次は揖斐川町です。
揖斐城の登城口の
一心寺です。
一心寺は天保元(1830)年播隆上人を開祖として創建された浄土宗の寺院です。
播隆上人は槍ヶ岳・笠ヶ岳の開祖といわれています。
当初は阿弥陀堂と云われましたが、後に一心寺と改めました。
一心寺 - 1 posted by
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一心寺 - 2 posted by
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一心寺 - 3 posted by
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揖斐城は土岐一族の土岐頼雄が康永2(1340)年に築城したといわれています。
頼雄は揖斐氏を名乗り、代々揖斐氏が居城としました。揖斐氏は、頼雄-詮頼-友雄-基春-基信と続きましたが、基信には子が無く、土岐宗家より土岐政房の子で土岐頼武、頼芸の弟の光親が養子となりました。
しかし、揖斐光親の代の時、天文16(1548)年に斉藤道三に攻められ、揖斐城は落城しました。
その後、廃城となっていましたが、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで功績のあった西尾光教が、美濃曽根城2万石から、1万石加増の上、揖斐に移りました。
その際は山城の揖斐城ではなく、麓に新たに城を築いたようです。後に旗本領となり、西尾光教が居城とした平城の揖斐城の場所に陣屋を築きました。
山城の揖斐城は遺構がよく残っています。揖斐川町の指定文化財となっています。
揖斐城 - 01 posted by
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揖斐城 - 02 posted by
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揖斐城・本丸跡 - 03 posted by
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揖斐城・本丸跡 - 04 posted by
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揖斐城・二の丸跡 - 05 posted by
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揖斐城・二の丸跡 - 06 posted by
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揖斐城・曲輪跡 - 07 posted by
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揖斐城・大手門跡 - 08 posted by
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揖斐城・三の丸跡 - 09 posted by
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揖斐城・出丸跡(太鼓曲輪) - 10 posted by
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揖斐城・搦手跡 - 11 posted by
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揖斐城 - 12 posted by
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揖斐城 ・井戸跡- 13 posted by
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月桂院は、清水城主だった稲葉一鉄の菩提寺です。
一鉄は清水城北の山麓に妻の邸宅を建てて住まわせていましたが、天正9(1581)年に亡くなり、法号を弘徳院殿月桂周芳大姉と号し、邸宅の西に葬りました。
一鉄は翌天正10(1582)年春、この旧邸を菩提のため寺とし、小林山月桂寺を創建しました。
天正16(1588)年11月19日一鉄が清水城で亡くなり、妻の墓に並べて葬りました。
清水城は長男兵庫頭重通が城主となりましたが、慶長3(1598)年歿し、甲斐守通重が継ぎましたが、慶長13(1608)年改易となったため、寺も荒廃したそうです。
境内には、現在も一鉄夫妻、息子貞通の妻(2人)の墓や一鉄の梵鐘(陣鐘)、稲葉神社があります。
月桂院 - 01 posted by
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清水城は、元は山城で清水山に築かれました。
延文元(1356)年に林七郎左衛門通兼によって築城されたといわれています。
戦国時代には加納氏が居城しましたが、弘治3(1557)年、曽根城主稲葉一鉄(良通)に攻められ落城しました。
永禄年間、一鉄は、山城を廃して麓に新城(平城)を築きました。 天正7(1579)年、一鉄は曽根城を嫡子貞通に譲り、清水城に隠居しました。
天正16(1588)年一鉄の死後、庶長子重通が城主となり清水城12,000石を領しました。
重通の子通重は、慶長5(1600)年の関ヶ原では東軍に与し本領安堵されましたが、慶長12(1607)年に狼藉事件を起こして改易となり、城も廃城となりました。
現在は、清水小学校となっており案内板や石垣が一部残ります。
清水城 - 1 posted by
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清水城 - 2 posted by
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清水城 - 3 posted by
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次は本巣市です。
山口城を築いたのは美濃国守護に任ぜられた梶原景時といわれています。
景時以後、廃城になっていましたが、戦国時代に入り、隣接する祐向山城の支城となり土岐頼武・頼純父子の城となりますが、天文12(1543)年頃、斎藤道三の城となりその配下にある古田重安が山口城主となったともいわれていますが定かではありません。
天文13(1544)年、山口城主古田重定の子として古田織部重然がこの城で生まれたともいわれています。
永禄10(1567)年、美濃を制圧した織田信長が岐阜城に入城した後、織部は信長に仕えました。
その後、秀吉に仕え、天正12(1584)年山口城主となり、翌年には、山城西岡3万5千石の大名になりました。
関ヶ原の戦いで織部は家康に付き、二代将軍秀忠の茶道指南役となりますが、元和元(1615)年に謀反の嫌疑をかけられ長男重広とともに自害しました。
山口城の廃城時期は不明です。
現在は文殊の森公園の一角となっていて、中ノ城が「鳥がなく展望台」となっていて、そこから奥に進むと本丸跡に到着します。
山口城・中ノ城 - 1 posted by
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法林寺城は山口城の北東側にあります。
山口城と同じく文殊の森公園の中にあり、山口城の北東の山にある「望郷の展望台」が城跡です。
詳細は不明です。更に北東に祐向山城(いこうやまじょう)があるようで、法林寺城は祐向山城の支城であるともいわれています。
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軽海西城は、築城された時期についてはわかっていません
土岐氏の時代に至って稲葉氏が、数代居住しその後、西村勘九郎(のちの斎藤道三)が居城したと伝えられています。
永禄年間、池田恒興の家臣片桐半右衛門が要害を構えて住んだといわれており、永禄4(1561)年、軽海合戦の折り重要な役割を果たしたものと推定されています。
なお、かつては軽海西城の東方には軽海東城があり、加留美長勝、朝倉高清、安藤守宗(安藤守就の次男)が拠点としたそうです。
天正17(1589)年、一柳伊豆守直末が6万石を領し、この地を支配しました。
直末は豊臣氏に従い小田原合戦に加わって伊豆山中で戦死しました。のち後裔が菩提を弔って建てたのが円長寺であるといわれています。
この寺域を軽海城址と推定し、昭和54(1979)年4月15日町の史跡として指定されました。
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軽海西城(円長寺) - 2 posted by
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最後に北方町を訪れました。
円鏡寺は、弘仁2(811)年、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が建立した寺院です。
不動明王を本尊とし、定照寺と名づけられ、後に補陀落上人により聖観音菩薩が安置されたことにより補陀落院と改称されたといわれています。
永延2(988)年、良祐により現在の伽藍の元が築かれ、境内に池を造った際に明鏡が出土、これを献上したことにより一条天皇より「池鏡山円鏡寺」の名を授かりました。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの歴代権力者からの保護を受けており、朱印状も受けています。
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北方陣屋(きたがたじんや)は、戸田松平氏の分家北方戸田氏の陣屋です。
北方戸田氏は、松平(戸田)光重の長男の初代戸田光賢が寛文8(1668)年に分地をうけてから、7代光遠が明治2(1869)年に版籍奉還をするまでこの地に陣屋を置きました。
役所を中心に、米庫、撃剣道場、化成庠(学問所のこと)などがあって、その周囲には奉行、代官など家臣の屋敷が置かれ、5000石の陣屋に相応しい堂々たるものであったといわれます。
現在では、碑と案内板があるのみですが、水路などにかつての面影が偲ばれます。
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北方城は、伊賀太郎左衛門光就が築城し、居城としました。
光就の曽孫である安藤守就は北方城主として稲葉良通(一鉄)、氏家ト全とともに西美濃三人衆と呼ばれ、斎藤氏に仕えていましたが、織田信長の美濃侵攻後は信長に仕えました。
姉川の戦いや長島一向一揆討伐で戦功をあげましたが、天正8(1580)年に嫡子の河渡城主安藤尚就が武田氏に内通したという嫌疑で信長の勘気を受けたため、守就は北方城を出て武儀郡谷口村へ隠棲しました。信長は守就の旧領を稲葉一鉄に預けました。
天正10(1582)年の本能寺の変の後、守就は旧臣を集め、北方城に拠りましたが、稲葉一鉄、貞通父子に攻められ、城は落城、守就は自害しました。これを北方合戦といいます。
城は水路で囲まれ、城域は東西約160m、南北約340mで、土居城で天守閣は無かったといわれています。
現在は、空地に石碑と案内板があるのみです。
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安藤伊賀守守就戦死の地です。天正10(1582)年に信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、守就は本領に戻り挙兵しました。
しかし、これを聞いた稲葉一鉄との間で戦いが始まり(北方合戦)、6月8日この千代母ヶ淵で討死しました。
現在は廃止された名鉄揖斐線の廃線沿い、民家の庭先に石碑と説明看板が建っています。一見廃線路敷からしか行けないように見えますが、北側から回り込むことができます。
石碑はなぜか「安藤守就」ではなく「安東守就戦死地」となっていました。
安藤伊賀守守就戦死の地 - 1 posted by
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安藤伊賀守守就戦死の地 - 2 posted by
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これで今回の西美濃ドライブはひとまず終了です。