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ピズモのブログ一覧

2011年03月22日 イイね!

市民に力を与えた復興天守

市民に力を与えた復興天守この度は、東北地方太平洋沖地震で大変な被害に見舞われ、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
私たち関西の方も16年前、阪神・淡路大震災で大きな被害を受けましたが、今回の震災は、地震、津波、原発とあらゆる要因かつ広範囲で、今後の復興にはかなりの資金及び人的援助が必要になってくると思います。
社会的基盤もかつてないほど進化した現代社会は、復興にも資金的にも莫大な費用がかかりますので、日本の借金財政を考えると、国の財政がもつのかどうかが心配の種です。

現在は衣食住が充分に行き渡っていない方や原発への対応を急ぐことが急務です。
復興事業を考えていくのはまだまだ時間がかかることかも知れません。

このブログは歴史的名所を中心に更新してきましたが、震災のこともありここのところあまり更新する気力がありません。また、訪れたことのある歴史的名所の仙台城(青葉城)大崎八幡宮仙台東照宮瑞鳳殿 といったところもかなりの被害のようで、残念ながら時間切れで見ることができなかった大崎市(岩出山城)の伊達家藩校の旧有備館が全壊したというのもショックです。

それはさておき、広島城で先日入手した「広島城壊滅」という本を読みました。
65年前、原子爆弾で広島の町は焼け野原となってしまいました。
国宝だった広島城の天守も崩れ落ち、人々は生活のため廃材を使って薪に利用したり、住宅にしたりしたそうです。
生きていくためには文化財どころではなかったのでしょう。
しかしながら、広島の町は徐々に蘇ってきました。
この状態からの復興は先人たちが並々ならぬ献身的な仕事をされたことと思います。
天守は昭和33(1958)年の広島復興大博覧会の際に鉄筋コンクリート造りで復元されました。
復元された天守は、広島市民にとって町の復興のシンボルになり、市民の心に明るい光を灯したそうです。

最近まで、コンクリートで復元された天守はあまり好きではありませんでした。
しかし、天守の復興がどれほど市民にとって力を与えたのかを想像すると、復元事業には大きな意味があったことと思います。
名古屋城は、間組が復元に携わりましたが、江戸時代の石垣が鉄筋コンクリート造りの天守を支えるため、かなりの困難があったそうです。

現在、戦争から復興した天守は名古屋大垣和歌山岡山福山広島の5つが思い浮かびます。

どこの町も空襲などで大きな被害から立ち直りました。あの戦争から65年ぶりの国難ですが、先人たちと同様、再び日本が活気づくことを祈り、これら復興天守をブログにアップさせて頂きます。

広島城ライトアップ - 1
広島城ライトアップ - 1 posted by (C)pismo

広島城ライトアップ - 2
広島城ライトアップ - 2 posted by (C)pismo

広島城ライトアップ - 3
広島城ライトアップ - 3 posted by (C)pismo

広島城 - 4
広島城 - 4 posted by (C)pismo

福山城 - 1
福山城 - 1 posted by (C)pismo

岡山城ライトアップ - 1
岡山城ライトアップ - 1 posted by (C)pismo

岡山城ライトアップ - 2
岡山城ライトアップ - 2 posted by (C)pismo

岡山城 - 3
岡山城 - 3 posted by (C)pismo

名古屋城 - 1
名古屋城 - 1 posted by (C)pismo

和歌山城 - 1
和歌山城 - 1 posted by (C)pismo

なお、ブログ更新はすこしばかりお休みさせていただきます。
おすすめスポットはいくつかストックがありますので、マイペースでアップしていくことになると思います。
Posted at 2011/03/22 21:35:03 | コメント(3) | トラックバック(0) | 歴史・城 | 日記
2011年03月19日 イイね!

安芸・史跡めぐり(3日目その2・万徳院、吉川元春館跡、松本屋敷〜腹切り岩〜毛利隆元逝去の知)

万徳院跡ガイダンスホール「青松」は、万徳院跡歴史公園にあります。
万徳院の当寺の本堂をモデルに、規模はそのままに再現した建物です。
施設内には万得意なとを紹介する展示品や、DVDを見ることができます。
万徳院跡 - 01
万徳院跡 - 01 posted by (C)pismo

万徳院跡は,日山城麓に天正3(1575)年頃吉川元春の嫡男元長が建立した「諸宗兼学」の寺院跡です。
当初は、元長の山中の谷あいに建つ別邸的なものとして「草庵」を建立したものでしたが、天正15(1587)年に元長が病死すると,弟の広家は前当主元長の菩提寺として改修し、長い参道や石垣、庭園、建物の増築など大改修を行いました。
しかし、関ヶ原の戦いの後吉川氏が岩国に移封されると、万徳院も建物ごと移転しました。
境内地には本堂,庫裏,風呂屋,庭園があり,石垣,石段,参道が残っています。平成3(1991)年から県教委による発掘調査が行われ,その後町教委による整備を経て,現在歴史公園として整備されています。
駿河丸城跡、小倉山城跡、日山城跡、吉川元春館跡、西禅寺跡、洞仙寺跡、常仙寺跡、松本屋敷跡とともに国史跡に指定されています。
万徳院跡 - 02
万徳院跡 - 02 posted by (C)pismo

万徳院跡 - 03
万徳院跡 - 03 posted by (C)pismo

万徳院跡 - 04
万徳院跡 - 04 posted by (C)pismo

万徳院跡 - 05
万徳院跡 - 05 posted by (C)pismo

万徳院跡 - 06
万徳院跡 - 06 posted by (C)pismo

万徳院跡 - 07
万徳院跡 - 07 posted by (C)pismo

万徳院跡 - 08
万徳院跡 - 08 posted by (C)pismo

万徳院跡 - 09
万徳院跡 - 09 posted by (C)pismo

万徳院跡 - 10
万徳院跡 - 10 posted by (C)pismo

万徳院跡 - 11
万徳院跡 - 11 posted by (C)pismo

万徳院跡 - 12
万徳院跡 - 12 posted by (C)pismo

万徳院跡 - 13
万徳院跡 - 13 posted by (C)pismo

戦国の庭 歴史館は国史跡吉川元春館跡に隣接した展示施設です。
北広島町内にある中世遺跡、吉川氏に関連する遺跡や、吉川元春館跡の発掘調査に関連する資料や、史跡の整備についての展示が充実しています。
戦国の庭 歴史館 - 01
戦国の庭 歴史館 - 01 posted by (C)pismo

吉川元春館は、天正11(1583)年頃、隠居所として建てた館跡です。
本拠地日山城〔日野山城〕の西南山麓にあります。
天正19(1591)年、吉川広家が出雲月山富田城へ移転した後は館としての機能を失い、関ヶ原の戦いの後に吉川氏が岩国に移封された後は完全に廃墟となりました。
館跡の西側には菩提寺の海応寺跡、元春と元長の墓などが残っています。
昭和61(1986)年、駿河丸城跡、小倉山城跡、日山城跡、西禅寺跡、万徳院跡、洞仙寺跡、常仙寺跡、松本屋敷跡とともに吉川氏城館跡として国史跡に指定されています。
平成6(1994)年から平成10(1998)年にかけて発掘調査が実施され、調査中の平成9(1997)年9月2日に史跡の追加指定が行われ、指定範囲が拡大しました。
なお、平成14(2002)年には、「吉川元春館跡庭園」が国の名勝に指定されています。
吉川元春館跡 - 01
吉川元春館跡 - 01 posted by (C)pismo

吉川元春館跡 - 02
吉川元春館跡 - 02 posted by (C)pismo

吉川元春館跡 - 03
吉川元春館跡 - 03 posted by (C)pismo

吉川元春館跡 - 04
吉川元春館跡 - 04 posted by (C)pismo

吉川元春館跡 - 05
吉川元春館跡 - 05 posted by (C)pismo

吉川元春館跡 - 06
吉川元春館跡 - 06 posted by (C)pismo

吉川元春館跡 - 07
吉川元春館跡 - 07 posted by (C)pismo

吉川元春館跡 - 08
吉川元春館跡 - 08 posted by (C)pismo

吉川元春館跡 - 09
吉川元春館跡 - 09 posted by (C)pismo

吉川元春館跡 - 10
吉川元春館跡 - 10 posted by (C)pismo

吉川元春館跡 - 11
吉川元春館跡 - 11 posted by (C)pismo

吉川元春館跡 - 12
吉川元春館跡 - 12 posted by (C)pismo

吉川元春・元長の墓は吉川元春館跡の隣接地にあります。
吉川元春は天正14(1586)年、豊臣秀吉の要請により九州小倉へ出陣した時に、57歳で陣没しました。
隣には長男元長の墓があります。元長は元春の死後天正15(1587)年、九州日向で陣没しました。
法名は元春が「随浪院殿前駿州太守四品海翁正恵大居士」、元長「萬徳院殿前禮部中翁空山大居士」です。
吉川家が岩国に移封された後は一時期荒廃しましたが、文政11(1837)年、明治41(1908)年に改修されました。
海応寺跡 - 1
海応寺跡 - 1 posted by (C)pismo

吉川元春・元長の墓 - 1
吉川元春・元長の墓 - 1 posted by (C)pismo

松本屋敷は、吉川元春館跡の北東約200メートルにあり、天正8年(1580)年頃に元春の妻が住んだとされています。
屋敷は正面80m、奥行30mの規模で、中央には幅6mの門跡が残っています。
駿河丸城跡、小倉山城跡、日山城跡、吉川元春館跡、西禅寺跡、万徳院跡、洞仙寺跡、常仙寺跡とともに吉川氏城館跡として国史跡に指定されています。
吉川元春館と同じように、正面の石垣が見事です。
松本屋敷 - 1
松本屋敷 - 1 posted by (C)pismo

松本屋敷 - 2
松本屋敷 - 2 posted by (C)pismo

腹切り岩です。
享禄3(1530)年12月4日藤掛城主高橋興光は、毛利元就の謀略の手先となった鷲影城主高橋弾正盛光にこの軍原で襲撃され、寡兵にて奮戦しましたがついに敗れ、この大岩に上り、腹かき切って果てたと伝えられています。
軍原(いくさばら)キャンプ場の中にあります。
腹切り岩 - 1
腹切り岩 - 1 posted by (C)pismo

毛利隆元逝去の地です。

永禄6(1563)年、毛利隆元は尼子征伐に出雲に出陣していた父元就を助けるため、7月12日、吉田を発って佐々部式敷の蓮華寺に滞在し、諸方より兵を部署して8月5日出雲攻めに出発する予定でしたが、8月3日に和智誠春の館に招かれ饗応を受け、宿舎蓮華寺へ帰って急病を発し、4日の払暁41歳の若さで逝去しました。
遺骸はここで火葬され、後世、隆元火葬の地であるこの地に地元住民が石碑を建て、隆元の墓として香華を手向けています。
毛利隆元 逝去の地 - 1
毛利隆元 逝去の地 - 1 posted by (C)pismo

これで今回の安芸史跡めぐりは終了です。

おまけ。
たかみや湯の森は安芸高田市にあるお気に入りの日帰り温泉施設です。
ここで疲れを癒しました。
Posted at 2011/07/30 22:45:23 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年03月19日 イイね!

安芸・史跡めぐり(3日目その1・吉川氏の居城群、駿河丸城〜小倉山城〜日野山城とその周辺)

駿河丸城は、鎌倉時代末期の正和2(1313)年に、吉川経高が駿河国から移った際に築城し、以後小倉山城に本拠を移すまでの約70年間、本拠地として使ったと伝えられています。
しかし、これらを裏付ける史料は乏しく、駿河丸城跡の名前については、別名間所城跡(まどころ)とも言われ、江戸時代の中期以前は、平家丸城跡と呼ばれていたとの史料があります。
大朝盆地の北側、寒曳山南麓の標高440m、比高約30mの丘陵上に位置する丘城です。この丘城からは、大朝盆地の大部分を見渡せます。
駿河丸城跡の遺構は、南に延びる二本の丘陵先端部を利用したものです。郭群は、堀切や土塁で区切って造成し、郭の周囲は斜面を削り急峻にしており、中世山城の初期の形態を呈していると言われています。
(説明看板より)
城址は吉川氏城館遺跡として小倉山城跡、日山城跡、吉川元春館跡、西禅寺跡、万徳院跡、洞仙寺跡、常仙寺跡、松本屋敷跡とともに吉川氏城館跡として国史跡に指定されています。国の指定史跡になっています。かつては竹藪になっていたようですが、最近竹林を伐採したようで、城の遺構も確認しやすくなっています。
駿河丸城 - 01
駿河丸城 - 01 posted by (C)pismo

駿河丸城 - 02
駿河丸城 - 02 posted by (C)pismo

駿河丸城 - 03
駿河丸城 - 03 posted by (C)pismo

駿河丸城 - 04
駿河丸城 - 04 posted by (C)pismo

駿河丸城 - 05
駿河丸城 - 05 posted by (C)pismo

駿河丸城 - 06
駿河丸城 - 06 posted by (C)pismo

龍山八幡神社は、正和2(1313)年吉川経高が大朝に入封の際、駿河国吉川村から勧請した神社で、現在の本殿は、永禄元(1558)年吉川元春が再建したものです。
本殿は県下では厳島神社につぐ室町時代の数少ない神社建造物で、三間社芸備造り、屋根は流れ造り銅板葺きの建築様式です。
昭和37(1962)年国の重要文化財に指定されました。
龍山八幡神社 - 1
龍山八幡神社 - 1 posted by (C)pismo

龍山八幡神社 - 2
龍山八幡神社 - 2 posted by (C)pismo

小倉山城は、南北朝末期に吉川経見が築城し居城を駿河丸城から移しました。毛利氏から養子に入った吉川元春が、天文19(1590)年本拠を日野山城(日山城)に移すまでの約170年間、居城として使用されました。
昭和61(1986)年、駿河丸城跡、日山城跡、吉川元春館跡、西禅寺跡、万徳院跡、洞仙寺跡、常仙寺跡、松本屋敷跡とともに吉川氏城館跡として国史跡に指定されています。
発掘調査後、綺麗に整備したらしく、比較的登りやすい山城でした。
小倉山城 - 01
小倉山城 - 01 posted by (C)pismo

小倉山城 - 02
小倉山城 - 02 posted by (C)pismo

小倉山城 - 03
小倉山城 - 03 posted by (C)pismo

小倉山城 - 04
小倉山城 - 04 posted by (C)pismo

小倉山城 - 05
小倉山城 - 05 posted by (C)pismo

小倉山城 - 06
小倉山城 - 06 posted by (C)pismo

小倉山城 - 07
小倉山城 - 07 posted by (C)pismo

小倉山城 - 08
小倉山城 - 08 posted by (C)pismo

小倉山城 - 09
小倉山城 - 09 posted by (C)pismo

小倉山城 - 10
小倉山城 - 10 posted by (C)pismo

小倉山城 - 11
小倉山城 - 11 posted by (C)pismo

小倉山城 - 12
小倉山城 - 12 posted by (C)pismo

小倉山城 - 13
小倉山城 - 13 posted by (C)pismo

小倉山城 - 14
小倉山城 - 14 posted by (C)pismo

小倉山城 - 15
小倉山城 - 15 posted by (C)pismo

小倉山城 - 16
小倉山城 - 16 posted by (C)pismo

北広島町図書館内にある、大朝郷土資料室は吉川氏の歴史を中心とする文化財資料の展示が充実しています。
北広島町図書館(大朝郷土資料室)
北広島町図書館(大朝郷土資料室) posted by (C)pismo

常仙寺跡は、毛利元就に殺害された吉川興経の菩提所と伝えられ、境内には墓所が残っています。
山陰進出の足掛かりとして、吉川家乗っ取りをもくろむ元就は、吉川家当主の興経を無理矢理隠居させ、次男元春を養子として送り込みました。
次いで、興経を深川(広島市安佐北区)に幽閉し、天文19(1550)年に殺害しました。
この墓所は後に元春が建立したといわれています。
また、墓所の上手には犬塚があります。
「興経の首をくわえた愛犬が、新庄小倉山城へ帰る途中、この地で息絶えた。首は下へ転げ落ち、その位置で埋葬され、愛犬は上に興経は下に眠っている」という伝承と、「犬ではなく、興経の首を当地まで持って帰った重臣の墓」であるという伝承が残っています。
日山城の中山側の登城口にあります。駿河丸城跡、小倉山城跡、日山城跡、吉川元春館跡、西禅寺跡、万徳院跡、洞仙寺跡、松本屋敷跡ともに吉川氏城館跡として国史跡に指定されています。
常仙寺跡 - 1
常仙寺跡 - 1 posted by (C)pismo

日山城〔日野山城〕は、標高705.4mの火の山(日野山)に築かれ、比高300mを誇る大規模な戦国後期の山城です。
天文19(1550)年に吉川氏の家督を相続した吉川元春は、小倉山城から火野山にあった城を居城としました。元春は城を整備拡張し、元春から元長、広家の3代に渡って拡張整備工事が続けられ、全山が要塞化されました。天正10(1582)年、吉川元春は隠居すると山麓に隠居館として吉川元春館を築き、そこに住むようになりました。
元春死後吉川広家も不便な山上の日野山城には居住せず、元春館に居住するようになりました。天正19(1591)年に吉川広家が月山富田城主となると、吉川氏の居城としての日野山城の役目は終焉を迎えました。
駿河丸城跡、小倉山城跡、吉川元春館跡、西禅寺跡、万徳院跡、洞仙寺跡、常仙寺跡、松本屋敷跡とともに吉川氏城館跡として国史跡に指定されています。
沢沿いの道を歩いて行ったのでかなり歩きにくかったです。3月はかなりの残雪が残っていて登城には苦労しました。
しかし、壮大な規模の山城で満足度は高かったです。
日山城(日野山城) - 01
日山城(日野山城) - 01 posted by (C)pismo

日山城(日野山城) - 02
日山城(日野山城) - 02 posted by (C)pismo

日山城(日野山城) - 03
日山城(日野山城) - 03 posted by (C)pismo

日山城(日野山城) - 04
日山城(日野山城) - 04 posted by (C)pismo

日山城(日野山城) - 05
日山城(日野山城) - 05 posted by (C)pismo

日山城(日野山城) - 06
日山城(日野山城) - 06 posted by (C)pismo

日山城(日野山城) - 07
日山城(日野山城) - 07 posted by (C)pismo

日山城(日野山城) - 08
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日山城(日野山城) - 09
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日山城(日野山城) - 10
日山城(日野山城) - 10 posted by (C)pismo

日山城(日野山城) - 11
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日山城(日野山城) - 12
日山城(日野山城) - 12 posted by (C)pismo

日山城(日野山城) - 13
日山城(日野山城) - 13 posted by (C)pismo

日山城(日野山城) - 14
日山城(日野山城) - 14 posted by (C)pismo
Posted at 2011/07/27 22:13:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年03月18日 イイね!

安芸・史跡めぐり(2日目その2・吉田郡山城〜猿掛城〜有田城〜今田氏居館とその周辺の史跡)

安芸高田市歴史民俗博物館は、最初は吉田郷土資料館として昭和46(1971)年開館しました。
そして、郡山城の麓に、平成2(1990)年3月吉田町歴史民俗資料館としてオープンしました。
平成16(2004)年、合併に伴い、安芸高田市吉田歴史民俗資料館となりました。
さらに平成22(2010)年、安芸高田市歴史民俗博物館に名称が変更されています。
歴史コーナーでは、原始から近代までの資料を展示しており、特に毛利氏関係の資料展示が充実しています。
安芸高田市歴史民俗博物館 - 1
安芸高田市歴史民俗博物館 - 1 posted by (C)pismo

毛利元就火葬場跡です。
毛利元就は、元亀2(1571)年6月14日、御里屋敷で75歳で逝去しました。
遺骸は、翌15日大通院に移し、正殿に安置し、法名を日頼洞春と称しました。
三原妙法寺の住職嘯岳鼎虎禅師を招聘し、6月20日初七日の法会を営んだ後、この火葬場で荼毘に附されました。
火葬の際には10間(18m)四方の間に小石を敷きつめ、沈香を焚きその香りは遠くまで匂ったといわれています。
この火葬場跡は、3間四方を石垣で囲み、中に栂の木を植えました。栂の木は高さ約10m、周囲約3mに達しましたが、昭和46(1971)年枯死しました。

色々の手向に雑る草の原
けふ咲花やこころ有らん

(説明看板より)
郡山城・毛利元就火葬場跡- 01
郡山城・毛利元就火葬場跡- 01 posted by (C)pismo

洞春寺跡・毛利元就の墓です。毛利元就は元亀2(1571)年6月14日城麓の御里屋敷で波瀾万丈の生涯を閉じました。
墓標には「はりいぶき」が植えられ、3回忌に菩提寺洞春寺が建立されました。
洞春寺跡は、毛利元就の三回忌にあたる天正元(1573)年に菩提寺として、孫の輝元が創建し、元就の葬儀の導師であったしょう岳鼎虎禅師を開山とした臨済宗の寺跡です。
輝元の広島移城の際に広島城下に移り、関ヶ原の戦いの後に毛利氏と共に山口に移転し、間もなく萩城下に移されました。
明治2(1869)年に再び山口市内に移されました。
洞春寺跡の遺構は、等高線に添って馬蹄形に六段の平坦面に区切ったもので、墓所のある段を中心に、三段が広く約四千平方メートル(千二百坪)あり、この地に建物があったと考えられています。
元就の墓の他、明治2(1869)年に城下にあった毛利一族の墓もこの地に移葬されています。
郡山城主初代時親から八代豊元までの合葬墓、10代興元、11代幸松丸、隆元の妻(内藤興盛の三女で大内義隆の養女)の墓があります。
百万一心の碑は毛利元就が、吉田郡山城に人柱に替えて「百万一心」と彫らせた巨石を埋めたと伝えられています。文化13(1816)年、長州藩士だった武田泰信が発見し拓本を写し取り、豊栄神社に奉納しました。石碑は拓本を元に模刻したものです。「百」は一日、「万」は一力とも読め、協力の大事さを説いた元就の人柄を象徴しています。
郡山城・洞春寺跡・毛利元就の墓  - 01
郡山城・洞春寺跡・毛利元就の墓 - 01 posted by (C)pismo

郡山城・洞春寺跡・毛利元就の墓  - 02
郡山城・洞春寺跡・毛利元就の墓 - 02 posted by (C)pismo

郡山城・洞春寺跡・毛利元就の墓 -03
郡山城・洞春寺跡・毛利元就の墓 -03 posted by (C)pismo

吉田郡山城は、南北朝時代の建武3(1336)年、毛利時親が吉田荘の地頭職として下向した際に郡山東南麓に築城し、後に元就が郡山全山を城郭化し、さらに輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城でした。
天文9(1540)年、尼子晴久が三万の大軍を率いて来攻した際には、毛利勢は小勢ながらよく戦い、翌年一月尼子軍を敗退させました。
天正19(1591)年、毛利輝元は広島城を築城し、居城を移転したため廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められました。
郡山城 - 01
郡山城 - 01 posted by (C)pismo

郡山城 - 02
郡山城 - 02 posted by (C)pismo

郡山城 - 03
郡山城 - 03 posted by (C)pismo

郡山城 - 04
郡山城 - 04 posted by (C)pismo

郡山城 - 05
郡山城 - 05 posted by (C)pismo

郡山城 - 06
郡山城 - 06 posted by (C)pismo

郡山城 - 07
郡山城 - 07 posted by (C)pismo

常栄寺跡・毛利隆元墓所です。
常栄寺は、毛利隆元の菩提寺です。
現在は山口にありますが、隆元の墓所は残っています。
毛利隆元は、毛利元就の長男として大永3(1523)年多治比猿掛城内で生まれました。幼名を少輔太郎といい、天文6(1537)年人質として山口の大内氏に送られ、その年の元服には大内義隆の加冠で隆元と称しました。
以後天文10(1541)年19歳で帰還するまで大内氏の優遇を受けました。天文15(1546)年24歳で家督を相続しました。三年後には内藤興盛の娘(義隆の養女)を夫人とし、天文22(1553)年に長男幸鶴丸(後の輝元)が誕生しました。
永禄年間は、九州の大友氏と交戦していましたが、講和が成立するやいなや、尼子氏攻略のため、元就がいる出雲に応援のため多治比猿に一時帰還し、郡山城には入らず、出雲に出発し、途中安芸佐々部(安芸高田市高宮町)で和智誠春の饗応を受けましたがまもなく発病、翌朝未明に41歳、永禄6(1563)年急逝しました。
没後元就は、隆元の尊師山口の国清寺の僧、竺雲恵心を招き、開山としました。
寺は翌永禄7(1564)年扶桑十刹に列し、勅願道場とせられ、正親町天皇の「常栄広刹禅師」の勅額を受けました。
天正19(1591)年の分限帳によると千四百八十石五斗余を領しています。
寺跡は、二段の曲輪からなり、上の段は60m×25m、下の段は40m×10mでかなりの広さを持っていますが、建物の配置は明らかではありません。
毛利氏の防長移封後、山口に移転し、現在の常栄寺は雪舟庭としても知られています。
郡山城・常栄寺跡・毛利隆元墓所 - 01
郡山城・常栄寺跡・毛利隆元墓所 - 01 posted by (C)pismo

郡山城 常栄寺跡・毛利隆元墓所- 02
郡山城 常栄寺跡・毛利隆元墓所- 02 posted by (C)pismo

郡山城・常栄寺跡・毛利隆元墓所 -03
郡山城・常栄寺跡・毛利隆元墓所 -03 posted by (C)pismo


宮崎神社は吉田郡山城4代の城主、毛利師親(後、元春)が、観応年間(1350年頃)相模国宮崎より勧請した八幡宮で、毛利氏の氏神として崇敬されました。
大永3(1523)年相合元綱反乱のとき兵火で焼かれ、また、天文10(1541)年1月13日、毛利・尼子の郡山合戦に尼子の陣地となり、激戦となりましたが、永禄11(1568)年毛利元就によって再建、その後も毛利氏により修理再造されました。
師親が石見国佐波善四郎を攻めるとき先陣をうけたまわり、江の川を渡ったとき鐙石の奇瑞で大攻をたて、当社を勧請するゆえんとなったといわれています。鐙石は「川通り餅由来の石」として有名で、社宝として今に伝えられています。
(説明看板より)
宮崎神社 - 01
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宮崎神社 - 02
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宮崎神社 - 03
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毛利弘元墓所です。
毛利弘元は元就の父で、応仁2(1468)年に生まれました。
9歳で毛利家を相続し郡山城主となりました。
尼子と大内の狭間にいた明応九9(1500)年に長男興元に家督を譲り、二男の元就(4歳)を連れ、多治比猿掛城に隠居しました。
永正3(1506)年1月11日に没しました。時に39歳でした。
墓所は、多治比猿掛城の麓、弘元の菩提寺の悦叟院跡にあります。
夫人は鈴尾城主の福原広俊の娘で、文亀元(1501)年12月8日、34歳で鈴尾城(福原城)内で逝去しました。
大正10(1921)年、鈴尾城(福原城)の福原氏墓所からこの地に移葬された。
(説明看板より)
猿掛城・毛利弘元墓所 - 01
猿掛城・毛利弘元墓所 - 01 posted by (C)pismo

多治比猿掛城は、郡山城から多治比川に沿って北西4km上流にある石州路に通じる交通の要衝に築かれ、郡山城の北方を守る重要な位置にありました。
築城は、明応年間(1492-1501)、毛利弘元が築城したと言われています。
明応9(1500)年、弘元は家督を嫡子興元に譲り、隠居して郡山城から猿掛城に移り住み当時4歳の毛利元就も父弘元と一緒に移りました。
弘元の死後、多治比領は元就が相続し、毛利本家を相続するまでここを居城としました。
大永3(1523)年、元就は毛利家の家督を継承し郡山城に入城しました。
その後も、毛利氏の支城としての役割を果たしていたと思われます。
永禄6(1563)年、毛利隆元が元就が遠征している出雲へ向かう途中で、多治比猿掛城に1泊し、その際に息子の毛利輝元が来城し、面会しています。その後、隆元は佐々部で急死しました。
廃城年は不明です。
(説明看板などより)
猿掛城 - 02
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猿掛城 - 03
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猿掛城 - 04
猿掛城 - 04 posted by (C)pismo

有田城の城主は山県一族有田氏と思われ、東の壬生氏、西の今田氏とともに、室町から戦国時代初期にかけてこの地域を支配していました。
永正12(1515)年、中国地方に大きな勢力を持っていた山口の大内氏に対し、銀山城(広島市安佐南区)の武田元繁が反旗をひるがえし、壬生氏・有田氏・今田氏も従軍しました。
これに対し、大内氏の命を受けた郡山城の毛利氏によって有田城は攻撃され、落城しました。(第一次有田合戦)
永正14(1517)年安芸守護職銀山城武田元繁は熊谷元直・己斐師道・香川行景等諸将を与力とし5千の大軍を擁して、小田信忠の居城、有田城を包囲したが、猿掛城の毛利元就は2千の劣勢で朝霧をついて有田の地に又打川を挟んで武田勢と対戦。かくて有田合戦が繰り広げらました。
合戦は中出に出陣した熊谷元直の戦死に続いて武田元繁は戦死し、大将を失った武田勢は形勢逆転、翌朝太郎丸に出撃した己斐師道も討死して、武田勢は毛利勢の前に壊滅しました。山県一族の壬生・有田・今田氏も没落しました。
元繁戦死の地の碑は現在、又打川河畔にありますが、今田、中井出など異説があり、確定されていません。
この有田合戦は、武田氏の威勢を失堕させることとなり、逆に毛利氏は安芸国人の中に占める地位を固め、初陣を飾った元就自身も毛利家家督相続の足場を築くこととなりました。戦後、有田城は毛利氏・吉川氏の属城になったとされますが、その後は不明のようです。
城跡は四つの郭(人工的な平坦面)と、郭の北西端を固める土塁(人工的な土手)が残っています。炭化米が出土するそうです。
(説明看板などより)
有田城 - 01
有田城 - 01 posted by (C)pismo

有田城 - 02
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有田城 - 03
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有田城 - 04
有田城 - 04 posted by (C)pismo

有田古戦場・武田元繁戦死の地です。
有田合戦は、「有田中井手の戦い」ともいわれています。毛利元就初陣の地で「西国の桶狭間」といわれた戦いです。
元就の敵方であった安芸守護武田元繁が戦死したところだそうです。
有田城奪回を目指す武田元繁はと毛利・吉川氏の間で戦いが行われました。しかし、この戦いで武田元繁は戦死し、この戦いを境に毛利家は興隆し、武田家は衰退の道を歩むことになりました。
元繁戦死の地の碑は現在、又打川河畔にありますが、今田、中井出など異説があり、確定されていません。
有田古戦場・武田元繁戦死の地
有田古戦場・武田元繁戦死の地 posted by (C)pismo

今田氏館は今田氏の居館跡です。
今田氏の城館跡は麓の館と城がセットで存在する中世城館の典型的な形を留めています。
この城館は、山県氏一族の今田氏の在地、交通支配の拠点でした。
戦国初期に今田氏が没落した後は、吉川経高がこの城館を継承しました。
毛利元就の次男元春が吉川家を相続してからは、吉川元春の居城日山城の支城としての役割も果たしていたと思われます。
館の規模は、80m×50m程度であり、前面には約60mの石垣が配しています。
石垣の構造は、横積みを基調としながら、所々で石の広い面を表に出して立てるという独特の技法を用いています。
この石垣の積み方は、吉川元春館跡や、万徳院跡、二宮氏館跡などと同じ手法です。
館跡の左奥(南西端)には築山・池・水路をもつ庭園跡が残っています。
時間の都合で、山城の今田城にも行くことは出来ませんでした。
今田氏居館 - 1
今田氏居館 - 1 posted by (C)pismo

今田氏居館 - 2
今田氏居館 - 2 posted by (C)pismo

今田氏居館 - 3
今田氏居館 - 3 posted by (C)pismo

2日目はここまでで、翌日は吉川氏関連の史跡を巡ります。
Posted at 2011/07/27 21:47:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年03月18日 イイね!

安芸・史跡めぐり(2日目その1・安芸高田市の毛利家家臣の城めぐり)

2日目は安芸高田市周辺です。
阿賀城は、中世は阿賀氏の居城で、毛利元就の時代には井上越前守光貞、井上左馬之助就任の親子二代の居城だったと伝えられています。
井戸跡、土塁、曲輪などが残っています。
阿賀城 - 01
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阿賀城 - 02
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阿賀城 - 03
阿賀城 - 03 posted by (C)pismo

阿賀城 - 04
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阿賀城 - 05
阿賀城 - 05 posted by (C)pismo

阿賀城 - 06
阿賀城 - 06 posted by (C)pismo

阿賀城 - 07
阿賀城 - 07 posted by (C)pismo


桂城は、毛利氏一族で譜代家臣の桂氏の居城です。
別名を中山城または三笠山城ともいいます。
16世紀初頭、頃坂氏から分家した桂広澄が築城したといわれています。
桂広澄は、大永3(1523)年、毛利元就の本家相続に際し、相合元網擁立派だったため自害しました。広澄の子・元澄は、城に籠もって自刃しようとしたが、元就の懇願もあって思いとどまり元就の重臣となり、弘治元(1555)年厳島合戦の時、桜尾城主となり戦功を挙げました。元澄は、桜尾城主となってからも、この城を拠点としていたようです。
標高295メートル、比高80メートルで毛利氏譜代の桂氏の居城で、城郭は西・中央・東の三群に分かれてします。
(説明看板などより)
桂城 - 1
桂城 - 1 posted by (C)pismo

桂城 - 2
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桂城 - 3
桂城 - 3 posted by (C)pismo

桂城 - 4
桂城 - 4 posted by (C)pismo

桂城 - 5
桂城 - 5 posted by (C)pismo

星ヶ城は中世の山城です。
城主ははじめ星野氏、後に長屋氏と伝えられています。
模擬の武家屋敷や、櫓門、櫓などが復元されています。
桂城の向かい側、元浄寺への参道を途中まで車で登っていくことができます。櫓門を越えて、観音堂前に駐車場があります。
星ヶ城 - 01
星ヶ城 - 01 posted by (C)pismo

星ヶ城 - 02
星ヶ城 - 02 posted by (C)pismo

星ヶ城 - 03
星ヶ城 - 03 posted by (C)pismo

星ヶ城 - 04
星ヶ城 - 04 posted by (C)pismo

星ヶ城 - 05
星ヶ城 - 05 posted by (C)pismo

星ヶ城 - 06
星ヶ城 - 06 posted by (C)pismo

星ヶ城 - 07
星ヶ城 - 07 posted by (C)pismo

星ヶ城 - 08
星ヶ城 - 08 posted by (C)pismo

福原氏居館です。福原氏の居城だった鈴尾城は、別名福原城とも呼ばれ、永徳元(1381)年に毛利元春の5男広世が福原の地に移り、姓を福原と改めて築いた城です。
福原氏は代々毛利氏の重臣で、8代広俊の娘で9代貞俊の妹は毛利弘元の妻で、興元、元就を産みました。元就は明応6(1497)年3月14日、母の里であるこの城内で誕生したといわれています。
居館跡(土居の壇)は、本丸から東側の谷の中腹に位置し、長さ50m、幅20mの広大な敷地を有しています。更にこの東側下部にも小さな平地があり、これらも居館の一部と使用されたものと思われます。
昭和13(1938)年に「毛利元就の生誕の碑」が建てられました。
また、更に東側には福原氏の菩提寺楞厳寺跡があり、福原広俊ら八基の墓があります。
福原氏居館 - 1
福原氏居館 - 1 posted by (C)pismo

福原氏居館 - 2
福原氏居館 - 2 posted by (C)pismo

福原氏居館 - 3
福原氏居館 - 3 posted by (C)pismo

鈴尾城は、別名福原城ともいい、永徳元(1381)年に毛利元春の5男・広世が福原の地に移り、姓を福原と改めて築いた城です。
8代・広俊の娘は毛利弘元の妻となり、長男・興元が誕生し、次男・元就は明応6(1497)年3月14日、 母の里であるこの鈴尾城内で誕生したといわれています。天文9(1540)年の郡山合戦には10代・広俊がこの城に籠って吉田盆地の守りとしました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の敗戦により、主家毛利氏の防長への転封に従い13代・広俊も毛利輝元に従って、防長へ移り、 城は廃城となりましたが、この間、219年間福原氏の居城でした。
福原氏の居館からさらに登って行きます。井戸跡などが残っています。
眺望が良く、桂城など周囲の山城が見渡せます。
鈴尾城(福原城) - 01
鈴尾城(福原城) - 01 posted by (C)pismo

鈴尾城(福原城) - 02
鈴尾城(福原城) - 02 posted by (C)pismo

鈴尾城(福原城) - 03
鈴尾城(福原城) - 03 posted by (C)pismo

鈴尾城(福原城) - 04
鈴尾城(福原城) - 04 posted by (C)pismo

鈴尾城(福原城) - 05
鈴尾城(福原城) - 05 posted by (C)pismo

鈴尾城(福原城) - 06
鈴尾城(福原城) - 06 posted by (C)pismo

鈴尾城(福原城) - 07
鈴尾城(福原城) - 07 posted by (C)pismo

鈴尾城(福原城) - 08
鈴尾城(福原城) - 08 posted by (C)pismo

次は、毛利家の本城・吉田郡山城へ向かいます。
Posted at 2011/07/27 21:15:02 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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