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ピズモのブログ一覧

2010年03月29日 イイね!

伊予の城めぐりと坂の上の雲紀行(2日目その5・大三島)

今治からは帰路ですが、しまなみ海道経由ということもありせっかくなので大三島に立ち寄ってみました。
大山祇神社は伊予国一宮で天照大神の兄大山祇命が御祭神とする神社です。山祇神社、三島神社の総本山として、また山の神、海の神、戦いの神として全国各地からの尊崇を集めています。
国宝館には源頼朝・義経が奉納した甲冑など国宝の甲冑・刀剣が8件もあります。
入口近くにある乃木希典陸軍大将の「表忠碑」
大山祇神社 - 01
大山祇神社 - 01 posted by (C)pismo

大山祇神社 - 02
大山祇神社 - 02 posted by (C)pismo

ちょうど総門が688年ぶりに再建されるということで、訪れた時はほぼ完成間近でした。
大山祇神社 - 03
大山祇神社 - 03 posted by (C)pismo

大山祇神社 - 04
大山祇神社 - 04 posted by (C)pismo

大山祇神社 - 05
大山祇神社 - 05 posted by (C)pismo

大山祇神社 - 06
大山祇神社 - 06 posted by (C)pismo

大山祇神社 - 07
大山祇神社 - 07 posted by (C)pismo

大山祇神社 - 08
大山祇神社 - 08 posted by (C)pismo

大山祇神社 - 09
大山祇神社 - 09 posted by (C)pismo

大山祇神社 - 10
大山祇神社 - 10 posted by (C)pismo

大山祇神社 - 11
大山祇神社 - 11 posted by (C)pismo


鼻栗瀬戸展望台(はなくりせとてんぼうだい)は、上浦町瀬戸地区にあり、大三島と伯方島の間の急流で知られる鼻栗瀬戸と、鼻栗瀬戸にかかる西瀬戸自動車道・大三島橋が一望できます。
皇太子徳仁殿下の「鼻栗の瀬戸にかかりし橋望み 潮乗りこえし舟人偲ぶ」の歌碑が建っています。

鼻栗瀬戸展望台 - 1
鼻栗瀬戸展望台 - 1 posted by (C)pismo

鼻栗瀬戸展望台 - 2
鼻栗瀬戸展望台 - 2 posted by (C)pismo

少しだけ、歩いて大三島橋を渡ってみました。
大三島橋
大三島橋 posted by (C)pismo

甘崎城は古城島にあり、古名を天崎城と記され、守護神を祭る甘崎荒神社(現地)の伝えによると天智天皇10(671)年8月7日唐軍の侵攻に備えて、勅命によりて築城したといわれています。
初名を上門島海防城といい日本最古の水軍城ともいわれ、以来瀬戸内水軍史上にその名を記しています。
南北朝時代には今岡民部が城主となり、戦国時代には来島村上氏のものとなり、村上吉継が城主でした。
藤堂高虎が今治城主となった際、藤堂大輔を配しました。
藤堂氏の移封とともに廃城となったようです。
海底にはなお築城礎石の巨石の列が残っているそうです。
島には渡れないので、説明看板の建っている大三島から眺めるに留めました。
甘崎城 - 1
甘崎城 - 1 posted by (C)pismo

甘崎城 - 2
甘崎城 - 2 posted by (C)pismo

道の駅多々羅しまなみ公園からは、多々羅大橋がよく見えます。
道の駅多々羅しまなみ公園 - 1
道の駅多々羅しまなみ公園 - 1 posted by (C)pismo

近くの坂を登ると、多々羅展望台です。高台なので、更によく見渡せます。多々羅大橋のライトアップはされていないようです。

多々羅展望台 - 01
多々羅展望台 - 01 posted by (C)pismo

多々羅展望台 - 02
多々羅展望台 - 02 posted by (C)pismo
これで、今回の一泊二日の「坂の上の雲紀行」は終了です。
Posted at 2010/04/19 21:15:37 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年03月29日 イイね!

伊予の城めぐりと坂の上の雲紀行(2日目その4・今治城)

今治城、久し振りの訪問です。前回が平成11年ですから10年ぶりぐらいになりますね。
その間、鉄御門などが再建されました。
今治城は慶長9(1604)年9月、藤堂高虎によって築城されました。
慶長14(1609)年、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝えられています。
高虎自身は移封されましたが今治領2万石は飛び地として残り養子の高吉が居城しました。
寛永12(1635)年、高吉は伊賀国名張に移り、代わって伊勢国長島城より松平(久松)定房が入城し、以後、明治維新まで今治藩・久松松平氏の居城となりました。
明治維新以後、廃城令によりに建築物は破却されました。
昭和55(1980)年に5重6階の天守が鉄筋コンクリートで再建されました。
平成18(2006)年日本100名城に選定され、平成19(2007)年には江戸時代の史実に基づき、鉄御門(くろがねごもん)が石垣や多聞櫓5棟ともに復元されました。
今治城 - 1
今治城 - 1 posted by (C)pismo

今治城 - 2
今治城 - 2 posted by (C)pismo

今治城 - 3
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今治城 - 4
今治城 - 4 posted by (C)pismo

今治城 - 5
今治城 - 5 posted by (C)pismo

今治城を築城した、藤堂高虎の像です。
今治城 - 6
今治城 - 6 posted by (C)pismo

今治城 - 7
今治城 - 7 posted by (C)pismo

天守閣からは、来島海峡大橋がよく見えます。
今治城 - 8
今治城 - 8 posted by (C)pismo

今治城 - 9
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今治城 - 10
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今治城 - 11
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今治城 - 12
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今治城 - 13
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今治城 - 14
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今治城 - 15
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今治城 - 16
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今治城 - 17
今治城 - 17 posted by (C)pismo

この後は、しまなみ海道経由で帰路につきます。
Posted at 2010/04/18 21:18:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年03月29日 イイね!

伊予の城めぐりと坂の上の雲紀行(2日目その3・高浜〜旧北条市)

次は松山市の高浜町エリアです。
四十島(しじゅうしま)は、「ターナー島」とも呼ばれるは松山市高浜町一丁目、横山の沖約150メートルに浮かぶ小島です。
明治25(1892)年、伊予鉄道が三津から高浜まで延伸され、正岡子規はこの付近に遊んだといいます。
同年秋、子規は「初汐や 松に波こす 四十島」の句を詠んでいます。

明治39(1906)年4月、夏目漱石は小説「坊っちゃん」を発表しました。
その中で「四十島」のことを次のように描写しています。

「あの松を見給え、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」……
「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」……
すると野だいこがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名付けようじゃありませんかと余計な発議をした。
赤シャツはそいつは面白い、われわれはこれからそういおうと賛成した。

以来、松山では「四十島」のことを「ターナー島」と愛称しています。
句などに描写された姿の良い松は枯れてしまいましたが、篤志家の手によって蘇りつつあります。
四十島の向かいの松山市高浜町1丁目の藤電線工場裏側に子規の句碑があり、四十島がよく見えます。
四十島(ターナー島) - 1
四十島(ターナー島) - 1 posted by (C)pismo

四十島(ターナー島) - 2
四十島(ターナー島) - 2 posted by (C)pismo

四十島(ターナー島) - 3
四十島(ターナー島) - 3 posted by (C)pismo

四十島(ターナー島) - 4
四十島(ターナー島) - 4 posted by (C)pismo

四十島(ターナー島) - 5
四十島(ターナー島) - 5 posted by (C)pismo

陸軍大演習記念碑は、大正11(1922)年11月15日昭和天皇が皇太子時に軍の大演習が高浜沖で行われこの荒神山から観閲され、大正13(1924)年1月皇太子ご結婚記念に、陸軍大将であった秋山好古の揮毫によりに記念して建立したものです。
県道沿い、高浜診療所付近に案内看板が建っていたので登ってみました。
陸軍大演習記念碑〔秋山好古の書碑〕 - 1
陸軍大演習記念碑〔秋山好古の書碑〕 - 1 posted by (C)pismo

陸軍大演習記念碑〔秋山好古の書碑〕 - 2
陸軍大演習記念碑〔秋山好古の書碑〕 - 2 posted by (C)pismo

陸軍大演習記念碑〔秋山好古の書碑〕 - 3
陸軍大演習記念碑〔秋山好古の書碑〕 - 3 posted by (C)pismo

陸軍大演習記念碑〔秋山好古の書碑〕 - 4
陸軍大演習記念碑〔秋山好古の書碑〕 - 4 posted by (C)pismo

善応寺は、河野氏の居館跡に建てられた寺院です。
河野氏は、伊予国第一の大族で、風早郡河野郷土居のこの地からおこりました。
しかし、河野道盛が湯築城を築き本拠を道後に移したため、建武2(1335)年それまでの土居館を寺院に改築し、京の東福寺を模して一族の菩提寺、好成山善応寺を建立しました。
創建当時は七道伽藍の並ぶ広大な寺院でしたが天正13(1585)年の豊臣秀吉の四国征伐により灰燼となりました。
江戸時代中期、徳川吉宗の厚遇を受け、明智庵跡に松山藩主松平定長により再建されました。
善応寺 - 01
善応寺 - 01 posted by (C)pismo

善応寺 - 02
善応寺 - 02 posted by (C)pismo

善応寺 - 03
善応寺 - 03 posted by (C)pismo

善応寺 - 04
善応寺 - 04 posted by (C)pismo

善応寺 - 05
善応寺 - 05 posted by (C)pismo

善応寺 - 06
善応寺 - 06 posted by (C)pismo

善応寺 - 07
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善応寺 - 08
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善応寺 - 09
善応寺 - 09 posted by (C)pismo

善応寺 - 10
善応寺 - 10 posted by (C)pismo

善応寺 - 11
善応寺 - 11 posted by (C)pismo

次は、今治城へ向かいます。
Posted at 2010/04/18 21:00:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年03月29日 イイね!

伊予の城めぐりと坂の上の雲紀行(2日目その2・三津浜、港山、梅津寺サイクリング)

次は三津浜に駐車場に車を駐め、すこしばかりサイクリングをしてみました。
この附近も「坂の上の雲」などにゆかりの史跡などがあります。
きせんのりばの碑・子規の句碑です。三津内港は、鎌倉時代から伊予水軍の拠点でしたが三津は寒村でした。
慶長8(1603)年、松山城に移った加藤嘉明が水軍の根拠地とし松前から町民が移り発展が始まりました。
寛永12(1635)年、松平定行が御船手組や町奉行を置き、参勤交代の御用船の根拠地としました。
明治になると、三津浜町は商工業が発展し、大阪商船や宇和島運輸などの汽船が出入りする四国一の商取引所になっていましたが、三津浜港は底が浅いため、大きな汽船は入港することができず、沖合いに停泊したままで、港との間を「はしけ」と呼ばれる小船で結び、物資や人を運んでいました。
明治4(1871)年に「はしけ」で沖の汽船まで運送をはじめた場所に建てられたのが「きせんのりばの碑」です。
元は三津三丁目あたりに建っていました。
夏目漱石や正岡子規もここから出港し、ここに上陸した港です。「きせんのりばの碑」の側には、「十一人一人になりて秋の暮」という子規の句碑が建っています。
明治28(1895)年、日清戦争に従軍後、病に倒れた子規は松山に帰郷していましたが、再度上京することになり、松風会会員により送別会が開かれました。その際に漱石が「御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花」を贈り「十一人一人になりて秋の暮」を作り応えました。
きせんのりばの碑・子規の句碑 - 1
きせんのりばの碑・子規の句碑 - 1 posted by (C)pismo

きせんのりばの碑・子規の句碑 - 2
きせんのりばの碑・子規の句碑 - 2 posted by (C)pismo

三津の渡しは、三津浜港内で運行されている渡し船です。
三津浜の人々は「洲崎の渡し」「三津の渡し」といい、港山の人々は「古深里の渡し」「港山の渡し」といっています。
文明元(1469)年、伊予守河野通春が港山城主だった時、この渡しを利用したのが始まりといわれています。
慶長8(1603)年、加藤嘉明が水軍を根拠地とした時ここに御船場を置き、寛永12(1635)年、御船手を配置してからは、その統括の元に運行されていました。
寛文4(1635)年、洲崎の魚市売買に御沙汰があったことにより商人で賑わい、小林一茶も寛政7(1795)年、古深里洗心庵の句会の時に渡っています。
大正の初め頃までは小舟を水竿で操り、その後手漕ぎ時代が続きましたが、昭和45(1970)年、エンジン付渡船となりました。
現在正式名称は松山市道高浜二号線の一部(約80M)です。
映画「がんばっていきまっしょい」においては主人公が通学中に利用する場面が登場します。
三津の渡し - 1
三津の渡し - 1 posted by (C)pismo

三津の渡し - 2
三津の渡し - 2 posted by (C)pismo

三津の渡し - 3
三津の渡し - 3 posted by (C)pismo

大原其戎居宅の跡です。大原其戎は、正岡子規の俳諧の師匠です。
明治20(1887)年、正岡子規は勝田主税の紹介で柳原極堂とともに其戎を訪ね、俳諧の手ほどきを受けました。
三津浜の南、大可賀に芭蕉の句碑(あら株塚)を建て、その傍らに草庵を結びました。
屋敷跡には現在も芭蕉翁塚(あら株塚)があります。
「しくるるや 田のあら株のくろむほと」
その他、「大原其戎居宅の跡」の石碑と其戎の句碑「花之本大神 敬へはなほまたたしや花明かり」が建っています。
大原其戎居宅の跡
大原其戎居宅の跡 posted by (C)pismo

三津浜の町並みには古い情緒が残っています。下の写真は辻井戸です。
辻井戸 - 1
辻井戸 - 1 posted by (C)pismo

辻井戸 - 2
辻井戸 - 2 posted by (C)pismo

厳島神社は、崇峻天皇の時代に筑紫国の宗像大社から宗像三女神を迎えたのが始まりだとされています。
神亀元(724)年安芸国の厳島神社の神を迎えて厳島神社となりました。
応仁元(1467)年、河野通春が社殿を造営しましたが、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの際の苅屋敷の戦において、戦火にかかって消失し、慶長7(1602)年に現在地へ遷座しました。
江戸時代には参勤交代が三津を通ることもあり、松山藩の庇護を受けました。

厳島神社 - 01
厳島神社 - 01 posted by (C)pismo

境内には陸軍大将秋山好古揮毫の日露戦役表忠碑があります。
厳島神社 - 02
厳島神社 - 02 posted by (C)pismo

厳島神社 - 03
厳島神社 - 03 posted by (C)pismo

厳島神社 - 04
厳島神社 - 04 posted by (C)pismo

厳島神社 - 05
厳島神社 - 05 posted by (C)pismo

大原其戎・大原其沢の墓〔三津公園〕です。
大原其戎は、松山藩士で父大原其沢の跡を継ぎ、御船手大船頭となりました。
京の桜井梅堂の門に入り、二条家より宗匠の免許を受けて帰郷しました。明治13(1880)年、三津に明英社をおこし、日本で三番目に古い月刊俳誌「真砂の志良辺(まさごのしらべ)」を主催刊行しました。
奥平鶯居と共に伊予俳壇の双璧といわれました。
明治20(1887)年夏に帰省した子規は、其戎を訪ね以後文通により指導を受けました。
墓には「明月や 丸うふけ行ものの影」の句が刻まれています。隣には父大原其沢の墓があり「造作なふ 共に消えけり 雪仏」の句が刻まれています。
大原其戎・大原其沢の墓(三津公園)
大原其戎・大原其沢の墓(三津公園) posted by (C)pismo

河野通春公のお堂です。河野通春は、室町時代に河野家の分家、河野予州家の武将として活躍しました。
港山城主として伊予水軍を統率し応仁の乱など多くの戦いに出陣し、四海に勇名を轟かせました。
文明14(1482)年、港山城で逝去しました。
港山駅近くの住宅街にお堂があり、地元住民が現在も大事にしています。
河野通春公のお堂 - 1
河野通春公のお堂 - 1 posted by (C)pismo

秋山好古の銅像は、昭和11(1936)年、道後公園に建てられました。
昭和18(1943)年に撤去供出されました。
昭和45(1970)年、梅津寺に再建されました。
最初の銅像は、「騎兵の父」らしく騎馬姿でしたが、現在の姿は立ち姿です。
秋山好古の銅像 - 1
秋山好古の銅像 - 1 posted by (C)pismo

秋山好古の銅像 - 2
秋山好古の銅像 - 2 posted by (C)pismo

秋山真之の銅像は、昭和6(1931)年、日本海海戦25周年を記念して道後公園に建立されました。
台座には東郷平八郎の「知謀如湧」の揮毫があります。昭和18(1938)年に秋山好古の銅像と同じく撤去供出されました。
昭和38(1963)年に石手寺に再建され、昭和43(1968)年9月に梅津寺へ移されました。
秋山真之の銅像 - 01
秋山真之の銅像 - 01 posted by (C)pismo

秋山真之の銅像 - 02
秋山真之の銅像 - 02 posted by (C)pismo

東京ラブストーリーのロケ地、梅津寺駅があるので少し休憩がてら立ち寄りました。ここは、平成18年にも訪れました。梅津寺パークが閉園し、公園になっていたのは驚きました。
梅津寺駅 - 01
梅津寺駅 - 01 posted by (C)pismo

梅津寺駅 - 02
梅津寺駅 - 02 posted by (C)pismo

梅津寺駅 - 03
梅津寺駅 - 03 posted by (C)pismo

梅津寺駅 - 04
梅津寺駅 - 04 posted by (C)pismo

梅津寺駅 - 05
梅津寺駅 - 05 posted by (C)pismo

湊山城は、建武年間(1334〜1337)に河野通盛が道後湯築城を築いた時に、海の守りとして築城したといわれています。
その後、室町時代に河野通春が湊山に堅固な城を築きました。当時、河野家は湯築城の宗家河野教通(通直)と、港山城に拠る庶子家の通春に分かれて争っていました。
通春は、周防の大内氏と結び制海権を有して教通を凌ぐ一大勢力を持っていました。
応仁の乱後、通春は文明10(1478)、文明13(1481)年の二度の戦いを教通と行い、ついに湊山の北麓で流矢にあたり戦死したともいわれています。
天正13(1585)年、秀吉の四国征伐で滅び、廃城となりました。
現在は石積や、井戸跡、3つの郭などが残っているそうです。登城口付近に説明看板が建っていますが、竹藪がひどく、登城はほとんど不可能です。
港山城 - 1
港山城 - 1 posted by (C)pismo

港山城 - 2
港山城 - 2 posted by (C)pismo

港山城 - 3
港山城 - 3 posted by (C)pismo

洗心庵跡です。
寛政7(1795)年、1月15日、俳諧師小林一茶が松山に来遊し、20日ばかり滞在し2月5日三津浜の方十亭を宿にし、9日小深里(現在の港山町)の洗心庵に俳友を集めて句会を催し下記の4つを詠みました。
「汲みて知るぬるみに昔なつかしや」
「にな蟹と成て女嫌れな」
「山やく山火と成りて日の暮るゝ哉」
「梅の月一枚のこす雨戸哉」
なお、洗心庵は、徳川中期より代々尼僧が住んでいた尼寺でしたが、明治5(1872)年、廃仏毀釈により廃寺になりました。
港山城登城口付近に石碑が建っています。

洗心庵跡
洗心庵跡 posted by (C)pismo

この後は再び三津浜の駐車場に戻り、車で高浜方面に移動します。
Posted at 2010/04/15 23:32:31 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年03月29日 イイね!

伊予の城めぐりと坂の上の雲紀行(2日目その1・荏原城・松前城)

2日目です。
この日は、最初に松山市郊外の荏原城を訪れました。
荏原城は、室町時代から戦国期に伊予を支配した河野家十八将の首位であった平岡氏代々の居城跡です。
建武2(1335)年、怱那氏が「会原城」で戦ったという記録が『怱那一族軍忠次第』にあり、築城はそれ以前であると考えられています。
土佐からの侵入を防ぐ拠点であったが、天正13(1585)年、平岡通倚の時秀吉の四国統一により、道後湯築城とともに落城しました。
高さ5メートルほどの土塁を周囲に築いた方形の館形式の城です。土塁、濠がよく残っています。
荏原城 - 01
荏原城 - 01 posted by (C)pismo

荏原城 - 02
荏原城 - 02 posted by (C)pismo

荏原城 - 03
荏原城 - 03 posted by (C)pismo

荏原城 - 04
荏原城 - 04 posted by (C)pismo

荏原城 - 05
荏原城 - 05 posted by (C)pismo

松山市近郊、伊予郡松前町の松前城です。松前城の起源は明らかではないが、平安時代初期すでにこの地に定善寺(性尋寺、今の金蓮寺)があり、境内に砦が設けられたのが始まりであろうといわれています。
古くは「松崎城」などと呼ばれ、建武3(1336)年、南北朝時代南朝方の今田弥四郎貞遠のたてこもる「松崎城」を北朝方の祝彦三郎安親が攻略したという記録があります。
湊川の戦いで楠木正成を討った功により、砥部の豪族大森彦七が松前城主を兼ねましたが、やがて荏原の平岡氏が城主となりました。正平年間(1360)年頃穴草入道、同出羽守らが松前城にいましたが、南朝方で九州に赴いていた河野通直が大兵を率いて松前浜に上陸、松前城を攻略し、以後松前城は河野氏の本拠湯築城の西方海上防衛の出城となりました。
その後、河野氏の武将栗上因幡守通宗、同但馬入道通閑らが松前城にいましたが豊後の大友氏、安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏らが相次いで侵攻し松前城攻防の激戦が幾度となく繰り返されました。
天正13(1585)年の豊臣秀吉の四国征伐で、河野通直は小早川隆景の軍門に降り栗上氏らと共に安芸竹原に退去しました。
天正16(1588)年、栗野木工頭秀用が松前城主となりましたが、秀次事件に連座除封され、文禄4(1595)年、加藤嘉明が城主となりました。翌慶長元(1596)年嘉明は足立重信らに命じ金蓮寺を現在地に移転、伊予川を改修して城郭及び松前港の大改修を行いました。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦に嘉明は東軍に従って出征しましたが、留守に毛利勢3000が三津浜に上陸、河野氏の残党と松前城を攻めましたが佃十成らの勇戦により撃退しました。
関ヶ原の戦いの功により二十万石となった嘉明は慶長8(1603)年松山城に移り松前城は廃城となりました。
天保以降二の丸は耕地化し、余り土を盛った所に大正14(1925)年10月記念碑が建立され、昭和44(1969)年町指定史蹟となりました。

「松前」は、古来「松崎」「真崎」「正木」「柾木」「満崎」等書かれており、「松前」に定着したのは、寛永12(1635)年、松平定行が入国してからです。
松前城 - 1
松前城 - 1 posted by (C)pismo

松前城 - 2
松前城 - 2 posted by (C)pismo

この後は、三津浜、梅津寺の坂の上の雲ゆかりの史跡を巡ります。
Posted at 2010/04/12 22:22:08 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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H26.3購入しました。
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
H18.3アコードワゴンから乗り換えました。
ホンダ スペイシー100 ホンダ スペイシー100
2ストのリード100から乗り換え。 少しパワー不足でした。
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