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ピズモのブログ一覧

2010年05月02日 イイね!

H22越後上杉紀行(2日目その4・新発田市内サイクリング)

ついに新発田市内に到着しました。
新発田城からはサイクリングです。
もう夕方で、新発田城の中には入れませんが、早速撮影開始。
新発田城は、室町時代に加地佐々木氏の一族、新発田氏の居館がありました。
戦国時代は御館の乱で恩賞が無かった新発田重家が七年間に渡って上杉家に抵抗して、上杉氏当主となった景勝を大いに苦しめました。天正15(1587)年に乱は終結し、新発田城は落城しました。
慶長3〔1598)年、溝口秀勝が加賀大聖寺から6万石で入封し、古丸を取り込み慶長7(1602)年から本格的な築城にとりかかり、3代宣直の承応3(1654)年に一応完成しました。その後、江戸時代を通して溝口家の居城でした。
明治6(1873)年に明治政府より発布された廃城令により、表門、鉄砲櫓跡に移築された二の丸隅櫓と石垣のみを残し、城内の建物は三階櫓など大半が破却されました。
城の敷地はほとんどが歩兵16連隊の駐屯地になり、戦後の一時期米軍の駐留後、昭和21(1946)年新潟青年師範学校が移転してきて、旧兵舎を校舎として使用し、昭和24(1949)年に新潟大学新発田分校が開校し、その他引揚者の寮、本丸中学校、各種民間事業所などが兵営跡に同居していました。昭和28(1953)年自衛隊駐屯地となり、現在に至っています。
三階櫓・辰巳櫓が平成16(2004)年に復元されました。三階櫓は自衛隊敷地のため内部は公開されておらず、辰巳櫓と昔から残る表門・二の丸隅櫓のみ一般公開されています。平成18(2006)年には日本100名城に選定されています。
新発田城 - 01
新発田城 - 01 posted by (C)pismo

新発田城 - 02
新発田城 - 02 posted by (C)pismo

新発田城 - 03
新発田城 - 03 posted by (C)pismo

新発田城 - 04
新発田城 - 04 posted by (C)pismo

新発田城 - 05
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新発田城 - 06
新発田城 - 06 posted by (C)pismo

新発田城 - 07
新発田城 - 07 posted by (C)pismo

新発田城 - 08
新発田城 - 08 posted by (C)pismo


新発田城表門前に建つ堀部安兵衛銅像です。新発田の出身です。
江戸への旅立ちの姿を表した銅像が、新発田城の表門前に立っています。
新発田城・堀部安兵衛の銅像 - 01
新発田城・堀部安兵衛の銅像 - 01 posted by (C)pismo

新発田城・堀部安兵衛の銅像 - 02
新発田城・堀部安兵衛の銅像 - 02 posted by (C)pismo

堀部安兵衛誕生之地です。赤穂浪士四十七士の堀部安兵衛は、新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門の長男として生まれました。元禄7(1694)年、高田馬場の決闘で同門の伊予西条藩士菅野六郎左衛門の助太刀を行い、相手方3人を斬り評判となりました。
その後、赤穂藩浅野家の家臣、堀部弥兵衛の婿養子となり、元禄赤穂事件では江戸急進派のリーダー格となり、討ち入りでも活躍しました。
新潟県立新発田病院跡地の片隅に堀部安兵衛誕生の地の碑が立っています。
石碑が建っているのは、寛保3(1743)年、七代藩主溝口直温の時代に建てられた大手中ノ門脇櫓があったところで、実際は、道路を挟んだ向かい側に屋敷があったようです。
堀部安兵衛生誕地 - 1
堀部安兵衛生誕地 - 1 posted by (C)pismo

長徳寺は真宗大谷派の寺院で、堀部安兵衛武庸の生家中山家の菩提寺であす。
境内には安兵衛が新発田から旅立つ時に植えたとされる堀部安兵衛手植えの松がありました。しかし、平成9(1997)年12月、老齢のため伐採されました。現在ある松は堀部安兵衛手植えの松の実生から育てた二代目の松です。また、赤穂四十七士の木像が収められている義士堂があります。
長徳寺 - 1
長徳寺 - 1 posted by (C)pismo

長徳寺 - 2
長徳寺 - 2 posted by (C)pismo

長徳寺 - 3
長徳寺 - 3 posted by (C)pismo

上人数溜(かみにんずうだまり)は、貞享3(1686)年、立売町大火で焼失した蓮昌寺跡地を広場にしたものです。この他、現在の中央町3丁目に「中人数溜」、大手町1丁目に「下人数溜」と呼ばれる広場がありました。
この広場は、新発田城下町の上手にあたり、しかも当時の主要道路である会津街道や三国街道に通じる要所であったため、以後新発田藩廃藩までの180年間、緊急時には城と城下を守る軍勢の集合場所になる役割をもっていました。
明治元(1868)年6月、戊辰戦争に際して去就を決めかねていた新発田藩は米沢藩から再三にわたり奥羽列藩同盟としてのはっきりとした態度をとるよう催促を受けていました。やむなく、十二代の幼い藩主直正が米沢藩の陣営、岩船郡上関に赴こうと城を出たところ「藩主が人質にとられる」と領民数千人が蜂起し、この上人数溜に集結してその通行を遮ったため、直正一行が一時清水谷御殿(現在の清水園)に入り、上関行きを取りやめるという事件がありました。
この後、新発田藩は奥羽列藩同盟を離脱して官軍に付き、町は兵火に遭うことを免れました。
福勝寺の南側に説明看板が建っています。
上人数溜
上人数溜 posted by (C)pismo

福勝寺は、山号は菩提山曹洞宗の寺院です。
応永元(1394)年の、南魚沼郡塩沢の雲洞庵三世悦叟祖誾大和尚が開山となり草創しました。
開基は新発田重家で、山門脇に開基堂、本堂横に墓所があります。
重家は御館の乱後、上杉景勝と袂を分かち、天正9(1581)年から戦いが始まり、天正15(1587)年10月28日、新発田城落城と共に討死しました。42歳でした。
山門脇には銅像も建てられています。
福勝寺 - 01
福勝寺 - 01 posted by (C)pismo

福勝寺 - 02
福勝寺 - 02 posted by (C)pismo

福勝寺 - 03
福勝寺 - 03 posted by (C)pismo

宝光寺は、山号は廣沢山、曹洞宗の寺院です。
新発田藩主溝口家の菩提寺として知られ、溝口秀勝の新発田移封に伴い、慶長17(1612)年頃、現在地に移されました。
文政年間の大火により本堂、庫裏などすべてを焼失し、弘化2(1845)年11代藩主溝口直溥公により復興し山門が建立されました。
宝光寺 - 01
宝光寺 - 01 posted by (C)pismo

宝光寺 - 02
宝光寺 - 02 posted by (C)pismo

宝光寺 - 03
宝光寺 - 03 posted by (C)pismo

宝光寺 - 04
宝光寺 - 04 posted by (C)pismo

宝光寺 - 05
宝光寺 - 05 posted by (C)pismo

諏訪神社は、大化4(648)年、大和朝廷の北方経営にともなって信濃国から動員された人々が故国をしのんで信濃の諏訪神社を勧請したのが発祥とされ現在の北蒲原郡聖籠町の諏訪山が故地だとされてます。
その後、佐々木盛綱や新発田重家が厚く信仰し、新発田城近くに遷座しました。
慶長年間、溝口秀勝が新発田城内に遷して祭りました。
寛永15(1638)年、溝口宣直の時代に鍛冶町へ遷座し、現在地には元禄元(1638)年溝口重雄の時代に遷座しました。
平成13(2001)年、不審火で全焼しましたが、平成16(2004)年に再建されました。
当初の祭神は建御名方命と八坂比売命でしたが,後に新発田藩祖の溝口秀勝公(溝口大祖神)も合祀されました。
諏訪神社 - 01
諏訪神社 - 01 posted by (C)pismo

諏訪神社 - 02
諏訪神社 - 02 posted by (C)pismo

諏訪神社 - 03
諏訪神社 - 03 posted by (C)pismo

東公園は、大正初期に新発田出身の実業家、大倉喜八郎氏が当時の新発田町へ寄付した公園です。
新発田駅前土地区画整理事業の施行に伴い、再整備されました。
公園内には蒸気機関車D51 512号機が保存されています。
東公園 - 1
東公園 - 1 posted by (C)pismo

東公園 - 2
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東公園 - 3
東公園 - 3 posted by (C)pismo

もう暗くなってきたので、新発田城へ引き返します。
Posted at 2010/05/23 17:16:17 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年05月02日 イイね!

H22越後上杉紀行(2日目その3・新発田市郊外)

次はいよいよ新発田市です。
まず、五十公野(いじみの)を訪れました。

旧県知事公舎記念館は、明治42(1909)年12月、新潟市営所通(中央区)に新潟県知事公舎として建てられ、以後80年近い風雪に耐え、歴代知事が起居し、県政の重要事項が決定される場となりました。公舎は公邸と私邸からなり、公邸は洋風建築、私邸は和風建築となっています。
昭和63(1988)年、老朽化のため取り壊しの上新築されることになりましたが、新発田市が公邸全部と私邸の一部を譲り受け、奉先堂公園の隣接地に移築復元しました。内部には知事の揮毫額、遺愛品などが展示してあります。
旧県知事公舎記念館 - 01
旧県知事公舎記念館 - 01 posted by (C)pismo

旧県知事公舎記念館 - 02
旧県知事公舎記念館 - 02 posted by (C)pismo

旧県知事公舎記念館 - 03
旧県知事公舎記念館 - 03 posted by (C)pismo

旧県知事公舎記念館 - 04
旧県知事公舎記念館 - 04 posted by (C)pismo

旧県知事公舎記念館 - 05
旧県知事公舎記念館 - 05 posted by (C)pismo

旧県知事公舎記念館 - 06
旧県知事公舎記念館 - 06 posted by (C)pismo

旧県知事公舎記念館 - 07
旧県知事公舎記念館 - 07 posted by (C)pismo

旧県知事公舎記念館 - 08
旧県知事公舎記念館 - 08 posted by (C)pismo

五十公野御茶屋は新発田藩主溝口家の茶寮です。
初代藩主溝口秀勝が、越後蒲原郡に入封の際、この地熊ノ沢に仮住居を構えて御手作田を営み、築城と領内支配の構想を練ったといわれています。
明暦元(1655)年に三代藩主宣直が敷地三万四千坪に御茶屋を造りました。
四代藩主重雄の時、幕府の庭方懸宗知を招いて庭園を築き、裏山(御腰掛山)の中腹には「華鳥軒」という四阿を建てています。
歴代藩主は会津街道を利用しての参勤交代の際、城内から五十公野までの間は盛装をして行列し、この御茶屋で旅装に着替えて江戸に向かいました。普段は重臣にも使用を許し、茶会を催したりしました。
現在の御茶屋御殿は、文化11(1814)年に建てられたもので、数寄屋造りの建物です。庭園は回りに築山を巡らした廻遊式庭園です。
奉先堂公園の名称で日本の歴史公園100選に指定されています。
五十公野御茶屋 - 01
五十公野御茶屋 - 01 posted by (C)pismo

五十公野御茶屋 - 02
五十公野御茶屋 - 02 posted by (C)pismo

五十公野御茶屋 - 03
五十公野御茶屋 - 03 posted by (C)pismo

五十公野御茶屋 - 04
五十公野御茶屋 - 04 posted by (C)pismo

五十公野御茶屋 - 05
五十公野御茶屋 - 05 posted by (C)pismo

五十公野御茶屋 - 06
五十公野御茶屋 - 06 posted by (C)pismo

五十公野御茶屋 - 07
五十公野御茶屋 - 07 posted by (C)pismo

五十公野御茶屋 - 08
五十公野御茶屋 - 08 posted by (C)pismo五十公野御茶屋 - 09
五十公野御茶屋 - 09 posted by (C)pismo

五十公野御茶屋 - 10
五十公野御茶屋 - 10 posted by (C)pismo

五十公野城は五十公野氏の居城です。
築城時期は不明です。五十公野氏は、新発田氏の一族で、戦国時代には後の新発田重家が五十公野治長と称して家を継いでいましたが、天正8(1580)年、兄・新発田長敦の死により新発田氏に戻って家を継いだため、新発田重家の妹婿・長沢道如斎が、五十公野信宗と改名して代わりに五十公野氏を継ぎました。
天正9(1581)年、義兄の重家が上杉景勝に反旗を翻すとこれに従いましたが、天正15(1587)年、藤田信吉率いる景勝勢に城を囲まれ、籠城中に家老の河瀬次太夫や近習の渋谷氏などが信吉に調略されて寝返るなどしたため、10月13日に落城し信宗も討死にしました。
新発田市東中学校の東側の小山が城跡です。なお、東中学校は、居館があった跡地だそうです。
現在は堀切などが残り、主郭部には石碑が建っています。
五十公野城 - 1
五十公野城 - 1 posted by (C)pismo

五十公野城 - 2
五十公野城 - 2 posted by (C)pismo

五十公野城 - 3
五十公野城 - 3 posted by (C)pismo

ここからは、新発田市北東部です。
宝積寺は、竹俣氏の菩提寺です。この附近に、竹俣氏の居館であった宝積寺館があったといわれています。
宝積寺近く - 1
宝積寺近く - 1 posted by (C)pismo宝積寺近く - 2
宝積寺近く - 2 posted by (C)pismo

宝積寺近く - 3
宝積寺近く - 3 posted by (C)pismo

宝積寺 - 1
宝積寺 - 1 posted by (C)pismo

宝積寺 - 2
宝積寺 - 2 posted by (C)pismo

香伝寺(香傳寺)は、曹洞宗の寺院で、加地佐々木氏の菩提寺です。
天正年間、加地春綱の時代に旧館を寺地に貰い移りました。
香伝寺 - 1
香伝寺 - 1 posted by (C)pismo

香伝寺 - 2
香伝寺 - 2 posted by (C)pismo

香伝寺 - 3
香伝寺 - 3 posted by (C)pismo

香伝寺 - 4
香伝寺 - 4 posted by (C)pismo

藤戸神社は、加地佐々木氏の氏神です。
文治元(1189)年、佐々木盛綱が加地荘の地頭職となり、祖先を祭ったと言われています。
藤戸社は佐々木盛綱が源平合戦の備前藤戸の戦いで、敵を攻める浅瀬の秘密が漏れないよう浦の男の命を奪い、その供養のため藤戸明神を創設したとも言われています。
加地城の登城口にあります。
加地城 - 01
加地城 - 01 posted by (C)pismo加地城・藤戸神社 - 02
加地城・藤戸神社 - 02 posted by (C)pismo

加地城・藤戸神社 - 03
加地城・藤戸神社 - 03 posted by (C)pismo

加地城・藤戸神社 - 04
加地城・藤戸神社 - 04 posted by (C)pismo

加地城・藤戸神社 - 05
加地城・藤戸神社 - 05 posted by (C)pismo

加地城(加治城)は、鎌倉時代初期に越後国蒲原郡加地荘の地頭に任じられた佐々木盛綱が築いたといわれています。
代々盛綱の子孫の加地氏の居城となりました。
加地春綱は、妻が長尾為景の娘で、謙信麾下の武将として活躍しました。その子秀綱は川中島の戦いにも参陣し重く用いられていました。
謙信の急死により勃発した御館の乱では、上杉景虎に与し、上杉景勝方の五十公野治長、五十公野信宗に奇襲攻撃され一旦は降伏しました。
しかし天正9(1581)年、新発田重家の乱が起こると、秀綱はこれに加担してまたしても景勝に対抗しました。景勝は新発田城攻撃に先立ち、天正15(1587)年9月7日に加地城を攻め落城し、秀綱は討死にしました。
主郭部には藤戸神社から登ります。新発田市街地などの眺望の良い山城です。
加地城 - 01
加地城 - 01 posted by (C)pismo

加地城 - 02
加地城 - 02 posted by (C)pismo

加地城 - 03
加地城 - 03 posted by (C)pismo

加地城 - 04
加地城 - 04 posted by (C)pismo

この後は、新発田市中心部へ向かいます。
Posted at 2010/05/20 21:28:02 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年05月02日 イイね!

H22越後上杉紀行(2日目その2・沢海の北方文化博物館周辺〜阿賀野市水原)

次は新潟市江南区、かつての旧横越町にある沢海という地域を訪れました。
大栄寺は、曹洞宗の寺院です。
寛永8(1631)年伊藤左五右ェ門が、村上領草水村の観音寺十一世笑山全悦和尚を請し、満光、極楽、得船の三カ寺を合併して大栄寺と改め開山しました。
境内には沢海藩(そうみはん)溝口家の墓所があります。慶長15(1610)年、新発田藩の初代藩主溝口秀勝の没後、新発田藩二代藩主宣勝の弟である善勝(沢海藩初代藩主)が1万2千石の領地を分知されたことで成立しました。二代藩主政勝、三代政良と続きましたが、政良の子政武は23歳で早世し、姻戚の水口藩主加藤明友の次男政親を養子に迎え、四代目としました。
しかし、貞享4(1687)年、政親の不行跡により改易となり、沢海藩は断絶しました。大栄寺には、二代政勝、三代政良、四代目となるはずだった政武の墓があり、初代善勝の墓は江戸屋敷に近い東京都品川区の青松寺に、四代政親の墓は滋賀県甲賀市水口町の蓮華寺にあります。
大英寺・溝口政勝の墓 - 03
大英寺・溝口政勝の墓 - 03 posted by (C)pismo

大英寺・溝口善勝の墓 - 04
大英寺・溝口善勝の墓 - 04 posted by (C)pismo

大英寺・溝口政良の墓 - 05
大英寺・溝口政良の墓 - 05 posted by (C)pismo


大英寺 - 09
大英寺 - 09 posted by (C)pismo

大英寺 - 10
大英寺 - 10 posted by (C)pismo

大英寺 - 12
大英寺 - 12 posted by (C)pismo

大英寺 - 13
大英寺 - 13 posted by (C)pismo

沢海日枝神社の創建は戦国時代末期で、慶安元(1648)年3月、沢海藩二代藩主溝口政勝により再建されたと伝えられています。
主祭神は、大山昨大神(山王権現)でほかに、天照皇大神(神明社)、大己貴神(三輪社)、建御名方神(諏訪社)、倉稲魂神(稲荷社)が合祀されています。
貞享4(1687)年の沢海藩改易後も領主の旗本小浜家により庇護を受けました。
境内には、秋山好古揮毫の忠魂碑が建っています。
沢海日枝神社 - 1
沢海日枝神社 - 1 posted by (C)pismo

沢海日枝神社 - 3
沢海日枝神社 - 3 posted by (C)pismo

沢海代官所・旗本知行所屋敷〔光圓寺〕です。
沢海藩が改易された後、旧沢海藩領は幕府領となり、現在の光圓寺の境内に出雲崎代官所の出張陣屋が置かれました。
宝永4(1707)年から明治維新までは旗本小浜氏の知行所がありました。
光圓寺は浄土真宗大谷派の寺院で、寛永6(1629)年に沢海に移り、明治2(1869)年に代官所のあった現在地に移っています。
沢海代官所・旗本知行所(光圓寺) - 1
沢海代官所・旗本知行所(光圓寺) - 1 posted by (C)pismo

北方文化博物館です。伊藤家は沢海で越後随一の大地主となった一族です。
明治に入り、次第に農地の集積を計り全盛期には1市4郡64ヶ町村に1,370余町歩(1,370万㎡)の田畑を所有、昭和期には県下一となり作徳米は3万俵余りありましたが、戦後の農地解放によりこれらの土地は伊藤家の所有から離れました。
明治15(1882)年から8年がかりで建てられた伊藤家の豪壮な本邸は敷地8,800坪(29,100㎡)、建坪1,200坪(3,967㎡)、部屋数65を数える純日本式住居で、終戦半年後の昭和21(1946)年遺構保存のため、「財団法人北方文化博物館」が創設され、伊藤家より寄付を受けました。
平成12(2000)年、国の登録文化財に指定されました。
北方文化博物館 - 01
北方文化博物館 - 01 posted by (C)pismo

北方文化博物館 - 04
北方文化博物館 - 04 posted by (C)pismo

三楽亭は正三角形の書斎兼茶室です。
北方文化博物館 ・三楽亭- 10
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北方文化博物館・三楽亭- 12
北方文化博物館・三楽亭- 12 posted by (C)pismo

北方文化博物館・三楽亭 - 14
北方文化博物館・三楽亭 - 14 posted by (C)pismo

集古館は蔵造りの建物。現在は美術品などを展示しています。
北方文化博物館・集古館 - 19
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北方文化博物館 - 21
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北方文化博物館 - 23
北方文化博物館 - 23 posted by (C)pismo

北方文化博物館 - 29
北方文化博物館 - 29 posted by (C)pismo

北方文化博物館 - 30
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北方文化博物館 - 32
北方文化博物館 - 32 posted by (C)pismo

北方文化博物館 - 40
北方文化博物館 - 40 posted by (C)pismo

北方文化博物館 - 41
北方文化博物館 - 41 posted by (C)pismo

北方文化博物館 - 43
北方文化博物館 - 43 posted by (C)pismo

北方文化博物館 - 50
北方文化博物館 - 50 posted by (C)pismo

北方文化博物館 - 52
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北方文化博物館 - 54
北方文化博物館 - 54 posted by (C)pismo

北方文化博物館 - 55
北方文化博物館 - 55 posted by (C)pismo

北方文化博物館 - 56
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北方文化博物館 - 70
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北方文化博物館 - 76
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北方文化博物館周辺では、ちょうどチューリップが綺麗に咲いていました。
北方文化博物館近くのチューリップ畑 - 03
北方文化博物館近くのチューリップ畑 - 03 posted by (C)pismo

北方文化博物館近くのチューリップ畑 - 08
北方文化博物館近くのチューリップ畑 - 08 posted by (C)pismo

北方文化博物館近くのチューリップ畑 - 13
北方文化博物館近くのチューリップ畑 - 13 posted by (C)pismo

北方文化博物館近くのチューリップ畑 - 15
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北方文化博物館近くのチューリップ畑 - 18
北方文化博物館近くのチューリップ畑 - 18 posted by (C)pismo

北方文化博物館近くのチューリップ畑 - 23
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次は、昨日も訪れましたが、阿賀野市の水原地域を再訪します。
水原城・水原代官所です。昨日は閉まっていましたが、この日は昼間なので開館。しかもイベント開催中ということで無料だったのはラッキーでした。
水原代官所・水原城 - 01
水原代官所・水原城 - 01 posted by (C)pismo

水原代官所・水原城 - 02
水原代官所・水原城 - 02 posted by (C)pismo

水原代官所・水原城 - 03
水原代官所・水原城 - 03 posted by (C)pismo

水原代官所・水原城 - 04
水原代官所・水原城 - 04 posted by (C)pismo

水原代官所・水原城 - 05
水原代官所・水原城 - 05 posted by (C)pismo

水原代官所・水原城 - 06
水原代官所・水原城 - 06 posted by (C)pismo

水原代官所・水原城 - 07
水原代官所・水原城 - 07 posted by (C)pismo

水原代官所・水原城 - 08
水原代官所・水原城 - 08 posted by (C)pismo

水原代官所・水原城 - 09
水原代官所・水原城 - 09 posted by (C)pismo


瓢湖水きん公園は、白鳥の飛来地として知られています。
昭和29(1954)年、故吉沢重三郎氏が日本で初めて白鳥の餌付けに成功し、国の天然記念物に指定されました。
平成17(2005)年には、国指定瓢湖鳥獣保護区に指定され、平成20(2008)年にはラムサール条約の登録湿地に登録されました。
11月下旬のピーク時には5000羽を越える白鳥が飛来するそうです。
瓢湖 - 1
瓢湖 - 1 posted by (C)pismo

瓢湖 - 2
瓢湖 - 2 posted by (C)pismo

この後は、新発田市の五十公野周辺に向かいます。
Posted at 2010/05/18 19:52:41 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年05月02日 イイね!

H22越後上杉紀行(2日目その1・朝の新潟市〜津川城〜村松城)

2日目の朝です。
新潟の宿泊先から、少し朝の新潟の風景を見に海側に行きました。

旧新潟税関庁舎です。
新潟は、安政5(1858)年の修好通商条約により、神奈川、函館、長崎、兵庫と並んで開港場の一つに選ばれ、明治元(1868)年に開港しました。
翌年の明治2(1869)年に、関税業務を行う役所として、後に新潟税関となる新潟運上所がつくられました。
運上所は、明治6(1873)年に税関に名を改め、昭和41(1966)年にその役割を終えました。
昭和44(1969)年に庁舎が国の重要文化財に、敷地は史跡に指定されました。
昭和47(1972)年から平成15(2003)年3月まで新潟市郷土資料館として利用されました。
擬洋風建築として貴重なものです。
旧新潟税関庁舎 - 1
旧新潟税関庁舎 - 1 posted by (C)pismo

旧新潟税関庁舎 - 2
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旧第四銀行住吉町支店は、昭和2(1927)年に竣工した鉄筋コンクリート造の建物です。
外観の列柱や営業室の吹抜などが近代銀行の特徴をよく表しています。
新潟の商業地の中心で約70年間親しまれていましたが、道路計画により平成14(2002)年から平成15(2003)年にかけてこの地に移築、復元し保存と活用を図ることになりました。現在はレストラン、会議室として利用されています。
旧第四銀行住吉町支店 - 1
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旧第四銀行住吉町支店 - 2
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ここからは、磐越道で一気に会津の出入り口にある津川城へ。磐越道は観光シーズンということでよく混んでいました。
津川城は、会津芦名氏の一族、金上氏の居城です。
阿賀野川と常浪川の合流部に半島状に突き出た山稜の先端部・城山に築かれています。越後国の城ですが、会津芦名氏の越後への進出拠点でした。
建長4(1252)年会津守護芦名氏一門の藤倉盛弘が築きました。
別名を麒麟山城とも嶮阻なため狐も戻るというので狐戻城ともいいます。
藤倉盛弘の次代の盛仁の代から金上姓を名乗り、芦名家の重臣として代々津川城主を勤めました。
 15代城主・金上盛備(もりはる)は芦名家の外交をつとめ、織田信長、豊臣秀吉とも謁見し、陪臣ながら従五位下遠江守に任ぜられました。
天正17(1589)年芦名義広は摺上原の戦いで伊達政宗との戦いに敗れました。その際、盛備は奮戦し壮烈な死を遂げました。以後、会津領主は伊達正宗になりましたが、秀吉の奥州仕置により蒲生氏郷が会津領主となります。
津川城には北川平左衛門が入りました。その後、上杉景勝が会津に入った際には藤田信吉が、関ヶ原の戦いの後には蒲生秀行が入り、岡重政、後には蒲生忠知が城主となりました。
寛永4(1627)年藩主加藤嘉明のとき津川城は一国一城令により廃城となりました。
津川城 - 01
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津川城 - 02
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津川城 - 03
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津川城 - 04
津川城 - 04 posted by (C)pismo

津川城 - 05
津川城 - 05 posted by (C)pismo

津川城 - 06
津川城 - 06 posted by (C)pismo

津川城 - 07
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津川城 - 08
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津川城 - 09
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津川城 - 10
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この近辺は桜も見頃で、SLも走るということもありカメラを持った人を多く見かけました。

再び新潟の平野部へ戻り、村松城(村松陣屋)を訪れました。
村松城は、上杉氏の時代には館があったと伝えられていますが、本格的な築城は、寛永16(1639)年、村上藩主堀直寄の次男の直時に3万石を分地し安田藩が立藩し、正保元(1644)年に直時の嫡子直吉が村松に陣屋を築きました。
村松藩堀氏は嘉永3(1850)年に城主格に昇格したことにより陣屋から城郭へと大改修されました。戊辰戦争の際、村松藩は新政府側の尊王攘夷派と幕府側の保守派に分裂し、白石城(宮城県白石市)で調印された奥羽越列藩同盟に同調した藩主直賀を含む保守派は米沢に逃れ、尊王攘夷派は直弘を藩主として擁立し藩政の主導権を掌握すると新政府軍に降伏し領土を安堵されました。村松城はその際に焼失し、明治4(1872)年に廃藩置県に伴い村松県庁が置かれますが、わずか4ヶ月で新潟県に統合され城地は民間に払い下げられた為、宅地が進みました。しかし、昭和54(1979)年から順次旧村松町が買い上げ昭和62(1987)年から村松城跡公園として整備されました。
村松城 - 01
村松城 - 01 posted by (C)pismo

村松城 - 02
村松城 - 02 posted by (C)pismo

村松城 - 03
村松城 - 03 posted by (C)pismo

村松城 - 04
村松城 - 04 posted by (C)pismo

村松城 - 05
村松城 - 05 posted by (C)pismo

村松城 - 06
村松城 - 06 posted by (C)pismo

村松城 - 07
村松城 - 07 posted by (C)pismo


敷地内には、五泉市村松郷土資料館があります。村松郷土資料館は、昭和59(1984)年、村松藩の居城であった村松城跡にある城跡公園内に建てられました。
村松藩の歴史や、矢津遺跡から発掘された縄文土器、蒲原鉄道の資料など村松の歴史を学ぶことが出来ます。
村松城復元模型もあります。
村松郷土資料館 - 1
村松郷土資料館 - 1 posted by (C)pismo

この後は、新潟市江南区の沢海地域に向かいます。目的は北方文化博物館です。
Posted at 2010/05/15 09:32:18 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年05月01日 イイね!

H22越後上杉紀行(1日目その3・木場城〜水原城〜笹岡城〜安田城)

天神山城など岩室地域で時間を使ったのもう夕方になってしまいました。
この日の宿泊は新潟市なので、周辺の城を巡ってみます。

木場城は、天正9(1581)年に上杉景勝により築かれた城です。
当時景勝は、当時、景勝は織田信長の結んだ新発田城の新発田重家と争っていて木場城は景勝の前線基地でした。
景勝は、木場城の実城(本丸)に蓼沼友重、二の郭には山吉景長を配属し、新潟に拠点を置く新発田勢と戦いました。
戦いは主に舟を使って火矢を放つ焼き打ち合戦でした。
木場城勢が新潟を攻略したり、新発田勢が木場城を攻略したり戦いは一進一退を繰り返しながら6年余りも続きました。
木場城は、天正15(1587)年 新発田氏が滅亡したあとも存続しましたが 
慶長3(1598)年の上杉家の会津移封ににより廃城となりました。木場城は木場集落の西端にあったと推定されていますが、遺構は確認されていなく正確な位置は分かっていないそうです。
主郭部と推定される位置に、木場八幡宮が祀られていて、木場八幡宮を含む跡地全体を「宮のもり・木場城公園」として整備されています。
木場城 - 01
木場城 - 01 posted by (C)pismo

木場城 - 02
木場城 - 02 posted by (C)pismo

木場城 - 03
木場城 - 03 posted by (C)pismo

木場城 - 04
木場城 - 04 posted by (C)pismo

水原城は、伊豆の豪族大見家秀が源頼朝の挙兵に功績があり、白川荘地頭に任ぜられ、その子孫が安田氏となりその庶流が水原の地を分与され水原氏を称しました。
戦国時代、水原氏は上杉謙信に仕え、御館の乱では水原満家が上杉景勝に味方しました。
新発田重家の乱では、満家は景勝方として戦いましたが、天正11(1583)年、新発田城の包囲を解いて退却する途中、新発田重家の追撃を受け、殿として戦い戦死しました。
その際、水原城は新発田方に攻め落とされました。
天正12(1584)年には、一度水原城は上杉景勝が奪還しましたが、新発田方はよく戦い、再び水原城は新発田方のものとなりました。
天正13(1585)年、景勝は水原城を再び攻め、内通により火を放たせようやく落城させました。
その後、景勝は水原城に大関弥七親憲を入れ、水原常陸介親憲と名乗らせました。
水原親憲は、関ヶ原の戦いの長谷堂城からの撤退戦や、大坂冬の陣で活躍しました。大坂の陣の際、徳川秀忠から感状を貰いましたが、その際宛名が「杉原常陸介」となっていたので、杉原(読みはすいばら)親憲と改めました。
「子供の石合戦で感状を賜るとは」と言っていたそうです。
水原城は、慶長3(1598)年、水原親憲が上杉景勝の会津移封に従い会津へ移ったため廃城となりました。
水原代官所は、江戸時代の延享3(1746)年、水原城跡地に幕府により設けられた天領の代官所です。支配高は時代により増減がありますが、5万石前後から7万石、多い時は10万石にも及び、専任の代官は22代を数え、慶応4(1868)年に会津藩預かりとなるまで約120年間続きました。
現在の水原代官所は、平成5(1993)年、代官所平面図を基に復元が計画され、平成7(1995)年に完成したものです。
もう夕方と言うことで閉まっていたので、また明日訪れてみることにします。
水原代官所・水原城 - 1
水原代官所・水原城 - 1 posted by (C)pismo

水原代官所・水原城 - 2
水原代官所・水原城 - 2 posted by (C)pismo

水原代官所・水原城 - 3
水原代官所・水原城 - 3 posted by (C)pismo

笹岡城は貞和年間(1345~1350)篠岡中将資尚が築城したといわれています。
また、一説には、和田義盛の子、三郎五郎兵衛義茂の子が中条郷の地頭となり、その居城であったといわれています。
応永の乱の際には、中条房資(奥山荘中条)が一時期ここに派兵して築城しました。
戦国時代には、山浦国清(村上義清の子)の居城でしたが、上杉景勝の時代、今井源右衛門国広が御館の乱の功績で魚沼上郷城から転封され、酒井新左衛門、黒金宮内の二人がこれを守りました。
新発田重家の乱の際には、鉢盛城とともに新発田城攻撃の前線基地として重要な役割を果たしていました。
天正13(1585)年には、新発田重家により落城し、その後城主がなく廃城となりました。
城跡主郭部は公園になっています。鑑洞寺や稲荷神社も城域です。
笹岡城 - 01
笹岡城 - 01 posted by (C)pismo

十郎杉は、十郎丸という連絡船を繋いだとか、十郎という人が植えたとか、城楼杉から転じて十郎杉で。笹岡城の望楼の役目を果たしたとか、女郎杉が転じて十郎杉となり笹岡城の奥女中を葬ったとか、宿場町笹岡の遊女を葬ったとかいろいろな説があり、阿賀野市(旧笹神村)の指定文化財になっています。
笹岡城 - 02
笹岡城 - 02 posted by (C)pismo

笹岡城 - 03
笹岡城 - 03 posted by (C)pismo

笹岡城 - 04
笹岡城 - 04 posted by (C)pismo

笹岡城 - 05
笹岡城 - 05 posted by (C)pismo

笹岡城から安田城から移動途中、田園風景の夕日をみることができました。
新潟県の田園風景は関西では見ることができない、広大な田園風景です。
阿賀野市福井付近の夕日
阿賀野市福井付近の夕日 posted by (C)pismo

安田城は大見氏の子孫安田氏の居城です。
柏崎市にも安田城がありますが、あちらは毛利一族の系統の安田氏の居城です。
中世の安田町周辺は白河庄と呼ばれる荘園で摂関家の領地でした。
鎌倉幕府が創設されると、源頼朝挙兵に参陣して功績のあった関東御家人伊豆の大見氏が地頭職として着任し、のちに安田氏を名乗りました。
安田氏は安田城を拠点地に守護上杉氏や上杉謙信に仕え、数々の戦功をたてました。安田長秀は川中島の戦いの際、同じ揚北衆の色部勝長・中条藤資らと共に「血染めの感状」を貰っています。(感状を貰ったのは長秀ではなく、長秀の子安田有重という説もあります。)
慶長3(1598)年上杉景勝の会津若松城移封で安田氏も同行し、 村上城主村上義明の重臣吉竹右近が在番しました。
元和4(1618)年、村上氏の改易により村上城主となった堀直竒の支配となったが、元和元(1615)年の一国一城令のもとに、 元和8(1622)年安田城は破却されました。
寛永16(1639)年、直竒は63歳で没し、その遺言により次男直時が3万石を分与され、安田に居城を構えて立藩しました。
正保元(1644)年、直時の子直吉が領地替えで村松城へ移り、安田城は廃されました。
現在は教習所風?の公園、公民館、体育館などの敷地になっています。水堀が残っています。
安田城 - 01
安田城 - 01 posted by (C)pismo

安田城 - 02
安田城 - 02 posted by (C)pismo

安田城 - 03
安田城 - 03 posted by (C)pismo

安田城 - 04
安田城 - 04 posted by (C)pismo

五泉城は永禄2(1382)年、長尾憲顕により築かれました。
初代城主は五泉数馬です。
天正11(1583)年、上杉景勝の家臣甘糟備後守景継は、護摩堂城(田上町)より2万石を与えられ五泉城に移りました。
甘糟景継は、上田長尾家の家臣、登坂家の出身で、景勝が上杉家の養子に迎えられたときも春日山城へ入城しました。
文禄2(1593)年、五泉城から庄内の酒田城へ移り、上杉家が会津に移封された際には白石城主となりました。
五泉はその後天領となり、五泉城は五泉八幡宮社地として整地し、慶安2(1649)年、社殿を調えて宮腰より遷宮しました。
もうほとんど真っ暗になっていたので「甘糟備後守城」の石碑があると聞いていますが、見つけることが出来ませんでした。
五泉八幡宮 - 1
五泉八幡宮 - 1 posted by (C)pismo

この日の行程はここまでで、二日目に続きます。
Posted at 2010/05/09 19:12:10 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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