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ピズモのブログ一覧

2011年01月22日 イイね!

阿倍野・西成・住吉・平野散歩(その2・平野)

次は平野です。
平成19年にも「大阪市内の大坂の陣古戦場史跡巡り」で訪れた町です。.

正覚寺城は畠山政長ゆかりの城です。
畠山政長は、畠山義就と応仁の乱で家督を巡って争いました。
乱の終結後も、河内、大和で戦いを繰り広げました。
畠山政長は畠山義就の死後、河内の平定に乗り出し、文明9(1477)年に正覚寺に本陣を置き城郭化したと伝えられています。
明応2(1493)年、正覚寺合戦で義就の子義豊の逆襲にあい、あえなく敗北し、自刃しました。
城址の石碑は、旭神社の境内にあります。
正覚寺城 - 1
正覚寺城 - 1 posted by (C)pismo

近くには畠山政長の墓もあります。住宅地の一角にあります。
畠山氏は室町幕府三管領の一として、代々尾張守に任ぜられ、河内・紀伊・越中の守護をも兼ねていました。
政長は管領の畠山持国の甥にあたり、その家督相続をめぐり、持国の実子義就との間に争いが起り、これが応仁の乱の一因となりました。
応仁の乱では、政長は細川勝元(東軍)方となり、乱後も政長と義就の確執は長年にわたり、近畿各地で争いました。
文明14(1482)年、政長は第10代将軍足利義稙と共に正覚寺に本陣をおき、南河内の誉田城の義就と対陣しました。
義就の死後、河内の平定に乗り出しましたが、明応2(1493)年、義就の子義豊に逆襲されあえなく敗北し、自刃しました。
この兵火のため正覚寺の伽藍も焼失しました。これを正覚寺の合戦といいます。
乃木希典は、畠山政長の軍師佐々木源次左衛門清高の子孫ということで、政長の墓の保存に尽力したそうです。
墓の隣に「乃木将軍景仰碑」が建っています。
畠山政長の墓 - 1
畠山政長の墓 - 1 posted by (C)pismo

畠山政長の墓 - 2
畠山政長の墓 - 2 posted by (C)pismo

畠山政長の墓 - 3
畠山政長の墓 - 3 posted by (C)pismo

畠山政長の墓 - 4
畠山政長の墓 - 4 posted by (C)pismo

杭全神社は、平安時代初期に征夷大将軍坂上田村麻呂の子、坂上広野麻呂が杭全荘を荘園として賜ってこの地に居を構え、その子坂上当道が貞観4(862)年に氏神として素盞嗚尊を勧請し祇園社を創建したのが第一殿です。
後に建久元(1190)年に熊野證誠権現(伊弉諾尊)を勧請建立したのが第三殿で、元享元(1321)年に熊野三所権現(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請建立したのが第二殿です。
かつては祇園社、熊野権現社と称せられましたが、明治3(1870)年になって、社号を杭全神社と定められ、本来の祇園社(素盞嗚尊・牛頭天王)を本社、熊野三所を雑社熊野神社とし、證誠殿を摂社、 田村堂を別社、その他を末社と定められました。
明治5(1872)年に郷社に列せられ、同39(1906)年に指定神社となり、同40(1907)年に幣帛供進神社に指定されました。
昭和5(1930)年に府社に昇格、そして戦後は宗教法人杭全神社となり、今日に至っています。
大門は鎌倉時代の建物、第一殿は、奈良春日大社本殿を正徳9(1711)年に移建されたもので、第二殿、第三殿は永正10(1513)年造営のもので、連歌所は宝永5(1708)年に再興されたものです。
杭全神社 - 1
杭全神社 - 1 posted by (C)pismo

杭全神社 - 2
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杭全神社 - 3
杭全神社 - 3 posted by (C)pismo

杭全神社 - 4
杭全神社 - 4 posted by (C)pismo

赤留比売命神社(あかるひめのみことじんじゃ)は、赤留比売命を祭る神社で、平野公園内にあります。
俗称の三十歩(さんじゅうぶ)神社は応永年間(1394~1428)干ばつのとき法華経三十部を読誦したところ霊験あらたかであったので、三十部神社がなまったものといわれています。
俗説では祭神が「三十町歩」の土地を三十歩と聞きちがえたためとも伝え、耳の神として信仰を集めました。
またここは、NHKの連続テレビ小説「ちりとてちん」のロケ地でもあります。
徒然亭草々(青木崇高)と和田清海(佐藤めぐみ)が」神社境内の雨の中、恋に落ちてしますシーンです。(平成19(2007)年12月8日(土)放送分))
赤留比売命神社 - 1
赤留比売命神社 - 1 posted by (C)pismo

赤留比売命神社 - 2
赤留比売命神社 - 2 posted by (C)pismo

赤留比売命神社 - 3
赤留比売命神社 - 3 posted by (C)pismo

赤留比売命神社 - 4
赤留比売命神社 - 4 posted by (C)pismo

赤留比売命神社 - 5
赤留比売命神社 - 5 posted by (C)pismo

大念仏寺は、融通念仏宗の総本山で、山号は、諸仏護念院大源山です。
元々は坂上田村麻呂の次男で、平安時代にこの地域を開発したといわれる「平野殿」こと坂上広野の私邸内に建てられた修楽寺の別院でしたが、大治2(1127)年に鳥羽上皇の勅願により、宗祖良忍(聖応大師)が開創しました。
第7世法明上人は大いに寺門を興しましたが、千早赤坂の戦いや大坂の陣で兵火により堂宇、什宝を焼失しました。
第36世道和上人がこれを再興し、第43世舜空上人は願を発し、寛文7(1667)年に大堂を建立しました。
元禄年間地元の徳田家より第46世大通上人が出るに及んで、諸堂を建立し什宝を整備し、一山の法儀用具を完備しました。
しかし、明治31(1898)年の大火で大堂以下多数の堂宇を失いました。現在の大堂は、昭和13(1938)年第59世戒全大僧正のとき竣工しました。
昭和37(1962)年、平野小学校にあった古河藩陣屋門が移築されました。
大念仏寺 - 01
大念仏寺 - 01 posted by (C)pismo

大念仏寺 - 02
大念仏寺 - 02 posted by (C)pismo

大念仏寺 - 03
大念仏寺 - 03 posted by (C)pismo

大念仏寺 - 04
大念仏寺 - 04 posted by (C)pismo

大念仏寺 - 05
大念仏寺 - 05 posted by (C)pismo

大念仏寺 - 06
大念仏寺 - 06 posted by (C)pismo

大念仏寺 - 07
大念仏寺 - 07 posted by (C)pismo

古河藩陣屋〔平野陣屋〕は現在平野小学校になっています。江戸時代の平野郷の地は、元禄7(1694)年より以前は幕府領で、それ以降は大名の領地となりました。
正徳3(1713)年、下総国古河藩主、本多忠良に給与されて以来、明治2(1869)年の版籍奉還までの156年間は、松平侯、土井侯と大名は代わったが古河藩付所領でした。
古河藩陣屋は土井侯の古河藩時代に設置され、平野郷をはじめ、摂津近在にある古河藩所領の行政事務を取り扱っていました。
版籍奉還後陣屋は廃止され、跡地には郷役場、警察署、小学校ができました。
後に平野郷は大阪市に編入され、奈良街道拡張後陣屋跡は平野小学校のみ現存しています。
陣屋の遺構は何も残っていません。南側の奈良街道(国道25号)沿いの正門に石碑が建っています。

古河藩陣屋 - 1
古河藩陣屋 - 1 posted by (C)pismo
Posted at 2011/02/06 21:06:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2011年01月22日 イイね!

阿倍野・西成・住吉・平野散歩(その1・阿倍野・西成・住吉)

この日は電車と徒歩で少しばかり大阪を巡ってみました。
帝塚山古墳は、西南面の前方後円墳で、上町台地南部の西縁に位置しています。
天王寺公園内の茶臼山古墳、勝山通の御勝山古墳と共に大阪市内の古代の三大記念物で、最も保存状態が良いものです。
この古墳の被葬者については、大伴金村とする説があるそうです。
明治31(1898)年には陸軍特別大演習を明治天皇がここからご覧になったそうで、墳丘上には旧住吉村が建立した石碑があるそうです。
古墳は財団法人住吉村常磐会が所有、管理しており、内部へ立ち入ることはできません。
帝塚山古墳 - 1
帝塚山古墳 - 1 posted by (C)pismo

帝塚山古墳 - 2
帝塚山古墳 - 2 posted by (C)pismo

阿倍野神社は、北畠親房、顕家を祀る神社です。
北畠親房は南北朝時代に後醍醐天皇の親任厚く、吉野朝廷の中心人物として活躍しました。「神皇正統記」を著したことで知られています。
北畠顕家は、親房の長男で元弘3(1333)年、陸奥守に任ぜられました。
延元元(1336)年には上洛し足利尊氏を破り九州へ敗走させました。延元3(1338)年、再度上洛して京都を回復しようとしましたが、足利方に敗れて亡くなりました。
阿倍野神社の地に、明治8(1875)年、地元の有志が顕家を祀る祠を建立しました。
明治15(1882)年1月に改めて阿部野神社として創立しました。明治23(1890)年に社殿が竣工し、鎮座祭が斎行され、別格官幣社に列せられました。
現在の社殿は昭和43(1968)年に再建されたものです。
阿倍野神社 - 01
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阿倍野神社 - 02
阿倍野神社 - 02 posted by (C)pismo

阿倍野神社 - 03
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阿倍野神社 - 04
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阿倍野神社 - 05
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阿倍野神社 - 06
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阿倍野神社 - 07
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阿倍野神社 - 08
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天神森天満宮は、別名を「天下茶屋天満宮」「子安天満宮」「紹鴎森天満宮」といいます。
菅原道真公が筑紫へ左遷されたおり、住吉明神へ参拝の途中のこの地に休息され、その後祠が建立され、応永年間(1394〜1428)に京都北野天満宮の御分霊を奉斎しました。
当社にまつられている「子安石」は古くより安産の神として、多くの人々に信仰されています。
豊臣秀吉も淀君懐妊のとき参詣し、安産を祈願され、安らかに秀頼公の出産をみられました。
樹齢六百年をこえる楠木の森は「天神の森」とよばれ、茶道中興の祖武野紹鴎(千利休の師)がこの森の一隅に茶室をつくり、風月を友として暮らしたので「紹鴎森」とも呼ばれました。
秀吉公が堺政所の往来の途中、天満宮西側の茶店で休息、この付近を殿下の茶店ということで天下茶屋と称することになり、当社も「天下茶屋天満宮」と呼ばれることになりました。
天神森天満宮 - 01
天神森天満宮 - 01 posted by (C)pismo

天神森天満宮 - 02
天神森天満宮 - 02 posted by (C)pismo

天神森天満宮 - 03
天神森天満宮 - 03 posted by (C)pismo

天神森天満宮 - 04
天神森天満宮 - 04 posted by (C)pismo

天下茶屋は、大坂城から住吉大社参拝や堺へ行き来する途中に太閤秀吉が立ち寄って茶の湯を楽しんだ故事で有名な場所です。
昭和20(1945)年、戦災に遭うまで、五千平方メートルに及ぶ広大な屋敷に、太閤秀吉ゆかりの「恵水」と名付けられた井戸や茶室、紀州侯はじめ諸大名も泊まったと伝えられる御殿が残っていたそうです。
現在は広場になっていて土蔵が残っています。
土蔵は屋敷の北西隅に位置し。恵方に向かって建てられ、太閤秀吉を祀った祠で楠とともに往時をしのぶものです。
太閤秀吉が天下茶屋を訪れた天正年間、芽木家の祖、三代目天下茶屋小兵衛昌立が活躍していて、天神の森には茶人、千利休の師武野紹鴎が住んでいました。
この広場の整備にあたり、芽木家から土地と土蔵の寄附を受け、また。地元西成地区土地区画整理審議会から全面的な強力を受けて出来たものです。(説明看板などより)
天下茶屋跡 - 1
天下茶屋跡 - 1 posted by (C)pismo

天下茶屋跡 - 2
天下茶屋跡 - 2 posted by (C)pismo

天下茶屋公園にある阿倍寺塔心礎です。
阿倍寺は阿倍氏の氏寺ともいわれる奈良時代の寺院で、現在の阿倍野区松崎町の松長大明神の一帯にあったと伝えられてます。
阿倍寺塔心礎は、阿倍寺の塔の中心となる礎石と考えられ、中央に直径61センチ、深さ13センチの柱穴を掘り、さらにその内部に直径10.1センチ、深さ8.2センチの舎利を埋納するための穴があります。
当初は松崎町にありましたが、現在は天下茶屋公園に移されています。昭和49(1974)年に大阪府指定有形文化財に指定されました。
天下茶屋公園 - 1
天下茶屋公園 - 1 posted by (C)pismo

正圓寺は、山号は海照山、東寺真言宗の寺院です。
天慶2(939)年光道和尚により開基により開かれた般若山阿部寺の一坊でしたが、江戸時代の元禄年間に義道見明和尚が寺を移転し、海照山正圓寺と改めました。
享保8(1723)年、常如和尚が来住し、聖天堂や諸堂を再興しました。
「天下茶屋の聖天さん」として信仰を集めています。
奥之院には、鎮守堂(荼枳尼天)、寄松塚(八本松竜王)、石切社分祠、浪切不動明王、弁才天祠などが祭られています。「聖天山正圓寺」とも言われますが、「聖天山」は山号ではなく標高14mの低山の名前で、山頂は正圓寺境内にあります。
正圓寺 - 01
正圓寺 - 01 posted by (C)pismo

正圓寺 - 02
正圓寺 - 02 posted by (C)pismo

正圓寺 - 03
正圓寺 - 03 posted by (C)pismo

正圓寺 - 04
正圓寺 - 04 posted by (C)pismo

松虫塚は、この地が松虫(現在の鈴虫)の名所であったことから松虫の音にまつわる伝説がたくさん残されています。

その1
二人の親友が月の光さわやかな夜麓しい松虫の音をめでながら道遥するうち虫の音に聞きほれた一人が草むらに分け入ったまま草のしとねに伏して死んでいたので、残った友が泣く泣くここに埋葬した。
「古今集」松虫の音に友を偲び
 秋の野に 人まつ虫の 声すなり われかとゆきて いざとむらわん

その2
後鳥羽上皇に仕えていた松虫と鈴虫の姉妹官女が法然上人の念仏宗に感銘して出家したが松虫の局が老後この他に果て草庵を結んで余生を送ったという。
「芦分舟」
 経よみて そのあととふか 松虫の 塚のほとりに ちりりんの声 藤原言因

その3
才句兼備琴の名手といわれた美女がこの地に住んでいたが一夕秘技を尽した琴の音が松虫の自然の音に及ばないのを嘆き、次の詩を吟して琴を捨てたという。
 虫声喞々満野荒野閣醸恋情琴瑟抛
 (虫声そくそく荒野に満つ、恋情を闇にかもしてて琴瑟を抛つ)

その4
松虫の名所であるこの地に松虫の次郎右衛門という人が住み松虫の音を愛好することすこぶる深く終世虫の音を友とし、
老いてのち
 尽きせじな めでたき心 しるならば こけの下にも ともや松虫
の辞世の歌を残して没した。

この地は、かつて松虫通の拡幅工事で取り壊されそうになりましたが、地元住民の要望により残されたそうです。
松虫塚 - 1
松虫塚 - 1 posted by (C)pismo

松虫塚 - 2
松虫塚 - 2 posted by (C)pismo

松虫塚 - 3
松虫塚 - 3 posted by (C)pismo

松虫塚 - 4
松虫塚 - 4 posted by (C)pismo

松虫塚 - 5
松虫塚 - 5 posted by (C)pismo

安倍晴明神社は、平安時代に活躍した天文博士安倍晴明公を祀る神社です。
社伝によれば、寛弘4(1007)年に創建されました。
安倍晴明公は古代豪族阿倍氏の出身で、伝説では父安倍保名が和泉の信太明神(聖神社)に参詣の際、助けた白狐(葛之葉姫)と結ばれて、天慶7(944)年ここの地阿倍野で生誕されたと伝えられています。
幼名は安倍童子で、資性英明学問を好み、京都に上り陰陽家の賀茂忠行と 子息保憲に師事し、陰陽推算の術を修め、天文博士、大膳大夫、播磨守を歴任し、従四位上に叙されました。
占いは百占奇中神の如しと称され、花山天皇の退位を予知し大江山の鬼退治を指導した事は有名で、又職神(霊)を自在に駆使したと伝えられています。
現在の社伝は大正14(1925)年に再建されたものです。
(説明看板などより)
安倍晴明神社 - 01
安倍晴明神社 - 01 posted by (C)pismo

安倍晴明神社 - 02
安倍晴明神社 - 02 posted by (C)pismo

安倍晴明神社 - 03
安倍晴明神社 - 03 posted by (C)pismo

安倍晴明神社 - 04
安倍晴明神社 - 04 posted by (C)pismo

安倍晴明神社 - 05
安倍晴明神社 - 05 posted by (C)pismo

阿倍王子神社は、伊弉諾尊、伊弉冉尊、素戔嗚尊、品陀別尊(八幡大神)の四柱を祀り「安倍王子権現縁起」によれば、仁徳天皇のご創建と伝えられ、また一説には往古この地を本拠とした安倍氏の創建ともいわれています。
平安時代より熊野詣が盛行すると、九十九王子の第二王子社として阿倍野王子等と称せられ、法皇上皇、女院等をはじめ、一般参詣客の礼拝、休息などの用に充てられ殷賑を極めました。
大阪府内の九十九王子社で唯一現存している神社です。
(説明看板などより)
阿部王子神社 - 1
阿部王子神社 - 1 posted by (C)pismo

阿部王子神社 - 2
阿部王子神社 - 2 posted by (C)pismo

伝北畠顕家の墓〔北畠公園〕です。北畠顕家は、南北朝時代に後醍醐天皇に父親房と共に仕えた武将です。、もともとここには「大名塚」と呼ばれていた塚があり、それを江戸時代の国学者 並川誠所が顕家の墓と推定し、その提唱で、享保年間(1716~1736)に北畠顕家の墓として建てられました。
ただし、顕家の戦死の地は太平記には、「5月22日、和泉の境阿倍野にて打死し給ひければ、相従ふ兵悉(ことごと)く腹切り疵を被って一人不残(ひとりのこらず)失せにけり」と記され、顕家公が20余騎の手兵で足利尊氏の大軍を迎え撃ち、弱冠21歳で戦死したところと伝えられていますが、「神皇正統記」などには顕家は延元3(1338)年5月22日朝、1万8千の高師直軍と戦い、摂津国石津(現在の堺市西区浜寺石津町)で戦死したとなっていて、太平記の記述とは異なっています。
北畠顕家の墓(北畠公園) - 01
北畠顕家の墓(北畠公園) - 01 posted by (C)pismo

北畠顕家の墓(北畠公園) - 02
北畠顕家の墓(北畠公園) - 02 posted by (C)pismo

北畠顕家の墓(北畠公園) - 03
北畠顕家の墓(北畠公園) - 03 posted by (C)pismo

北畠顕家の墓(北畠公園) - 04
北畠顕家の墓(北畠公園) - 04 posted by (C)pismo

「播磨塚」と「小町塚」はもともと別個のもので、以前は現在地に近い西北の畑の中にありましたが、昭和4(1929)年に道路となったため、現在の場所に移されています。
「播磨塚」は、南北朝の頃、住吉の合戦で楠木正行と戦って敗れた山名、細川両軍が率いる北朝軍の中にいた播磨の太守、赤松円心の子貞範が、戦死した将兵の遺骨を納めて塚を築き、播磨塚と名付け部下の冥福を祈ったと伝えられています。
また、「小町塚」は、古書「芦分船」には、小野小町の塚であると説明しているが、小野小町がこの地で死んだという記録はなく、小野小町の美貌や才能にあやかりたいとの念願から、信仰などの目的のため造られたものと思われます。(説明看板などより)


ここからは少しばかり阪堺電車で移動し、住吉大社を訪れました。
住吉大社は神功皇后が三韓征伐より七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道、南海本線七道駅一帯)に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田裳見宿禰が、住吉三神を祀ったのに始まります。
祭神の住吉大神は、伊弉諾尊が黄泉国の汚れを洗い清めるために禊はらいをされた時、海中より生まれた神様、底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神を総称し、住吉三神ともいわれています。
住吉大社は、住吉三神と息長足姫命(神功皇后)を併せ4神が祀られており、第一本宮から第四本宮に祀られています。
現在ある第一本宮から第四本宮にいたる4棟の本殿は全て文化7(1810)年に造られた桧皮葺・切妻造妻入りの住吉造りの建物で、国宝建造物に指定されています
住吉反橋は、通称「太鼓橋」とも呼ばれ、慶長年間に淀殿が造営したといわれています。
住吉大社 - 01
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住吉大社 - 02
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住吉大社 - 03
住吉大社 - 03 posted by (C)pismo

住吉大社 - 04
住吉大社 - 04 posted by (C)pismo

住吉大社 - 05
住吉大社 - 05 posted by (C)pismo

住吉大社 - 06
住吉大社 - 06 posted by (C)pismo

住吉大社 - 07
住吉大社 - 07 posted by (C)pismo

住吉大社 - 08
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この次は電車で平野へ向かいます。
Posted at 2011/02/06 20:39:44 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2011年01月15日 イイね!

「第45回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開」建仁寺正伝永源院・両足院・妙心寺海福院

この日は、「第45回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開」を見に少しだけ京都をサイクリングしました。
途中、近くを通ったので旧本能寺跡に立ち寄りました。

天正15(1587)年豊臣秀吉の命で移転する前、元の本能寺は現在の中京区元本能寺南町にありました。
つまり、本能寺の変があったときの本能寺はこの付近にありました。
1990年代までは本能小学校があった場所ですが、平成17(2005)年に京都市本能特別養護老人ホーム・京都市立堀川高等学校本能学舎が建ちました。
敷地西側(写真上)と北東隅(写真下)に石碑が建っています。
本能寺跡 - 1
本能寺跡 - 1 posted by (C)pismo

本能寺跡 - 2
本能寺跡 - 2 posted by (C)pismo

正伝永源院は、建仁寺の塔頭です。
元は正伝院と永源庵の二ヶ寺でした。
正伝院は大覚禅師(蘭渓道隆)と共に中国から来日した義翁紹仁(勅謚普覚禅師)を開山に鎌倉時代に創建されました。
しばらく荒廃していましたが、織田有楽斎長益が元和4(1618)年に当院を再興し、名茶席如庵を建て茶道三昧の内に元和7(1621)年に亡くなりました。
法名は正伝院殿如庵有楽大居士と号し、現在も高さ4.5mの石塔が正室霊仙院殿蓬丘清寿大姉の塔と共に本堂の東に建っています。
一方、永源庵は無涯仁浩を開山に南北朝時代に創建されました。
細川頼有(和泉上守護家・熊本藩細川氏の祖)の帰依を受け、細川家の菩提寺として続きました。
明治初年の廃仏毀釈により、建仁寺は50余ヶ寺の塔頭が14ヶ寺に削減され、当時は永源庵は無住のためたちどころに廃寺処分とされてしまいました。
しかし、本山の真北に位置しており堂宇は残し、少し離れたところにあった正伝院はこの地に移りました。しかし、元の正伝院は土地は上地され建造物は売却され、金の寄付を強要されてしまいました。
新たな正伝院はその後時の公爵細川家の菩提寺であるため、後に永源の名を起こし正伝永源院と名乗るようになりました。
ちなみに現在の正伝永源院は福島正則寓居の地としても知られています。
売却された後の如庵は祇園町の有志に払い下げられた後、明治41(1908)年に東京の三井本邸に移築されました。如庵はその後昭和13(1938)年に、三井高棟によって神奈川県中郡大磯の別荘に移築され、昭和47(1972)年に、名古屋鉄道によって愛知県犬山市の有楽苑に移築されました。
正伝永源院の正伝如庵は、平成8(1996)年に復元されたものです。如庵の扁額は細川護貞氏の揮毫によるものです。
建仁寺正伝永源院 - 01
建仁寺正伝永源院 - 01 posted by (C)pismo

建仁寺正伝永源院 - 02
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建仁寺正伝永源院 - 03
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建仁寺正伝永源院 - 04
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建仁寺正伝永源院 - 05
建仁寺正伝永源院 - 05 posted by (C)pismo

両足院は、建龍山徳見禅師を開山とする臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。
現在の両足院は、開山当時「知足院」と号していました。
室町時代の再建により、「知足院・両足院」両院を併せて「両足院」と称する事となり現在に至ります。
本尊の阿弥陀如来立像を方丈に安置し、境内北側に当院鎮守の毘沙門天立像を祀っています。
毘沙門天像は秘仏で、鞍馬寺の毘沙門天像の胎内仏であったものを、戦国武将の黒田長政が関ヶ原の戦いの際に内兜に守護神として納めて出陣し勝利したと伝えられています。
庭園は「唐門前庭」、方丈前に広がる枯山水庭園、書院前の池泉回遊式庭園「書院前庭」、坪庭「閼伽井庭(おかいにわ)」からなります。
長谷川等伯筆の襖絵「水辺童子図」、「竹林七賢図屏風」、伊藤若冲の「雪梅雄鶏図」などを所蔵しています。
建仁寺両足院 - 01
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建仁寺両足院 - 03
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建仁寺両足院 - 04
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建仁寺両足院 - 05
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建仁寺両足院 - 06
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建仁寺両足院 - 07
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建仁寺両足院 - 08
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建仁寺両足院 - 09
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建仁寺両足院 - 10
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建仁寺両足院 - 11
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建仁寺両足院 - 12
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海福院は元和2(1616)年、福島正則が夬室智丈(かいしつちじょう)和尚を開山として創建した妙心寺の塔頭寺院で、福島家の菩提寺です。
福島正則が「賤ヶ岳の戦い」で一番槍として戦功をあげた「槍」や「福島正則画像」、陣中杯や書状、狩野探幽筆「猿回し図」、曾我蕭白(そがしょうはく)筆の襖絵や、狩野益信(ますのぶ)筆「山水図」などが特別展示されていました。
蘆雁の間と呼ばれる部屋に点茶や水屋の設備が押入れの中に仕込まれた珍しい「押入仕込茶堂」があります。
また、妙心寺法堂の「雲龍図」製作のために海福院に滞在していた狩野探幽が、新調されたばかりの唐紙の襖に猿回しの絵を描き、帰ってきた住職に叱責された「猿回し図」も本堂にあります。
妙心寺海福院 - 01
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妙心寺海福院 - 02
妙心寺海福院 - 02 posted by (C)pismo

妙心寺海福院 - 03
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妙心寺海福院 - 04
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妙心寺海福院 - 05
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妙心寺海福院・福島正則の墓 - 06
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「第45回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開」の対象寺院を3つ訪れると、お抹茶をいただけます。花園会館でお抹茶をいただき、今回のサイクリングは終了です。
Posted at 2011/01/25 20:08:16 | コメント(2) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2011年01月13日 イイね!

LED懐中電灯 LED LENSER P14購入

車や家庭用にLEDがどんどん普及していますが、最近LEDの懐中電灯が良い製品が出回っているということで、購入してみました。
ネットでも評判の良かったLED LENSERの懐中電灯です。ドイツのオプトエレクトロニクス社が開発した製品で、堅牢かつスタイリッシュなデザインです。

箱です。箱からしてしっかりした製品という印象をうけました。


箱を開けます。


ケース付きです。


単3電池を4本使用。


明るさ180ルーメン/実用点灯6時間とのことです。
かなりの明るさ、満足しています。


キーライトもLED化しちゃいました。
LED LENSER V SQUARE KEY FINDER OPT-7830


キーライトですが、かなり明るいです。


あまり今まで重要視していなかった懐中電灯の進化に驚きました。
防犯目的にも、良い懐中電灯が家にあると安心です。
P14は少し大きいので、携帯用にはT7やP7の方が良いかも知れません。
T7は少し安価になっているので、車用もしくは、常時携帯用にもう一台欲しいなぁと思います。
Posted at 2011/01/31 21:04:16 | コメント(1) | トラックバック(0) | その他 | 日記

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何シテル?   04/01 22:18
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