• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ピズモのブログ一覧

2011年05月06日 イイね!

南信濃〜遠江、信玄上洛への夢紀行(2日目その6・磐田市、袋井市の武田軍と徳川軍が激突した古戦場跡)

一言坂戦跡です。
元亀3(1572)年武田信玄と遠江国の領主であった徳川家康との間に戦いが起こりました。
袋井市の三箇野川の戦いで敗れた徳川軍は、浜松城を目指して敗走しましたが、一言坂で追いつかれ、再び合戦となりました。これが「一言坂の戦い」です。
この時に敗走する徳川軍を救ったのが、家康重臣の本多平八郎忠勝でした。平八郎は「とんぼ切り」といわれた大槍を振り回しながら一人奮戦し、枯草に火をかけ、その煙の中、見事に見方の軍を退却させたと伝えられています。
敵の武田軍も、この時の武勇をたたえ、「家康に過ぎたるものがふたつある、唐の頭(兜)に本多平八」と書いた札を磐田市国府台に立てたといわれています。
(説明看板より)
国道一号の少し北側に説明板が、説明板が立っている道路と国道1号の交差点に碑と説明板が建っています。
一言坂古戦場 - 1
一言坂古戦場 - 1 posted by (C)pismo

一言坂古戦場 - 2
一言坂古戦場 - 2 posted by (C)pismo

一言坂古戦場 - 3
一言坂古戦場 - 3 posted by (C)pismo

挑燈野(ちょうちんの)は、戦国時代、武田軍に敗れ退却していた徳川軍が、当時、万能村といったこの辺りで武田軍に追いつかれそうになりました。
そこで、周囲の地形に詳しかった徳川家康が、夜になったことを利用し、提灯の明かりで武田軍を「ゆるぎ」と呼ばれる深田におびきよせました。
ぬかるみに足を取られて動けなくなった武田軍は次々と討たれ、徳川軍は無事浜松へ帰ることができた、といわれています。
この地が「挑燈野」と呼ばれるようになったのは、この出来事からで、その後多く飛ぶようになったホタルは、命を落とした武田軍の兵士の魂であると伝えられています。
(説明看板より)
パチンコ屋の駐車場に石碑が建っています。
挑燈野 - 1
挑燈野 - 1 posted by (C)pismo


許禰神社〔木原権現社〕です。
遠江では平治元(1159)年以降、しばしば熊野新宮を造営する費用をまかなうための国に指定されたので、多数の熊野神社が建てられました。
袋井市域でも、土橋で熊野権現社、松袋井で熊野十二社神社が現在でも祭られていることから、古代末期より和歌山県の熊野山とはたいへん深い関係にあったことが分かっています。
木原の許禰神社(こねじんじゃ)は、かつては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられています。許禰神社は古代の神社名帳(式内社)のなかに見られる神社で、一説には古代の許禰神社が木原権現社になったともいわれています。
「木原権現由来記」という全長17mもある巻物が残されています。由来記には、ある日木原の子供に熊野の神がのり移り、この地に熊野の神を祭れば、洪水を防ぎ、穀物の実りを豊かにするお告げがありました。天災に苦しんでいた村人は早速に熊野の神を祭った。これが木原権現社の由来だと記されています。当時の民衆が神様に対して切なる願いを記録した貴重な資料となっています。
(説明看板より)

木原畷古戦場は、許禰神社(木原権現社)に説明看板が建っています。
元亀3(1572)年、兵3万5千を率いて甲府を出発した武田信玄は犬居城、飯田城を落として久野城へ向った。しかし久野宗能の激しい抵抗にあったため東海道を西に向い、ここ木原・西島に陣をはり、浜松城を守る徳川家康の偵察隊と衝突しました。この戦いが世にいう木原畷の戦いです。
その後、信玄は二俣城を攻略した後、三方ヶ原で徳川家康を一蹴しました。
6年たった天正6(1578)年8月、高天神城から徳川軍の様子を探りにきた武田の家臣笹田源吾はこの地で村人達に討ちとられてしまいました。木原大念仏(市指定無形民俗文化財)は笹田源吾を供養するため始まったと伝えられています。
(説明看板より)
また、境内にある徳川家康公腰掛石は、関ヶ原の戦の勝利祈願のため当社を訪れた折、腰かけた石と言われています。

木原畷古戦場 - 01
木原畷古戦場 - 01 posted by (C)pismo

木原畷古戦場 - 02
木原畷古戦場 - 02 posted by (C)pismo

木原畷古戦場 - 03
木原畷古戦場 - 03 posted by (C)pismo

木原畷古戦場 - 04
木原畷古戦場 - 04 posted by (C)pismo

木原畷古戦場 - 05
木原畷古戦場 - 05 posted by (C)pismo

これで今回の史跡めぐりは終了です。
Posted at 2011/08/09 20:59:22 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年05月06日 イイね!

南信濃〜遠江、信玄上洛への夢紀行(2日目その5・鳥羽山城〜小國神社〜真田城)

鳥羽山城は、天正3(1575)年、徳川家康が武田軍が守る二俣城を攻略するとき、鳥羽山に本陣を敷き天竜川の和田島、 二俣川の向こう毘沙門堂に砦を置いて二俣城を包囲したことは世に知られています。
徳川氏に渡ったあとも、この鳥羽山城は二俣城の出丸として利用され、 二俣城主大久保忠世により整備拡張されましたが、大久保忠世が関東に移封された天正18(1590)年、鳥羽山城は廃城になりました。
主郭の四囲山腹、山麓には各種の遺構がある。土塁、石垣、門、井戸、建築跡、庭方のほか昭和50(1975)年の発掘調査により、侍屋敷、 家老屋敷などが発見されています。戦国時代の城館で庭園や泉水を伴うものは全国でも希で、 特に家老屋敷や蔵屋敷に依存する岸壁利用の拓山水の鳥羽山城庭園は文化史上貴重な遺跡です。
(説明看板などより)
鳥羽山城は現在鳥羽山公園となっており、主郭部近くまで車で登ることができます。
石垣なども良く残っています。
鳥羽山城 - 01
鳥羽山城 - 01 posted by (C)pismo

鳥羽山城 - 02
鳥羽山城 - 02 posted by (C)pismo

鳥羽山城 - 03
鳥羽山城 - 03 posted by (C)pismo

鳥羽山城 - 04
鳥羽山城 - 04 posted by (C)pismo

鳥羽山城 - 05
鳥羽山城 - 05 posted by (C)pismo

鳥羽山城 - 06
鳥羽山城 - 06 posted by (C)pismo

鳥羽山城 - 07
鳥羽山城 - 07 posted by (C)pismo

鳥羽山城 - 08
鳥羽山城 - 08 posted by (C)pismo

鳥羽山城 - 09
鳥羽山城 - 09 posted by (C)pismo

小國神社は、大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る遠江国一宮の神社です。
創建時期は不明ですが、社伝によれば、欽明天皇16年(555年)2月18日、現在地より6kmほど離れた本宮山に神霊が示現したので、勅命によりそこに社殿が造営されたのに始まるそうです。
元亀3(1572)年徳川氏の目代武藤刑部氏定が武田信玄に味方し甲斐の軍勢を招き当社に叛いた時、神主小国豊前重勝は霊夢に感じ、子息千松麻呂を人質として徳川氏に訴えました。家康公は神主に命じて御霊前を別所に遷し、願文と三条小鍛冶宗近作の太刀を奉り、戦勝を祈願した後に、社頭に火を放ち全部の社殿を焼失しました。
その後、徳川方が勝を得て天正3(1575)年家康公は本多重次に命じて先ず本堂を造営、遷宮させその後逐次各殿を造営しています。江戸時代に入ってからも歴代の将軍が社殿の造営や営繕、社領の寄進を行っています。
また、境内には家康公立あがり石があります。三方ヶ原合戦の前年元亀3(1572)年9月願文と三条小鍛冶宗近作の太刀を当社に奉りて戦勝を祈願し次いで天正2(1574)年4月、犬居城攻略の際に参拝しこの石に腰掛けて休息されたと伝えられています。
以来このことを苦境を乗り越えた「立あがり石」と言われ、石にあやかりたいとして人生の再起を念じて石に腰掛けて帰る人が少なくありません。
(説明看板などより)
小国神社 - 01
小国神社 - 01 posted by (C)pismo

小国神社 - 02
小国神社 - 02 posted by (C)pismo

小国神社 - 03
小国神社 - 03 posted by (C)pismo

小国神社 - 04
小国神社 - 04 posted by (C)pismo

小国神社 - 05
小国神社 - 05 posted by (C)pismo

小国神社 - 06
小国神社 - 06 posted by (C)pismo

小国神社 - 07
小国神社 - 07 posted by (C)pismo

小国神社 - 08
小国神社 - 08 posted by (C)pismo

小国神社 - 09
小国神社 - 09 posted by (C)pismo

小国神社 - 10
小国神社 - 10 posted by (C)pismo

小国神社 - 11
小国神社 - 11 posted by (C)pismo

小国神社 - 12
小国神社 - 12 posted by (C)pismo


真田城の築城の年代は不明です。
鎌倉時代より武藤氏がこの附近に住んでいて、同氏の居城であったといわれています。
戦国時代の元亀・天正年間、武藤刑部丞氏定は武田信玄に属して小国神社にたてこもったので徳川家康に攻略されました。
その後再び武田氏に属して高天神城に行き家康に亡ぼされました。武藤氏の子孫は城東郡亀甲村(小笠郡)に居住したといわれています。
(説明看板などより)
空堀・土塁・堀切などがよく残っています。
真田城 - 1
真田城 - 1 posted by (C)pismo

真田城 - 2
真田城 - 2 posted by (C)pismo

真田城 - 3
真田城 - 3 posted by (C)pismo

真田城 - 4
真田城 - 4 posted by (C)pismo

真田城 - 5
真田城 - 5 posted by (C)pismo
Posted at 2011/08/09 20:41:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年05月06日 イイね!

南信濃〜遠江、信玄上洛への夢紀行(2日目その4・井伊谷の史跡)

龍潭寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は萬松山です。井伊氏、宗良親王の菩提寺で小堀遠州作の名園が有名な寺院です。
浜松市の引佐町井伊谷は、彦根藩主井伊氏の発祥の地です
天平5(733)年に行基菩薩によって開創された八幡山地蔵寺に始まると伝えられています。
寺の南には、井伊氏祖共保公出生の伝説を残す八幡宮御手洗の井戸があります。
この寺域は元々井伊八幡宮の境内でしたが、井伊氏が龍泰寺を造営しました。
室町時代末期、井伊氏20代井伊直平が帰依された黙宗瑞淵和尚を開山として迎えてから禅宗に改められ、臨済宗妙心寺派の寺院となりました。
井伊城の南の砦としての役割を果たしていたそうで、参道や石垣などに城郭造りの跡が残されています。
朱印地だった境内地2万4千坪は、明治政府が没収、その後1万余坪が返還されました。
龍潭寺の森は、日本の森百選に選ばれています。この森に包まれ点在する龍潭寺伽藍は江戸時代建立の貴重な文化財です。
龍潭寺 - 01
龍潭寺 - 01 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 02
龍潭寺 - 02 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 03
龍潭寺 - 03 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 04
龍潭寺 - 04 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 05
龍潭寺 - 05 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 06
龍潭寺 - 06 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 07
龍潭寺 - 07 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 08
龍潭寺 - 08 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 09
龍潭寺 - 09 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 10
龍潭寺 - 10 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 11
龍潭寺 - 11 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 12
龍潭寺 - 12 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 13
龍潭寺 - 13 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 14
龍潭寺 - 14 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 15
龍潭寺 - 15 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 16
龍潭寺 - 16 posted by (C)pismo

龍潭寺 - 17
龍潭寺 - 17 posted by (C)pismo


井伊谷宮(いいのやぐう)は、南朝側の皇族・武将などを主祭神とする建武中興十五社の一つです。
御祭神宗良親王は、後醍醐天皇第四皇子であ、一品中務卿征東将軍として井伊谷を本拠とし50余年の間御活躍になられま元中2(1385)年8月10日73歳で薨去されました。
井伊谷宮は、井伊家の子孫である彦根藩主井伊直憲が命を受けて明治5(1872)年2月に創建されました。
本殿の背後には宗良親王の御墓もあります。
また、摂社の井伊社は、宗良親王とその皇子尹良親王を輔佐し、忠勤を励んだ井伊道政、井伊高顕の二柱が祀られています。
井伊谷宮 - 01
井伊谷宮 - 01 posted by (C)pismo

井伊谷宮 - 02
井伊谷宮 - 02 posted by (C)pismo

井伊谷城(井伊城)はこの城山の南麗にあり、本丸、二の丸、三の丸に分かれ井伊家の居城でした。
 延元元(1337)年遠江介井伊道政が後醍醐天皇の皇子宗良親王をお迎えしてより、元中2(1385)年8月10日宗良親王がこの地で甍去されるまで約50年、親王は京都と鎌倉の中間であるこの井伊城を本拠として、駿河、甲斐、信濃、越中、越後、上野の国々を転戦されました。
平時にこの城山の御所の丸に居られ
 夕暮れは湊もそことしらすげの
 入海かけてかすむ松原

 はるばると朝みつしおの湊船
 こぎ出るかたは猶かすみつつ

の御歌が残されています。
城山の一段高い所が御所丸跡で井の宮石陵があり、宮入御表門跡、搦手門跡等があります。また東山麓には宗良親王を祭る二宮神社、親王の御念持仏を祭る足切観音堂があります。
(説明看板などより)

城山には多目的研修センターの駐車場から登っていきます。城山公園として整備されていて、登城はしやすいです。

井伊谷城 - 1
井伊谷城 - 1 posted by (C)pismo

井伊谷城 - 2
井伊谷城 - 2 posted by (C)pismo

井伊谷城 - 3
井伊谷城 - 3 posted by (C)pismo

井伊谷城 - 4
井伊谷城 - 4 posted by (C)pismo

井伊谷城 - 5
井伊谷城 - 5 posted by (C)pismo

井伊谷城 - 6
井伊谷城 - 6 posted by (C)pismo
Posted at 2011/08/09 20:28:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年05月06日 イイね!

南信濃〜遠江、信玄上洛への夢紀行(2日目その3・旧細江町の史跡)

阿王山紫城とも称される刑部城は、遠江侵攻を目論んでいた徳川家康への備えとして、地元の豪族らによって、三方を都田川で囲まれた要害の地に築かれました。
永禄11(1568)年12月、徳川家康が遠江に侵攻してくると、今川氏に属したこの地の人々が城に立て籠もり、徳川軍に抵抗しましたが刑部城はひとたまりもなく落城したといわれています。
刑部城はその後、家康公の家臣・菅沼氏が守ったといわれています。
元亀3年(1572)12月23日、三方ヶ原において家康公率いる徳川軍を壊滅させた武田軍は、この刑部の地で越年しています。
又、刑部城落城時の話として1人の美しい姫が敵兵にかかって恥をさらすのをきらい、城の近くの池に入水し、美しい金襴の蛇に姿をかえたといわれる伝説が残っています。その後、この池は「金襴の池」と称されるようになりましたが、のちに池は埋め立てられてしまい、残念ながら現在は残っていません。
現在、城跡の一角には金山神社が建っています。城跡は全体的に竹藪に覆われていますが、井戸跡などが残っています。
刑部城 - 01
刑部城 - 01 posted by (C)pismo

刑部城 - 02
刑部城 - 02 posted by (C)pismo

刑部城 - 03
刑部城 - 03 posted by (C)pismo

刑部城 - 04
刑部城 - 04 posted by (C)pismo

刑部城 - 05
刑部城 - 05 posted by (C)pismo

刑部城 - 06
刑部城 - 06 posted by (C)pismo

刑部城 - 07
刑部城 - 07 posted by (C)pismo

刑部城 - 08
刑部城 - 08 posted by (C)pismo

堀川城は、今川義元が戦死した後、今川氏方の土豪、斎藤為吉・竹田右京・新田四郎・山村修理・尾藤主膳らが築いた城です。
城砦を築き地名にちなんで堀川城と名づけ、形部(細江町中川)にも形部城を築き、徳川家康の遠州侵攻に備えていました。
永禄11(1568)年、形部城を落とした家康は、翌永禄12(1569)年3月27日に3千の軍を率いて堀川城に攻め入りました。
男も女も戦える者およそ2千人は、すべて城に立て籠って抵抗したが、落城しました。
この戦いに加わった大久保彦左衛門が書いた三河物語には「男女ともになで切りにぞしたりける。」とある。残った人々も徹底的に捕えられ九月九日ことごとく首を打たれました。3月27日の戦いでおよそ千人、9月9日に7百人余、当時の住民の半数以上の犠牲者を出したと伝えられています。
(説明看板などより)
堀川城 - 1
堀川城 - 1 posted by (C)pismo

堀川城 - 2
堀川城 - 2 posted by (C)pismo

堀川城 - 3
堀川城 - 3 posted by (C)pismo


気賀関所は慶長6(1601)年に徳川家康によって創設されたといわれています。細江町を東から西に横切っていた街道を、東海道本坂越又は本坂道・本坂街道・姫街道などと呼んでいました。
敷地は547坪(約1,805㎡)で裏に竹藪117坪(約386㎡)、東に冠木門(かぶきもん)、この門を入り正面となる北側に旅人を調べる本番所、南側に相対して牢屋が設けられていた向番所、さらにその南に遠見に使用された遠見番所、西側には町木戸門で気賀宿と接していました。
気賀関所は、箱根関所・今切(新居)関所とともに東海道の三関所といわれた。気賀関所の関守は、元和5(1619)年から明治2(1869)年の関所廃止まで旗本近藤家が代々拝命しました。
平成元(1989)年度、ふるさと創生事業として、現存する史料を調査して、寛政元(1789)年に初めて瓦葺に改築された気賀関所を冠木門、本番所、遠見番所、制札場、雪隠(せっちん)三ツ道具立、槍立、矢来などで再建しました。
気賀関所 - 01
気賀関所 - 01 posted by (C)pismo

気賀関所 - 02
気賀関所 - 02 posted by (C)pismo

気賀関所 - 03
気賀関所 - 03 posted by (C)pismo

気賀関所 - 04
気賀関所 - 04 posted by (C)pismo

気賀関所 - 05
気賀関所 - 05 posted by (C)pismo

気賀関所 - 06
気賀関所 - 06 posted by (C)pismo

気賀関所 - 07
気賀関所 - 07 posted by (C)pismo

気賀関所 - 08
気賀関所 - 08 posted by (C)pismo
Posted at 2011/08/09 20:15:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年05月06日 イイね!

南信濃〜遠江、信玄上洛への夢紀行(2日目その2・三方ヶ原古戦場周辺)

犀ヶ崖資料館の隣に建立されている本多肥後守忠真(ただまさ)顕彰碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵により明治24(1891)年に建立されました。本多忠真は徳川草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父にあたる武将です。本多忠真は三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍にあって、撤退に際し殿を買って出ました、道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろには一歩も引かぬ」と言って、武田勢の中に刀一本で斬り込み、39歳をもってこの地で討ち死にしたと伝えられています。
忠真の子、菊丸は父の命により家康を援護し浜松城に無事退却しました。父の最期を前にし友が次々と死んでいくのを見た彼は無常を感じ、父の遺骸を三河に葬ったあと出家の道を歩むことになりました。
この碑には本多家が代々松平家、徳川家に仕えたこと、本多忠真が数々の戦いで功績を残したことが記されています。また碑の題字「表忠彰義之碑」は徳川家16代家達公によって書かれています。
本多肥後守忠真の碑 - 1
本多肥後守忠真の碑 - 1 posted by (C)pismo

本多肥後守忠真の碑 - 2
本多肥後守忠真の碑 - 2 posted by (C)pismo

本多肥後守忠真の碑 - 3
本多肥後守忠真の碑 - 3 posted by (C)pismo

犀ヶ崖と呼ばれる範囲ははっきりしませんが、この付近から下流約450メートルの間に、急な崖が連続しています。この付近では、幅約30メートル、両岸とも深さ10数メートルの絶壁です。
元亀3(1572)年12月22日、徳川家康は三方ヶ原において武田信玄に一戦を挑んで敗け、浜松城に逃げ帰りました。
しかし、その夜犀ヶ崖付近で徳川方が地理に暗い武田方を急襲して、この崖に追い落としたと伝えられています。
犀ヶ崖資料館の隣に石碑がありました。下は谷になっていて、徳川方が武田方に被害を与えた崖らしく、結構深かったです。
崖上の宗円堂には、この戦いによる両軍の死者の霊が祀られており、その霊を慰めるため、毎年遠州大念佛が行われるそうです。
静岡県指定の史跡になっています。
犀ヶ崖 - 1
犀ヶ崖 - 1 posted by (C)pismo

犀ヶ崖 - 2
犀ヶ崖 - 2 posted by (C)pismo

犀ヶ崖 - 3
犀ヶ崖 - 3 posted by (C)pismo

犀ヶ崖 - 4
犀ヶ崖 - 4 posted by (C)pismo

犀ヶ崖 - 5
犀ヶ崖 - 5 posted by (C)pismo

犀ヶ崖 - 6
犀ヶ崖 - 6 posted by (C)pismo

夏目次郎左衛門吉信の碑です。
夏目次郎左衛門吉信は、徳川家康の家臣です。三河一向一揆の時に、徳川家康と敵対しましたが、許されて再び仕えました。
元亀3年(1572年)に徳川家康と武田信玄が浜松城北方の三方ヶ原で戦った時、夏目吉信は浜松城を守っていましたが、徳川勢の敗勢を見て手勢と共に城を出、退却しようとしない家康の馬の尻を叩き城へ退却させ、自らは討死しました。
高さ4mの「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」が犀ヶ崖の北側に建っていました。
夏目次郎左衛門吉信の碑 - 1
夏目次郎左衛門吉信の碑 - 1 posted by (C)pismo

犀ヶ崖資料館は、三方ヶ原の戦いによる死者の霊をまつった宗円堂というお堂でした。宗円堂はかつては清雲寺といい、宗源院の末寺でした。
犀ヶ崖の際にあって大念仏を行っていたことから 念仏堂とも呼ばれていました。
宗円とは 遠州大念仏を伝えたと言われる浄土宗の僧の名で、その名から宗円堂と呼ばれるようになりました。
また、昭和5(1930)年に結成された「遠州大念仏団」の本部としても、永く利用されてきました。
昭和47(1972)年3月に浜松市は遠州大念仏を無形民俗文化財に指定し、昭和57(1982)年には、この建物を資料館として改修し、昭和58(1983)年4月から遠州大念仏及び三方ヶ原の戦いに関する資料を展示しています。
犀ヶ崖資料館 - 1
犀ヶ崖資料館 - 1 posted by (C)pismo
小豆餅は、三方ヶ原の戦いの時に、徳川家康が敗走の途中に道端で老婆が小豆餅を売っていたのでこれを口にしましたが、武田軍の急迫接近の報に慌てて代金を払わず走り去り、老婆は後を追い銭を取って帰ったと言われています。
この地を小豆餅といい、大正時代には軽便鉄道が開通し、あずきもちの駅名がありました。代金を払わせたところは「銭取」といい浜松市中区和合町付近の地名だったそうです。
しかし、上記の逸話は後世の創作で、実際は三方ヶ原の戦いでの死者を弔うためこの地に餅を備える習慣が続いたことが地名の由来だそうです。
小豆餅公民館、小豆餅神社付近に説明板がありました。
小豆餅神社 - 1
小豆餅神社 - 1 posted by (C)pismo

小豆餅神社 - 2
小豆餅神社 - 2 posted by (C)pismo

小豆餅神社 - 3
小豆餅神社 - 3 posted by (C)pismo

三方原墓園の駐車場北東隅に三方ヶ原古戦場の石碑が建っています。元亀3(1572)年12月22日、徳川家康は武田信玄の上洛を阻止せんと、武田軍およそ二万五千の兵力に対し徳川軍はおよそ一万一千の兵力を以って戦いを挑み、戦闘約二時間といわれるも、結果は大敗に終わりました。これが三方ヶ原合戦です。
戦いが展開されたのはこの三方原台地であるがその場所は定かではありません。
(石碑の文章などより)
三方ヶ原古戦場 - 1
三方ヶ原古戦場 - 1 posted by (C)pismo

三方ヶ原古戦場 - 2
三方ヶ原古戦場 - 2 posted by (C)pismo

三方ヶ原の合戦の際、武田信玄の本陣が置かれたといわれるのがこの根洗松付近だったそうです。
祝田の坂を下ると見せかけて徳川軍をおびき出すことに成功し、一転陣形を立て直して徳川軍と対峙したといわれています。
根洗松は、三方ヶ原の北はずれにあり雨が降るたびに根が洗われ、根洗松と呼ばれるようになりました。
現在の松は二代目だそうです。向かい側には「祝田坂への旧道」の石碑と説明看板も建っています。
根洗松 - 1
根洗松 - 1 posted by (C)pismo

根洗松 - 2
根洗松 - 2 posted by (C)pismo

根洗松 - 3
根洗松 - 3 posted by (C)pismo

祝田坂への旧道 - 1
祝田坂への旧道 - 1 posted by (C)pismo

祝田坂への旧道 - 2
祝田坂への旧道 - 2 posted by (C)pismo

祝田坂への旧道 - 3
祝田坂への旧道 - 3 posted by (C)pismo

三方ヶ原の戦いでは武田軍三万に対し、徳川軍は援軍を含めても一万一千、三分の一の兵力で、しかも老練な戦術家の信玄に立ち向かうことは極めて不利な戦いでした。
徳川軍は武田軍が祝田坂(ほうだのさか)を下るところを一気に攻めると勝機があると見ましたが、武田軍は祝田坂を降りると見せかけ徳川軍を坂の手前で待ち構えていました。
国道257郷の西側に旧道が残っています。
根洗松から祝田坂への旧道が残っていて、途中で舗装路はなくなりますが、鉄塔が見えますのでそちらに進んでいくと祝田坂の旧道です。
祝田坂 - 1
祝田坂 - 1 posted by (C)pismo

祝田坂 - 2
祝田坂 - 2 posted by (C)pismo

Posted at 2011/08/07 22:59:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

プロフィール

「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2011/5 >>

1234 5 67
8910111213 14
15161718192021
222324252627 28
293031    

リンク・クリップ

沖縄県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2024/06/26 22:49:38
 
鹿児島県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/26 23:05:24
 
宮崎県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/22 08:03:34
 

愛車一覧

スバル レヴォーグ スバル レヴォーグ
H27.3レガシィBPより乗り換え
ホンダ PCX ホンダ PCX
H26.3購入しました。
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
H18.3アコードワゴンから乗り換えました。
ホンダ スペイシー100 ホンダ スペイシー100
2ストのリード100から乗り換え。 少しパワー不足でした。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation