次は岐阜市内を訪れました。
道三塚です。
弘治2(1556)年4月18日、斎藤道三はその嫡子斎藤義龍と戦うことになりました。
一般に知られている話では、道三の実子ではないことを知った義龍が、道三の実子二人を惨殺し、道三を引退に追い込んだ上、戦いを仕掛けてきたことになっています。
たしかに、この合戦の二年前、道三は家督を義龍(当寺は利尚)に譲り渡しています。しかしながら、この突然の引退は、おそらく家臣団の手で半ば強制的に行われたものと思われます。家臣の支持を失い隠居を余儀なくされた道三は、最終的に義龍との武力対決に至ります。
長良川を隔てて衝突したとされる両軍(長良川の戦い)でしたが、もとより数の上で劣勢であった道三方は敗れて大半の将兵が戦死しました。
道三自身も4月20日城田寺に退れようとするところを長井中左衛門、小牧(小真木)源太、林主水などの追跡を受け、くみつかれて臑をなで斬りにされた上に鼻を削がれたと「信長公記」などの話の仲では伝えられています。63歳でした。
その遺体は崇福寺の西南(現メモリアルセンター内)に埋葬されましたが、塚は長良川の洪水の度に流されました。
その後、天保8(1837)年、斎藤家の菩提寺である常在寺第27世、日椿上人が現在の地に移して碑を建てたものです。
「道三無念の最後」という伝承は住民の間にも残っていたようです。特別な地としてこの塚には畏敬の念が払われ、周囲の開発が進む現在に至るまで守られ続けています。(説明看板より)
昭和30(1955)年12月22日、岐阜市の史跡に指定されています。
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崇福寺は臨済宗の寺院で、山号は神護山です。
かつては、弘済寺又は大寿山崇福寺と号し、開山は一山一寧(弘済)であったという説があります。
寺伝によれば文明元(1469年)年2月、美濃守土岐成頼とその家臣斉藤長弘(利安)が建立し、明応2(1493)年に開山したといわれていますが、諸説があります。その際神護山崇福弘済禅寺と号しました。開山は独秀乾才禅師で、後には織田家菩提所、有栖川宮家祈願所となりました。
二世は仁岫宗寿、三世は快川国師でいずれも知られた名僧です。
織田信長は永禄10(1567)年8月、美濃に入ると当寺を菩提所として定めました。天正10(1582)年、本能寺の変で信長、信忠父子が本能寺で討たれると側室の小倉氏(お鍋の方)が密かに信長公の首級をこの寺に葬ったとのことです。
本堂の血天井は、織田秀信が関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城に立てこもり、福島正則や池田輝政らに攻められて落城し廃城になった後、岐阜城天守の床板を譲り受け、この戦いで戦死した38名の武将を弔う為に本堂の天井板に使用したものだそうです。
寺内には、織田信長自筆の書状や、愛用の櫓時計、稲葉一鉄寄贈の梵鐘、織田信長、信忠廟所、清洲城の鯱など見どころが多い寺院です。
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崇福寺・稲葉一鉄寄贈の梵鐘 - 04 posted by
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崇福寺・織田信長、信忠廟所 - 08 posted by
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崇福寺・開基斉藤長弘(利安)一族の墓 - 10 posted by
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そして、岐阜城の麓岐阜公園です。
日中友好庭園は、岐阜公園北部にあり、平成元(1989)年に岐阜市と杭州市の友好都市提携10周年を記念して作られました。中国風の門や、杭州市の名所・西湖を模して作られた池などがあります。
昭和47(1972)年の日中国交正常化の10年前、昭和37(1962)年に当時の岐阜市長松尾吾策の揮毫の「日中不再戦」と王子達杭州市長揮毫の「中日両人民世世代代友好下去」の碑文が交換され、昭和38(1963)年に岐阜市はこの庭園内に、杭州市は柳浪聞鶯公園に碑が建立されました。
これが縁となり昭和54(1979)年2月両市間で友好都市締結されました。
桜の時期は非常に美しいです。
岐阜公園・日中友好庭園 - 1 posted by
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岐阜公園には色々なモニュメントなどがあります。
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岐阜城のある岐阜公園内に
山内一豊と千代婚礼の地のモニュメントがあります。
平成18(2006)年の大河ドラマ「功名が辻」にちなんで建てられました。
永禄10(1567)年、一豊は信長の家来として岐阜に移り、岐阜城に居を構え千代と結婚しました。
内助の功により、一豊を出世に導いた千代を顕彰しています。
この石碑に夫婦いっしょに手を添えてさわると、一豊・千代にあやかり、夫婦円満になれるといわれているそうです。
以下石碑などにきざまれている内容です。
「長良川と 一豊を愛した 伴侶の鑑 千代を讃える」
永禄10年(1569年)9月18日
織田信長が岐阜に本拠を移した時、下級武士である山内一豊も岐阜に移りました
岐阜城下に居を構えた一豊は、時をおかず千代を迎え、新婚生活を始めました
婚礼の日
「一国の主になる夢を二人で叶えましょう」
「生涯私だけを愛してください」
と誓いを交わし、その後一豊は長浜・掛川・土佐の国主へと出世していきました
「千代と長良川」
長良川上流に位置する郡上八幡では、千代は初代郡上八幡城主の娘といわれています
水のまち郡上で育った千代は、幼少時に父親を亡くし、母親と共に各地を流転しました
やがて一豊との縁が結ばれ、岐阜長良川の地に嫁いできました
ひと雫から渓流へ
滔々たる流れから大海へ
千代の足跡を辿れば、まさに長良川そのものといえます
千代の心奥深くで輝き続けた、美しく優しく時に厳しい長良川
一豊にそそいだ千代の愛
それは長良川から授かった、清流のひと雫だったのかもしれません
「千代の鏡と一豊の出世」
千代が一豊に嫁ぐ際「夫の大事に初めて之を使うように」と言い含められ鏡箱に金十枚を忍ばせ持参した。
貧しい暮らしながらも千代は決してその隠し金を使わなかった。
ある日 市に出された名馬に一豊は釘付けになる。
値は誰もが手が出ない金十枚
千代は一豊に隠し金を差し出し ついに一豊は名馬を手に入れる
信長家臣が競う馬揃えの晴れ舞台
信長から名馬とその心構えを讃えられ 一豊は出世を掴むことになる
岐阜公園・山内一豊と千代婚礼の地のモニュメント - 3 posted by
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岐阜城は、鎌倉幕府執事の二階堂行政により金華山に砦が築かれたのがはじまりです。
その後斎藤氏のものとなり、天文8(1539)年に下克上により斎藤道三の手に落ちました。
その後斎藤竜興の時代の永禄10(1567)年、信長に攻め落とされ、信長は尾張から本拠を移し、安土に移るまでここが居城としていました。
その後織田信忠、神戸信孝、池田元助、池田輝政、豊臣秀勝時代を経て慶長5(1600)年8月当時の城主、織田秀信が関ヶ原の合戦に西軍の石田三成に味方したため徳川軍、福島正則、池田輝政などに攻められて開城しました。翌慶長6(1601)年廃城となり天守閣、櫓等を取り壊し加納城に移されました。
明治43(1910)年に模擬天守閣ができましたが、昭和18(1943)年火災で焼失しました。現在の天守閣は昭和31(1956)年7月観光岐阜のシンボルとして岐阜市民の浄財によって鉄筋コンクリート造り、3層4階建で復興されました。
平成9(1997)年には一部改修されました。
夜景スポットとしても知られています。
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織田信長居館跡です。
永禄10(1567)年、織田信長は、稲葉山城主・斉藤龍興を追放し、「井口(いのくち)」から「岐阜」とその名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点としましたが、その際、金華山の西麓にあたる地に居館を造りました。
最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下といいました。宣教師フロイスが岐阜を訪れた時の報告にも、その豪壮さが伝えられました。戦国時代にはめずらしい巨石を使用した通路や石垣の他、土塁状の遺構、階段水路建築物の礎石の一部などが保存されています。
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板垣退助遭難の地です。
明治15(1882)年4月6日、自由党総裁板垣退助は、当時この地にあった中教院で演説した後、襲撃されました。
その際、「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を残しました。
岐阜公園・板垣退助遭難の地 - 1 posted by
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川原町です。
長良橋南詰の鵜飼観覧船のりばから西へ続く「湊町・玉井町・元浜町」の街並みは通称「川原町」といい格子戸のある古い街並みが今も残っています。
斎藤道三、織田信長の時代からこのあたりは中川原(明治時代には富茂登村)と呼ばれ、市場が開かれ、商業の拠点として繁栄していました。
道三は城下町を築くにあたり、ここから上にかけての場所に川湊を設け、長良川の上流域で豊富に産する美濃紙、木材、茶、関の刃物などをここを中継地点として全国に売りさばいていたと考えられています。
江戸時代は尾張藩の飛び地として長良川役所が置かれました。
現在でも、伝統工芸品「岐阜うちわ」を製造販売しているお店や、岐阜銘菓「鮎菓子」で知られる和菓子店などが、レトロな雰囲気を残したまま営業しています。
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次は美濃市へ向かいます。