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ピズモのブログ一覧

2011年04月16日 イイね!

犬山城と木曽川の夕景

今回のドライブの最後に、犬山城の夕景を撮影しに行きました。


木曽川の畔のこの風景、私のお気に入りです。
犬山城 - 01
犬山城 - 01 posted by (C)pismo

犬山城 - 02
犬山城 - 02 posted by (C)pismo

犬山城 - 03
犬山城 - 03 posted by (C)pismo

犬山城 - 04
犬山城 - 04 posted by (C)pismo

犬山城 - 05
犬山城 - 05 posted by (C)pismo

Posted at 2011/08/04 22:07:07 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年04月16日 イイね!

伝統的建造物群保存地区が残る美濃市〜関善光寺

伝統的建造物群保存地区で知られる美濃市を訪れました。


小倉山城は、慶長6(1601)年、金森長近の築城した城です。
関ヶ原の戦いの功により佐藤氏の旧領地を加封された長近は尾崎丸山の地に小倉山城を築いて隠居城としました。現在の小倉公園の上の広場が本丸、下の広場が二の丸、図書館のある所が三の丸であったと考えられています。
慶長13(1608)年、長近の死後、飛騨の領地は養子金森可重が継ぎ、上有知・関・河内国金田2万3,000石を金森長光が継ぎました。
しかし、長光は慶長16(1611)年に幼死したために断絶し城は破却され、領地は上知されましたが、後に尾張藩領となりました。その後天明2(1782)年、城跡に上有知代官所が置かれました。
小倉山の山頂には、天守閣風の三階建ての展望台が建てられています。
小倉山城 - 01
小倉山城 - 01 posted by (C)pismo

小倉山城 - 02
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小倉山城 - 03
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小倉山城 - 04
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小倉山城 - 05
小倉山城 - 05 posted by (C)pismo

美濃和紙あかりアート館は、昭和16(1941)年ごろに建てられた旧美濃町産業会館に平成17(2005)年にオープンした施設です。
旧美濃町産業会館は、同年に国の登録有形文化財に指定されています。
美濃では、年に一度、秋に美濃和紙を使ったあかりアート展を行っていて、 ここでは、過去のあかりアート作品などを展示しています。
美濃和紙あかりアート館 - 01
美濃和紙あかりアート館 - 01 posted by (C)pismo

美濃和紙あかりアート館 - 02
美濃和紙あかりアート館 - 02 posted by (C)pismo

美濃和紙あかりアート館 - 03
美濃和紙あかりアート館 - 03 posted by (C)pismo

旧今井家住宅・美濃史料館は、うだつの上がる町並みにある商家を史料館として開放しています。
今井家は代々兵四郎を襲名し、江戸時代末期から昭和16(1941)年頃まで庄屋も勤めた和紙問屋です。
家の東と西で様式が異なることから、江戸中期に建てられ、明治初期に増築されたと考えられています。間取りは市内最大規模で、奥の6室が他よりも一段高くなった上段造りとなっているのも大きな特徴です。
史料館では、美濃市の古い歴史・文化、建造物に関する資料を展示しています。
うだつについて学べる「うだつ蔵」、郷土芸能である美濃流し仁輪加を紹介する「にわか蔵」もあります。
旧今井家住宅・美濃史料館 - 01
旧今井家住宅・美濃史料館 - 01 posted by (C)pismo

旧今井家住宅・美濃史料館 - 02
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旧今井家住宅・美濃史料館 - 03
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旧今井家住宅・美濃史料館 - 04
旧今井家住宅・美濃史料館 - 04 posted by (C)pismo

旧今井家住宅・美濃史料館 - 05
旧今井家住宅・美濃史料館 - 05 posted by (C)pismo

旧今井家住宅・美濃史料館 - 06
旧今井家住宅・美濃史料館 - 06 posted by (C)pismo

小坂酒造場は、安永元(1772)年創業のつくり酒屋です。
代々つくり酒屋を営み、母屋から後ろに続く酒蔵まで総て江戸時代の貴重な建築です。
むくり屋根の町家は珍しく、上方の影響を受けた建物で国指定重要文化財となっています。
現在も「百春」の蔵元として知られています。
小坂酒造場(小坂家住宅) - 1
小坂酒造場(小坂家住宅) - 1 posted by (C)pismo

小坂酒造場(小坂家住宅) - 2
小坂酒造場(小坂家住宅) - 2 posted by (C)pismo

小坂酒造場(小坂家住宅) - 3
小坂酒造場(小坂家住宅) - 3 posted by (C)pismo

これらの建造物がある美濃市美濃町重要伝統的建造物群保存地区を少し散歩しました。
美濃町はかつては上有知(こうずち)というまちでした。
慶長5(1600)年関ヶ原合戦の功により徳川家康からこの地を拝領した金森長近は、長良川畔に小倉山城を築城し、慶長11(1606)年頃に現在の町割りが完成しました。
長近は、長良川に「上有知湊(こうずちみなと)」を開き、経済の発展を目指しました。
没後の元和元(1615)年に尾張藩領となりましたが、「上有知湊」は船運による物資集散の拠点として、また美濃和紙の生産地として繁栄し、その富の象徴でもあった卯建(うだつ)が町並みを特徴づけています。
明治44(1911)年、それまでの地名「上有知(こうずち)町」は、美濃紙にちなんで「美濃町」と改名し現在に至っています。
東西方向の二筋の街路と、南北方向の四筋の横町からなる目の字型の町並みが特徴です。
江戸時代に築かれたこの町は、地域性豊かな意匠や造形をもった伝統的な建造物が密度濃く残り、特色ある歴史景観が保たれていることから、平成11(1999)年5月31日、保存地区に選定されました。
電柱が地中化されていて、景観保護にも力を入れています。
美濃市美濃町重要伝統的建造物群保存地区 - 01
美濃市美濃町重要伝統的建造物群保存地区 - 01 posted by (C)pismo

美濃市美濃町重要伝統的建造物群保存地区 - 02
美濃市美濃町重要伝統的建造物群保存地区 - 02 posted by (C)pismo

美濃市美濃町重要伝統的建造物群保存地区 - 03
美濃市美濃町重要伝統的建造物群保存地区 - 03 posted by (C)pismo

美濃市美濃町重要伝統的建造物群保存地区 - 04
美濃市美濃町重要伝統的建造物群保存地区 - 04 posted by (C)pismo

美濃市美濃町重要伝統的建造物群保存地区 - 05
美濃市美濃町重要伝統的建造物群保存地区 - 05 posted by (C)pismo

旧名鉄美濃駅です。
名古屋鉄道美濃町線の前身は、地元有志の方々により誕生した美濃電気軌道株式会社が美濃並びに関と岐阜間の交流を図るため、明治44(1911)年2月に神田町駅から上有知(こうずち)駅間を開業しました。
開通当初は終点である上有知電車停留所は臨時につくられ、明治44(1912)年4月1日現駅舎から300m北側に初代駅舎が建設されました。また、上有知町から美濃町へと町名が改称されたため、駅名も美濃町電車停留所と改称しました。
大正12(1923)年10月1日国鉄越美南線美濃町駅が開通し、また広岡町通りが開通するのに伴い、美濃電美濃町駅舎は現在の地点に移転して新たな駅舎が建設され、駅名も新美濃町駅と改称されました。
しかし、平成11(1999)年4月1日に美濃町線の新関から美濃町駅は廃止となり、平成17(2005)年には全線が廃止となりました。
現在旧駅舎は記念館(のりものや美濃駅)となり、鉄道関連グッズや書籍が販売されています。保存されている駅舎・プラットホーム・線路はほぼ当時のままであり、大正期の近代建築の様相をそのまま残しています。
美濃駅 - 01
美濃駅 - 01 posted by (C)pismo

美濃駅 - 02
美濃駅 - 02 posted by (C)pismo

美濃駅 - 03
美濃駅 - 03 posted by (C)pismo

上有知湊跡・住吉灯台です。
慶長6(1601)年、金森長近が領主となり小倉山城を築き、城下町上有知(こうづち)を造りました。
その繁栄策として、上有知川湊を開き、番船四十艘をおき、物資交流の要地としました。
その後、江戸時代には美濃国四代川湊の一つとして明治末年電車が開通するまで水運の要点でした。この住吉灯台は水の守護神、住吉神社の献灯を兼ねて江戸時代に建てられ、夜毎川面を照らしていました。
川湊の灯台として現存する全国的にも珍しい建造物です。
上有知湊跡は岐阜県指定史跡に指定されています。
上有知湊跡 - 1
上有知湊跡 - 1 posted by (C)pismo

上有知湊跡 - 2
上有知湊跡 - 2 posted by (C)pismo

美濃橋は大正5(1916)年に架けられた吊り橋です。長良川にかかり、橋長113メートル、支間116メートル、幅員3.1メートルの大きさで完成当時は国内最大級を誇りました。
現存する近代吊り橋としては国内最古であり、国の重要文化財に指定されています。
美濃橋 - 1
美濃橋 - 1 posted by (C)pismo

次は関市です。

関善光寺は、正式には妙祐山宗休寺(そうきゅうじ)という天台宗の寺院です。
宝暦3(1753)年、新屋広瀬家の新太郎が祖父母供養のために開創した。
寛政10(1798)年、長野善光寺の出開帳が宗休寺本堂(現在の大仏殿)で行われ、大いに賑わい、一光三尊善光寺如来を善光寺から授かりました。これが縁となり、文政10(1827)年に善光寺本堂を模した本堂が建立されました。
それ以降、関善光寺と呼ばれるようになりました。
春は桜、秋は紅葉の名所としても知られています。
関善光寺 - 01
関善光寺 - 01 posted by (C)pismo

関善光寺 - 02
関善光寺 - 02 posted by (C)pismo

関善光寺 - 03
関善光寺 - 03 posted by (C)pismo

関善光寺 - 04
関善光寺 - 04 posted by (C)pismo
Posted at 2011/08/04 22:00:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年04月16日 イイね!

岐阜城とその周辺史跡

次は岐阜市内を訪れました。
道三塚です。
弘治2(1556)年4月18日、斎藤道三はその嫡子斎藤義龍と戦うことになりました。
一般に知られている話では、道三の実子ではないことを知った義龍が、道三の実子二人を惨殺し、道三を引退に追い込んだ上、戦いを仕掛けてきたことになっています。
たしかに、この合戦の二年前、道三は家督を義龍(当寺は利尚)に譲り渡しています。しかしながら、この突然の引退は、おそらく家臣団の手で半ば強制的に行われたものと思われます。家臣の支持を失い隠居を余儀なくされた道三は、最終的に義龍との武力対決に至ります。
長良川を隔てて衝突したとされる両軍(長良川の戦い)でしたが、もとより数の上で劣勢であった道三方は敗れて大半の将兵が戦死しました。
道三自身も4月20日城田寺に退れようとするところを長井中左衛門、小牧(小真木)源太、林主水などの追跡を受け、くみつかれて臑をなで斬りにされた上に鼻を削がれたと「信長公記」などの話の仲では伝えられています。63歳でした。
その遺体は崇福寺の西南(現メモリアルセンター内)に埋葬されましたが、塚は長良川の洪水の度に流されました。
その後、天保8(1837)年、斎藤家の菩提寺である常在寺第27世、日椿上人が現在の地に移して碑を建てたものです。
「道三無念の最後」という伝承は住民の間にも残っていたようです。特別な地としてこの塚には畏敬の念が払われ、周囲の開発が進む現在に至るまで守られ続けています。(説明看板より)
昭和30(1955)年12月22日、岐阜市の史跡に指定されています。
道三塚 - 1
道三塚 - 1 posted by (C)pismo

道三塚 - 2
道三塚 - 2 posted by (C)pismo

崇福寺は臨済宗の寺院で、山号は神護山です。
かつては、弘済寺又は大寿山崇福寺と号し、開山は一山一寧(弘済)であったという説があります。
寺伝によれば文明元(1469年)年2月、美濃守土岐成頼とその家臣斉藤長弘(利安)が建立し、明応2(1493)年に開山したといわれていますが、諸説があります。その際神護山崇福弘済禅寺と号しました。開山は独秀乾才禅師で、後には織田家菩提所、有栖川宮家祈願所となりました。
二世は仁岫宗寿、三世は快川国師でいずれも知られた名僧です。
織田信長は永禄10(1567)年8月、美濃に入ると当寺を菩提所として定めました。天正10(1582)年、本能寺の変で信長、信忠父子が本能寺で討たれると側室の小倉氏(お鍋の方)が密かに信長公の首級をこの寺に葬ったとのことです。
本堂の血天井は、織田秀信が関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城に立てこもり、福島正則や池田輝政らに攻められて落城し廃城になった後、岐阜城天守の床板を譲り受け、この戦いで戦死した38名の武将を弔う為に本堂の天井板に使用したものだそうです。
寺内には、織田信長自筆の書状や、愛用の櫓時計、稲葉一鉄寄贈の梵鐘、織田信長、信忠廟所、清洲城の鯱など見どころが多い寺院です。
崇福寺 - 01
崇福寺 - 01 posted by (C)pismo

崇福寺 - 02
崇福寺 - 02 posted by (C)pismo

崇福寺 - 03
崇福寺 - 03 posted by (C)pismo

崇福寺・稲葉一鉄寄贈の梵鐘 - 04
崇福寺・稲葉一鉄寄贈の梵鐘 - 04 posted by (C)pismo

崇福寺 - 05
崇福寺 - 05 posted by (C)pismo

崇福寺 - 06
崇福寺 - 06 posted by (C)pismo

崇福寺 - 07
崇福寺 - 07 posted by (C)pismo

崇福寺・織田信長、信忠廟所 - 08
崇福寺・織田信長、信忠廟所 - 08 posted by (C)pismo

崇福寺・織田信長、信忠廟所 - 09
崇福寺・織田信長、信忠廟所 - 09 posted by (C)pismo

崇福寺・開基斉藤長弘(利安)一族の墓 - 10
崇福寺・開基斉藤長弘(利安)一族の墓 - 10 posted by (C)pismo

崇福寺 - 11
崇福寺 - 11 posted by (C)pismo

崇福寺 - 12
崇福寺 - 12 posted by (C)pismo

そして、岐阜城の麓岐阜公園です。

日中友好庭園は、岐阜公園北部にあり、平成元(1989)年に岐阜市と杭州市の友好都市提携10周年を記念して作られました。中国風の門や、杭州市の名所・西湖を模して作られた池などがあります。
昭和47(1972)年の日中国交正常化の10年前、昭和37(1962)年に当時の岐阜市長松尾吾策の揮毫の「日中不再戦」と王子達杭州市長揮毫の「中日両人民世世代代友好下去」の碑文が交換され、昭和38(1963)年に岐阜市はこの庭園内に、杭州市は柳浪聞鶯公園に碑が建立されました。
これが縁となり昭和54(1979)年2月両市間で友好都市締結されました。
桜の時期は非常に美しいです。
岐阜公園・日中友好庭園 - 1
岐阜公園・日中友好庭園 - 1 posted by (C)pismo

岐阜公園には色々なモニュメントなどがあります。
岐阜公園 - 2
岐阜公園 - 2 posted by (C)pismo

岐阜城のある岐阜公園内に山内一豊と千代婚礼の地のモニュメントがあります。
平成18(2006)年の大河ドラマ「功名が辻」にちなんで建てられました。
永禄10(1567)年、一豊は信長の家来として岐阜に移り、岐阜城に居を構え千代と結婚しました。
内助の功により、一豊を出世に導いた千代を顕彰しています。
この石碑に夫婦いっしょに手を添えてさわると、一豊・千代にあやかり、夫婦円満になれるといわれているそうです。
以下石碑などにきざまれている内容です。
「長良川と 一豊を愛した 伴侶の鑑 千代を讃える」
永禄10年(1569年)9月18日
織田信長が岐阜に本拠を移した時、下級武士である山内一豊も岐阜に移りました
岐阜城下に居を構えた一豊は、時をおかず千代を迎え、新婚生活を始めました
婚礼の日
「一国の主になる夢を二人で叶えましょう」
「生涯私だけを愛してください」
と誓いを交わし、その後一豊は長浜・掛川・土佐の国主へと出世していきました

「千代と長良川」
長良川上流に位置する郡上八幡では、千代は初代郡上八幡城主の娘といわれています
水のまち郡上で育った千代は、幼少時に父親を亡くし、母親と共に各地を流転しました
やがて一豊との縁が結ばれ、岐阜長良川の地に嫁いできました
ひと雫から渓流へ
滔々たる流れから大海へ
千代の足跡を辿れば、まさに長良川そのものといえます
千代の心奥深くで輝き続けた、美しく優しく時に厳しい長良川
一豊にそそいだ千代の愛
それは長良川から授かった、清流のひと雫だったのかもしれません

「千代の鏡と一豊の出世」
千代が一豊に嫁ぐ際「夫の大事に初めて之を使うように」と言い含められ鏡箱に金十枚を忍ばせ持参した。
貧しい暮らしながらも千代は決してその隠し金を使わなかった。
ある日 市に出された名馬に一豊は釘付けになる。
値は誰もが手が出ない金十枚
千代は一豊に隠し金を差し出し ついに一豊は名馬を手に入れる
信長家臣が競う馬揃えの晴れ舞台
信長から名馬とその心構えを讃えられ 一豊は出世を掴むことになる
岐阜公園・山内一豊と千代婚礼の地のモニュメント - 3
岐阜公園・山内一豊と千代婚礼の地のモニュメント - 3 posted by (C)pismo

岐阜城は、鎌倉幕府執事の二階堂行政により金華山に砦が築かれたのがはじまりです。
その後斎藤氏のものとなり、天文8(1539)年に下克上により斎藤道三の手に落ちました。
その後斎藤竜興の時代の永禄10(1567)年、信長に攻め落とされ、信長は尾張から本拠を移し、安土に移るまでここが居城としていました。
その後織田信忠、神戸信孝、池田元助、池田輝政、豊臣秀勝時代を経て慶長5(1600)年8月当時の城主、織田秀信が関ヶ原の合戦に西軍の石田三成に味方したため徳川軍、福島正則、池田輝政などに攻められて開城しました。翌慶長6(1601)年廃城となり天守閣、櫓等を取り壊し加納城に移されました。
明治43(1910)年に模擬天守閣ができましたが、昭和18(1943)年火災で焼失しました。現在の天守閣は昭和31(1956)年7月観光岐阜のシンボルとして岐阜市民の浄財によって鉄筋コンクリート造り、3層4階建で復興されました。
平成9(1997)年には一部改修されました。
夜景スポットとしても知られています。
岐阜城 - 01
岐阜城 - 01 posted by (C)pismo

岐阜城 - 02
岐阜城 - 02 posted by (C)pismo

岐阜城 - 03
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岐阜城 - 04
岐阜城 - 04 posted by (C)pismo

岐阜城 - 05
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岐阜城 - 06
岐阜城 - 06 posted by (C)pismo

岐阜城 - 07
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岐阜城 - 08
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岐阜城 - 09
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岐阜城 - 10
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織田信長居館跡です。

永禄10(1567)年、織田信長は、稲葉山城主・斉藤龍興を追放し、「井口(いのくち)」から「岐阜」とその名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点としましたが、その際、金華山の西麓にあたる地に居館を造りました。
最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下といいました。宣教師フロイスが岐阜を訪れた時の報告にも、その豪壮さが伝えられました。戦国時代にはめずらしい巨石を使用した通路や石垣の他、土塁状の遺構、階段水路建築物の礎石の一部などが保存されています。
織田信長居館 - 01
織田信長居館 - 01 posted by (C)pismo

織田信長居館 - 02
織田信長居館 - 02 posted by (C)pismo

織田信長居館 - 03
織田信長居館 - 03 posted by (C)pismo

織田信長居館 - 04
織田信長居館 - 04 posted by (C)pismo

織田信長居館 - 05
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板垣退助遭難の地です。
明治15(1882)年4月6日、自由党総裁板垣退助は、当時この地にあった中教院で演説した後、襲撃されました。
その際、「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を残しました。
岐阜公園・板垣退助遭難の地 - 1
岐阜公園・板垣退助遭難の地 - 1 posted by (C)pismo

川原町です。
長良橋南詰の鵜飼観覧船のりばから西へ続く「湊町・玉井町・元浜町」の街並みは通称「川原町」といい格子戸のある古い街並みが今も残っています。
斎藤道三、織田信長の時代からこのあたりは中川原(明治時代には富茂登村)と呼ばれ、市場が開かれ、商業の拠点として繁栄していました。
道三は城下町を築くにあたり、ここから上にかけての場所に川湊を設け、長良川の上流域で豊富に産する美濃紙、木材、茶、関の刃物などをここを中継地点として全国に売りさばいていたと考えられています。
江戸時代は尾張藩の飛び地として長良川役所が置かれました。
現在でも、伝統工芸品「岐阜うちわ」を製造販売しているお店や、岐阜銘菓「鮎菓子」で知られる和菓子店などが、レトロな雰囲気を残したまま営業しています。
川原町 - 01
川原町 - 01 posted by (C)pismo

川原町 - 02
川原町 - 02 posted by (C)pismo

川原町 - 03
川原町 - 03 posted by (C)pismo

川原町 - 04
川原町 - 04 posted by (C)pismo

川原町 - 05
川原町 - 05 posted by (C)pismo

川原町 - 06
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川原町 - 07
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次は美濃市へ向かいます。
Posted at 2011/08/03 23:59:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年04月16日 イイね!

谷汲山華蔵寺・旧谷汲駅・山口城主居館

淡墨桜を見た後は、谷汲山華蔵寺を訪れました。

華厳寺は、山号が谷汲山、天台宗の寺院です。
延暦17(798)年、奥州会津の出身の大口大領により創建されました。都の仏師につくらせた十一面観音像とともに会津に帰る途中、赤坂で観音像が動かなくなり、この地で修行していた豊然上人の協力を得て創建したそうです。
醍醐天皇は谷から湧き出る油を灯明に用いた事にちなんで「谷汲山」の山号、そして「華厳寺」の扁額を下賜せられました。
天慶7(944)年、朱雀天皇より鎮護国家の道場として勅願寺に定められ、仏具・福田として一万五千石を拝領されました。
また花山法皇は西国三十三箇所の霊場を徒歩で巡幸され、第三十三番札所の満願所と定められました。
それから後は建武元(1334)年足利氏と新田氏の戦乱が起こり、新田氏一族堀口美濃守貞満の乱を始めとする戦乱で幾度と諸堂伽藍を焼失しましたが、御本尊だけは辛うじて後方の山中に移し難を逃れました。
その後も兵火に遭いましたが、文明11(1479)年、薩摩国鹿児島の慈眼寺住職道破拾穀上人により再建されました。
春には桜、秋には紅葉の名所としても知られています。
谷汲山華厳寺 - 01
谷汲山華厳寺 - 01 posted by (C)pismo

谷汲山華厳寺 - 02
谷汲山華厳寺 - 02 posted by (C)pismo

谷汲山華厳寺 - 03
谷汲山華厳寺 - 03 posted by (C)pismo

谷汲山華厳寺 - 04
谷汲山華厳寺 - 04 posted by (C)pismo

谷汲山華厳寺 - 05
谷汲山華厳寺 - 05 posted by (C)pismo

谷汲山華厳寺 - 06
谷汲山華厳寺 - 06 posted by (C)pismo

谷汲山華厳寺 - 07
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谷汲山華厳寺 - 08
谷汲山華厳寺 - 08 posted by (C)pismo

旧谷汲駅は、かつては名古屋鉄道谷汲線の駅でした。
大正15(1926)年、開通と共に開設されましたが、昭和60(1985)年無人駅となり、平成8(1996)年「谷汲村昆虫館」(現、谷汲昆虫館)を併設して新駅舎が竣工しました。しかし、平成13(2001)年廃線となり、廃駅となりました。
昆虫館は現在も開設されており、駅舎も往事のまま保存されています。谷汲線の資料なども展示されています。
モ750形755号車、モ510形514号車が静態保存されています。
谷汲駅 - 01
谷汲駅 - 01 posted by (C)pismo

谷汲駅 - 02
谷汲駅 - 02 posted by (C)pismo

谷汲駅 - 03
谷汲駅 - 03 posted by (C)pismo

谷汲駅 - 04
谷汲駅 - 04 posted by (C)pismo

谷汲駅 - 05
谷汲駅 - 05 posted by (C)pismo

山口城主居館は、山口城主だった古田氏の居館だったといわれています。
道の駅織部の里・もとすや樽見鉄道樽見線の織部駅西側の竹藪が居館跡です。
山口城主居館 - 1
山口城主居館 - 1 posted by (C)pismo

山口城主居館 - 2
山口城主居館 - 2 posted by (C)pismo

次は岐阜市内を訪れます。
Posted at 2011/08/02 20:32:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年04月16日 イイね!

根尾の淡墨桜

この日は、岐阜県にある有名な桜、淡墨桜を見に行きました。
淡墨桜は、樹齢1500年以上の古木で、日本五大桜(石戸蒲ザクラ(埼玉県北本市)、三春の滝桜(福島県田村郡三春町)、山高神代桜(山梨県北杜市)、狩宿の下馬ザクラ(静岡県富士宮市)、
根尾谷の淡墨桜(岐阜県本巣市))、三大巨桜(三春滝桜、神代桜、淡墨桜)の一つです。
昭和23(1948)年、3年以内に枯死すると判断されましたが、岐阜県の医師、前田利行により山桜の根を接木され、再生しました。
しかし、昭和34(1959)年9月の伊勢湾台風により、枝が折れるなど無残な姿になりました。
作家の宇野千代は、昭和42(1967)年にこの地を訪れましたが、心打たれ、岐阜県知事平野三郎に書簡を送り、対応を求めました。
その後、国や岐阜県は様々な保護策を講じ、現在に至っています。
淡墨桜 - 01
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淡墨桜 - 02
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淡墨桜 - 03
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淡墨桜 - 04
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淡墨桜 - 05
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淡墨桜 - 06
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淡墨桜 - 07
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淡墨桜 - 08
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淡墨桜 - 09
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淡墨桜 - 10
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淡墨桜 - 11
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淡墨桜 - 12
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Posted at 2011/08/01 22:37:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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