。
そして、職隆の子黒田官兵衛孝高(如水)の時に小寺氏は没落し、官兵衛は羽柴秀吉に仕えることになりました。
天正8(1580)年、官兵衛は秀吉に姫路城を譲り、居城とすることを勧めました。秀吉は3層の天守閣を築きました。秀吉はさらに、移住してくる者の役を免除したり、龍野町に楽市を設けたり、山陽道を姫路城下を通るようにするなど、播磨の中心になるように城下町の体裁を整えました。
秀吉は、姫路城を拠点に中国の毛利勢と戦いました。天正10(1582)年、本能寺の変が起こった時には、この城から山崎に向かい、合戦に勝利しました。
秀吉は天正11(1583)年には大坂城を築き、秀長が城主となりました。しかし、天正13(1585)年には木下家定が城主となりました。
慶長6(1601)年、関ヶ原の戦いで戦功をたてた池田輝政が城主となり9年の歳月をかけ本格的に拡張し、現在の5層6階地下1階の天守閣を築きました。池田氏の後は、本多忠政が入城し、西の丸、三の丸と増改築を行いました。
江戸時代は奥平松平氏(忠明系)、越前松平氏(直基系)、榊原氏、越前松平氏(直基系)、本多氏、榊原氏とめまぐるしく城主が代わりました。
寛延2(1749)年、酒井氏(雅楽頭家)が入封し、明治を迎えました。
明治7(1874)歩兵第十連隊が設置され、一部の建物が取り壊されました。
中村重遠大佐が明治11(1877)年に名古屋城と姫路城の保存を願い出て、姫路城の修復などが始まりました。中村大佐の記念碑が城内に建っています。
明治15(1882)年には失火で備前丸を焼失、しかし第二次世界大戦の空襲は奇跡的に免れ、大天守、3つの小天守とそれを結ぶ渡櫓、西の丸長局や化粧櫓ほか、城門も多数現存しています。
平成5(1993)年、世界遺産に指定され、平成18(2006)年には日本100名城に選定されました。
昭和31(1956)年~昭和39(1964)年には昭和の大修理が行われ、平成21(2009)年~平成26(2014)年には平成の大修理が予定されています。
姫路城・大手門付近 - 2
姫路城・大手門付近 - 2 posted by (C)pismo

姫路城・大手門付近 - 3
姫路城・大手門付近 - 3 posted by (C)pismo

姫路城・三の丸広場(武蔵野御殿跡)から - 01
姫路城・三の丸広場(武蔵野御殿跡)から - 01 posted by (C)pismo

姫路城・三の丸広場(武蔵野御殿跡)から - 10
姫路城・三の丸広場(武蔵野御殿跡)から - 10 posted by (C)pismo

姫路城・三の丸広場(武蔵野御殿跡)から - 12
姫路城・三の丸広場(武蔵野御殿跡)から - 12 posted by (C)pismo

姫路城・三の丸広場(武蔵野御殿跡)から - 14
姫路城・三の丸広場(武蔵野御殿跡)から - 14 posted by (C)pismo

姫路城・菱の門 - 1
姫路城・菱の門 - 1 posted by (C)pismo

姫路城・三国堀付近 - 5
姫路城・三国堀付近 - 5 posted by (C)pismo

姫路城・いの門 - 1
姫路城・いの門 - 1 posted by (C)pismo

姫路城・ろの門
姫路城・ろの門 posted by (C)pismo

姫路城・ろの門からはの門 - 1
姫路城・ろの門からはの門 - 1 posted by (C)pismo

姫路城・西の丸から - 1
姫路城・西の丸から - 1 posted by (C)pismo

姫路城・西の丸から - 7
姫路城・西の丸から - 7 posted by (C)pismo

姫路城・西の丸から - 8
姫路城・西の丸から - 8 posted by (C)pismo

姫路城・ろの門からはの門 - 3
姫路城・ろの門からはの門 - 3 posted by (C)pismo

にの門 - 2
にの門 - 2 posted by (C)pismo

姫路城・はの門からにの門 - 2
姫路城・はの門からにの門 - 2 posted by (C)pismo

姫路城・にの門からほの門(天守西側) - 1
姫路城・にの門からほの門(天守西側) - 1 posted by (C)pismo

姫路城・にの門からほの門(天守西側) - 4
姫路城・にの門からほの門(天守西側) - 4 posted by (C)pismo

姫路城・油壁 - 1
姫路城・油壁 - 1 posted by (C)pismo

北側からの乾小天守 - 2
北側からの乾小天守 - 2 posted by (C)pismo

姫路城・歴代城主の家紋瓦
姫路城・歴代城主の家紋瓦 posted by (C)pismo

姫路城・への門付近 - 2
姫路城・への門付近 - 2 posted by (C)pismo

姫路城・備前丸(南側からの大天守) - 2
姫路城・備前丸(南側からの大天守) - 2 posted by (C)pismo

姫路城・備前丸(南側からの大天守) - 3
姫路城・備前丸(南側からの大天守) - 3 posted by (C)pismo

姫路城・天守閣 - 8
姫路城・天守閣 - 8 posted by (C)pismo

姫路城・との一門
姫路城・との一門 posted by (C)pismo


姫路城・搦手側 - 4
姫路城・搦手側 - 4 posted by (C)pismo

姫路城・姫路文学館 - 3
姫路城・姫路文学館 - 3 posted by (C)pismo

姫路城・シロトピア公園から - 2
姫路城・シロトピア公園から - 2 posted by (C)pismo

姫路城・城見台公園から - 2
姫路城・城見台公園から - 2 posted by (C)pismo

姫路城・イーグレひめじから - 3
姫路城・イーグレひめじから - 3 posted by (C)pismo

次はライトアップされた姫路城を紹介します。

Posted at 2009/09/27 12:50:24 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年09月11日 イイね!

京都をポタリング(その2・御池通り〜今出川通り+金福寺)

次は二条城の周辺の史跡から回ってみます。
千本丸太町付近は平安京の中心だった平安宮の跡です。
内野児童公園には、平安宮朝堂院大極殿跡の石碑があります。
平安宮は大内裏とも称します。朝堂院は大内裏の政庁で、朝堂院の正殿は大極殿といい即位などの国家的儀礼が行われた場所です。
安元3(1177)年の大火で焼失して以降再建されませんでした。
明治28(1895)年,平安遷都千百年紀念祭にあたり,湯本文彦は平安京の実測を行い,大極殿の位置をこの地に定め,京都市参事会が「大極殿遺阯」の石標を建てました。
なお,最近の発掘調査により,明治28年に建てられた石碑の場所は大極殿の北側の回廊のあった場所で,大極殿の中心部は千本丸太町交差点付近と判明しているそうです。ちょうど「朝堂院跡」の石碑が建っている付近です。石碑のある内野児童公園は大極殿の北側にあった昭慶門の西側回廊の上に立っていることが判明しています。
平安京朝堂院大極殿跡
平安京朝堂院大極殿跡 posted by (C)pismo

朝堂院跡の石碑はりそな銀行千本支店の南東側隅に説明看板とともに建っています。
平安京朝堂院跡
平安京朝堂院跡 posted by (C)pismo

京都町奉行所は慶長5(1600)年にはじめて置かれました。寛文8(1668)年からは常置の職として京都町奉行が創設され,京都所司代等の司法・行政の権限が委譲されました。町奉行所は東西に分けられ隔月交代で任務を担当しました。
それぞれ与力20騎、同心50人と職員の数は少なく、各町の自治組織を利用して市政を行いました。
西町奉行所は千本通二条城西側に建てられました。中京中学校西側に石碑が建っています。
西町奉行所跡
西町奉行所跡 posted by (C)pismo

東町奉行所は京都代官奉行だった五味備前守屋敷(神泉苑西隣)の地に建てられました。現在はNTT西日本京都支店壬生別館に石碑と説明看板が建っています。
東町奉行所跡
東町奉行所跡 posted by (C)pismo

神泉苑は、東寺真言宗の寺院で、元は延暦13(794)年、平安京造営の時に設けられた東西220メートル、南北440メートルという広大な禁苑です。池には天皇や公家が船を浮かべ、歌や花、音楽を楽しんだそうです。御池通の名の由来にもなりました。
中世以降は荒廃し、慶長8(1603)年、二条城を造営の際敷地は削減されました。境内には願いが叶う法成橋(赤い橋)や、年の恵方を祀る歳徳神があります。
神泉苑 - 1
神泉苑 - 1 posted by (C)pismo

神泉苑 - 2
神泉苑 - 2 posted by (C)pismo

神泉苑 - 3
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神泉苑 - 4
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神泉苑 - 5
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妙顕寺城は豊臣秀吉(羽柴秀吉)が聚楽第を築城する前京都の政庁とした城です。
妙顕寺とは鎌倉後期、日像がはじめて京都の建立した日蓮宗寺院であり、たびたび場所は変わったが戦国時代にはこの地にありました。
天正11(1583)年9月羽柴秀吉は寺を小川寺内に移転させて、跡に二条新邸を構築し、天正14(1586)年聚楽第を造るまで京都の政庁としました。
建物の姿は詳しくはわかっていませんが、周囲に堀をめぐらし、天主をあげていたそうです。
平素は前田以玄が住居して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となりました。豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく中の重要な政治的拠点でした。現在、城跡の遺構は全く残っていませんが、古城町という町名がかつてを偲ばせます。
西福寺に石碑と説明看板が建っています。ま
たこのあたりは閑院跡でもあり、平安時代前半は、藤原氏の邸宅として用いられ、後半は白河上皇・堀河天皇・高倉天皇・土御門天皇等の里内裏としても用いられた場所だそうです。
妙顕寺城 - 1
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妙顕寺城 - 2
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戦国魂京町家本陣は、戦国武将グッズでおなじみの「戦国魂」の京都にあるリアル店舗です。
京都を訪れた歴史好きの方は、立ち寄られてみてはいかがでしょうか。
戦国魂京町家本陣
戦国魂京町家本陣 posted by (C)pismo

次は今出川の北側、寺町通り沿いにある本満寺を訪れました。
本満寺は日蓮宗六条門流の本山です。応永17(1410)年、関白近衛道嗣の子、玉洞妙院日秀が今出川新町に朝廷より敷地三万坪を与えられて創建しました。広宣流布山、本願満足寺と号しました。天文5(1536)年の天文法華の乱の後の12世日重の代、天文8(1539)年、関白近衛尚道の外護により現在の地に移り、後奈良天皇の勅願所となりました。
宝暦元(1751)年35世日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈り、以来、将軍家の祈願所ともなりました。
境内墓地には山中鹿介の墓があるそうですが、どこにあるかよくわかりませんでした。
本満寺
本満寺 posted by (C)pismo

本満寺の北側には阿弥陀寺があります。
阿弥陀寺は、天文24(1555)年、織田家由縁の人物であった開山清玉上人が近江国坂本に創建したのが始まりです。
織田信長の入洛に際し、芝薬師蓮台野(現在の東は堀川通、西は智恵光院通、北は寺之内通、南はおよそ現在の今出川通南側)に八町四方の規模にて移築されました。
天正10(1582)年6月2日未明、信長公宿所たる本能寺の異変を清玉上人は察知し、駆けつけるが間に合わず、近習の武士達に遺骸を託され持ち帰りました。
その後明智光秀の陣を訪ね、本能寺にて討死せる者と、同じく二条城にて自刃せる嫡子信忠公、並びに討死した者らの供養する事を話し、遺体の収容の許可を得て丁重に葬りました。
その後秀吉の寺町造成に伴い寺域を縮小、移転され現在の場所に移りました。
6月2日のみ「信長忌」が行われ堂内の拝観ができるそうです。
阿弥陀寺 - 1
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阿弥陀寺 - 2
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そして、一気に左京区の一乗寺周辺まで自転車で向かいます。
金福寺は山号は佛日山、臨済宗南禅寺派の寺院です。
貞観6(864)年、円仁(慈覚大師)の遺志を継ぎ、安恵僧都が創建しました。
その後、一時荒廃しましたが江戸時代の中期、元禄の頃に鉄舟和尚が再興し、臨済宗としました。
松尾芭蕉は鉄舟和尚を訪れ庭園の裏側にある草庵で親交を深めました。後に草庵は芭蕉庵と言われるようになりました。
芭蕉庵はその後荒廃しましたが、与謝蕪村が再興しました。
幕末には舟橋聖一作の歴史小説「花の生涯」や諸田玲子の「奸婦にあらず」のヒロインとして知られる村山たか女は安政の大獄で井伊直弼のために活躍したため、文久2(1862)年、勤皇の志士によって三条河原でさらし者にされました。3日後に助けられて金福寺に入り尼となりました。
明治9(1876)年生涯を閉じるまでまで14年間金福寺で過ごしました。
背後の丘に与謝蕪村、その弟子呉春(松村月渓)ら近世の俳人、画家の墓や句碑、村山たかの詣り墓(墓そのものは円光寺)があります。
本堂では与謝蕪村と村山たか女の遺品が拝観できます。
金福寺 - 01
金福寺 - 01 posted by (C)pismo

金福寺 - 02
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金福寺 - 03
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金福寺 - 04
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金福寺 - 05
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金福寺 - 06
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金福寺 - 07
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金福寺 - 08
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金福寺 - 09
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金福寺 - 10
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金福寺 - 11
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金福寺 - 12
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ここで今回のポタリングは終了です。季節も良いし、自転車はきもちいいですね。
Posted at 2009/09/25 21:57:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記

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