新発田から北上し、胎内市に来ました。
ここは平安〜鎌倉時代の城氏、揚北衆として知られる和田氏の系統の中条氏、黒川氏関連の史跡が充実しています。
奥山荘歴史館は、「奥山荘歴史の広場」として江上館のある場所に整備された場所にある資料館です。
奥山荘は中世の荘園で、現在も城館遺跡などがこの地方に確認されています。
奥山荘歴史館は、奥山荘の歴史や、江上館の出土遺物を紹介しています。
職員の方が丁寧に説明してくださいます。
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江上館は、木曽義仲追討の恩賞として、鎌倉幕府から奥山荘地頭職を与えられた和田義茂の子孫の中条氏の居館です。
江上館は越後三浦和田氏の惣領家・中条氏の15世紀の居館といわれています。
中条氏は戦国時代には庶流の羽黒氏の居館を接収し、鳥坂城に本拠地を移しました。
奥山荘城館遺跡として国の史跡に指定されており、現在は奥山荘歴史の広場として整備され、平成14(2002)年5月10日オープンしました。
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坊城館は、木曽義仲追討の恩賞として、鎌倉幕府から奥山荘地頭職を与えられた和田氏の初期の館です。
鎌倉時代、この地を本拠地として使用していたようです。
室町時代にはすぐ北側の江上館を築き移転したようです。
平成18(2006)年1月26日には、奥山荘城館遺跡として国の史跡に「古舘館跡」(古舘)とともに追加指定されました。
発掘調査を終え、現在史跡公園として整備中です。
坊城館 - 1 posted by
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胎内市役所から鳥坂城を望む
板額御前の像です。板額御前は、鎌倉時代の勇婦で、建仁元(1201)年、甥の資盛と共に平氏再興を企て、越後国鳥坂城で兵を挙げました。
源頼家は佐々木盛綱を遣わし攻撃しましたが、板額御前は奮戦し束髪に腹巻を着け、楼上から矢を射て敵を悩ませました。
しかし、信濃の藤沢清親が背後の高みから狙い撃った矢が板額御前の腿を射貫いたため倒れ捕らわれました。
そして、鎌倉の頼家の元に送られ、後に弓の名手浅利与一義成に請われ妻となり、甲斐国に同伴しその地で亡くなりました。
中条町(現在の胎内市)では、板額御前奮戦800年を記念して広く町民等から浄財を募り、平成13(2001)年10月14日に中条町庁舎(現在の胎内市役所)前に銅像を建立しました。
鳥坂山をのぞむ角度に配置されています。
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板額御前の銅像 - 2 posted by
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鳥坂城は、築城時期は不明ですが、伝承によると治承4(1180)年、越後守に任ぜられた城資永が有事の際の要害として取り立てたとたといわれています。
建仁元(1201)年、城資永の子資盛が鎌倉幕府に反旗を翻し、叔母の板額御前と共に奮戦しましたが落城しました。
その後和田義盛の弟義茂に越後奥山庄の地頭職となり、子孫は中条氏、黒川氏、関沢氏、築地氏、金山氏など多くの庶流を生み出しました。
中条氏は、江上館を平時の居館とし、また鳥坂城を有事の際の砦として取り立てたと考えられています。
室町期以降、中条氏は江上館から鳥坂城をに本拠を移しました。
その後中条氏は同族黒川氏との領地争いが頻発し、天正6(1578)年の「御館の乱」では景勝方に与した中条景泰と三郎景虎方に与した黒川清実が対立し、鳥坂城は黒川勢の攻撃を受けて一時落城しています。
しかし、一族の築地氏が黒川城を攻めたり攻防を繰り広げられましたが、結局御館の乱は景勝方の勝利に終わりました。
天正10(1582)年、「魚津城の戦い」で景泰が討死にすると嫡子一黒丸(後の三盛)が中条家の家督を継承しましたが、慶長3(1598)年 三盛は上杉景勝の会津転封に同道して鮎貝城に移ったため、鳥坂城は廃城となりました。
現在、宮の入コース入口付近(南側)の山麓居館跡と頂上の山城跡に遺構が残ります。
白鳥コースから登ってみましたが、沢伝いでのルートのため、かなり歩きにくかったです。
帰りに通った宮の入コースの方が歩きやすかったです。
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黒川陣屋は、黒川藩柳沢氏の陣屋です。黒川藩は、享保9(1724)年に柳沢吉保の四男柳沢経隆が1万石で入封し黒川藩を立藩しました。
柳沢家は定府大名のため、黒川陣屋で政務を行うことは基本的にはありませんでしたが、文久3(1863)年に7代藩主柳沢光昭は藩校を開校させました。
明治元(1868)年の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加しましたが、新発田藩が新政府側につくと隣接する三日市藩とともに新政府に恭順しました。
明治4(1871)年、廃藩置県となり黒川県となった後新潟県に編入されました。
陣屋跡は現在胎内市立黒川小学校となっており、遺構は残っていません。石碑や説明看板もないのは寂しい限りです。
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次は、更に北上し村上へ向かいます。
Posted at 2010/06/06 22:35:29 | |
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