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ピズモのブログ一覧

2009年09月11日 イイね!

京都をポタリング(その1・敷地神社〔わら天神〕と等持院)

この日は京都を訪れる用事があったので、ついでにポタリングしてみました。
車&折りたたみ自転車はやはり便利です。京都はフラットなところが多いので自転車にはもってこいです。安い駐車場を見つけることができれば最高です。

敷地神社(わら天神)は、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)を主祭神とし、天日鷲命・栲幡千千姫命を配祀する神社です。
元々北山の神として葛野郡衣笠村に降臨した天神地祇が祀られていましたが、天長8(831)年、氷室が設けられ、その夫役として加賀国から移住した者が、崇敬していた菅生石部神社(敷地天神)の神を勧請し、北山の神の隣に祀って菅生石部神の母神の木花開耶姫命を祭神に定めたといわれています。
応永4(1397)年、足利義満が金閣寺造営の際に鎮守神として現在地に遷座しました。
昔から安産の神として「はら帯天神」や安産御守にわらが授与されることから「わら天神」との通称があります。
わら天神 - 1
わら天神 - 1 posted by (C)pismo

わら天神 - 2
わら天神 - 2 posted by (C)pismo

わら天神 - 3
わら天神 - 3 posted by (C)pismo

わら天神 - 4
わら天神 - 4 posted by (C)pismo
等持院は暦応4(1341)年、夢窓疎石を開山として創建された臨済宗天龍寺派の寺院です。当初は京都市の中心部にあった等持寺でしたが、2年後の康永2(1343)年に現在の位置に別院北等持寺を建立しました。その後、別院北等持寺は足利尊氏の墓所となり、等持院と改称されました。元々の等持寺は応仁の乱で焼失したため別院だった等持院が本寺となりました。
現在の方丈は福島正則が元和2(1616)年に妙心寺海福院から移築したものです。
霊光殿には空海作と伝わる地蔵尊を本尊として、歴代の足利将軍像が並んでいます。東庭は夢窓疎石の作庭です。
芙蓉の花が咲く美しい庭が良かったです。
等持院 - 01
等持院 - 01 posted by (C)pismo

等持院 - 02
等持院 - 02 posted by (C)pismo

等持院 - 03
等持院 - 03 posted by (C)pismo

等持院 - 04
等持院 - 04 posted by (C)pismo

等持院 - 05
等持院 - 05 posted by (C)pismo

等持院 - 06
等持院 - 06 posted by (C)pismo

等持院 - 07
等持院 - 07 posted by (C)pismo

等持院 - 08
等持院 - 08 posted by (C)pismo

等持院 - 09
等持院 - 09 posted by (C)pismo

等持院 - 10
等持院 - 10 posted by (C)pismo

この後は、千本通りを南下し、御池通りから今出川通りまでを南北にうろうろしながら東に向かうコースで史跡めぐりをしてみます。
Posted at 2009/09/24 19:52:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2009年09月06日 イイね!

肥前・筑前紀行(3日目その2・佐賀城とその周辺)

次は佐賀城です。
薩長土肥と言いますが、「肥」前は初訪問です。
今回の旅行はもう残された時間が少ないため、佐賀城とその周辺のみを急いで回りました。

佐賀城は、龍造寺氏の居城村中城を鍋島直茂が改修して築城しました。
龍造寺隆信は九州北部に覇を唱えていましたが、天正12(1584)年に島津氏との戦いで隆信が討死にしたため、実権は鍋島直茂に移りました。
直茂は、村中城を居城とする意向を持っていましたが、龍造寺政家・高房が健在だったため蓮池城を居城としていました。
関ヶ原の戦いの後に徳川幕府より正式に佐賀藩主と認められ、慶長7(1602)年から佐賀城築城を始め、初代藩主で直茂の嫡男鍋島勝茂が慶長16(1611)年に完成しました。
佐賀城は享保11(1726)年に火災に遭い、天守、本丸御殿など主要建造物を焼失しました。これにより御殿などは二ノ丸に再建され、政治の中心は二ノ丸で行われました。しかし、天保6(1835)年には二ノ丸を火災で焼失。第10代藩主鍋島斉正(直正・閑叟)が本丸御殿を再建しました。
明治維新の後、明治7(1874)年に佐賀の乱で建造物の大半を失いました。
鯱の門には佐賀の乱の弾痕が残っています。
鯱の門と続櫓は昭和28(1953)年に佐賀県の重要文化財に、昭和32(1957)年に国の重要文化財に指定されました。本丸御殿の一番奥にあった御座の間は鍋島直正の居室でしたが、昭和32(1957)年までには赤松小学校の教室として使われました。その後昭和33(1958)年に水ヶ江大木公園に南水会館として移築されました。平成13(2001)年には佐賀市の重要文化財に指定され、平成16(2004)年に本丸御殿を復元した佐賀県立佐賀城本丸歴史館が完成、移築されました。
平成18(2006)年には日本100名城に指定されました。
佐賀城 - 01
佐賀城 - 01 posted by (C)pismo

佐賀城 - 02
佐賀城 - 02 posted by (C)pismo

佐賀城 - 03
佐賀城 - 02 posted by (C)pismo

佐賀城 - 04
佐賀城 - 04 posted by (C)pismo

佐賀城 - 05
佐賀城 - 05 posted by (C)pismo

佐賀城 - 15
佐賀城 - 15 posted by (C)pismo

佐賀城 - 21
佐賀城 - 21 posted by (C)pismo

佐賀城 - 25
佐賀城 - 25 posted by (C)pismo

佐賀の役招魂碑は万部島にあります。
石造亀の背に乗る大きな碑があり、島義勇、江藤新兵ら210名の名が刻まれた、角柱が左横に建っています。
大正9(1920)年、二つに別れていた招魂碑をこちらに移しました。
佐賀の役招魂碑 - 1
佐賀の役招魂碑 - 1 posted by (C)pismo

佐賀の役招魂碑 - 2
佐賀の役招魂碑 - 2 posted by (C)pismo

本行寺は永正年間、龍造寺胤家が創建した日蓮宗の寺院です。
境内には戦国時代に龍造寺、鍋島両氏に仕え武功のみならず治水事業や築城でも活躍した成富兵庫助茂安、明治維新で活躍した江藤新平の墓があります。
江藤新平は明治5(1872)年には初代司法卿として近代国家にふさわしい司法制度の整備に尽力しました。明治6(1873)年には参議になりましたが、征韓論を巡り政府内で対立が起き下野しました。
明治7(1874)年佐賀藩士族に擁立され、佐賀の役で政府軍と戦い敗れました。
墓は当初鍋島町蓮成寺にありましたが、後年この本行寺に改葬されました。
本行寺 - 1
本行寺 - 1 posted by (C)pismo

本行寺 - 5
本行寺 - 5 posted by (C)pismo

これで、今回の旅行の行程は終了です。佐賀は明治維新で活躍した大隈重信や大木喬任、佐野常民たちの史跡もまだまだあるのですが・・・少し残念です。
再び博多に戻り、新幹線で関西に戻りました。
Posted at 2009/09/23 00:17:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2009年09月06日 イイね!

肥前・筑前紀行(3日目その1・吉野ヶ里遺跡)

最終日です。
この日は吉野ヶ里遺跡を訪れました。

吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の大規模な環濠集落跡です。弥生時代の全時期、さらには古墳時代初めにかけての集落跡や墓地跡が発掘されており、ムラからクニへと集落が発展していく様子が窺えます。
大正時代から昭和時代の初めにかけて学術雑誌などに概要が報告されていました。1970年代から圃場整備や宅地化などで小規模な発掘調査が行われるようになり、昭和61(1986)年からは工業団地計画による発掘調査が行われました。平成元(1989)年、大規模な環濠集落跡や墳丘墓が「邪馬台国時代のクニ」「魏志倭人伝に書かれてある卑弥呼の集落と同じ造り」と報道され、全国的な注目を集めました。
平成3(1991)年には特別史跡に指定され、平成4(1992)年度からは国営吉野ヶ里歴史公園として整備保存に着手され、平成13(2001)年には第1期が開園されました。
物見櫓や環濠などなど防御的な性格があり、城郭の始まりともいえるため、平成18(2006)年、日本100名城にも指定されています。

吉野ヶ里遺跡・南内郭 - 01
吉野ヶ里遺跡・南内郭 - 01 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・南内郭 - 02
吉野ヶ里遺跡・南内郭 - 02 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・南内郭 - 03
吉野ヶ里遺跡・南内郭 - 03 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・南内郭 - 04
吉野ヶ里遺跡・南内郭 - 04 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・中のムラ - 1
吉野ヶ里遺跡・中のムラ - 1 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・北墳丘墓 - 1
吉野ヶ里遺跡・北墳丘墓 - 1 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・北墳丘墓 - 2
吉野ヶ里遺跡・北墳丘墓 - 2 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・北墳丘墓 - 3
吉野ヶ里遺跡・北墳丘墓 - 3 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・甕棺墓列 - 1
吉野ヶ里遺跡・甕棺墓列 - 1 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・甕棺墓列 - 2
吉野ヶ里遺跡・甕棺墓列 - 2 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・甕棺墓列 - 3
吉野ヶ里遺跡・甕棺墓列 - 3 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・北内郭 - 1
吉野ヶ里遺跡・北内郭 - 1 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・北内郭 - 2
吉野ヶ里遺跡・北内郭 - 2 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・北内郭 - 3
吉野ヶ里遺跡・北内郭 - 3 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・北内郭 - 4
吉野ヶ里遺跡・北内郭 - 4 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡・北内郭 - 5
吉野ヶ里遺跡・北内郭 - 5 posted by (C)pismo

吉野ヶ里遺跡
吉野ヶ里遺跡 posted by (C)pismo

この次は佐賀城を目指します。
Posted at 2009/09/22 21:01:49 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2009年09月04日 イイね!

肥前・筑前紀行(2日目その3・長崎の丸山界隈から平和公園周辺)

次は、丸山界隈を散歩です。
長崎の丸山は江戸の吉原、京都の島原とともに天下の三大遊郭とうたわれ栄えた場所です。
今はあまり昔の遊郭の雰囲気は残っていませんが、交番も雰囲気があります。
丸山町交番
丸山町交番 posted by (C)pismo

花月は、丸山の遊里引田屋の庭園につくられた茶屋でした。
寛永19(1642)年、それまで市中に散在していた遊女屋が一ヵ所に集められ、官許の遊里として円山町、寄合町が形成されました。引田屋もこの頃の創立といわれています。
花月は文政元(1818)年頃につくられ、長崎奉行の巡視の際には休憩所になりました。
向井去来、太田蜀山人、頼山陽といった文人墨客や、坂本龍馬など多くの志士たちも訪れました。
端唄春雨もここで生まれました。
明治12(1879)年の丸山の大火で花月は類焼しましたが、花月の名称は引田屋の一部に移され、庭園、建物とともに料亭「花月」として継承されています。
花月 - 1
花月 - 1 posted by (C)pismo

花月 - 2
花月 - 2 posted by (C)pismo

福砂屋は創業寛永元(1624)年の歴史有るカステラのお店です。最初は引地町にあったそうですが、六代目市良次の代の頃、船大工町に移ったそうです。
現在の長崎本店の建物は明治初期の建築で、趣のある建物です。
福砂屋
福砂屋 posted by (C)pismo

次は平和公園界隈です。
長崎原爆資料館は昭和20(1945)年8月9日に長崎市に投下された原子爆弾の資料を展示している資料館です。
昭和30(1955)年、長崎国際文化会館で原爆資料の展示が開始されましたが、建物の老朽化などもあり、平成8(1996)年に長崎原爆資料館として開館しました。
原爆資料館 - 1
原爆資料館 - 1 posted by (C)pismo

原爆資料館 - 2
原爆資料館 - 2 posted by (C)pismo

原爆資料館 - 3
原爆資料館 - 3 posted by (C)pismo

長崎市の平和公園は、原爆落下の中心地とその北側に造られた公園です。
8月9日の長崎原爆の日にはここで原爆犠牲者慰霊平和記念式が開催されます。
公園の中央には北村西望の平和祈念像があります。昭和30(1955)年に完成したもので、その姿は神の愛と仏の慈悲を象徴し、高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を意味し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っています。
平和公園 - 01
平和公園 - 01 posted by (C)pismo

平和公園 - 02
平和公園 - 02 posted by (C)pismo

平和公園 - 03
平和公園 - 03 posted by (C)pismo

平和公園 - 04
平和公園 - 04 posted by (C)pismo

これで2日目は終了。博多へ移動し、中洲の夜を楽しみました・・・
Posted at 2009/09/22 17:17:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2009年09月04日 イイね!

肥前・筑前紀行(2日目その2・出島)

今度は出島にやってきました。
出島は、寛永13(1636)年、ポルトガル人によるキリスト教布教を禁止するために徳川幕府が築いた扇形の人工の島です。
しかし、寛永18(1641)年、は幕府の命令で平戸に置かれていた和蘭商館が出島に移転し、その後、218年もの間世界に開かれた唯一の窓としての役割を果たしました。
明治37(1904)年に完成した第2期港湾改良工事により、扇形の出島はその原型が失われ、以来市街地に埋没してしまいました。
しかし 大正11(1922)年には、 国の史跡に指定され、昭和26(1951)年から史跡内民有地の公有地化への取り組みが開始されました。そして、平成8(1996)年には、「短中期」と「長期」に分けて進められ、最終的には四方を水路で取り囲む出島本来の扇形の「出島」が浮かび上がる史跡「出島和蘭商館跡」復元整備計画がにスタートしました。
平成12(2000)年度には西側5棟の復元がなされ、平成18(2006)年、カピタン部屋、乙名(おとな)部屋、拝礼筆者蘭人部屋、三番蔵、水門の5棟がに完成しました。
将来的には四方に水面を確保し、19世紀初頭の扇形の島の完全復元がなされるとのことですが、国道499号の線形変更や中島川の付け替えなども必要なため、時間がかかるそうです。

出島 - 01
出島 - 01 posted by (C)pismo

出島 - 02
出島 - 02 posted by (C)pismo

出島・カピタン部屋 - 01
出島・カピタン部屋 - 01 posted by (C)pismo

出島・カピタン部屋 - 02
出島・カピタン部屋 - 02 posted by (C)pismo

出島・カピタン部屋 - 03
出島・カピタン部屋 - 03 posted by (C)pismo

出島・カピタン部屋 - 04
出島・カピタン部屋 - 04 posted by (C)pismo

出島・カピタン部屋 - 05
出島・カピタン部屋 - 05 posted by (C)pismo

出島・新石倉(出島シアター)
出島・新石倉(出島シアター) posted by (C)pismo

出島・表門
出島・表門 posted by (C)pismo

出島・旧出島神学校
出島・旧出島神学校 posted by (C)pismo

出島・旧石倉(考古館)
出島・旧石倉(考古館) posted by (C)pismo

出島・ミニ出島 - 1
出島・ミニ出島 - 1 posted by (C)pismo

出島・ミニ出島 - 2
出島・ミニ出島 - 2 posted by (C)pismo

出島・バトミントン発祥の地
出島・バトミントン発祥の地 posted by (C)pismo

出島・ケンペル・ツュンベリー記念碑
出島・ケンペル・ツュンベリー記念碑 posted by (C)pismo
15年前に訪れた時は、ミニ出島と旧出島神学校くらいしか印象になかったのですが、今回訪れると見事なまでに復元されていました。
Posted at 2009/09/19 22:35:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記

プロフィール

「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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