西光寺は、天台宗真盛派の祖である真盛上人を開祖とする寺院です。
柴田勝家の菩提寺として知られています。
元々は吉田郡岡(現在の福井市次郎丸町)にありましたが、天正3年、西光寺に帰依し、自らの菩提所と定め民生安定の根本道場とするため北の庄に移転させられ、現在も福井市の左内町に在ります。
柴田勝家は賤ヶ岳の戦いの後の北の庄落城の際、3人の姉妹の将来などを住職に託したと伝えらています。
境内には柴田勝家とお市の方の墓があります。
この墓は、柴田勝家の家老で後に豊臣家の祐筆となった山中山城守長俊の手によって建立されたと伝えらています。
勝家の自筆の書や刀剣、金の御幣の馬標、明治7(1874)年に発掘された北の庄城の鬼瓦などを展示する柴田勝家公資料館があります。
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専照寺は、山号は鹿苑山、真宗十派の一、真宗三門徒派の本山です。證誠寺、誠照寺、毫摂寺と共に越前「四箇本山」を形成しています。
専照寺は正応3(1290)年、宗祖・親鸞聖人の法脈を継承する開基・如導上人が仏法興隆のため、現在の福井市大町の地に一宇を建立、寺号を専修寺と称したのがはじまりです。如道上人の教えは、親鸞作の「三帖和讃」を重視したことから讃門徒とも呼ばれました。
如導上人の後、道性上人が現在の横越、如覚上人が鯖江の地にそれぞれ一派を立て、永享7(1435)年、四代・浄一上人が中野の地に一宇を建立し専照寺と改称しました。
中野の地に在したことから中野本山といわれます。
横越の證誠寺、鯖江の誠照寺、中野の専照寺が相対して存立されていたので、世の人々はこれを三門徒衆と称したため三門徒派といわれます。
十一代・善蓮上人の時、仏法興隆に努めた功績が認められ、天正13(1585)年正親町天皇より権大僧正の口宣を賜り天皇家の勅願所と成りました。
享保9(1724)年に現在地に移りましたが、天保8(1837)年には大火により御本堂、御影堂をはじめ全ての建物が全焼しました。その後、復興を遂げましたが、昭和23(1948)年の福井大震災で御影堂を残し本堂などが倒壊しましたが、その後復興しつつあります。
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自性院は、お市の方の菩提寺です。
奈良朝時代には紫雲山仏光寺といい、越前東郷赤坂岡山に開創されました。
慶長10(1605)年清池院日乗上人が現在の地(福井県福井市西木田)に移した。
寺伝によると、お市の方23回忌相当年に織田信長の妹、柴田勝家の正室お市の方の院号「自性院微妙浄法大姉」を賜り、如意輪山願應寺自性院と改称したと伝えられていて、お市の方の菩提所となったそうです。
また、江戸初期には東叡山寛永寺(上野)の支院となり、また東照宮別当職泉蔵院(現在の佐佳枝廼社)の縁故寺院となっています。
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誠照寺は、山号は上野山(うわのさん)、真宗誠照寺派の本山です。
承元元(1208)年宗祖親鸞聖人が越後へ配流された際、越前上野ヶ原の豪族波多野景之の別荘にご滞在になり、弥陀本願の要法を説かれたことに始まります。
景之は、念仏の行者となり空然と称しました。その後景之は聖人の第五子道性上人を招請して此の車の道場にお迎えし、聖人の御孫第三代如覚上人とともに教線を張りました。如覚上人の御代に車の道場の地が狭隘となったので、景之の寄進により現在の地に移り、時の帝後二条天皇より「真照寺」の勅額を賜りました。
第七代秀応上人の御代に御花園天皇より改めて「誠照寺」の勅願を賜りました。
その後一向一揆、秀吉の兵火により、一時衰微に向いましたが第十五代中興秀上人により誠照寺教団は再興され、二条家より法主を迎えて門跡寺院の寺格を得て復興しました。
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證誠寺(しょうじょうじ)は、福井県鯖江市にある寺院で真宗山元派の本山です。
山号は山元山。護念院、横越本山とも称します。
承元元年2月、親鸞聖人が越後へ流罪になった際、、越前国山元の庄(現在の鯖江陸軍墓地)に於て親しく教えを垂れられたのが證誠寺の開山の基です。
その後、親鸞の子善鸞、浄如が後を継ぎ、嘉元2(1304)年に後二条天皇の勅願を得て「山元山護念院證誠寺」を称しました。
文明7(1475)年、8世道性の代に現在地に移転しました。山元派はその後衰退し、真宗出雲路派毫摂寺や本願寺、更に江戸時代には天台宗聖護院の末寺となた時期もありましたが、明治11(1878)年に山元派として再独立しました。
昭和23(1948)年で火災で焼失しましたが、その後再建されて現在に至っています。
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毫摂寺(ごうしょうじ)は、山号は出雲路山、真宗出雲路派の本山です。
天福元(1233)年、親鸞聖人が京都上加茂、下加茂の間の出雲路に創建したのが始まりといわれています。
第五世善幸上人の代の暦応元(1338)年に越前山元の庄(鯖江市神明町)に移転されました。
第十一世善秀上人、柳原大納言よりの嗣子第十二世善照上人まで続きましたが、慶長元(1596)年善照上人は現在の地、味真野地区清水頭に移転しました。
小丸城が廃城となって停滞していた城下町五分市(ごぶいち)は毫摂寺の門前町として発展し、同寺は「五分市本山」と称されるようになりました。
元禄年間より明治維新までは天台宗に属していましたが、明治5(1872)年に浄土真宗本願寺派となり、明治11(1878)年独立して一派をなしました。
鐘楼や経藏、諸門などは文化8(1811)年の造営ですが、阿弥陀堂と御影堂は明治10(1878)年に火災で焼失後、明治17(1884)年に再建されたものです。
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これで今回のドライブは終了です。
Posted at 2011/08/15 22:41:32 | |
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