犀ヶ崖資料館の隣に建立されている
本多肥後守忠真(ただまさ)顕彰碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵により明治24(1891)年に建立されました。本多忠真は徳川草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父にあたる武将です。本多忠真は三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍にあって、撤退に際し殿を買って出ました、道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろには一歩も引かぬ」と言って、武田勢の中に刀一本で斬り込み、39歳をもってこの地で討ち死にしたと伝えられています。
忠真の子、菊丸は父の命により家康を援護し浜松城に無事退却しました。父の最期を前にし友が次々と死んでいくのを見た彼は無常を感じ、父の遺骸を三河に葬ったあと出家の道を歩むことになりました。
この碑には本多家が代々松平家、徳川家に仕えたこと、本多忠真が数々の戦いで功績を残したことが記されています。また碑の題字「表忠彰義之碑」は徳川家16代家達公によって書かれています。
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犀ヶ崖と呼ばれる範囲ははっきりしませんが、この付近から下流約450メートルの間に、急な崖が連続しています。この付近では、幅約30メートル、両岸とも深さ10数メートルの絶壁です。
元亀3(1572)年12月22日、徳川家康は三方ヶ原において武田信玄に一戦を挑んで敗け、浜松城に逃げ帰りました。
しかし、その夜犀ヶ崖付近で徳川方が地理に暗い武田方を急襲して、この崖に追い落としたと伝えられています。
犀ヶ崖資料館の隣に石碑がありました。下は谷になっていて、徳川方が武田方に被害を与えた崖らしく、結構深かったです。
崖上の宗円堂には、この戦いによる両軍の死者の霊が祀られており、その霊を慰めるため、毎年遠州大念佛が行われるそうです。
静岡県指定の史跡になっています。
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夏目次郎左衛門吉信の碑です。
夏目次郎左衛門吉信は、徳川家康の家臣です。三河一向一揆の時に、徳川家康と敵対しましたが、許されて再び仕えました。
元亀3年(1572年)に徳川家康と武田信玄が浜松城北方の三方ヶ原で戦った時、夏目吉信は浜松城を守っていましたが、徳川勢の敗勢を見て手勢と共に城を出、退却しようとしない家康の馬の尻を叩き城へ退却させ、自らは討死しました。
高さ4mの「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」が犀ヶ崖の北側に建っていました。
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犀ヶ崖資料館は、三方ヶ原の戦いによる死者の霊をまつった宗円堂というお堂でした。宗円堂はかつては清雲寺といい、宗源院の末寺でした。
犀ヶ崖の際にあって大念仏を行っていたことから 念仏堂とも呼ばれていました。
宗円とは 遠州大念仏を伝えたと言われる浄土宗の僧の名で、その名から宗円堂と呼ばれるようになりました。
また、昭和5(1930)年に結成された「遠州大念仏団」の本部としても、永く利用されてきました。
昭和47(1972)年3月に浜松市は遠州大念仏を無形民俗文化財に指定し、昭和57(1982)年には、この建物を資料館として改修し、昭和58(1983)年4月から遠州大念仏及び三方ヶ原の戦いに関する資料を展示しています。
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小豆餅は、三方ヶ原の戦いの時に、徳川家康が敗走の途中に道端で老婆が小豆餅を売っていたのでこれを口にしましたが、武田軍の急迫接近の報に慌てて代金を払わず走り去り、老婆は後を追い銭を取って帰ったと言われています。
この地を小豆餅といい、大正時代には軽便鉄道が開通し、あずきもちの駅名がありました。代金を払わせたところは「銭取」といい浜松市中区和合町付近の地名だったそうです。
しかし、上記の逸話は後世の創作で、実際は三方ヶ原の戦いでの死者を弔うためこの地に餅を備える習慣が続いたことが地名の由来だそうです。
小豆餅公民館、小豆餅神社付近に説明板がありました。
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三方原墓園の駐車場北東隅に
三方ヶ原古戦場の石碑が建っています。元亀3(1572)年12月22日、徳川家康は武田信玄の上洛を阻止せんと、武田軍およそ二万五千の兵力に対し徳川軍はおよそ一万一千の兵力を以って戦いを挑み、戦闘約二時間といわれるも、結果は大敗に終わりました。これが三方ヶ原合戦です。
戦いが展開されたのはこの三方原台地であるがその場所は定かではありません。
(石碑の文章などより)
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三方ヶ原の合戦の際、武田信玄の本陣が置かれたといわれるのがこの
根洗松付近だったそうです。
祝田の坂を下ると見せかけて徳川軍をおびき出すことに成功し、一転陣形を立て直して徳川軍と対峙したといわれています。
根洗松は、三方ヶ原の北はずれにあり雨が降るたびに根が洗われ、根洗松と呼ばれるようになりました。
現在の松は二代目だそうです。向かい側には「祝田坂への旧道」の石碑と説明看板も建っています。
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三方ヶ原の戦いでは武田軍三万に対し、徳川軍は援軍を含めても一万一千、三分の一の兵力で、しかも老練な戦術家の信玄に立ち向かうことは極めて不利な戦いでした。
徳川軍は武田軍が
祝田坂(ほうだのさか)を下るところを一気に攻めると勝機があると見ましたが、武田軍は祝田坂を降りると見せかけ徳川軍を坂の手前で待ち構えていました。
国道257郷の西側に旧道が残っています。
根洗松から祝田坂への旧道が残っていて、途中で舗装路はなくなりますが、鉄塔が見えますのでそちらに進んでいくと祝田坂の旧道です。
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Posted at 2011/08/07 22:59:40 | |
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