いよいよ最終日です。
最初に、池田町の大峰高原の七色大カエデを見に行きました。
七色と行ってももちろん雪化粧の姿ですが。
素晴らしい高原の風景と大カエデの姿を見ることができました。
ただ、ここは「個人としての撮影以外は、無断で公に使用しないでください」の説明看板があったので、ブログへのアップは控えさせて頂きます。
そして大町市です。
仁科神明宮は、伊勢神宮領仁科御厨鎮護のために勧請された神社ですが、創始の年代は明らかではありません。
仁科御厨を拠点とした仁科氏が神事を司っていましたが、天正10(1582)年滅んでからは、松本藩主小笠原貞慶が神領として朱印15石を寄進し、以後松本藩主代々の祈願所となりました。
現在の社殿は、寛永13(1636)年、松本藩主松平直政が式年造営を奉仕、藩士池田吉久を奉行とし、大工金原周防をして造替させたものです。
昭和11(1936)年、旧国宝に指定され、昭和25(1950)年、文化財保護法の施行により重要文化財の指定とみなされたものを、昭和28(1953)年、新たに国宝に指定されています。
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盛蓮寺(じょうれんじ)は、山号は源華山、元は高野山遍照光院の末寺でしたが、今は智積院の末寺となっています。
寺伝によれば、かつては東方山中の字堂平にありましたが、後に閏田東方山中の字山寺に移され、七堂伽藍を備えた大寺として栄え、清滝山盛蓮寺と号していましたが、更に鎌倉時代中期に時の領主仁科盛遠により現在地に移され、以来仁科氏の祈願寺となりました。
観音堂は文明2(1470)年に建立されたものです。
昭和24(1949)年、国の重要文化財に指定され、昭和40(1965)年に解体修理され、建立当時の状態に復元されましたが、屋根は保存上茅葺形銅板葺としています。(説明看板などより)
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仁科氏館之内居館は、仁科氏の「居館跡」です。
当初は木崎湖の西南の森城を拠点としていましたが、仁科御厨(伊勢神宮内宮領)を預かり、ここ館之内に館を構えました。
木舟山城(木舟城)を詰めの城としていたそうです。
鎌倉時代に入ると、現大町市街地の天正寺の地に居館を設けました。
現在は、館之内公民館の前に木製標柱と、説明板が立っています。
仁科氏館ノ内居館跡 - 1 posted by
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天正寺は、仁科氏の館跡に建つ寺院です。
仁科氏は当初は館之内居館を本拠としていましたが、仁科庄の拡大に伴い、鎌倉時代末期に現在の 大町市天正寺に居館を移しました。
仁科氏は戦国時代の仁科盛政の時代に武田信玄に誅殺され、信玄の五男晴清が跡を継ぎ、仁科盛信と名乗りました。
天正10(1582)年、織田信長の武田攻めにより仁科盛信は高遠城にて戦死しました。
民衆は盛信を慕い城址に天正院という寺を建て供養しました。
明治5(1872)年、廃仏棄却により廃寺となりましたが、すぐに永平寺住職を迎えて再興、天正寺となりました。
天正寺の北側には堀が残っています。
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竈神社は、荒神様と呼ばれて親しまれてきた三宝荒神社で、明治の初めに竈神社と改められました。
鎌倉時代の後期、仁科氏が今の天正寺の地に居城を構えた時に鬼門よけの神ということもあり館の北東の方向に創始されました。
仁科氏滅亡後は北原町住民によって護られ、明治になって王子神社と共に大町の産土神とされています。
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若一王子神社(にゃくいちおうじじんじゃ)は、垂仁天皇の時代に当地に移住した仁品王が伊弉冉尊を祀ったのに始まり、嘉祥2(849)年に仁科氏により仁品王とその妻の妹耶姫が合祀され創建されました。
鎌倉時代、この地の土豪・仁科氏の仁科盛遠が熊野権現に詣でた際、那智大社第五殿に祀られる若一王子を勧請し、以降「若一王子の宮」と称されるようになりました。
現在の本殿は弘治2(1556)年に仁科盛康によって造営され、天正10(1582)年に仁科氏が滅んだ後の江戸時代には松本藩により保護されました。
承応3(1654)年に水野忠職が仁科の里六十六郷をして、宮大工金原周防により社殿の大改修がなされました。
宝永3(1706)年に建立された観音堂と、宝永8(1711)年に建立された三重の塔が神仏習合の姿を現在に伝えています。
明治の神仏分離の際に、寺号を廃して現社名に改称しました。
昭和6(1931)年に県社に昇格し、昭和51(1976)年に神社本庁の別表神社に加列されました。
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仁科城(森城)は仁科氏が鎌倉時代から戦国末期まで、約400年間北の守りを果す「後詰めの城」でした。
木崎湖の西岸に突出する半島状の丘を利用し湖水から流出する農具川をせき止めて浮島とした一種の水城で現在のB&G財団体育館の北に至る非常に広大な面積をもつ城です。
仁科家は盛政が武田信玄に誅殺された事で途絶え、信玄の5男晴清が仁科の名跡を継ぎ仁科盛信となりました。
仁科城は武田家の越後進出の軍事的拠点として大改修されますが天正10(1582)年、盛信が高遠城で織田信忠軍によって討死しました。
本丸は仁科神社となっており説明看板が建っています。
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木崎湖は、仁科三湖の一つです。
仁科三湖の内、最も南側に位置します。
近辺には木崎湖温泉、キャンプ場などがあり、観光スポットとして知られています。
白線流しや男はつらいよ、犬神家の一族などのロケ地になったことでも知られています。
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中綱湖は、仁科三湖の一つです。
仁科三湖の内、中間にあり面積は最小です。
サンアルピナ鹿島槍スキー場が近くにあります。
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青木湖は、仁科三湖の一つです。
仁科三湖の内、最も北側に位置し最大の面積のある湖です。
北アルプスのある風景は、写真撮影のスポットとしても最適です。
ヤナバスキー場、青木湖スキー場が近くにあります。
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この後は、現在は長野市の一部になっている旧信州新町の牧之島城を訪れます。
北アルプスから少し離れてしまう形になりますが。
Posted at 2011/01/23 19:04:24 | |
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