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ピズモのブログ一覧

2010年06月17日 イイね!

寺内町・今井町の風景

この日の最後に、久し振りに寺内町を訪れました。
夕方なので、自転車でさーっと走ってみて、雰囲気が良さそうなところを撮影しました。

今井町は、中世の末に一向宗門徒が中心となり寺内町として形成された、国の「重要伝統的造物群保存地区」に指定されている古い町並みです。
堺の豪商今井宗久はここの出身として知られています。


今井まちなみ交流センター華甍は、旧高市郡教育博物館の建物を活用した資料館です。明治時代の建物が修復されて、現在に残ります。
伝統的な町家が残る今井町の歴史、町並みについての展示がされています。
古い町並みが残る今井町観光の拠点となっています。
今井まちなみ交流センター華甍 - 1
今井まちなみ交流センター華甍 - 1 posted by (C)pismo

今井まちなみ交流センター華甍 - 2
今井まちなみ交流センター華甍 - 2 posted by (C)pismo

春日神社は藤原氏の氏寺で、今井町は藤原氏の氏寺である興福寺の荘園であったため祭られています。境内には旧常福寺観音堂があります。明治の廃仏毀釈で常福寺は廃寺となりましたが、観音堂だけは残りました。
境内の西側には環濠や土居の跡が残っています。
春日神社 - 1
春日神社 - 1 posted by (C)pismo

春日神社 - 2
春日神社 - 2 posted by (C)pismo

春日神社 - 3
春日神社 - 3 posted by (C)pismo

春日神社 - 4
春日神社 - 4 posted by (C)pismo

春日神社 - 5
春日神社 - 5 posted by (C)pismo
山尾家は、16世紀中頃、桜井新堂村会津屋より分家移住したと伝えられ、「新堂屋」の屋号をもち、肥料・木綿商を行い、幕末には両替商もあわせて営み、町年寄りを勤めた大商家です。幕府の巡見使一行の宿泊所にもなっています。
南側の道路に面して主屋・隠居部屋・東蔵が並び、西端には座敷、北側には、多くの内蔵があります。
なお、明治10(1877)年に明治天皇が行幸された際、木戸孝允・三条実美の宿泊所にもあてられ、それらの資料も数多く保存されているそうです。
内部の見学は予約がいるようです。
a href="http://photozou.jp/photo/show/219075/42738606">今井町・山尾家住宅 - 1
今井町・山尾家住宅 - 1 posted by (C)pismo

今井町・山尾家住宅 - 2
今井町・山尾家住宅 - 2 posted by (C)pismo

吉村家住宅は旧は上田家の所有で屋号を「壺八」といい、明治頃までは肥料、精米、絞油業の商いを行い相当繁盛していましたが、昭和55(1980)年移転に伴い吉村家の所有となり、平成3(1991)年に修理が完了しました。
北側道路に面した主屋は文化2(1805)年に低い二階建てに再建されたものです。北尊坊通りに面他の建物は、主屋より約50年程遡るものとみられています。主屋土間北側に多くの「胞衣壺」が発見されたことも珍しいことです。
<今井町・吉村家住宅
今井町・吉村家住宅 posted by (C)pismo

順明寺は、浄土真宗本願寺派の寺院です。
当寺の開基と云われる昭意坊源海法印順明和尚は、多田源八郎仲貞といい、建保5(1217)年31歳にて親鸞聖人の弟子となり、主家得度して大和国十市郡新賀庄に堂を建立したものです。
寛永3(1626)年に第十世了恵が今井に移したと伝えられています。
以後寛文年間頃より次第に寺は衰退しますが、第十四世隆元は、延宝8(1680)年、寺の再興を図り中興の祖といわれています。
また、明治24(1891)年11月には英照皇太后が畝傍御陵を参拝された際に当寺に宿泊され、御座所が残っているそうです。
順明寺 - 1
順明寺 - 1 posted by (C)pismo

順明寺 - 2
順明寺 - 2 posted by (C)pismo

旧米谷家は、屋号を「米忠」といい、代々金具商、肥料商を営んでいました。
昭和31(1956)年、建物だけ国有となり昭和50(1975)年度に解体修理を実施しました。
農家風の民家で、18世紀中頃の建築と推定されています。
内部は無料で一般公開されています。
今井町・旧米谷家住宅
今井町・旧米谷家住宅 posted by (C)pismo

音村家は、屋号を「細九」(細井戸屋九兵衛 九右衞門)といい、金物商等を営み、幕末には相当繁盛していたと伝えられています。主屋は、17世紀後半頃の建設です。
今井町・音村家住宅
今井町・音村家住宅 posted by (C)pismo
中橋家は、屋号を「米彦」(米屋彦六)といい、代々米屋を営んでいましたが、幕末には肥料、金物商もあわせて営んでいたようです。
正面東方の連子窓、小さな出格子等はすべて当初のものが残存しており、貴重なものです。
狭い正面出入り口は「あげ戸」(現在のシャッターの様なもの)を用い、開口部を広くとっているのもこの時代の特徴です。
小規模な商家ですが、平屋建てから二階建てに移行する過程が知られる民家として注目されています。
今井町・中橋家住宅 - 1
今井町・中橋家住宅 - 1 posted by (C)pismo

今井町・中橋家住宅 - 2
今井町・中橋家住宅 - 2 posted by (C)pismo

称念寺は、浄土真宗本願寺派の寺院です。
寺内町今井は16世紀中頃、今井兵部豊寿によって武装宗教都市が形成されていました。
称念寺は、天正年間、本願寺第十一世顕如上人により寺号を得て、今井兵部富綱を開基として建立したと伝えられ、寺内町今井の中核として発展し、大和五ヶ所御坊、十六大坊の要として中本山に列する寺です。
代々今井氏が世襲して兵部と号し、武士と僧侶を兼ねて、信長、秀吉、家康に仕え、中でも秀吉の庇護が厚かったが、江戸時代に入り、寺内町の存続を嫌った幕府が延宝7(1679)年「郷中並」に扱い、今井氏は武士を返上して釈門に専念し、現在に至っています。
本堂は重要文化財に指定されています。山門は、明治10(1877)年、明治天皇行幸の際、多武峯より移築されたもので、太鼓楼は弘化2(1845)年建築の建物です。
平成22年現在、本堂の修復工事中です。
称念寺 - 1
称念寺 - 1 posted by (C)pismo

称念寺 - 2
称念寺 - 2 posted by (C)pismo

称念寺 - 3
称念寺 - 3 posted by (C)pismo

称念寺 - 4
称念寺 - 4 posted by (C)pismo

豊田家は、江戸時代末期に分家移住し「紙八」の屋号で知られていますが、もとは木材商、牧村清右門の所有で「西ノ木屋」の屋号をもち、大名貸しや福井藩の蔵元もつとめた有力な商家でした。
昭和50(1975)年〜昭和51(1976)年の解体修理の際、多くの鬼瓦に寛文2(1662)年の刻銘があったため、建設年代が明らかになりました。今井町では今西家に次いで古い家です。
 当家西側には今井宗久好みと伝える茶室が昭和10(1935)年頃までありましたが、小田原の松永家に移されました。現在は堺市に寄贈され、堺市博物館に移され黄梅庵と名付けられています。また称念寺奥書院は当家から移したものと伝えられています。
今井町・豊田家住宅
今井町・豊田家住宅 posted by (C)pismo

今西家は、今井町の惣年寄筆頭として町内の自治、経済の要所要所を束ねてきた中世から続く名家で、今井町の最西端の西口門すぐにあります。
永禄9(1566)年今井町に入町した河合権兵衛清長(4代目 川井助衛門尉正治)がその一族十市氏(竜王城)の落城後郎党と共に今井へやってきましたが、三代目から今西姓になりました。
慶安3(1650)年築造の「八ツ棟造り」と呼ばれる白壁の家で、司法権も持っていたため、土間はお白州として使われ、罪人に自白させるため、かまどの煙が流れる場所に「いぶし牢」が設けられました。

今井町・今西家住宅 - 1
今井町・今西家住宅 - 1 posted by (C)pismo

今井町・今西家住宅 - 2
今井町・今西家住宅 - 2 posted by (C)pismo

今井町・今西家住宅 - 3
今井町・今西家住宅 - 3 posted by (C)pismo
Posted at 2010/07/11 23:55:33 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年06月17日 イイね!

久米寺のあじさいと神武天皇陵

あじさいの咲き誇る久米寺を訪れました。

久米寺は、真言宗御室派の寺院で正式には霊前山東塔院久米寺といいます。
開基は聖徳太子の弟来目皇子が建立したとされています。
娘のふくらはぎに見とれて空から落ちたという久米仙人の伝説が残っています。
また、弘法大師(空海)はこの寺で真言宗の根本経典の1つ大日経を感得したともいわれています。
国重要文化財の久米寺多宝塔は、万治2(1659)年京都の仁和寺から移築したものです

あじさいや、つつじの花が咲く寺としても知られています。
久米寺 - 01
久米寺 - 01 posted by (C)pismo

久米寺 - 02
久米寺 - 02 posted by (C)pismo

久米寺 - 03
久米寺 - 03 posted by (C)pismo

久米寺 - 04
久米寺 - 04 posted by (C)pismo

久米寺 - 05
久米寺 - 05 posted by (C)pismo

久米寺 - 06
久米寺 - 06 posted by (C)pismo

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久米寺 - 07 posted by (C)pismo

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久米寺 - 08 posted by (C)pismo

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久米寺 - 09 posted by (C)pismo

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久米寺 - 10 posted by (C)pismo

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久米寺 - 11 posted by (C)pismo

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久米寺 - 12 posted by (C)pismo

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久米寺 - 13 posted by (C)pismo

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久米寺 - 14 posted by (C)pismo

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久米寺 - 15 posted by (C)pismo

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久米寺 - 16 posted by (C)pismo

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久米寺 - 17 posted by (C)pismo

久米寺 - 18
久米寺 - 18 posted by (C)pismo

久米寺 - 19
久米寺 - 19 posted by (C)pismo

久米寺 - 20
久米寺 - 20 posted by (C)pismo

久米寺 - 21
久米寺 - 21 posted by (C)pismo

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久米寺 - 22 posted by (C)pismo

久米寺 - 23
久米寺 - 23 posted by (C)pismo

久米寺 - 24
久米寺 - 24 posted by (C)pismo

久米寺 - 25
久米寺 - 25 posted by (C)pismo

近くの神武天皇陵です。
正式には畝傍山東北陵といいます。
神武天皇は初代の天皇です。
御陵は日本書紀では「畝傍山東北陵に葬りまつる」とされ、文久3(1863)年に現在地に治定されました。
神武天皇御陵 - 1
神武天皇御陵 - 1 posted by (C)pismo

神武天皇御陵 - 2
神武天皇御陵 - 2 posted by (C)pismo

神武天皇御陵 - 3
神武天皇御陵 - 3 posted by (C)pismo
この後は、今井町をサイクリングです。
Posted at 2010/07/10 22:25:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年06月17日 イイね!

奈良国立博物館の大遣唐使展を観覧後、唐古・鍵遺跡〜藤原京周辺へ

この日は、奈良国立博物館へ大遣唐使展を見に行きました。
奈良国立博物館 - 1
奈良国立博物館 - 1 posted by (C)pismo

奈良国立博物館 - 2
奈良国立博物館 - 2 posted by (C)pismo

目的は、吉備大臣入唐絵巻。アメリカのボストン美術館所蔵の絵で、日本に残っていたら国宝間違いなしの作品と言われています。
一時の里帰りで見るのは初めてですが、ユーモラスな絵です。

国立博物館の敷地には、興福寺宝蔵院跡があります。

戦国時代、宝蔵院流槍術の流祖宝蔵院覚禅房胤栄(~1607)は南都興福寺の学侶でしたが、武芸を好み,柳生宗厳(石舟斎)と共に上泉伊勢守から刀術を学び,一方,槍の修練にも努め,ついに猿沢池に浮かぶ三日月を突き十文字鎌槍を工夫し,宝蔵院流槍術を創めるに至ったと伝えられています。
宝蔵院流の槍は,通常の素槍に対し鎌槍と称する十文字形の穂先に特徴があります。この鎌槍を活かして立体的,平面的に使用し,画期的な武器として「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし」との歌が伝えられ,江戸時代を通して全国を風靡するに至りました。現在は宝蔵院流高田派の江戸に伝えられた系統のみが現存しています。
宝蔵院は興福寺子院の一つで,中世末・近世初頭以来この地にありましたが,江戸幕末に退転し,さらに明治初年の廃仏毀釈の際取壊され,その跡地は帝国奈良博物館(現奈良国立博物館)構内に組込まれました。現在は,宝蔵院の井戸枠と伝えられる六角形の石組が敷地内に残されているほか,胤栄
が庭の大石に武神摩利支天を祀り槍術成就を祈請した「摩利支天石」は興福寺三重塔前に遷座し安置されています。
奈良国立博物館旧館の西側に石碑が建っています。
興福寺宝蔵院跡(宝蔵院流鎌槍発祥之地)
興福寺宝蔵院跡(宝蔵院流鎌槍発祥之地) posted by (C)pismo

この後は、藤原京へ向かいました。
途中で、唐古・鍵遺跡に立ち寄りました。唐古・鍵遺跡は、奈良盆地のほぼ中央に位置し、弥生時代の大環濠集落です。
この遺跡は明治期から考古学界に知られており、昭和11(1936)年には遺跡内を縦断する国道24号の建設工事に伴い唐古池の大規模な発掘調査が行われました。
昭和52(1977)年以降、継続的な調査が行われ、遺跡範囲が30haに及ぶ巨大な環濠集落であることが判明しました。
平成11(1999)年、国の史跡に指定されました。
遺跡には、平成3(1991)年、第47次調査において楼閣の描かれた土器片が出土し、それを元に唐古池上に楼閣を復元しました。
唐古・鍵遺跡 - 01
唐古・鍵遺跡 - 01 posted by (C)pismo

唐古・鍵遺跡 - 02
唐古・鍵遺跡 - 02 posted by (C)pismo

唐古・鍵遺跡 - 03
唐古・鍵遺跡 - 03 posted by (C)pismo

そして、藤原宮跡です。
藤原京は、持統天皇8(694)年から和銅3(710)年まで、持統・文武・元明天皇三代にわたる都でした。
耳成山、天香具山、畝傍山の大和三山を北と東西に望む場所にあり、東西、南北の道路によって区画された、日本最古の人工都市です。
藤原宮はその中心部にあたり、大きさは900m四方、まわりを大垣と濠で囲み、各面に三ヶ所ずつ門がありました。中には天皇が住む内裏、政治や儀式を行う大極殿と朝堂院、そして役所の建物が建ち並んでいました。
都が平城京に遷った後、藤原京は急速に廃れ、田園に変わっていきました。
昭和9(1934)年〜昭和18(1943)年の日本古文化研究所の発掘により、大極殿・朝堂院の位置や規模が明らかになりました。
昭和41(1966)年〜昭和44(1969)年には奈良県教育委員会が、それ以降は奈良国立文化財研究所が発掘調査を進め、その結果4ヶ所の門や大垣、役所の一部などの様子が分かってきました。
藤原宮跡 - 01
藤原宮跡 - 01 posted by (C)pismo

藤原宮跡 - 02
藤原宮跡 - 02 posted by (C)pismo

藤原宮跡 - 03
藤原宮跡 - 03 posted by (C)pismo

藤原宮跡 - 04
藤原宮跡 - 04 posted by (C)pismo

藤原宮跡 - 05
藤原宮跡 - 05 posted by (C)pismo

橿原市藤原京資料室は、藤原宮の西側にあるJAならけん橿原東部経済センターの2階にあります。
縮尺1000分の1の藤原京の模型や、ビデオ上映、パネル展示などを行っています。
橿原市藤原京資料室 - 1
橿原市藤原京資料室 - 1 posted by (C)pismo

橿原市藤原京資料室 - 2
橿原市藤原京資料室 - 2 posted by (C)pismo

藤原京朱雀大路は、藤原京の左京、右京を分けるメインストリートです。
この史跡から約200m先には、藤原宮の正面玄関にあたる南面中門(朱雀大路)が位置し、その門から南に延びていた道です。
道の東西両側には溝が掘られており、昭和51(1976)年に行われた発掘調査により、道路の路面幅19m、東西側溝幅約4m、東西両側溝の中心間の距離が約24mであることが判明しました。
日高山丘陵から飛鳥川より北にかけての地域では、朱雀大路が発掘調査により確認されていますが、飛鳥川より南側は確認されていません。また、藤原宮以北では耳成山の北側で朱雀大路に相当する南北道路が発掘調査で確認されています。
芝生を貼っているところが路面で、バラスを敷き両側を石積みしているところが側溝です。
藤原京朱雀大路跡 - 1
藤原京朱雀大路跡 - 1 posted by (C)pismo

藤原京朱雀大路跡 - 2
藤原京朱雀大路跡 - 2 posted by (C)pismo

藤原京朱雀大路跡 - 3
藤原京朱雀大路跡 - 3 posted by (C)pismo

本薬師寺跡(元薬師寺跡)は畝傍御陵前駅の東側にあり、天武天皇9(680)年に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病平癒を祈念して発願した寺です。
寺の建立が開始された時期は不明ですが、天武天皇の崩御後の持統2(688)年に行われた仏事には少なくとも堂塔の一部が完成していたと考えられています。その後、持統11(697)年に開眼会が開かれ、翌年の文武2(698)年に伽藍はほぼ完成したと伝えられています。
寺域は藤原京右京八条三坊を占めていましたが、平城京遷都に伴い養老2(718)年に平城京右京六条二坊に移転し、寺が移転した後も平安時代中頃まで伽藍の存在がしたそうです。
平城京の薬師寺に対して本薬師寺と呼び、区別するようになりました。
発掘調査は昭和51(1976)年の寺域西南隅での調査に始まり、金堂・東塔・西塔・中門・回廊の一部で行なわれ、貴重な成果が得られました。
金堂・東塔・西塔は、基壇等の規模が平城京薬師寺とほぼ同じですが、中門・回廊は、規模構造ともに異なることが明らかになりました。伽藍の造営は金堂に始まり、続いて東塔・中門・回廊、更に遅れて西塔の順に行われたことがわかりました。また、中門北側の調査で、寺の造成土の下層から西三坊々間路を検出し、最初に藤原京の条坊道路が設置され、それを埋め立てて造営したことが確認されました。
従来は堂塔の位置関係や礎石配置が平城京薬師寺と一致することから移建説が有力視されていましたが、発掘調査により一部の堂塔は移建されないまま旧地に残っていた可能性があることが判明しました。
現在は金堂跡に白鳳山医王寺が建てられており、礎石跡などが残っています。その他東西両塔跡に大きな礎石が残っています。
元薬師寺跡 - 01
元薬師寺跡 - 01 posted by (C)pismo

元薬師寺跡 - 02
元薬師寺跡 - 02 posted by (C)pismo

元薬師寺跡 - 03
元薬師寺跡 - 03 posted by (C)pismo

元薬師寺跡 - 04
元薬師寺跡 - 04 posted by (C)pismo

元薬師寺跡 - 05
元薬師寺跡 - 05 posted by (C)pismo
この後は、あじさい咲く久米寺を訪れます。
Posted at 2010/07/10 00:24:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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