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ピズモのブログ一覧

2010年09月25日 イイね!

柏原藩城下町散歩

この日は、少し時間的に余裕ができたので、丹波市の柏原藩の城下町を散歩してみました。
織田神社は前期柏原藩3代目の藩主織田信勝を祭神として創建され、死後は旧居館跡に創建されました。
後期柏原藩織田家が再興された後、東奥大谷を経て現在地に移され、「織田権現」とも称して織田家の庇護と町衆の厚い信仰を受けました。
信勝は織田信長の弟の信包の孫で、新田開発や堤防を築造するなど名君だったそうです。残念ながら子がいなくお家は断絶となりました。
織田神社 - 1
織田神社 - 1 posted by (C)pismo

織田神社 - 2
織田神社 - 2 posted by (C)pismo

織田神社 - 3
織田神社 - 3 posted by (C)pismo

丹波市柏原支所・木の根橋です。
旧柏原町役場は大正年間の建物。修復工事が終わりきれいになりました。
現在は丹波市柏原支所になっています。支所の隣には樹齢千年とも推定される大ケヤキの根が、幅8mの奥村川をまたいで自然の橋をかたちづくっており「木の根橋」と呼ばれています
木の根橋 - 1
木の根橋 - 1 posted by (C)pismo

木の根橋 - 2
木の根橋 - 2 posted by (C)pismo

丹波市柏原支所
丹波市柏原支所 posted by (C)pismo

建勲神社は、柏原藩主織田家の先祖である織田信長を祭る神社です。
全国には柏原と京都市、天童市の三社しかありません。
元禄8(1695)年、柏原藩主織田信休が藩邸内に祠を建て信長を祀ったのが始まりです。
明治2(1869)年、朝廷より信長の勤皇敬神を追賞され建織田社の神号を賜り、翌年建勲神社に改められました。
柏原ではこれを受けて明治3(1870)年に初めて神式で信長を祀りましたが、社がなかったため陣屋内に仮神座を設けて祭礼が行われました。
現在地に社が建てられたのは明治13(1880)年で、これ以降すべての人々が参拝できるようになりました。
その後、長期にわたり歳月を経た本殿は老朽化と台風により壊滅的な被害を受け、昭和9(1934)年に改築された拝殿も火災により焼失し、早期復旧が迫られましたが、実施には長い年月を要し、平成17(2005)年工事に着工し、平成18(2006)年に完成しました。
建勲神社 - 1
建勲神社 - 1 posted by (C)pismo

建勲神社 - 2
建勲神社 - 2 posted by (C)pismo

柏原藩陣屋です。
丹波柏原藩は織田信長の弟信包が封ぜられたところで信包・信則・信勝と三代続きましたが、嗣子がなく廃絶しました。
その後一時天領になっていましたが、大和松山から織田信休が2万石で入封しました。この家は織田信長の次男信雄の子孫にあたります。
陣屋は正徳4(1714)年、織田信休が造営した藩邸で内部見学ができます。長屋門と書院が残っています。
長屋門は創建当初のものです。
書院が残っているのは珍しく掛川城・川越城などと並んで貴重なものです。書院が残っていたのは崇廣小学校に転用されていたことによります。文政元(1818)年に焼失し、文政3(1820)年に再建されたものです。
国の史跡に指定されています。
柏原藩陣屋 - 01
柏原藩陣屋 - 01 posted by (C)pismo

柏原藩陣屋 - 02
柏原藩陣屋 - 02 posted by (C)pismo

柏原藩陣屋 - 03
柏原藩陣屋 - 03 posted by (C)pismo

柏原藩陣屋 - 04
柏原藩陣屋 - 04 posted by (C)pismo

柏原藩陣屋 - 05
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柏原藩陣屋 - 06
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柏原藩陣屋 - 07
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柏原藩陣屋 - 08
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柏原藩陣屋 - 09
柏原藩陣屋 - 09 posted by (C)pismo

柏原藩陣屋 - 10
柏原藩陣屋 - 10 posted by (C)pismo

柏原藩陣屋 - 11
柏原藩陣屋 - 11 posted by (C)pismo

柏原藩陣屋 - 12
柏原藩陣屋 - 12 posted by (C)pismo

柏原歴史民俗資料館・田ステ女記念館は、柏原町・柏原藩歴史・民俗・考古に関する資料を展示しています。江戸中期の女流俳人「田ステ女」の遺品を集めた田ステ女記念館も隣接しています。
柏原歴史民俗資料館 - 1
柏原歴史民俗資料館 - 1 posted by (C)pismo

柏原歴史民俗資料館 - 2
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柏原歴史民俗資料館 - 3
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柏原歴史民俗資料館 - 4
柏原歴史民俗資料館 - 4 posted by (C)pismo


旧氷上郡各町村組合立高等小学校は、明治18(1885)年、氷上郡各町村組合立高等小学校として建てられました。その後、氷上第一高等小学校、郡立柏原病院となり、明治41(1908)年から昭和23(1948)年まで柏原高等女学校として使用され、青垣出身の俳人細見綾子をはじめとする多くの才媛を育てました。
丹波市内に残る数少ない明治洋風建築です。
最近では大手会館として使われていたようです。
旧氷上郡各町村組合立高等小学校 - 1
旧氷上郡各町村組合立高等小学校 - 1 posted by (C)pismo

旧氷上郡各町村組合立高等小学校 - 2
旧氷上郡各町村組合立高等小学校 - 2 posted by (C)pismo

織田家廟所は、元禄8(1696)年大和宇陀から柏原に移封された織田信休(2万石)以後歴代の藩主とその家族の墓所があります。
かつては織田家菩提寺の臨済宗徳源寺の境内でしたが、維新後廃寺になりました。
平成16(2004)年、北近畿クボタの協力により、廟所の門が改修されたそうです。
織田家廟所 - 1
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織田家廟所 - 2
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織田家廟所 - 3
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織田家廟所 - 4
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織田家廟所 - 5
織田家廟所 - 5 posted by (C)pismo

太鼓やぐらは、江戸時代には、大手通りにあって大手門に隣接して北向に建てられていました。内部は、3層となっており、最上部には「つつじ太鼓」とよばれる太鼓が吊るされています。
この太鼓の胴の内側には、寛文8(1668)年に製作され、その後皮を張り替えた時の銘が残っておりこの太鼓が国替えになる前の大和松山藩の時から使用され、柏原移封の際に持ってきたことがわかります。
この太鼓は、普段は時報として、また藩主が参勤交代で江戸から柏原に戻ってきた時や火事の際にもたたかれていました。
太鼓やぐらが現在地に移ったのは明治初期のことですが、江戸時代の柏原藩にまつわる建造物として当時の面影を伝えています。 
太鼓やぐら - 1
太鼓やぐら - 1 posted by (C)pismo

太鼓やぐら - 2
太鼓やぐら - 2 posted by (C)pismo

田捨女誕生地です。田捨女(田ステ女)は、江戸時代の歌人、俳人です。
寛永11(1634)年、丹波柏原藩の庄屋で代官を務めた田季繁の娘としてこの地に誕生しました。誕生地には、商店の前に石碑が建っているのみです。
田捨女誕生地
田捨女誕生地 posted by (C)pismo

田ステ女公園は、かつて江戸時代の俳人の田ステ女が住んでいた千日寺の跡にあります。
ステ女が42歳の時、夫季成が亡くなりました。この高谷の地に庵を結び、夫の死後千日間念仏をとなえて菩提を弔いました。その姿が人の心を打ち、この庵を千日寺と呼ぶようになりました。
その後ステ女は出家し、名を貞閑と改め、播州網干に創建した不徹庵で多くの尼僧を育て、元禄11(1698)年に66歳の生涯を終えました。
千日寺は明治初年に廃寺となって そこにあった石地蔵や石灯籠、手水鉢、ステ女百回忌に建てられた句碑などは西楽寺に預けられていました。
平成8(1996)年に田家11世季晴氏がここに戻し、新しく句碑などを加えて 田ステ女公園として整備し、柏原町に寄贈しました。
田ステ女公園 - 1
田ステ女公園 - 1 posted by (C)pismo

田ステ女公園 - 2
田ステ女公園 - 2 posted by (C)pismo

田ステ女公園 - 3
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田ステ女公園 - 4
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田ステ女公園 - 5
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柏原八幡神社は、万寿元(1024)年、男山八幡の別宮として創建されました。
明智光秀の丹波攻めで兵火に遭いましたが、天正10(1582)年、羽柴秀吉が黒井城主だった堀尾茂助吉晴に命じて再建されました。
本殿及び拝殿は、大正2(1913)年に国の特別保護構造物、昭和2(1927)年に国宝、昭和25(1950)年、国の重要文化財に指定され、昭和50(1975)年1月から21ヶ月をかけて修理がされました。
三重塔は、文化10(1813)年から12(1815)年にかけて建立されました。
かつては、神仏習合で神宮寺だった乗宝寺の塔でした。平成元(1989)年に兵庫県の指定文化財に指定されています。
柏原八幡神社 - 01
柏原八幡神社 - 01 posted by (C)pismo

柏原八幡神社 - 02
柏原八幡神社 - 02 posted by (C)pismo

柏原八幡神社 - 03
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柏原八幡神社 - 04
柏原八幡神社 - 04 posted by (C)pismo

柏原八幡神社 - 05
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柏原八幡神社 - 06
柏原八幡神社 - 06 posted by (C)pismo

新町高灯籠は、天保7(1836)年に柏原下町の田村重三郎の発意と柏原藩領内の民衆の寄進により、伊勢神宮の内外両宮を遥拝検討するために建立されたもので、全高5.3mと市内でも最大の石造建造物です。
ここは、江戸時代「京口」と呼ばれていた、旧柏原城下町の東関門の外側にあたります。
大新屋の石工・初代難波金兵衛による本灯籠は、大阪の泉南地方を産地とする和泉砂岩で造られています。点火に際しては藩邸に後ろ向きにしないように南方から石段を上がるように配慮してあります。
昭和53(1978)年、柏原町(現在の丹波市)の指定文化財となっています。
新町高灯籠 - 1
新町高灯籠 - 1 posted by (C)pismo

新町高灯籠 - 2
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Posted at 2010/10/13 22:39:53 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年09月25日 イイね!

安国寺〜三草陣屋〜岩尾城

この日は、用事で神戸市を訪れ、その後少しばかり史跡めぐりをしました。

目的は丹波の岩尾城です。
北上する途中で加東市の史跡に立ち寄りました。

安国寺は、足利尊氏・直義の兄弟が、夢窓国師の勧めによって、国ごとに一寺、一塔を建立した寺です。
播磨国の安国寺は山号を東渓山、固山一鞏(こさんいちきょう)を開祖として、暦応2(1339)年に東条川を見下ろす新定の高台に建立されたと伝えられています。
現在の本堂は、明治29(1896)年に再建されました。
嘉吉元(1441)年、播磨守護赤松満祐は、室町幕府6代将軍足利義教を殺害し、将軍の首を奉じて播磨河合(小野市)の堀殿城(河合城)へ戻りました。
そこから足利氏ゆかりのこの寺まで大行列で運び、播州の禅僧を多数集め、盛大な法要を営んで葬ったと伝えられています。
首塚には凝灰岩製の宝篋印塔が築かれていて、高さ約170cmで完全な形で残されており、その様式、手法もこの時代に一致するものと思われます。
安国寺 - 01
安国寺 - 01 posted by (C)pismo

安国寺 - 02
安国寺 - 02 posted by (C)pismo

安国寺 - 03
安国寺 - 03 posted by (C)pismo

安国寺 - 04
安国寺 - 04 posted by (C)pismo

安国寺 - 05
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安国寺 - 06
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安国寺 - 07
安国寺 - 07 posted by (C)pismo

三草陣屋は、元文4(1739)年、越後頸城郡高柳領主丹羽薫氏が大坂定番に任じられ、所領を美作・河内の内で1万石に移されました。
延享3(1746)年河内国の所領を播磨国内に移されたため、加東郡上三草に陣屋を構えました。三草川を自然の堀として陣屋が築いたようです。ただし、江戸定府の大名だったため、参勤交代は行われなかったようです。
丹羽氏の先祖は織田信長に仕えましたが、丹羽長秀の丹羽氏が本姓桓武平氏であるのに対し、こちらの丹羽氏は足利氏の一族の一色家から別れた丹羽氏ということで、全くの別家です。丹羽氏次、氏重は小牧長久手の戦いで岩崎城主として活躍し、長久手の戦いの前に氏重は討ち死にしました。その後信雄の家臣から徳川家康の家臣になり、譜代大名としてその家は続きました。
現在は陣屋跡は「やしろ国際学習塾」の敷地となっており、R372側に石碑が建っています。
三草藩陣屋跡 - 1
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三草藩陣屋跡 - 2
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三草藩陣屋跡 - 3
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三草藩陣屋跡 - 4
三草藩陣屋跡 - 4 posted by (C)pismo

三草藩武家屋敷〔旧尾崎家住宅〕です。
尾崎家は30石取りで藩の大目付であった藩士・尾崎弥一郎が廃藩置県まで使用していた武家屋敷です。
約30年前まで実際に住宅として使われていたそうです。
一部に造築が施されていますが、大きく改変されることもなく正面の式台まわりに皇子の武家屋敷の構えがよく残っています。
屋敷門、土塀、納屋、井戸端、その他の附属屋も江戸時代末期の武家生活を偲ぶことができます。
三草藩武家屋敷・旧尾崎家住宅 - 1
三草藩武家屋敷・旧尾崎家住宅 - 1 posted by (C)pismo三草藩武家屋敷・旧尾崎家住宅 - 2
三草藩武家屋敷・旧尾崎家住宅 - 2 posted by (C)pismo

三草藩武家屋敷・旧尾崎家住宅 - 3
三草藩武家屋敷・旧尾崎家住宅 - 3 posted by (C)pismo

三草藩武家屋敷・旧尾崎家住宅 - 4
三草藩武家屋敷・旧尾崎家住宅 - 4 posted by (C)pismo

三草藩武家屋敷・旧尾崎家住宅 - 5
三草藩武家屋敷・旧尾崎家住宅 - 5 posted by (C)pismo

次はこの日の目的の、丹波市の山南町です。

岩尾城は、和田日向守齊頼が永正13(1516)年に築城したと伝えられています。
その子、作右衛門師季が跡を継ぎましたが、 明智光秀の丹波攻略によって天正7(1579)年に落城しました。
その後、天正14(1586)年になって近江から佐野下総守栄有が入部して城郭を改修しました。
しかし、豊臣秀吉の命によって廃城となり、慶長元(1596)年に破却されました。
城跡は、和田小学校から登ります。
その他にも親縁寺、稲荷神社からも登城口があります。
主郭部には石垣がよく残り、眺望も素晴らしいです。
岩尾城 - 01
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岩尾城 - 02
岩尾城 - 02 posted by (C)pismo

岩尾城 - 03
岩尾城 - 03 posted by (C)pismo

岩尾城 - 04
岩尾城 - 04 posted by (C)pismo

岩尾城 - 05
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岩尾城 - 06
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岩尾城 - 07
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岩尾城 - 08
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岩尾城 - 09
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岩尾城 - 10
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岩尾城 - 11
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岩尾城 - 12
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岩尾城 - 13
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岩尾城 - 14
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岩尾城 - 15
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岩尾城 - 16
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岩尾城 - 17
岩尾城 - 17 posted by (C)pismo
Posted at 2010/10/11 15:38:12 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年09月18日 イイね!

賤ヶ岳の戦いの陣城めぐり

国吉城の後は、賤ヶ岳の戦いでの陣城を巡ってみました。
賤ヶ岳は4年前訪れました。
「若狭・敦賀・湖北へのドライブ(その3・湖北)」

今回は、柴田勝家が構築した強固な陣城を中心に巡ってみます。
時間があれば、羽柴軍も行きたいところですが・・・山城ばかりなので1日では無理です・・・


玄蕃尾城は内中尾山城とも呼ばれ、越前国と近江国の国境に位置する柳ヶ瀬山(内中尾山)山上にります。
天正11(1583)年、賤ヶ岳の戦いの際柴田勝家が本陣を置いたところです。
玄蕃尾城の名は佐久間玄蕃允(盛政)に因むともいうが、よく分かっていません。
この城は、極めて限定された時期の城郭の遺構であり、中世城郭から近世城郭への過渡期にあたる城として重要なもので、遺構の保存状態も良好であることから、平成11(1999)年7月、国史跡に指定されて保存が図られています。
曲輪や土塁、虎口、馬出、空堀などがきれいな形で残っています。また除草も行き届いていて、遺構を堪能することができます。
玄蕃尾城(内中尾山城) - 01
玄蕃尾城(内中尾山城) - 01 posted by (C)pismo

玄蕃尾城(内中尾山城) - 02
玄蕃尾城(内中尾山城) - 02 posted by (C)pismo

玄蕃尾城(内中尾山城) - 03
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玄蕃尾城(内中尾山城) - 04
玄蕃尾城(内中尾山城) - 04 posted by (C)pismo

玄蕃尾城(内中尾山城) - 05
玄蕃尾城(内中尾山城) - 05 posted by (C)pismo

玄蕃尾城(内中尾山城) - 06
玄蕃尾城(内中尾山城) - 06 posted by (C)pismo

玄蕃尾城(内中尾山城) - 07
玄蕃尾城(内中尾山城) - 07 posted by (C)pismo

玄蕃尾城(内中尾山城) - 08
玄蕃尾城(内中尾山城) - 08 posted by (C)pismo

玄蕃尾城(内中尾山城) - 09
玄蕃尾城(内中尾山城) - 09 posted by (C)pismo

玄蕃尾城(内中尾山城) - 10
玄蕃尾城(内中尾山城) - 10 posted by (C)pismo

玄蕃尾城(内中尾山城) - 11
玄蕃尾城(内中尾山城) - 11 posted by (C)pismo

玄蕃尾城(内中尾山城) - 12
玄蕃尾城(内中尾山城) - 12 posted by (C)pismo

毛受兄弟の墓です。
毛受兄弟は愛知県尾張旭市(かつての尾張国春日井郡稲葉村)の出身で兄を茂左衛門、弟を庄助(荘介)といい、共に柴田勝家に仕えていました。
弟庄助は12歳で小姓となり、17歳の時には伊勢長島の戦いで武功をあげ、勝家の名を貰い庄助照景を勝助家照と改めたと云われています。後に小姓頭となり1万石を領しました。
賤ヶ岳の戦いには勝家に随い狐塚に出陣していましたが、戦いは敗色が濃くなり撤退するにあたり主君の身代わりとなるため、勝家の馬標を受け取りました。
そして、手兵200人で怒濤の秀吉軍を食い止め、討死しました。秀吉は兄弟の武勲に感じ、遺体を丁重に弔い、遺族を捜し厚く保護したと云われています。
明治9(1876)年滋賀県令籠手田安定は兄弟の遺徳を偲び墓碑を建立しました。以後全長寺は、菩提寺としての供養を勤め、土地の人々は毛受兄弟史跡保存会を組織しました。
毛受兄弟の墓 - 01
毛受兄弟の墓 - 01 posted by (C)pismo

毛受兄弟の墓 - 02
毛受兄弟の墓 - 02 posted by (C)pismo

毛受兄弟の墓 - 03
毛受兄弟の墓 - 03 posted by (C)pismo

別所山砦、行市山砦は林道池原小谷線を利用しました。
とんでもない悪路で、フロントスポイラーやタイヤへのダメージが懸念されます。
行市山登山道 - 1
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行市山登山道 - 2
行市山登山道 - 2 posted by (C)pismo

別所山砦は、天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家方の陣地として、能登小丸山城主前田利家、越前府中城主前田利長父子が僅か2ヶ月余で砦を構築した砦です。標高444m、南北34.77m、東西36.6mの土塁囲いによる陣城です。
別所山は鎌倉時代より別所山万福寺のあったところで、寺院は戦国兵乱の戦火により焼失しています。
前田軍が茂山へ移った後には、大聖寺城主拝郷家嘉が守備に着きました。 

柴田勝家の本陣・玄蕃尾城より、 行市山頂を経て別所山・中谷山・大池山・林谷山の各陣地は、 尾根を人馬によって駆け抜けられる道によって結ばれた強力な陣地として構築されていました。

しかし柴田軍は、これら強固な陣に拠って戦うことは一度もなく、余呉湖畔で敗北する結果となりました。
別所山砦 - 1
別所山砦 - 1 posted by (C)pismo

別所山砦 - 2
別所山砦 - 2 posted by (C)pismo

別所山砦 - 3
別所山砦 - 3 posted by (C)pismo

行市山砦は、天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いの際、加賀国尾山城主佐久間盛政の陣城でした。
佐久間盛政は柴田勝家方の最前線の指揮官でした。
羽柴秀吉は木之本に本陣を構えていましたが、岐阜城の織田信孝を攻撃すべく美濃へ出陣しました。その隙を狙い盛政は4月20日に大岩山砦を急襲し、中川清秀を戦死させました。しかし、この攻撃をきっかけに秀吉が急反転し形勢は逆転し柴田軍は敗走しました。
玄蕃尾城から行市山の間には軍道が整備され、行市連峰を全山要塞化していました。羽柴秀吉も「敵ながら見事な陣」と賞賛していたようです。
行市山から別所山にかけては塹壕や土塁遺構が現在も残っています。
行市山砦 - 01
行市山砦 - 01 posted by (C)pismo

行市山砦 - 02
行市山砦 - 02 posted by (C)pismo

行市山砦 - 03
行市山砦 - 03 posted by (C)pismo

行市山砦 - 04
行市山砦 - 04 posted by (C)pismo

堂木山砦は、天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いに際して、羽柴秀吉軍が東野山砦とともに北国街道を挟み込む場所に位置し、神明山砦と一体となり柴田軍の南下を防ぎ、北国街道を押さえる重要な砦でした。
長浜城主柴田勝豊の配下の山路正国、大金藤八郎が陣していましたが、正国が柴田方へ内応し、行市山へ脱出した後木下半右衛門が入りました。
堂木山砦 - 01
堂木山砦 - 01 posted by (C)pismo

堂木山砦 - 02
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堂木山砦 - 03
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堂木山砦 - 04
堂木山砦 - 04 posted by (C)pismo

神明山砦は、天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いに際して、羽柴秀吉軍が築城した陣城です。
蜂須賀彦右衛門(小六正勝)、木村小隼人(重茲)らが守っていました。
神明山砦 - 01
神明山砦 - 01 posted by (C)pismo

神明山砦 - 02
神明山砦 - 02 posted by (C)pismo

神明山砦 - 03
神明山砦 - 03 posted by (C)pismo

神明山砦 - 04
神明山砦 - 04 posted by (C)pismo

神明山砦 - 05
神明山砦 - 05 posted by (C)pismo
前田利家が佐久間軍が大岩山砦を急襲した際進出した茂山砦も探してみましたが、今ひとつ場所を特定できませんでした。
ここで時間切れ。堀秀政が陣を構えた東野山砦は林道を工事中、羽柴秀長の田上山城も未制覇です。また訪問しなくては・・・
Posted at 2010/10/08 21:31:55 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年09月18日 イイね!

若狭国吉城とその周辺

この日は無料の舞鶴若狭自動車道で福井県美浜町を訪れました。

目的は以前から気になっていた山城・国吉城です。この周辺の町は「佐柿」といいまして、国吉城跡を中心に史跡が整備されつつあります。

徳賞寺は曹洞宗の寺院で、山号は陽光山です。
永禄6(1563)年、国吉城主粟屋越中守勝久が、国吉籠城戦の戦死者を追討するため同地にあった徳賞庵に寺領を寄進して創建しました。
寛永年間に火災に遭い、諸堂悉く焼失しましたが、慶安年間から宝永年間に順次再建されました。
本堂裏手に粟屋勝久の墓と伝えられている五輪塔が残ります。
徳賞寺 - 1
徳賞寺 - 1 posted by (C)pismo

徳賞寺 - 2
徳賞寺 - 2 posted by (C)pismo

徳賞寺 - 3
徳賞寺 - 3 posted by (C)pismo

粟屋氏館〔国吉城主居館〕は若狭国守護大名武田氏の家臣、粟屋越中守勝久の居館です。
国吉城の山麓にあり、土塁や石垣が残されており、古くから国吉城主と家臣団の屋敷跡と伝えられてきましたが、平成13(2001)~14(2002)年度に実施された遺構の確認調査において、壮大な石垣や平石を配した礎石立建物跡が発見され、伝承が裏づけられました。
粟屋氏館〔国吉城主居館〕 - 01
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粟屋氏館〔国吉城主居館〕 - 02
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粟屋氏館〔国吉城主居館〕 - 03
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粟屋氏館〔国吉城主居館〕 - 04
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国吉城は、若狭国守護大名武田氏の家臣、粟屋越中守勝久によって、弘治2(1556)年に築かれた中世の山城です。
永禄6(1563)年から数年に及ぶ勝久と越前朝倉氏との戦いにおいては、城を守り通して名声を内外に轟かせました。
元亀元(1570)年、越前攻めのために木下籐吉郎(後の豊臣秀吉)や徳川家康らを伴って国吉城に入城した織田信長は、城を守った勝久を褒め称えたと伝えられています。
その後、天正11(1583)年に入城した木村常陸介定光は、椿峠を越えた丹後街道が集落の中を通るように道筋を付け替えて町割りを行い、佐柿の町を興しました。
江戸時代に入ると国吉城は廃され、寛永11(1634)年に若狭国の領主となった酒井忠勝は、町奉行所と藩主休息所として御茶屋屋敷を置きました。

国吉城 - 01
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国吉城 - 02
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国吉城 - 03
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国吉城 - 04
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国吉城 - 05
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国吉城 - 06
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国吉城 - 07
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国吉城 - 08
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国吉城 - 09
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国吉城 - 10
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国吉城 - 11
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国吉城 - 12
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佐柿町奉行所は、寛永11(1634)年閏7月、小浜城主となった酒井忠勝が、町支配のための奉行所及び領内巡検の際に休息所とする御茶屋屋敷として設置しました。
享和3(1803)年に「佐柿陣屋」と改められました。現在は石垣などが残されています。
また、奉行所跡には平成21(2009)年4月27日、若狭国吉城歴史資料館が建てられています。木造棟の一部は江戸時代後期に建てられた田辺半太夫家の母屋を移築したものです。
佐柿町奉行所〔御茶屋屋敷〕・若狭国吉城歴史資料館 - 01
佐柿町奉行所〔御茶屋屋敷〕・若狭国吉城歴史資料館 - 01 posted by (C)pismo

佐柿町奉行所〔御茶屋屋敷〕・若狭国吉城歴史資料館 - 02
佐柿町奉行所〔御茶屋屋敷〕・若狭国吉城歴史資料館 - 02 posted by (C)pismo

佐柿町奉行所〔御茶屋屋敷〕・若狭国吉城歴史資料館 - 03
佐柿町奉行所〔御茶屋屋敷〕・若狭国吉城歴史資料館 - 03 posted by (C)pismo

佐柿町奉行所〔御茶屋屋敷〕・若狭国吉城歴史資料館 - 04
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佐柿町奉行所〔御茶屋屋敷〕・若狭国吉城歴史資料館 - 05
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佐柿町奉行所〔御茶屋屋敷〕・若狭国吉城歴史資料館 - 06
佐柿町奉行所〔御茶屋屋敷〕・若狭国吉城歴史資料館 - 06 posted by (C)pismo

準藩士屋敷は、小浜藩預りとなった水戸天狗党の残党を収容するため、慶応2(1866)年にこの地に新築されたもので、周囲には石垣が現存しています。
尊皇攘夷実現のため、常陸国筑波山で挙兵した水戸天狗党は京都を目指しましたが、幕府軍の追撃を受けて越前国敦賀で降伏しました。
慶応元(1865)年、首領の武田耕雲斎以下353名は死罪となりましたが、遠島となった武田金治郎以下110名は小浜藩に預けられて敦賀で謹慎し、翌年赦免されました。
小浜藩では彼らを準藩士格として扱い、佐柿に移しました。慶応4(1868)年、朝廷より水戸帰藩を命ぜられ、佐柿を後にしました。
準藩士屋敷跡 - 1
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準藩士屋敷跡 - 2
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この後は、賤ヶ岳古戦場周辺の山城を巡ります。
Posted at 2010/10/04 22:09:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年09月14日 イイね!

伊達・上杉・最上紀行(4日目・山形)

いよいよ最終日です。
この日は、昨日の続きと云うことで、慶長出羽合戦の史跡、畑谷城を最初に訪れました。

畑谷城は、築城時期は不明ですが、山形城の支城として最上氏は、置賜、下長井地方に通ずる要所の地であり、伊達氏や上杉氏に備える最前線の城でした。
東黒森山の尾根続きの館山に、山頂を本丸として、各所に空掘を配していました。
慶長5〔1600)年、慶長出羽合戦の際には江口五兵衛光清が守っていましたが、9月11日に上杉家の直江兼続が、主力軍約2万を率いて荒砥から進撃し、山形城を目指して途中の畑谷城に迫り、9月12日畑谷城を攻撃しました。
江口光清は、最上義光から引き上げて山形城へ合流するように指令を受けましたが、敵を目前にして逃げるような道は取れないとその指令を断りました。
江口を高く評価していた直江兼続からは上杉勢への協力を勧められましたがそれも断り、戦いを決意していました。
しかし、12日からの戦いは翌13日に二時(4時間)の攻防戦で守将江口光清はじめ500人を討ち取り、城は落城しました。
城跡は空堀などがよく残っています。
畑谷城 - 01
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畑谷城 - 02
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畑谷城 - 03
畑谷城 - 03 posted by (C)pismo

畑谷城 - 04
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畑谷城 - 05
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畑谷城 - 06
畑谷城 - 06 posted by (C)pismo

畑谷城 - 07
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畑谷城 - 08
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畑谷城 - 09
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畑谷城 - 10
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畑谷城 - 11
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畑谷城 - 12
畑谷城 - 12 posted by (C)pismo

長松寺は、曹洞宗の寺院です。
畑谷城の麓にあり、畑谷城主の江口光清の開基を伝える寺ですが、それ以前から存在していたそうです。
境内には江口光清の墓や畑谷城400回忌記念碑が建っています。
長松寺 - 1
長松寺 - 1 posted by (C)pismo

長松寺 - 2
長松寺 - 2 posted by (C)pismo

長松寺 - 3
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長松寺 - 4
長松寺 - 4 posted by (C)pismo

長松寺 - 5
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念仏壇は、畑谷城攻防戦で亡くなった飯田播磨守を始め戦没者を葬った地と云われています。
明治32(1899)年、300回忌を記念して供養碑が建てられました。
念仏壇 - 1
念仏壇 - 1 posted by (C)pismo

念仏壇 - 2
念仏壇 - 2 posted by (C)pismo

次は山形市の中心部です。
最上義光歴史館は、山形城主であった戦国武将、最上義光・山形城の資料を展示している歴史館として平成元(1989)年にオープンしました。
長谷堂合戦図屏風や、長谷堂城の戦いで最上軍が奪った直江軍の軍旗、最上義光所用「三十八間総覆輪筋兜」などなかなか展示も充実しています。
最上義光歴史館 - 01
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最上義光歴史館 - 02
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山形城は延文元(1356)年に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼が、延文2(1357)年に築城しました。一説では古くからあった城を改修したともいいますがが、山形城を築いて本拠としました。以来、兼頼の子孫は最上氏を称して、山形城を居城としました。
戦国時代に入ると、最上氏一族は分裂していましたが、出羽の驍将といわれた12代最上義光は山形城主になるや、一族の討伐にとりかかり、 それが治まると外部に手を伸ばし、遂には最上川流域の統治に成功しました。
文禄年間、最上義光が近代城郭にふさわしい規模に整えました。
最上家は、関ヶ原の戦いの後57万石の大大名となりますが、元和8(1622)年に義光の孫にあたる義俊が改易され、近江国に5千石、三河国に5千石合わせて1万石を与えられ、近江の大森に移されました。
その後、鳥居忠政が入城しましたが、後に忠恒が嗣子が亡く、改易され、寛永13年(1636)年、保科正之が入城し、その後は松平氏、奥平氏、堀田氏、秋元氏、水野氏など親藩や譜代大名が次々と入封しました。
廃藩の後明治29(1896)年に本丸と二の丸の土地が歩兵第32連隊の兵営地となり、その時、本丸の堀と土手が埋められました。
昭和61(1986)年に国の史跡に指定されました。
平成3(1991)年には二の丸東大手門が復元され、平成16(2004)年には本丸の大手門(一文字門)の石垣が復元されました。現在も徐々に復元計画が進行中のようです。
平成18(2006)年、日本100名城に指定されました。
山形城 - 01
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山形城 - 02
山形城 - 02 posted by (C)pismo

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山形城 - 04
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山形城 - 06
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山形城 - 07
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山形城 - 08
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専称寺は、浄土真宗大谷派の寺院です。
元は高擶村(現在の天童市)にありましたが、慶長元年(1596)に、山形城主最上義光が、愛娘駒姫の菩提寺として、山形に移建しました。
当初は、旅篭町の仁王堂小路にありましたが、慶長3年(1598)に義光は現在地に移したという。 
駒姫は義光の二女で、文禄4(1595)年関白豊臣秀次に召されて上洛したが、7月に太閤秀吉の逆鱗にふれた秀次は、高野山にて切腹し、駒姫も京に到着して間もない8月2日、秀次に連座して、15歳で三条河原で処刑されてしまいました。
現在の本堂は、元禄16(1703)年に再建されたものです。境内には、駒姫の墓や、義光が参拝するときに馬を繋いだという伝説がある「義光公駒つなぎの桜」があります。
専称寺 - 01
専称寺 - 01 posted by (C)pismo

専称寺 - 02
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専称寺 - 06
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専称寺 - 07
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専称寺 - 08
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この後は、仙台に戻り、仙台市博物館を見た後、仙台空港から帰路につきました。
なかなか充実していた旅でした。マニアックな史跡めぐりにつきあってくれた友人たちにも感謝です。
Posted at 2010/10/03 00:27:59 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記

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