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ピズモのブログ一覧

2010年12月30日 イイね!

中山道・塩尻・松本・安曇野・北アルプス近辺(3日目その3・大出の吊橋〜青鬼集落〜黒川諏訪神社)

再び北アルプス周辺です。
あまりの豪雪、悪天候につき北アルプスが全く見えなかったのが残念です。
しかしながら雪国の風景を堪能させて頂きました。

大出の吊橋は、北アルプスの眺望スポットです。
姫川にかかる吊橋と北アルプスの風景は写真撮影スポットとして人気です。
残念ながら、悪天候のため北アルプスは見えませんでしたが、なかなかきれいな雪景色でした。
大出の吊橋付近 - 01
大出の吊橋付近 - 01 posted by (C)pismo

大出の吊橋付近 - 02
大出の吊橋付近 - 02 posted by (C)pismo

大出の吊橋付近 - 03
大出の吊橋付近 - 03 posted by (C)pismo

大出の吊橋付近 - 04
大出の吊橋付近 - 04 posted by (C)pismo

青鬼集落(あおにしゅうらく)は、白馬村の北東端の標高約760mの山腹に位置する集落です。
建造物群のうち主屋は江戸時代後期から明治後期にかけて建築された茅葺き(現在は鉄板被覆)の大型のものであり14戸が現存しています。同時期に建てられた土蔵及び蔵は主屋から少し離れた場所に8棟建てられています。平成11(1999)年7月には日本の棚田百選に選定され、平成13(2001)年12月には、重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
国道からは狭い道路1本しか走っていないところです。
冬になるとほとんど空家になるそうです。
青鬼集落 - 01
青鬼集落 - 01 posted by (C)pismo

青鬼集落 - 02
青鬼集落 - 02 posted by (C)pismo

青鬼集落 - 03
青鬼集落 - 03 posted by (C)pismo

青鬼集落 - 04
青鬼集落 - 04 posted by (C)pismo

青鬼集落 - 05
青鬼集落 - 05 posted by (C)pismo

青鬼集落 - 06
青鬼集落 - 06 posted by (C)pismo

青鬼集落 - 07
青鬼集落 - 07 posted by (C)pismo

青鬼集落 - 08
青鬼集落 - 08 posted by (C)pismo

青鬼集落 - 09
青鬼集落 - 09 posted by (C)pismo

青鬼集落 - 10
青鬼集落 - 10 posted by (C)pismo

青鬼集落 - 11
青鬼集落 - 11 posted by (C)pismo

青鬼集落 - 12
青鬼集落 - 12 posted by (C)pismo

青鬼集落 - 13
青鬼集落 - 13 posted by (C)pismo

青鬼集落 - 14
青鬼集落 - 14 posted by (C)pismo

黒川諏訪神社の創建年代は不明ですが、黒川集落は小谷村の中でも最も古い集落の一つのため、由緒は古いと推定されます。
社叢は小谷村の天然記念物に指定されています。
黒川城の近くにあります。黒川城を探しているときに立ち寄りました。
黒川城は、あまりの雪深さに断念しましたが。
黒川諏訪神社 - 01
黒川諏訪神社 - 01 posted by (C)pismo

黒川諏訪神社 - 02
黒川諏訪神社 - 02 posted by (C)pismo

黒川諏訪神社 - 03
黒川諏訪神社 - 03 posted by (C)pismo

黒川諏訪神社 - 04
黒川諏訪神社 - 04 posted by (C)pismo

これで今回のドライブは終了です。
Posted at 2011/01/24 19:40:33 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年12月30日 イイね!

中山道・塩尻・松本・安曇野・北アルプス近辺(3日目その2・牧之島城)

北アルプスから少し離れて、かつての信州新町、現在は長野市の一部になってしまった牧之島城を訪れました。
なぜわざわざ訪れたかというと、この城は武田流の築城術の特徴をよく残している城だからです。

牧之島城のあったこの地は鎌倉時代に佐久の香坂氏(高坂)が移住し、牧城を築きました。
天文22(1553)年城主香坂弾正宗重は、村上義清に組して武田信玄に抗しました。
義清が越後に逃れると武田に属しましたが、永禄4(1561)年5月、宗重は上杉方と内通しているとの嫌疑で、海津城で誅せられました。
信玄はその家名の断絶するのを惜しみ、宗重の娘を海津守将春日弾正昌信に娶らせ、香坂の名跡を継がせました。
そして、馬場美濃守信春が永禄9(1566)年に信玄の命により牧城の一部に牧之島城を築きました。
天正3(1575)年に信春が長篠に戦死した後は信春の子は馬場昌房が在城しましたが、天正10(1582)年武田氏滅亡後、上杉景勝の属城になり、芋川親正が城主と成りました。
慶長3(1598)年景勝の移封後、海津城主田丸直昌・森忠政等がここを治めました。慶長8(1603)年海津城城主となった松平忠輝は、はじめ老臣松平信直に在城させたが、元和2(1616)年忠輝が改易されると共に牧之島城も廃城となりました。
昭和41(1966)年、長野県の史跡に指定され、昭和47(1972)年から昭和51(1976)年に史跡保存のために大規模な整備が行われました。
城跡は、三日月堀や土塁、曲輪など遺構がよく残っています。
牧之島城 - 01
牧之島城 - 01 posted by (C)pismo

牧之島城 - 02
牧之島城 - 02 posted by (C)pismo

牧之島城 - 03
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牧之島城 - 04
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牧之島城 - 05
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牧之島城 - 06
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牧之島城 - 07
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牧之島城 - 08
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牧之島城 - 09
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牧之島城 - 10
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牧之島城 - 11
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牧之島城 - 12
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牧之島城 - 13
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牧之島城 - 14
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この後は、再び北アルプス周辺、白馬村へ向かいます。
Posted at 2011/01/24 19:21:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年12月30日 イイね!

中山道・塩尻・松本・安曇野・北アルプス近辺(3日目その1・大町市)

いよいよ最終日です。
最初に、池田町の大峰高原の七色大カエデを見に行きました。
七色と行ってももちろん雪化粧の姿ですが。
素晴らしい高原の風景と大カエデの姿を見ることができました。
ただ、ここは「個人としての撮影以外は、無断で公に使用しないでください」の説明看板があったので、ブログへのアップは控えさせて頂きます。

そして大町市です。

仁科神明宮は、伊勢神宮領仁科御厨鎮護のために勧請された神社ですが、創始の年代は明らかではありません。
仁科御厨を拠点とした仁科氏が神事を司っていましたが、天正10(1582)年滅んでからは、松本藩主小笠原貞慶が神領として朱印15石を寄進し、以後松本藩主代々の祈願所となりました。
現在の社殿は、寛永13(1636)年、松本藩主松平直政が式年造営を奉仕、藩士池田吉久を奉行とし、大工金原周防をして造替させたものです。
昭和11(1936)年、旧国宝に指定され、昭和25(1950)年、文化財保護法の施行により重要文化財の指定とみなされたものを、昭和28(1953)年、新たに国宝に指定されています。
仁科神明宮 - 01
仁科神明宮 - 01 posted by (C)pismo

仁科神明宮 - 02
仁科神明宮 - 02 posted by (C)pismo

仁科神明宮 - 03
仁科神明宮 - 03 posted by (C)pismo

仁科神明宮 - 04
仁科神明宮 - 04 posted by (C)pismo

仁科神明宮 - 05
仁科神明宮 - 05 posted by (C)pismo

盛蓮寺(じょうれんじ)は、山号は源華山、元は高野山遍照光院の末寺でしたが、今は智積院の末寺となっています。
寺伝によれば、かつては東方山中の字堂平にありましたが、後に閏田東方山中の字山寺に移され、七堂伽藍を備えた大寺として栄え、清滝山盛蓮寺と号していましたが、更に鎌倉時代中期に時の領主仁科盛遠により現在地に移され、以来仁科氏の祈願寺となりました。
観音堂は文明2(1470)年に建立されたものです。
昭和24(1949)年、国の重要文化財に指定され、昭和40(1965)年に解体修理され、建立当時の状態に復元されましたが、屋根は保存上茅葺形銅板葺としています。(説明看板などより)
盛蓮寺 - 1
盛蓮寺 - 1 posted by (C)pismo

盛蓮寺 - 2
盛蓮寺 - 2 posted by (C)pismo

盛蓮寺 - 3
盛蓮寺 - 3 posted by (C)pismo

盛蓮寺 - 4
盛蓮寺 - 4 posted by (C)pismo

盛蓮寺 - 5
盛蓮寺 - 5 posted by (C)pismo

仁科氏館之内居館は、仁科氏の「居館跡」です。
当初は木崎湖の西南の森城を拠点としていましたが、仁科御厨(伊勢神宮内宮領)を預かり、ここ館之内に館を構えました。
木舟山城(木舟城)を詰めの城としていたそうです。
鎌倉時代に入ると、現大町市街地の天正寺の地に居館を設けました。
現在は、館之内公民館の前に木製標柱と、説明板が立っています。
仁科氏館ノ内居館跡 - 1
仁科氏館ノ内居館跡 - 1 posted by (C)pismo

天正寺は、仁科氏の館跡に建つ寺院です。
仁科氏は当初は館之内居館を本拠としていましたが、仁科庄の拡大に伴い、鎌倉時代末期に現在の 大町市天正寺に居館を移しました。
仁科氏は戦国時代の仁科盛政の時代に武田信玄に誅殺され、信玄の五男晴清が跡を継ぎ、仁科盛信と名乗りました。
天正10(1582)年、織田信長の武田攻めにより仁科盛信は高遠城にて戦死しました。
民衆は盛信を慕い城址に天正院という寺を建て供養しました。
明治5(1872)年、廃仏棄却により廃寺となりましたが、すぐに永平寺住職を迎えて再興、天正寺となりました。
天正寺の北側には堀が残っています。

仁科氏居館・天正寺 - 01
仁科氏居館・天正寺 - 01 posted by (C)pismo

仁科氏居館・天正寺 - 02
仁科氏居館・天正寺 - 02 posted by (C)pismo

仁科氏居館・天正寺 - 03
仁科氏居館・天正寺 - 03 posted by (C)pismo

仁科氏居館・天正寺 - 04
仁科氏居館・天正寺 - 04 posted by (C)pismo

仁科氏居館・天正寺 - 05
仁科氏居館・天正寺 - 05 posted by (C)pismo

仁科氏居館・天正寺 - 06
仁科氏居館・天正寺 - 06 posted by (C)pismo

竈神社は、荒神様と呼ばれて親しまれてきた三宝荒神社で、明治の初めに竈神社と改められました。
鎌倉時代の後期、仁科氏が今の天正寺の地に居城を構えた時に鬼門よけの神ということもあり館の北東の方向に創始されました。
仁科氏滅亡後は北原町住民によって護られ、明治になって王子神社と共に大町の産土神とされています。
竈神社 - 1
竈神社 - 1 posted by (C)pismo

竈神社 - 2
竈神社 - 2 posted by (C)pismo

竈神社 - 3
竈神社 - 3 posted by (C)pismo

竈神社 - 4
竈神社 - 4 posted by (C)pismo

若一王子神社(にゃくいちおうじじんじゃ)は、垂仁天皇の時代に当地に移住した仁品王が伊弉冉尊を祀ったのに始まり、嘉祥2(849)年に仁科氏により仁品王とその妻の妹耶姫が合祀され創建されました。
鎌倉時代、この地の土豪・仁科氏の仁科盛遠が熊野権現に詣でた際、那智大社第五殿に祀られる若一王子を勧請し、以降「若一王子の宮」と称されるようになりました。
現在の本殿は弘治2(1556)年に仁科盛康によって造営され、天正10(1582)年に仁科氏が滅んだ後の江戸時代には松本藩により保護されました。
承応3(1654)年に水野忠職が仁科の里六十六郷をして、宮大工金原周防により社殿の大改修がなされました。
宝永3(1706)年に建立された観音堂と、宝永8(1711)年に建立された三重の塔が神仏習合の姿を現在に伝えています。
明治の神仏分離の際に、寺号を廃して現社名に改称しました。
昭和6(1931)年に県社に昇格し、昭和51(1976)年に神社本庁の別表神社に加列されました。

若一王子神社 - 01
若一王子神社 - 01 posted by (C)pismo

若一王子神社 - 02
若一王子神社 - 02 posted by (C)pismo

若一王子神社 - 03
若一王子神社 - 03 posted by (C)pismo

若一王子神社 - 04
若一王子神社 - 04 posted by (C)pismo

若一王子神社 - 05
若一王子神社 - 05 posted by (C)pismo


仁科城(森城)は仁科氏が鎌倉時代から戦国末期まで、約400年間北の守りを果す「後詰めの城」でした。
木崎湖の西岸に突出する半島状の丘を利用し湖水から流出する農具川をせき止めて浮島とした一種の水城で現在のB&G財団体育館の北に至る非常に広大な面積をもつ城です。
仁科家は盛政が武田信玄に誅殺された事で途絶え、信玄の5男晴清が仁科の名跡を継ぎ仁科盛信となりました。
仁科城は武田家の越後進出の軍事的拠点として大改修されますが天正10(1582)年、盛信が高遠城で織田信忠軍によって討死しました。
本丸は仁科神社となっており説明看板が建っています。
仁科神社(森城) - 01
仁科神社(森城) - 01 posted by (C)pismo

仁科神社(森城) - 02
仁科神社(森城) - 02 posted by (C)pismo

仁科神社(森城) - 03
仁科神社(森城) - 03 posted by (C)pismo

仁科神社(森城) - 04
仁科神社(森城) - 04 posted by (C)pismo

仁科神社(森城) - 05
仁科神社(森城) - 05 posted by (C)pismo

木崎湖は、仁科三湖の一つです。
仁科三湖の内、最も南側に位置します。
近辺には木崎湖温泉、キャンプ場などがあり、観光スポットとして知られています。
白線流しや男はつらいよ、犬神家の一族などのロケ地になったことでも知られています。
木崎湖 - 1
木崎湖 - 1 posted by (C)pismo

木崎湖 - 2
木崎湖 - 2 posted by (C)pismo

中綱湖は、仁科三湖の一つです。
仁科三湖の内、中間にあり面積は最小です。
サンアルピナ鹿島槍スキー場が近くにあります。
中綱湖 - 1
中綱湖 - 1 posted by (C)pismo

中綱湖 - 2
中綱湖 - 2 posted by (C)pismo

青木湖は、仁科三湖の一つです。
仁科三湖の内、最も北側に位置し最大の面積のある湖です。
北アルプスのある風景は、写真撮影のスポットとしても最適です。
ヤナバスキー場、青木湖スキー場が近くにあります。
青木湖 - 1
青木湖 - 1 posted by (C)pismo

青木湖 - 2
青木湖 - 2 posted by (C)pismo

青木湖 - 3
青木湖 - 3 posted by (C)pismo

この後は、現在は長野市の一部になっている旧信州新町の牧之島城を訪れます。
北アルプスから少し離れてしまう形になりますが。
Posted at 2011/01/23 19:04:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年12月29日 イイね!

中山道・塩尻・松本・安曇野・北アルプス近辺(2日目その4・安曇野市)

次は安曇野市です。

犀川白鳥湖は、犀川の途中にある人造の湖で、白鳥の飛来地として知られています。
大正12(1923)年、安曇電気は犀川発電所(明科発電所)で発電に利用するための水を取り入れるべく、犀川にダムを建設しました。このダムは犀川ダム、犀川光ダム(さいがわひかるダム)といわれ、ダム湖は犀川ダム湖とも呼ばれていました。
昭和59(1984)年12月31日、白鳥の飛来が初めて確認されました。白鳥の一家5羽で、その2日後、餌付けに成功し、昭和60(1985)年(1月18日には地元のボランティアでアルプス白鳥の会が結成され、白鳥の観察や保護、湖の自然環境の維持に努めています。
10月中旬頃からコハクチョウが飛来し始め、越冬し、3月末頃までに北方に帰ります。1月が最もたくさんの白鳥を見られる時期です。
白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 01
白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 01 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 02
白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 02 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 03
白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 03 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 04
白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 04 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 05
白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 05 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 06
白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 06 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 07
白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 07 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 08
白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 08 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 09
白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 09 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 10
白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 10 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 11
白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 11 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 12
白鳥飛来地・犀川ダム湖 - 12 posted by (C)pismo

御宝田遊水池(ごほうでんゆうすいち)は、犀川河川敷にあり、犀川白鳥湖と並び白鳥の飛来地として知られています。
北アルプスの常念岳が見えるスポットなのですが、時折雪が降る天気で、北アルプスを見ることができませんでした。
白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 01
白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 01 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 02
白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 02 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 03
白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 03 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 04
白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 04 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 05
白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 05 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 06
白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 06 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 07
白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 07 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 08
白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 08 posted by (C)pismo

白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 09
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白鳥飛来地・御宝田遊水池 - 10
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穂高神社は、穂高見命を主祭神に仰ぐ神社です。
奥宮は、北アルプス穂高岳のふもとの上高地に祀られ、嶺宮は、北アルプスの主峰奥穂高岳の頂上に祀られています。
本宮は、本宮中殿に穂高見神(ほたかみのかみ)別名「宇都志日金析命(うつしひかなさくのみこと)」、 左殿に綿津見神(わたつみのかみ)、右殿に瓊瓊杵神(ににぎのかみ)、別宮に天照大御神(あまてらすおおみかみ)、若宮に安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふのみこと)、相殿に信濃中将(御伽草子のものぐさ太郎のモデルとされる)を祀っています。
穂高見神と綿津見神は共に海人族である阿曇氏(安曇氏)の祖神とされる海神で、安曇野に定着した安曇氏が祀った神社です。
古くから信濃の大社として名高く、日本アルプスの総鎮守として、また、交通安全の守神として信仰をあつめています。
穂高神社 - 01
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穂高神社 - 02
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穂高神社 - 03
穂高神社 - 03 posted by (C)pismo

この日はここまで。安曇野市で宿泊です。
Posted at 2011/01/14 20:41:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年12月29日 イイね!

中山道・塩尻・松本・安曇野・北アルプス近辺(2日目その3・松本市内の山城めぐり、埴原城と山家城))

再び松本市内です。

埴原城は、埴原(村井)氏の拠るところでしたが、守護小笠原貞宗が府中に移ってからはその村井氏を配下とし、小笠原氏の本拠である林城の前線基地として急速に規模が拡大されました。
天文19(1550)7月15日武田晴信が小笠原長時を攻略するに際に、真っ先に当城を陥れ林城はじめ諸城が相次いで自落したことでも戦略上重要な要害であったこで知られています。
武田氏滅亡後に木曽氏や上杉氏と軍事的緊張下にあった小笠原貞慶が改修したともいわれており、現在の遺構はその時のものである可能性が高いそうです。
堀切、段郭、構等の防御施設が設置されており、主郭部には平らな石を積み上げた石積が残っています。
昭和45(1970)年10月22日、小笠原氏城跡として長野県の史跡に指定されています。小笠原氏城跡の中でも規模が大きく、遺構の保存状態も良いようです。
城跡は、蓮華寺から登ります。歩いて40分程度といったところでしょうか。
埴原城 - 01
埴原城 - 01 posted by (C)pismo

埴原城 - 02
埴原城 - 02 posted by (C)pismo

埴原城 - 03
埴原城 - 03 posted by (C)pismo

埴原城 - 04
埴原城 - 04 posted by (C)pismo

埴原城 - 05
埴原城 - 05 posted by (C)pismo

埴原城 - 06
埴原城 - 06 posted by (C)pismo

埴原城 - 07
埴原城 - 07 posted by (C)pismo

徳雲寺は、元弘元(1334)年に山家郷(やまべごう)の地頭である山家為頼が開創し雪村友梅の開山と伝えられています。
雪村友梅は、この時、師である一山一寧が開山した諏訪郡の慈雲寺に住持していましたが、山家氏の招きに応じ徳雲寺を開きました。
徳雲寺は、その後衰えましたが、永正年間(1504~1521)に折野氏が中興しました。
天正10(1582)年武田氏とともに折野氏が滅ぶと寺は廃絶しました。
文禄年間(1592~1596)に現在地に移って再興しましたが、嘉永4(1851)年に焼失し、安政元(1854)年に再建されました。
現在は名を徳運寺と改め、開山は臨済宗でしたが現在は曹洞宗となりました。
本尊の十一面観音は、毎年1月の厄除け参りには、大勢の人でにぎわうそうです。(説明板より)
昭和42(1967)年2月1日、松本市特別史跡に指定されています。
徳運寺(徳雲寺跡) - 1
徳運寺(徳雲寺跡) - 1 posted by (C)pismo

徳運寺(徳雲寺跡) - 2
徳運寺(徳雲寺跡) - 2 posted by (C)pismo

徳運寺(徳雲寺跡) - 3
徳運寺(徳雲寺跡) - 3 posted by (C)pismo

徳運寺(徳雲寺跡) - 4
徳運寺(徳雲寺跡) - 4 posted by (C)pismo

山家城やまべじょう)は、別名中入城とも言われ、鎌倉時代末期に諏訪氏の一族の山家氏が築きました。
元弘元(1331)年、徳雲寺(現徳運寺)を創建した山家為頼が同時期に築いたと想像されます。
室町時代は山家氏が城主でしたが、文明12(1480)年に小笠原氏に背いたため、小笠原長朝に攻められ滅びました。
永正2(1505)年頃、小笠原氏の一族の折野昌治がこの地に入り山家氏を名乗りました。
小笠原氏本城の林城の支城として山辺谷最深部、松本平東側の上田、佐久方面の出入り口の要害としての役割を果たしていました。
しかし、武田晴信(信玄)の侵攻により林城と共に落城し、山家昌治は武田氏に随いました。
城跡は徳運寺西側の墓地から登ります。歩いて40分程度で主郭部です。
土塁、石垣、曲輪の跡は明瞭で、保存状態は良好です。
山家城 - 1
山家城 - 1 posted by (C)pismo

山家城 - 2
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山家城 - 3
山家城 - 3 posted by (C)pismo

山家城 - 4
山家城 - 4 posted by (C)pismo

山家城 - 5
山家城 - 5 posted by (C)pismo

松本市内の山城はかなり魅力があるところが多いです。
4年前訪れた林城、桐原城もなかなか良かったです。
次は安曇野市内へ向かいます。
Posted at 2011/01/13 20:38:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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