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ピズモのブログ一覧

2010年10月24日 イイね!

山手幹線全線開通(芦屋川横断工区の芦屋川隧道完成)

兵庫県の尼崎市から神戸市長田区を結ぶ道路「山手幹線」が全線開通しました。
以前、平成19年4月に芦屋市内が一部開通した際にはみんカラブログにアップしましたが(芦屋市内の山手幹線の一部開通(芦屋市西芦屋町~神戸市境))
平成20年3月に西宮市の西側(大谷工区)から芦屋市の東工区が開通し、残るはこの芦屋川をトンネルでくぐる芦屋川横断工区を残すのみでした。

雨でしたが、仕事を終えた後原付で走ってみて、写真も撮ってみました。

芦屋川隧道西側


芦屋川隧道西側上部より




芦屋川隧道東側






芦屋川隧道東側上部より


山手幹線と兵庫県道344号奥山精道線との交差点(松ノ内町西交差点)



昭和21年、戦災復興事業として都市計画決定後、64年間の歳月を費やしました。
特に西宮市内や芦屋市内は、住宅街を貫くことから完成は難しいと思われていました。
阪神・淡路大震災がなければ、開通していなかったことでしょう。
ただし、全線開通で交通量がどうなるのかが気になります。
開通して間もないこともあり、走り初めの車で西宮市内から芦屋市内までかなり渋滞していました。
南北道路も山手幹線との交差点で混雑しないか、心配です。

このニュースを見ると、震災後に完成した部分(西宮市〜芦屋市)は暫定2車線となっていますが、今後の交通量を見て4車線化を検討するようです。幅員は4車線化を確保出来ているようですし。

また、西宮市内の尼崎市境から、大屋町交差点までは拡幅を検討しているようです。(西宮市HPより)
もっとも、阪急西宮ガーデンズ対策という部分もあるのでしょうが。

幹線道路ですが、生活道路的な要素も強い道なので、今後どう整備していくのか、意見がわかれそうです。

2車線で混雑を放置していると、
 ・渋滞によるアイドリングで大気汚染、騒音の問題。
 ・混雑を避ける車が生活道路へ進入
という問題もありますが、
4車線化の問題として、
 ・4車線化しても路上駐車されてしまうと2車線とかわらない。
 ・幅員が確保されていても中央分離帯などを設けてしまっているところは4車線化するとお金がかかる。
 ・右折溜まりをつくらないと意味がない。だがつくるとなるとお金がかかる。
 ・更に交通量が増える。
といった問題もでてきそうです。
Posted at 2010/10/25 00:15:20 | コメント(2) | トラックバック(1) | 道路 | 日記
2010年10月23日 イイね!

PowerShot G9売却&PowerShot S95購入

PowerShot G9売却&PowerShot S95購入最近、大きさが少し中途半端なのと、高感度特性が弱く広角が35mmしかないPowerShot G9の出番が少なくなっていました。







よりコンパクトで、露出補正がしやすく気軽に持ち運べるカメラということでPowerShot S95を購入してみました。




望遠は弱いものの、広角は今や当然となった28mm。高感度でのノイズが少なく、手ぶれ補正も強力。夜景撮影にも活躍しそうです。
これまで私はカメラは重厚長大主義者で、大きく重い方がホールドしやすいという考え方から、薄型など小さいカメラは持っていませんでした。
これだけコンパクトなカメラを持つのはRicoh Caplio R3以来。落とさないように気をつけなければ。
Posted at 2010/11/29 23:12:57 | コメント(1) | トラックバック(0) | デジカメ | 日記
2010年10月16日 イイね!

秋の大台ヶ原

この日は早朝から大台ヶ原ハイキング。
6年ぶりの訪問ですが、ハイキングルートも整備されていて気持ちの良い場所です。
ただし、人気スポットなので、かなり頑張って早朝からの登山です。
大台ヶ原 - 001
大台ヶ原 - 001 posted by (C)pismo

大台ヶ原 - 002
大台ヶ原 - 002 posted by (C)pismo

大台ヶ原 - 003
大台ヶ原 - 003 posted by (C)pismo

大台ヶ原 - 004
大台ヶ原 - 004 posted by (C)pismo

大台ヶ原 - 005
大台ヶ原 - 005 posted by (C)pismo

大台ヶ原 - 006
大台ヶ原 - 006 posted by (C)pismo

大台ヶ原 - 007
大台ヶ原 - 007 posted by (C)pismo

大台ヶ原 - 008
大台ヶ原 - 008 posted by (C)pismo


きれいな紅葉と、爽やかな空気を吸って良い運動になりました。
Posted at 2010/11/07 22:07:25 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年10月10日 イイね!

西美濃史跡めぐり(その3・揖斐川町・本巣市・北方町)

次は揖斐川町です。

揖斐城の登城口の一心寺です。
一心寺は天保元(1830)年播隆上人を開祖として創建された浄土宗の寺院です。
播隆上人は槍ヶ岳・笠ヶ岳の開祖といわれています。
当初は阿弥陀堂と云われましたが、後に一心寺と改めました。
一心寺 - 1
一心寺 - 1 posted by (C)pismo

一心寺 - 2
一心寺 - 2 posted by (C)pismo

一心寺 - 3
一心寺 - 3 posted by (C)pismo

揖斐城は土岐一族の土岐頼雄が康永2(1340)年に築城したといわれています。
頼雄は揖斐氏を名乗り、代々揖斐氏が居城としました。揖斐氏は、頼雄-詮頼-友雄-基春-基信と続きましたが、基信には子が無く、土岐宗家より土岐政房の子で土岐頼武、頼芸の弟の光親が養子となりました。
しかし、揖斐光親の代の時、天文16(1548)年に斉藤道三に攻められ、揖斐城は落城しました。
その後、廃城となっていましたが、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで功績のあった西尾光教が、美濃曽根城2万石から、1万石加増の上、揖斐に移りました。
その際は山城の揖斐城ではなく、麓に新たに城を築いたようです。後に旗本領となり、西尾光教が居城とした平城の揖斐城の場所に陣屋を築きました。
山城の揖斐城は遺構がよく残っています。揖斐川町の指定文化財となっています。
揖斐城 - 01
揖斐城 - 01 posted by (C)pismo

揖斐城 - 02
揖斐城 - 02 posted by (C)pismo

揖斐城・本丸跡 - 03
揖斐城・本丸跡 - 03 posted by (C)pismo

揖斐城・本丸跡 - 04
揖斐城・本丸跡 - 04 posted by (C)pismo

揖斐城・二の丸跡 - 05
揖斐城・二の丸跡 - 05 posted by (C)pismo

揖斐城・二の丸跡  - 06
揖斐城・二の丸跡 - 06 posted by (C)pismo

揖斐城・曲輪跡  - 07
揖斐城・曲輪跡 - 07 posted by (C)pismo

揖斐城・大手門跡 - 08
揖斐城・大手門跡 - 08 posted by (C)pismo

揖斐城・三の丸跡 - 09
揖斐城・三の丸跡 - 09 posted by (C)pismo

揖斐城・出丸跡(太鼓曲輪) - 10
揖斐城・出丸跡(太鼓曲輪) - 10 posted by (C)pismo

揖斐城・搦手跡 - 11
揖斐城・搦手跡 - 11 posted by (C)pismo

揖斐城 - 12
揖斐城 - 12 posted by (C)pismo

揖斐城 ・井戸跡- 13
揖斐城 ・井戸跡- 13 posted by (C)pismo

月桂院は、清水城主だった稲葉一鉄の菩提寺です。
一鉄は清水城北の山麓に妻の邸宅を建てて住まわせていましたが、天正9(1581)年に亡くなり、法号を弘徳院殿月桂周芳大姉と号し、邸宅の西に葬りました。
一鉄は翌天正10(1582)年春、この旧邸を菩提のため寺とし、小林山月桂寺を創建しました。
天正16(1588)年11月19日一鉄が清水城で亡くなり、妻の墓に並べて葬りました。
清水城は長男兵庫頭重通が城主となりましたが、慶長3(1598)年歿し、甲斐守通重が継ぎましたが、慶長13(1608)年改易となったため、寺も荒廃したそうです。
境内には、現在も一鉄夫妻、息子貞通の妻(2人)の墓や一鉄の梵鐘(陣鐘)、稲葉神社があります。
月桂院 - 01
月桂院 - 01 posted by (C)pismo

月桂院 - 02
月桂院 - 02 posted by (C)pismo

月桂院 - 03
月桂院 - 03 posted by (C)pismo

月桂院 - 04
月桂院 - 04 posted by (C)pismo

月桂院 - 05
月桂院 - 05 posted by (C)pismo

月桂院 - 06
月桂院 - 06 posted by (C)pismo

月桂院 - 07
月桂院 - 07 posted by (C)pismo

月桂院 - 08
月桂院 - 08 posted by (C)pismo

清水城は、元は山城で清水山に築かれました。
延文元(1356)年に林七郎左衛門通兼によって築城されたといわれています。
戦国時代には加納氏が居城しましたが、弘治3(1557)年、曽根城主稲葉一鉄(良通)に攻められ落城しました。
永禄年間、一鉄は、山城を廃して麓に新城(平城)を築きました。 天正7(1579)年、一鉄は曽根城を嫡子貞通に譲り、清水城に隠居しました。
天正16(1588)年一鉄の死後、庶長子重通が城主となり清水城12,000石を領しました。
重通の子通重は、慶長5(1600)年の関ヶ原では東軍に与し本領安堵されましたが、慶長12(1607)年に狼藉事件を起こして改易となり、城も廃城となりました。
現在は、清水小学校となっており案内板や石垣が一部残ります。
清水城 - 1
清水城 - 1 posted by (C)pismo

清水城 - 2
清水城 - 2 posted by (C)pismo

清水城 - 3
清水城 - 3 posted by (C)pismo

次は本巣市です。
山口城を築いたのは美濃国守護に任ぜられた梶原景時といわれています。
景時以後、廃城になっていましたが、戦国時代に入り、隣接する祐向山城の支城となり土岐頼武・頼純父子の城となりますが、天文12(1543)年頃、斎藤道三の城となりその配下にある古田重安が山口城主となったともいわれていますが定かではありません。
天文13(1544)年、山口城主古田重定の子として古田織部重然がこの城で生まれたともいわれています。
永禄10(1567)年、美濃を制圧した織田信長が岐阜城に入城した後、織部は信長に仕えました。
その後、秀吉に仕え、天正12(1584)年山口城主となり、翌年には、山城西岡3万5千石の大名になりました。
関ヶ原の戦いで織部は家康に付き、二代将軍秀忠の茶道指南役となりますが、元和元(1615)年に謀反の嫌疑をかけられ長男重広とともに自害しました。
山口城の廃城時期は不明です。
現在は文殊の森公園の一角となっていて、中ノ城が「鳥がなく展望台」となっていて、そこから奥に進むと本丸跡に到着します。
山口城・中ノ城 - 1
山口城・中ノ城 - 1 posted by (C)pismo

山口城 - 02
山口城 - 02 posted by (C)pismo

山口城 - 03
山口城 - 03 posted by (C)pismo

山口城 - 04
山口城 - 04 posted by (C)pismo

山口城 - 05
山口城 - 05 posted by (C)pismo

山口城 - 06
山口城 - 06 posted by (C)pismo

法林寺城は山口城の北東側にあります。
山口城と同じく文殊の森公園の中にあり、山口城の北東の山にある「望郷の展望台」が城跡です。
詳細は不明です。更に北東に祐向山城(いこうやまじょう)があるようで、法林寺城は祐向山城の支城であるともいわれています。
法林寺城 - 1
法林寺城 - 1 posted by (C)pismo

法林寺城 - 2
法林寺城 - 2 posted by (C)pismo

法林寺城 - 3
法林寺城 - 3 posted by (C)pismo

軽海西城は、築城された時期についてはわかっていません
土岐氏の時代に至って稲葉氏が、数代居住しその後、西村勘九郎(のちの斎藤道三)が居城したと伝えられています。
永禄年間、池田恒興の家臣片桐半右衛門が要害を構えて住んだといわれており、永禄4(1561)年、軽海合戦の折り重要な役割を果たしたものと推定されています。
なお、かつては軽海西城の東方には軽海東城があり、加留美長勝、朝倉高清、安藤守宗(安藤守就の次男)が拠点としたそうです。
天正17(1589)年、一柳伊豆守直末が6万石を領し、この地を支配しました。
直末は豊臣氏に従い小田原合戦に加わって伊豆山中で戦死しました。のち後裔が菩提を弔って建てたのが円長寺であるといわれています。
この寺域を軽海城址と推定し、昭和54(1979)年4月15日町の史跡として指定されました。
軽海西城(円長寺) - 1
軽海西城(円長寺) - 1 posted by (C)pismo

軽海西城(円長寺) - 2
軽海西城(円長寺) - 2 posted by (C)pismo

最後に北方町を訪れました。
円鏡寺は、弘仁2(811)年、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が建立した寺院です。
不動明王を本尊とし、定照寺と名づけられ、後に補陀落上人により聖観音菩薩が安置されたことにより補陀落院と改称されたといわれています。
永延2(988)年、良祐により現在の伽藍の元が築かれ、境内に池を造った際に明鏡が出土、これを献上したことにより一条天皇より「池鏡山円鏡寺」の名を授かりました。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの歴代権力者からの保護を受けており、朱印状も受けています。
円鏡寺 - 1
円鏡寺 - 1 posted by (C)pismo

円鏡寺 - 2
円鏡寺 - 2 posted by (C)pismo

北方陣屋(きたがたじんや)は、戸田松平氏の分家北方戸田氏の陣屋です。
北方戸田氏は、松平(戸田)光重の長男の初代戸田光賢が寛文8(1668)年に分地をうけてから、7代光遠が明治2(1869)年に版籍奉還をするまでこの地に陣屋を置きました。
役所を中心に、米庫、撃剣道場、化成庠(学問所のこと)などがあって、その周囲には奉行、代官など家臣の屋敷が置かれ、5000石の陣屋に相応しい堂々たるものであったといわれます。
現在では、碑と案内板があるのみですが、水路などにかつての面影が偲ばれます。
北方陣屋 - 1
北方陣屋 - 1 posted by (C)pismo

北方陣屋 - 2
北方陣屋 - 2 posted by (C)pismo

北方城は、伊賀太郎左衛門光就が築城し、居城としました。
光就の曽孫である安藤守就は北方城主として稲葉良通(一鉄)、氏家ト全とともに西美濃三人衆と呼ばれ、斎藤氏に仕えていましたが、織田信長の美濃侵攻後は信長に仕えました。
姉川の戦いや長島一向一揆討伐で戦功をあげましたが、天正8(1580)年に嫡子の河渡城主安藤尚就が武田氏に内通したという嫌疑で信長の勘気を受けたため、守就は北方城を出て武儀郡谷口村へ隠棲しました。信長は守就の旧領を稲葉一鉄に預けました。
天正10(1582)年の本能寺の変の後、守就は旧臣を集め、北方城に拠りましたが、稲葉一鉄、貞通父子に攻められ、城は落城、守就は自害しました。これを北方合戦といいます。
城は水路で囲まれ、城域は東西約160m、南北約340mで、土居城で天守閣は無かったといわれています。
現在は、空地に石碑と案内板があるのみです。
北方城 - 1
北方城 - 1 posted by (C)pismo

北方城 - 2
北方城 - 2 posted by (C)pismo

安藤伊賀守守就戦死の地です。天正10(1582)年に信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、守就は本領に戻り挙兵しました。
しかし、これを聞いた稲葉一鉄との間で戦いが始まり(北方合戦)、6月8日この千代母ヶ淵で討死しました。
現在は廃止された名鉄揖斐線の廃線沿い、民家の庭先に石碑と説明看板が建っています。一見廃線路敷からしか行けないように見えますが、北側から回り込むことができます。
石碑はなぜか「安藤守就」ではなく「安東守就戦死地」となっていました。
安藤伊賀守守就戦死の地 - 1
安藤伊賀守守就戦死の地 - 1 posted by (C)pismo

安藤伊賀守守就戦死の地 - 2
安藤伊賀守守就戦死の地 - 2 posted by (C)pismo

これで今回の西美濃ドライブはひとまず終了です。
Posted at 2010/11/07 21:52:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年10月10日 イイね!

西美濃史跡めぐり(その2・大垣市・神戸町・池田町)

次は大垣市です。
美濃国分寺は美濃国府や不破関に近い、青野原の景勝地に建立されました。
背後に青野山を控え、南は東山道に面して建立された国分寺は、わずかに塔跡を残すのみで埋もれていましたが、昭和43(1968)年度からの継続的な発掘調査によって、伽藍の全容が次第に明らかとなりました。
伽藍の範囲は、東西231m・南北250m以上で、周囲を築地大垣をめぐらせていました。
仁和3(887)年、火災によって全てが焼失し、一時、席田郡(むしろだぐん)の定額尼寺にその機能を移しましたが、その後、この地に再建されたようです。
しかし、12世紀末頃までには国分寺としての機能を失い、山麓に所在する現在の美濃国分寺は、元和元(1615)年に再建されたものです。
大正10(1921)年、美濃国分寺跡(塔跡と金堂周辺)は国指定史跡になりました。
昭和46(1971)年には伽藍域の大部分と瓦窯跡が追加指定され、昭和49(1974)年度からは発掘調査により伽藍状況を明らかにするとともに発見された建物基壇を中心にその構造をできるだけ地上に復元して史跡整備を行いました。
平成19(2007)年には都市公園法にもとづく歴史公園に指定されました。
ちなみに美濃国分尼寺跡は、西南西約1kmの垂井町平尾にありました。
美濃国分寺跡 - 01
美濃国分寺跡 - 01 posted by (C)pismo

美濃国分寺跡 - 02
美濃国分寺跡 - 02 posted by (C)pismo

美濃国分寺跡 - 03
美濃国分寺跡 - 03 posted by (C)pismo

美濃国分寺跡 - 04
美濃国分寺跡 - 04 posted by (C)pismo

美濃国分寺跡 - 05
美濃国分寺跡 - 05 posted by (C)pismo

美濃国分寺跡 - 06
美濃国分寺跡 - 06 posted by (C)pismo

美濃国分寺跡 - 07
美濃国分寺跡 - 07 posted by (C)pismo

大垣市歴史民俗資料館は、史跡美濃国分寺跡環境整備事業により発掘された出土品と判明した国分寺跡の全貌を公開し、また大垣地方の考古資料、民俗資料を紹介している資料館です。
大垣市歴史民俗資料館
大垣市歴史民俗資料館 posted by (C)pismo

一旦神戸町に入ります。
西保北方城(にしのほきたかたじょう)は、築城時期は不明ですが、不破道広が築城したといわれています。
孫の不破光治は土岐頼芸に仕えていましたが、土岐氏没落後斎藤氏に仕えました。
その後、織田信長に従い、柴田勝家の与力として前田利家・佐々成政とともに越前に領地を与えられ龍門寺城(現在の越前市)に移りました。
西保北方城は次男の彦三郎が継ぎますが、本能寺の変で信忠と共に討死したため城には妹婿の稲葉方通(一鉄の子)が入りました。方通も加茂郡和知に移ったため、天正18(1590)年から木村宗左衛門重広が城主となりました。
重広は関ヶ原の戦いで西軍に属し、子の伝蔵と共に大垣城で戦死したため西保北方城は廃城となりました。
西保地区公民館、西宮神社から東側にある竹藪が城跡です。
竹藪の街区の東側道路脇に石碑があります。
西保北方城 - 1
西保北方城 - 1 posted by (C)pismo


再び大垣市です。
曽根城の創築年代は不明ですが、西美濃三人衆の一人として活躍した稲葉一鉄が、永禄10年(1567)織田信長に仕え、五万石を領しました。
その後、この城は一鉄の子、貞通と孫の典通を経て、天正16(1588)年から西尾光教が在城しました。
光教は関ヶ原合戦(1600)に西軍の守備する大垣城を攻略する等の戦功をたて戦後揖斐城に移り、曽根城は廃城になりました。
享保19(1734)年、一鉄の母の菩提寺である華渓寺が本丸跡に移転しました。
華渓寺の北側の壁付近は発掘調査の結果、石塁や土塁が発見されていますが、保存のため埋め戻されています。華渓寺の北側一帯は曽根城公園として整備され、花しょうぶの名所として知られています。
曽根城 - 01
曽根城 - 01 posted by (C)pismo

曽根城 - 02
曽根城 - 02 posted by (C)pismo

曽根城 - 03
曽根城 - 03 posted by (C)pismo

曽根城 - 04
曽根城 - 04 posted by (C)pismo

曽根城 - 05
曽根城 - 05 posted by (C)pismo

曽根城 - 06
曽根城 - 06 posted by (C)pismo

曽根城 - 07
曽根城 - 07 posted by (C)pismo

曽根城 - 08
曽根城 - 08 posted by (C)pismo

曽根城公園の西側に斎藤内蔵助利三屋敷跡の石碑が建っています。
春日局の父、斎藤利三が、城主稲葉一鉄の重臣として住んだところです。
春日局は稲葉一鉄の姪、お安と斎藤利三との間に生まれた子であり、のちに一鉄の子、重通の養女となって稲葉正成に嫁しました。
<曽根城・斎藤利三屋敷跡 - 09
曽根城・斎藤利三屋敷跡 - 09 posted by (C)pismo

池田町です。
本郷城の築城時期は不明です。
平安時代の永和年間(834~847)に城郭が築かれ池田宮内小輔維実が在城していたとも、元中4年・嘉慶元(1387)年、土岐康行の小島城が落城し、足利幕府より美濃守護職に任命された土岐頼忠が築いたともいわれています。頼忠の子土岐頼益は、後に萱津(愛知間甚目寺町)に移りました。
土岐氏の後はこの地の豪族、国枝為助がこの城を修築して居城しました。為助は明応4(1495)年船田合戦で兄弟5人と共に討死しましたが、国枝氏はその子正助から宗竜-重光-重元とこの城を居城としました。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの時は国枝重元の弟修理亮政盛の時代、織田秀信に仕え西軍に属したため東軍により本郷城は城下と龍徳寺等と共に焼き払われ、城は廃城となりました。
なお、稲葉一鉄は稲葉通則を父に、本郷城主国枝正助の娘を母として、 この城で生まれたそうです。
本郷城 - 01
本郷城 - 01 posted by (C)pismo

本郷城 - 02
本郷城 - 02 posted by (C)pismo

本郷城 - 03
本郷城 - 03 posted by (C)pismo

本郷城 - 04
本郷城 - 04 posted by (C)pismo

本郷城 - 05
本郷城 - 05 posted by (C)pismo

龍徳寺は、山号を雲門山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
弘仁年中(810〜24)、伝教大師創建の天台宗龍升山雲門寺が元寺です。
朝廷の祈願寺でしたが、地方の争乱を受けて衰退していました。
観応2(1351)年、池田庄出身で北面の武士だった池田蔵人教依は勅を奉じてこの地に下向し、地域の発展に尽くしました。その際、この寺を先祖の香華所と定め、寺領を寄付して再興の開基となりました。
その後、世襲して池田恒利の代になった際、兵火により焼失しました。
文明年間(1469〜87)、壇越の本郷城主国枝大和守為助が再興し、天台宗から禅宗に改宗し、寺名を雲門山龍徳寺と改めました。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの際には、東軍の先鋒池田輝政と、福島正則は禁制を出して守護しましたが、本郷城主国枝政森は西軍に味方したため、本郷城と共に焼き払われてしまいました。
その後、徳川家康から寺領が寄進され、大垣城主戸田氏信も経済的な支援を行い再建されました。
江戸時代には岡山藩池田氏、鳥取藩池田氏、臼杵藩稲葉氏の先祖菩提所を擁することから手厚い保護を受けました。
龍徳寺 - 1
龍徳寺 - 1 posted by (C)pismo

池田恒興・元助の墓です。
池田恒興は織田信長と乳兄弟で、信長に仕えました。本能寺の変で信長が明智光秀に殺された後、豊臣秀吉に味方して山崎の戦いで光秀と戦い戦功をたてました。
その後勝入斎となり大垣城主となり、子の元助が岐阜城主の頃、恒興父子は秀吉に誘われ、小牧・長久手の戦いで織田信雄、徳川家康と戦うことになります。しかし、天正12(1584)年4月9日尾張の長久手で父子共に戦死を遂げました。
法名は信輝、前紀州城守雄岳宗英禅定門、元助、前紀州顕功英節禅定門、父子の墓は大垣市林町にあったといわれますが、徳川氏の忌むところとなり、出身地である当町に移されました。
祖先の池田蔵人教依が開基したと云われる龍徳寺の西に位置しています。この墓所には長久手の戦いで共に戦死した家臣片桐興三郎、古田甚内の墓、そして梶原兵七郎他二十三人を供養した烈忠塔などがあります。
池田恒興(信輝)・元助の墓 - 1
池田恒興(信輝)・元助の墓 - 1 posted by (C)pismo

池田恒興(信輝)・元助の墓 - 2
池田恒興(信輝)・元助の墓 - 2 posted by (C)pismo

池田恒興(信輝)・元助の墓 - 3
池田恒興(信輝)・元助の墓 - 3 posted by (C)pismo

池田恒興(信輝)・元助の墓 - 4
池田恒興(信輝)・元助の墓 - 4 posted by (C)pismo

池田恒興(信輝)・元助の墓 - 5
池田恒興(信輝)・元助の墓 - 5 posted by (C)pismo

稲葉一族・池田恒利の墓〔養源院跡〕です。稲葉氏は道貞(塩塵)以来西濃一帯に勢力を張った一族で、道貞は池田町小寺に小寺城を築き、子の通則の代もこの城に住みました。
大永5(1525)年、浅井・朝倉連合軍が美濃に侵攻した際には、通則は土岐頼芸の指揮の下、一鉄を除く5人の息子と共に出陣、牧田(現上石津町)でことごとく討死しました。
6男の一鉄は岐阜市長良の崇福寺に入っていましたが、これを機に還俗して稲葉家を継ぐことになりました。
一鉄は父の遺領を継いで曽根城(現大垣市)を居城賭し、後に氏家卜全、安藤守就と共に美濃三人衆と呼ばれました。
稲葉一族の墓所がある場所は、一鉄が牧田合戦で戦死した父兄6人と先祖の供養のため建立した養源院の跡地一画であると伝えられています。
墓所には稲葉家の祖塩塵、通則、その子通勝・通房、稲葉則弘らが奉られています。
他に母が一鉄の娘である国枝重元、稲葉通勝の妻(国枝宗竜の娘?)など稲葉家に関係する人物や、池田恒興の父恒利の墓、国枝重次(宗竜の兄弟)も厚く奉られています。
稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 1
稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 1 posted by (C)pismo

稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 2
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稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 3
稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 3 posted by (C)pismo

稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 4
稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 4 posted by (C)pismo

禅蔵寺は、山号は仏巌山、正平16/康安元(1361)年に建立された臨済宗妙心寺派の寺院です。
美濃守護の土岐頼忠によって建立されました。
頼忠は土岐康行の乱の後、美濃土岐氏の当主となり美濃国守護となりました。その後、応永4年(1397年)に亡くなりました。
禅蔵寺の麓に頼忠の墓や息子で6代目美濃国守護である頼益や頼忠の母など一族の墓があります。
土岐頼忠及び一族の墓として、岐阜県指定史跡となっています。
墓は入口が閉ざされていて、お参りすることができませんでした。
禅蔵寺 - 1
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禅蔵寺 - 2
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この後は、揖斐川町へ向かいます。
Posted at 2010/10/30 21:21:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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