安芸高田市歴史民俗博物館は、最初は吉田郷土資料館として昭和46(1971)年開館しました。
そして、郡山城の麓に、平成2(1990)年3月吉田町歴史民俗資料館としてオープンしました。
平成16(2004)年、合併に伴い、安芸高田市吉田歴史民俗資料館となりました。
さらに平成22(2010)年、安芸高田市歴史民俗博物館に名称が変更されています。
歴史コーナーでは、原始から近代までの資料を展示しており、特に毛利氏関係の資料展示が充実しています。
安芸高田市歴史民俗博物館 - 1 posted by
(C)pismo
毛利元就火葬場跡です。
毛利元就は、元亀2(1571)年6月14日、御里屋敷で75歳で逝去しました。
遺骸は、翌15日大通院に移し、正殿に安置し、法名を日頼洞春と称しました。
三原妙法寺の住職嘯岳鼎虎禅師を招聘し、6月20日初七日の法会を営んだ後、この火葬場で荼毘に附されました。
火葬の際には10間(18m)四方の間に小石を敷きつめ、沈香を焚きその香りは遠くまで匂ったといわれています。
この火葬場跡は、3間四方を石垣で囲み、中に栂の木を植えました。栂の木は高さ約10m、周囲約3mに達しましたが、昭和46(1971)年枯死しました。
色々の手向に雑る草の原
けふ咲花やこころ有らん
(説明看板より)
郡山城・毛利元就火葬場跡- 01 posted by
(C)pismo
洞春寺跡・毛利元就の墓です。毛利元就は元亀2(1571)年6月14日城麓の御里屋敷で波瀾万丈の生涯を閉じました。
墓標には「はりいぶき」が植えられ、3回忌に菩提寺洞春寺が建立されました。
洞春寺跡は、毛利元就の三回忌にあたる天正元(1573)年に菩提寺として、孫の輝元が創建し、元就の葬儀の導師であったしょう岳鼎虎禅師を開山とした臨済宗の寺跡です。
輝元の広島移城の際に広島城下に移り、関ヶ原の戦いの後に毛利氏と共に山口に移転し、間もなく萩城下に移されました。
明治2(1869)年に再び山口市内に移されました。
洞春寺跡の遺構は、等高線に添って馬蹄形に六段の平坦面に区切ったもので、墓所のある段を中心に、三段が広く約四千平方メートル(千二百坪)あり、この地に建物があったと考えられています。
元就の墓の他、明治2(1869)年に城下にあった毛利一族の墓もこの地に移葬されています。
郡山城主初代時親から八代豊元までの合葬墓、10代興元、11代幸松丸、隆元の妻(内藤興盛の三女で大内義隆の養女)の墓があります。
百万一心の碑は毛利元就が、吉田郡山城に人柱に替えて「百万一心」と彫らせた巨石を埋めたと伝えられています。文化13(1816)年、長州藩士だった武田泰信が発見し拓本を写し取り、豊栄神社に奉納しました。石碑は拓本を元に模刻したものです。「百」は一日、「万」は一力とも読め、協力の大事さを説いた元就の人柄を象徴しています。
郡山城・洞春寺跡・毛利元就の墓 - 01 posted by
(C)pismo
郡山城・洞春寺跡・毛利元就の墓 - 02 posted by
(C)pismo
郡山城・洞春寺跡・毛利元就の墓 -03 posted by
(C)pismo
吉田郡山城は、南北朝時代の建武3(1336)年、毛利時親が吉田荘の地頭職として下向した際に郡山東南麓に築城し、後に元就が郡山全山を城郭化し、さらに輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城でした。
天文9(1540)年、尼子晴久が三万の大軍を率いて来攻した際には、毛利勢は小勢ながらよく戦い、翌年一月尼子軍を敗退させました。
天正19(1591)年、毛利輝元は広島城を築城し、居城を移転したため廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められました。
郡山城 - 01 posted by
(C)pismo
郡山城 - 02 posted by
(C)pismo
郡山城 - 03 posted by
(C)pismo
郡山城 - 04 posted by
(C)pismo
郡山城 - 05 posted by
(C)pismo
郡山城 - 06 posted by
(C)pismo
郡山城 - 07 posted by
(C)pismo
常栄寺跡・毛利隆元墓所です。
常栄寺は、毛利隆元の菩提寺です。
現在は山口にありますが、隆元の墓所は残っています。
毛利隆元は、毛利元就の長男として大永3(1523)年多治比猿掛城内で生まれました。幼名を少輔太郎といい、天文6(1537)年人質として山口の大内氏に送られ、その年の元服には大内義隆の加冠で隆元と称しました。
以後天文10(1541)年19歳で帰還するまで大内氏の優遇を受けました。天文15(1546)年24歳で家督を相続しました。三年後には内藤興盛の娘(義隆の養女)を夫人とし、天文22(1553)年に長男幸鶴丸(後の輝元)が誕生しました。
永禄年間は、九州の大友氏と交戦していましたが、講和が成立するやいなや、尼子氏攻略のため、元就がいる出雲に応援のため多治比猿に一時帰還し、郡山城には入らず、出雲に出発し、途中安芸佐々部(安芸高田市高宮町)で和智誠春の饗応を受けましたがまもなく発病、翌朝未明に41歳、永禄6(1563)年急逝しました。
没後元就は、隆元の尊師山口の国清寺の僧、竺雲恵心を招き、開山としました。
寺は翌永禄7(1564)年扶桑十刹に列し、勅願道場とせられ、正親町天皇の「常栄広刹禅師」の勅額を受けました。
天正19(1591)年の分限帳によると千四百八十石五斗余を領しています。
寺跡は、二段の曲輪からなり、上の段は60m×25m、下の段は40m×10mでかなりの広さを持っていますが、建物の配置は明らかではありません。
毛利氏の防長移封後、山口に移転し、現在の常栄寺は雪舟庭としても知られています。
郡山城・常栄寺跡・毛利隆元墓所 - 01 posted by
(C)pismo
郡山城 常栄寺跡・毛利隆元墓所- 02 posted by
(C)pismo
郡山城・常栄寺跡・毛利隆元墓所 -03 posted by
(C)pismo
宮崎神社は吉田郡山城4代の城主、毛利師親(後、元春)が、観応年間(1350年頃)相模国宮崎より勧請した八幡宮で、毛利氏の氏神として崇敬されました。
大永3(1523)年相合元綱反乱のとき兵火で焼かれ、また、天文10(1541)年1月13日、毛利・尼子の郡山合戦に尼子の陣地となり、激戦となりましたが、永禄11(1568)年毛利元就によって再建、その後も毛利氏により修理再造されました。
師親が石見国佐波善四郎を攻めるとき先陣をうけたまわり、江の川を渡ったとき鐙石の奇瑞で大攻をたて、当社を勧請するゆえんとなったといわれています。鐙石は「川通り餅由来の石」として有名で、社宝として今に伝えられています。
(説明看板より)
宮崎神社 - 01 posted by
(C)pismo
宮崎神社 - 02 posted by
(C)pismo
宮崎神社 - 03 posted by
(C)pismo
毛利弘元墓所です。
毛利弘元は元就の父で、応仁2(1468)年に生まれました。
9歳で毛利家を相続し郡山城主となりました。
尼子と大内の狭間にいた明応九9(1500)年に長男興元に家督を譲り、二男の元就(4歳)を連れ、多治比猿掛城に隠居しました。
永正3(1506)年1月11日に没しました。時に39歳でした。
墓所は、多治比猿掛城の麓、弘元の菩提寺の悦叟院跡にあります。
夫人は鈴尾城主の福原広俊の娘で、文亀元(1501)年12月8日、34歳で鈴尾城(福原城)内で逝去しました。
大正10(1921)年、鈴尾城(福原城)の福原氏墓所からこの地に移葬された。
(説明看板より)
猿掛城・毛利弘元墓所 - 01 posted by
(C)pismo
多治比猿掛城は、郡山城から多治比川に沿って北西4km上流にある石州路に通じる交通の要衝に築かれ、郡山城の北方を守る重要な位置にありました。
築城は、明応年間(1492-1501)、毛利弘元が築城したと言われています。
明応9(1500)年、弘元は家督を嫡子興元に譲り、隠居して郡山城から猿掛城に移り住み当時4歳の毛利元就も父弘元と一緒に移りました。
弘元の死後、多治比領は元就が相続し、毛利本家を相続するまでここを居城としました。
大永3(1523)年、元就は毛利家の家督を継承し郡山城に入城しました。
その後も、毛利氏の支城としての役割を果たしていたと思われます。
永禄6(1563)年、毛利隆元が元就が遠征している出雲へ向かう途中で、多治比猿掛城に1泊し、その際に息子の毛利輝元が来城し、面会しています。その後、隆元は佐々部で急死しました。
廃城年は不明です。
(説明看板などより)
猿掛城 - 02 posted by
(C)pismo
猿掛城 - 03 posted by
(C)pismo
猿掛城 - 04 posted by
(C)pismo
有田城の城主は山県一族有田氏と思われ、東の壬生氏、西の今田氏とともに、室町から戦国時代初期にかけてこの地域を支配していました。
永正12(1515)年、中国地方に大きな勢力を持っていた山口の大内氏に対し、銀山城(広島市安佐南区)の武田元繁が反旗をひるがえし、壬生氏・有田氏・今田氏も従軍しました。
これに対し、大内氏の命を受けた郡山城の毛利氏によって有田城は攻撃され、落城しました。(第一次有田合戦)
永正14(1517)年安芸守護職銀山城武田元繁は熊谷元直・己斐師道・香川行景等諸将を与力とし5千の大軍を擁して、小田信忠の居城、有田城を包囲したが、猿掛城の毛利元就は2千の劣勢で朝霧をついて有田の地に又打川を挟んで武田勢と対戦。かくて有田合戦が繰り広げらました。
合戦は中出に出陣した熊谷元直の戦死に続いて武田元繁は戦死し、大将を失った武田勢は形勢逆転、翌朝太郎丸に出撃した己斐師道も討死して、武田勢は毛利勢の前に壊滅しました。山県一族の壬生・有田・今田氏も没落しました。
元繁戦死の地の碑は現在、又打川河畔にありますが、今田、中井出など異説があり、確定されていません。
この有田合戦は、武田氏の威勢を失堕させることとなり、逆に毛利氏は安芸国人の中に占める地位を固め、初陣を飾った元就自身も毛利家家督相続の足場を築くこととなりました。戦後、有田城は毛利氏・吉川氏の属城になったとされますが、その後は不明のようです。
城跡は四つの郭(人工的な平坦面)と、郭の北西端を固める土塁(人工的な土手)が残っています。炭化米が出土するそうです。
(説明看板などより)
有田城 - 01 posted by
(C)pismo
有田城 - 02 posted by
(C)pismo
有田城 - 03 posted by
(C)pismo
有田城 - 04 posted by
(C)pismo
有田古戦場・武田元繁戦死の地です。
有田合戦は、「有田中井手の戦い」ともいわれています。毛利元就初陣の地で「西国の桶狭間」といわれた戦いです。
元就の敵方であった安芸守護武田元繁が戦死したところだそうです。
有田城奪回を目指す武田元繁はと毛利・吉川氏の間で戦いが行われました。しかし、この戦いで武田元繁は戦死し、この戦いを境に毛利家は興隆し、武田家は衰退の道を歩むことになりました。
元繁戦死の地の碑は現在、又打川河畔にありますが、今田、中井出など異説があり、確定されていません。
有田古戦場・武田元繁戦死の地 posted by
(C)pismo
今田氏館は今田氏の居館跡です。
今田氏の城館跡は麓の館と城がセットで存在する中世城館の典型的な形を留めています。
この城館は、山県氏一族の今田氏の在地、交通支配の拠点でした。
戦国初期に今田氏が没落した後は、吉川経高がこの城館を継承しました。
毛利元就の次男元春が吉川家を相続してからは、吉川元春の居城日山城の支城としての役割も果たしていたと思われます。
館の規模は、80m×50m程度であり、前面には約60mの石垣が配しています。
石垣の構造は、横積みを基調としながら、所々で石の広い面を表に出して立てるという独特の技法を用いています。
この石垣の積み方は、吉川元春館跡や、万徳院跡、二宮氏館跡などと同じ手法です。
館跡の左奥(南西端)には築山・池・水路をもつ庭園跡が残っています。
時間の都合で、山城の今田城にも行くことは出来ませんでした。
今田氏居館 - 1 posted by
(C)pismo
今田氏居館 - 2 posted by
(C)pismo
今田氏居館 - 3 posted by
(C)pismo
2日目はここまでで、翌日は吉川氏関連の史跡を巡ります。