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ピズモのブログ一覧

2011年07月30日 イイね!

淡嶋神社

この日は、和歌山県の加太まで軽くドライブをしてみました。

淡嶋神社は、加太淡嶋神社、加太神社ともいう淡嶋神社の総本社です。
少彦名命、大己貴命、息長足姫命を祀る神社です。
三その昔、神功皇后が三韓出兵からお帰りの際、瀬戸の海上で激しい嵐に出会いました。
沈みそうになる船の中で神に祈りを捧げると、「船の苫(とま)を海に投げ、その流れのままに船を進めよ。」とお告げがありました。
その通りに船を進めると、友ヶ島にたどり着きました。その島には、少彦名命と大己貴命が祭られていて、皇后は助けてくれたお礼の気持ちを込めて、持ち帰ってきた宝物をお供えになりました。
その後、何年か経ち、神功皇后の孫にあたられる仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来られ、経緯を聞き、お社を対岸の加太に移され、社殿を建てられたのが加太淡嶋神社の起こりとされています。
社殿は豊臣秀吉の紀州征伐で焼失しましたが、その後浅野幸長が再建、紀州徳川家初代・徳川頼宣が修復を加え、さらに江戸時代末期に第十代・徳川治宝が造営しました。
淡嶋神社は古来より、人形を納める人形供養の社としても知られています。沢山の人形が奉納されています。
昔からひな祭り発祥の地として有名です。毎年桃の節句・3月3日にはたくさんのおひな様を2艘の舟に乗せて沖へ流す、不思議なお祭り「雛流し」が催されます。
婦人病を始めとして安産・子授けなど女性に関するあらゆることを祈願する神社としても知られています。
淡嶋神社 - 1
淡嶋神社 - 1 posted by (C)pismo

淡嶋神社 - 2
淡嶋神社 - 2 posted by (C)pismo

淡嶋神社 - 3
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淡嶋神社 - 4
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淡嶋神社 - 5
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淡嶋神社 - 6
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淡嶋神社 - 7
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淡嶋神社 - 8
淡嶋神社 - 8 posted by (C)pismo
Posted at 2011/08/31 22:22:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年07月23日 イイね!

能登ドライブ(3日目その8・越中と加賀の国境ですが倶利伽羅峠古戦場)

最後に既に能登を外れていますが、倶利伽羅峠古戦場を少しだけ巡ってみました。倶利伽羅峠の戦いは、寿永2(1183)年源氏討伐のため一門の部将を率い北進してきた平維盛の大軍を、以仁王の令旨を奉じ信濃越後を席巻し、都へ上ろうとする源義仲(木曽義仲)との間で行われた戦いです。


北黒坂は、義仲軍の信濃住人余田次郎を大将に、信濃武士3千余騎、宮崎太郎、向田荒次郎を案内に、安楽寺、金峯坂を通り陣を張ったところです。
倶利伽羅峠古戦場・北黒坂 - 1
倶利伽羅峠古戦場・北黒坂 - 1 posted by (C)pismo

倶利迦羅不動寺の創建は、養老2(718)年、元正天皇の勅願によりインドの高僧善無畏三蔵法師がこの地にて自ら倶利伽羅不動尊を彫り安置されたのが始まりと伝えられています。
弘仁3(812)年、弘法大師がこの山にて紫雲光明の中に不動明王のお姿を拝まれ、また一体の不動明王像をお刻みになり奉安されました。
倶利伽羅とはインドの言葉であり、剣に黒龍の巻いたお不動様の意味で、その御名をとってこの山を倶利伽羅山と号するようになりました。
成田不動尊(千葉県)、大山不動尊(神奈川県)とともに日本三大不動尊の一尊とされています。
不動寺(倶利伽羅不動尊) - 1
不動寺(倶利伽羅不動尊) - 1 posted by (C)pismo

不動寺(倶利伽羅不動尊) - 2
不動寺(倶利伽羅不動尊) - 2 posted by (C)pismo

不動寺(倶利伽羅不動尊) - 3
不動寺(倶利伽羅不動尊) - 3 posted by (C)pismo

源平供養塔です。
昭和48(1973)年5月、小矢部市の有志により源平供養塔を建立することが発願され、各位の賛助を得て五輪塔を昭和49(1974)年8月17日に建立されました。
源平供養塔 - 1
源平供養塔 - 1 posted by (C)pismo

為盛塚です。
為盛は、池の大納言平頼盛の子として生まれ、寿永2(1183)年、砺波山の源平合戦に平家の総帥平維盛の武将として出陣し、5月11日源氏の夜襲に敗れ、加賀国に逃れ翌12日未明手兵50騎をひきいて源氏に逆襲しましたが、義仲の武将樋口兼光に首をはねられました。
この塚は、勇敢な部将為盛を弔うたもので墓は地、水、火、風、空、を表す五輪の塔で高さ1.6m鎌倉時代の建設です。
市は昭和44(1969)年9月20日この史跡を文化財に指定しました。
(説明看板などより)
為盛の祖母池禅尼は源頼朝を助命したことで知られています。
平頼盛は平家都落ちに同道せず、頼盛の母池禅尼の恩を受けた源頼朝にも庇護されました。
為盛も源平盛衰記には倶利伽羅峠の戦いで樋口兼光に討ち取られたとありますが、愚管抄などでは都落ちに際し父頼盛の使者を務めたとあり、吾妻鑑では鎌倉幕府第三代将軍源実朝の左近衛大将任官に際し、鎌倉に下向したとありますので、他の平家一門と混同された可能性もあります。
為盛塚 - 1
為盛塚 - 1 posted by (C)pismo

蟹谷次郎由緒之地碑は、義仲軍の先導を承った郷土の武士・蟹谷次郎を讃え、源氏太鼓保存会が建立しました。
倶利伽羅峠の戦いでは、越中国武士団の宮崎、入善の両氏、郷党の石黒氏、野尻氏、河上氏などの武士団が馳せ参じました。
民情地状に明るい蟹谷次郎、その他の武士の先導により野戦の展開となり義仲軍は大勝利を得ました。
その他石黒太郎光弘、福満五郎、千国太郎真高、向田二郎村高、水巻四郎安高、水巻小太郎安経、加茂島七郎、池田次郎忠康などは義仲軍に随って大活躍したと言われています。
戦いの後、蟹谷次郎は祝宴を張り戦勝を祝いました。
兵士たちは、歓喜勇躍、乱舞しながら競って太鼓を打ち鳴らしました。合戦が終わって蟹谷次郎は郷土の地、下後丞に定着して地方の開拓に従事し、八講布の晒し技術等を農民に伝えたといわれています。
その後、この勝鬨太鼓は、源氏太鼓として伝承され、毎年氏神の神明宮に奉納し、祖先に感謝を捧げ、五穀豊穣、順風慈雨を祈りました。(説明看板などより)
蟹谷次郎之地碑 - 1
蟹谷次郎之地碑 - 1 posted by (C)pismo

猿ヶ馬場は、源平砺波山の合戦のとき、平家の総師平維盛が本陣を布いた跡で、今、ここに猿ヶ堂という小さな石の堂があります。
三位中将維盛、薩摩守忠度、左馬頭行盛、上総判官忠綱、越中権頭範高、高橋判官長綱、河内判官季国ら各武将を集めて軍議を開きました。
これは古伝によると、天正年間、悪猿が出て民家に災害を加えるため、これを退治し、神に祀りその祈祷のためお堂を建てたのが猿ヶ堂です。むかし、峠へ登った馬がたくさんつながれていたところから猿ヶ馬場と名づけるようになりました。
(説明看板などより)
猿ヶ馬場 - 01
猿ヶ馬場 - 01 posted by (C)pismo

猿ヶ馬場 - 02
猿ヶ馬場 - 02 posted by (C)pismo

猿ヶ馬場 - 03
猿ヶ馬場 - 03 posted by (C)pismo


塔乃橋は、倶利伽羅峠の戦いの際、平行盛(清盛の次男で重盛の同母弟基盛の子)が陣を置き、源氏軍と対峙した場所です。
この地は、古来より矢立まで三町程を馬の背のような険しいところでした。旅人も大変難儀しましたが、前田利長が高岡に行くようになり、北国街道が整備されました。
(説明看板などより)
塔の橋
塔の橋 posted by (C)pismo

矢立は、源氏軍の最前線で、緒戦に小競り合い(矢合わせ)が行われ、平家軍が放った矢が突き刺さったことから矢立山というようになったそうです。
矢立
矢立 posted by (C)pismo

巴塚です。
巴御前は、源義仲(木曽義仲)の愛妾で義仲に従い、倶利伽羅峠の戦いでも武将として活躍しました。
義仲の死後、和田義盛と再婚し、朝比奈三郎義秀を産みましたが、その後未亡人となり後生を福光城主の石黒氏に託しました。
石黒氏は共に倶利伽羅峠の戦いにおいて平家軍を攻めた親しい間柄でした。
尼となり兼生と称し、宝治元(1247)年10月22日に没し石黒氏がこの地に巴葵寺を建立したと伝えられています。(説明看板などより)
巴塚
巴塚 posted by (C)pismo


葵塚です。
葵は義仲の愛妾で、義仲の武将として戦いましたが倶利伽羅峠の戦いで討死しました。
そして、屍をこの地に埋め、弔ったと伝えられています。
巴塚のすぐ近くにあります。
(説明看板などより)
葵塚
葵塚 posted by (C)pismo

これで今回のドライブは終了です。
Posted at 2011/08/31 21:42:08 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年07月23日 イイね!

能登ドライブ(3日目その7・能登部神社〜永光寺〜森寺城)

能登部神社は能登国造の祖能登比神及び能登臣の祖大入杵命を祀る神社です。
「延喜式」神名帳に載る能登郡能登生国玉比古神社に比定されています。
前田利家は入国に当り、深く当社を崇敬し側室の寿福院は当地に住んで、第三代藩主利常を出産しました。
以来藩主の産神として深く崇敬されました。
明治4(1871)年現在の社号となりました。
能登部神社 - 01
能登部神社 - 01 posted by (C)pismo

能登部神社 - 02
能登部神社 - 02 posted by (C)pismo

能登部神社 - 03
能登部神社 - 03 posted by (C)pismo

能登部神社 - 04
能登部神社 - 04 posted by (C)pismo

能登部神社 - 05
能登部神社 - 05 posted by (C)pismo

能登部神社 - 06
能登部神社 - 06 posted by (C)pismo

能登部神社 - 07
能登部神社 - 07 posted by (C)pismo

永光寺(ようこうじ)は山号は洞谷山(とうこくさん)、曹洞宗の寺院です。
正和元(1312)年曹洞宗太祖常済大師瑩山紹瑾大和尚45歳の時、能登国中川(羽咋市)の地頭、 酒匂頼親の娘(祖忍尼)の勧請により創建された開山禅師示寂の道場です。
創建当時は、本寺を中心に五院、二十数坊を擁して繁栄し、特に後醍醐天皇をはじめ南朝、北朝の帰依により勅願寺となり、暦応2(1339)年、光厳上皇の勅願による三重の利生塔が建立されました。
その後、応仁2(1468)年、天正7(1579)年の大乱に合いました。
現在の伽藍は寛永以後の再興で 往時を偲ぶべくもありませんが、永光寺様式として曹洞宗伽藍構成の一典型を保っています。
また、天童如浄、道元、孤雲懐奘、徹通義介、瑩山紹瑾の曹洞宗五祖の遺物を安置した五老峯があり、伝燈院には曹洞宗五祖の木造が安置されています。
永光寺 - 01
永光寺 - 01 posted by (C)pismo

永光寺 - 02
永光寺 - 02 posted by (C)pismo

永光寺 - 03
永光寺 - 03 posted by (C)pismo

永光寺 - 04
永光寺 - 04 posted by (C)pismo

永光寺 - 05
永光寺 - 05 posted by (C)pismo

永光寺 - 06
永光寺 - 06 posted by (C)pismo

永光寺 - 07
永光寺 - 07 posted by (C)pismo

永光寺 - 08
永光寺 - 08 posted by (C)pismo

森寺城は、中世の史料には「湯山城」の名で登場していますが、廃城後は麓の村名から「森寺城」と呼ばれています。
七尾城を居城とした能登守護畠山義統が越中への進出の拠点として16世紀の初頭に築いたと推定されています。
この城は、能登との国境に近く、阿尾川に沿った標高162メートルの御殿山にあり、 氷見から能登に向う荒山街道を抑えていることから、軍事的、政治的に重要な地点でした。
天正13(1585)年、越中の佐々成政が、羽柴秀吉に降伏し、氷見地域が能登と同じく前田氏の所領となったため、 城としての役割を終え廃城になったと推定されています。
城郭には、本丸、二の丸をはじめとして、土塁、石垣、空堀などがよく残っています。
(説明看板などより)
森寺城 - 01
森寺城 - 01 posted by (C)pismo

森寺城 - 02
森寺城 - 02 posted by (C)pismo

森寺城 - 03
森寺城 - 03 posted by (C)pismo

森寺城 - 04
森寺城 - 04 posted by (C)pismo

森寺城 - 05
森寺城 - 05 posted by (C)pismo

森寺城 - 06
森寺城 - 06 posted by (C)pismo

森寺城 - 07
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森寺城 - 08
森寺城 - 08 posted by (C)pismo

森寺城 - 09
森寺城 - 09 posted by (C)pismo

森寺城 - 10
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森寺城 - 11
森寺城 - 11 posted by (C)pismo
Posted at 2011/08/31 21:27:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年07月23日 イイね!

能登ドライブ(3日目その6・石動山)

信仰の山、石動山(せきどうさん・いするぎやま)を訪れました。

大宮坊は、山岳信仰の霊場として栄えた石動山天平寺を支配する別当寺として、山内で最も権威と格式を誇る坊でした。
しかし、明治初年、廃仏毀釈による石動山の瓦解とともに、廃絶しました。
その後、坊跡は越路小学校石動山分校や宅地・水田として利用されてきましたが、平成2(1990)年から史跡整備のため発掘調査が始まりました。
調査の結果、天正10(1582)年の石動山合戦による全山炎上後、前田利家が再建し、明治の瓦解まで存続した建物の跡が検出されました。
整備事業では、大宮坊の歴史的空間を再現するため、発掘調査の成果と史料を参考に、書院台所棟・番所・厠・御成門・台所門・板塀・勅使橋などの建造物や本堂跡・証誠殿・庭園跡などの遺構が復元しています。
(説明看板などより)

大宮坊 - 01
大宮坊 - 01 posted by (C)pismo

大宮坊 - 02
大宮坊 - 02 posted by (C)pismo

大宮坊 - 03
大宮坊 - 03 posted by (C)pismo

大宮坊 - 04
大宮坊 - 04 posted by (C)pismo

大宮坊 - 05
大宮坊 - 05 posted by (C)pismo

大宮坊 - 06
大宮坊 - 06 posted by (C)pismo

大宮坊 - 07
大宮坊 - 07 posted by (C)pismo

大宮坊 - 08
大宮坊 - 08 posted by (C)pismo

大宮坊 - 09
大宮坊 - 09 posted by (C)pismo

大宮坊 - 10
大宮坊 - 10 posted by (C)pismo

大宮坊 - 11
大宮坊 - 11 posted by (C)pismo

伊須流岐比古神社は、かつては真言宗寺院の石動山天平寺といいました。伊須流岐比古神(石動彦)、白山比咩神を祀ります。
創建は養老元(717)年、白山を開いた泰澄により開山されました。
治承4(1180)年、藤原家通が参拝し、勅願寺となりました。
兵火に何度が見舞われ、南北朝時代に足利軍により焼き討ちされ、歴応4(1341)年に足利尊氏により再建されました。
室町時代は能登畠山氏に保護されていましたが、天正4(1576)年〜天正5(1577)年には七尾城攻略を目指す上杉謙信により陣が置かれ、天正10(1582)年には謙信死後の能登に攻め込んだ前田利家により焼き討ちされました。
江戸時代には加賀藩の保護により再建が勧められましたが、明治初年にすさまじい廃仏毀釈が行われ、石動山全般において伽藍、院坊が破壊されました。
その後、わずかに残された大宮を御輿堂の場所に移設し、本殿、拝殿としました。本殿は承応2(1653)年に前田利常により建てられたものです。

伊須流岐比古神社 - 1
伊須流岐比古神社 - 1 posted by (C)pismo

伊須流岐比古神社 - 2
伊須流岐比古神社 - 2 posted by (C)pismo

伊須流岐比古神社 - 3
伊須流岐比古神社 - 3 posted by (C)pismo

石動山城は、天正4(1576)年〜天正5(1577)年には七尾城攻略を目指す上杉謙信により築かれたとも石動山宗徒が天平寺伽藍を守るために築城したともいわれています。
七尾城攻めの際に上杉軍が利用した際には城は直江景綱が守備しました。
謙信死去後は織田氏の勢力下にありましたが、天正10(1582)年に信長死後に石動山宗徒は上杉氏・畠山氏旧臣に加担したため、前田利家は石動山を攻撃し伽藍も焼き討ちしました。
石動山城 - 01
石動山城 - 01 posted by (C)pismo

石動山城 - 02
石動山城 - 02 posted by (C)pismo
Posted at 2011/08/30 23:26:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2011年07月23日 イイね!

能登ドライブ(3日目その5・能登国分寺跡)

能登国分寺跡は、江戸時代からその所在が知られていましたが、昭和45(1970)年から本格的な調査がされ、9次に渡る発掘調査が行われました。
その後、「能登国分寺公園」として整備され、平成4(1992)年にオープンしました。
能登国分寺展示館は、能登国分寺公園内にあり、出土遺物や写真などを中心に展示しています。
能登国分寺展示館
能登国分寺展示館 posted by (C)pismo

能登国分寺跡は七尾市国分町と古府町にまたがる場所に位置しています。
能登国分寺は天平13(741)年、聖武天皇による国分寺建立の詔が出された直後、能登国が越中国に一旦合併され、天平宝字元(757)年に再び分立したため、詔が出て100年後の承和10(843)年に、大興寺を昇格して国分寺としました。
大興寺は、この地方を支配した能登臣の一族が白鳳時代末に建てた寺院で、国分寺は大興寺時代を含めて能登の仏教の中心として約400年間栄えました。
能登国分寺跡は江戸時代からその所在が知られており、考古学的な調査は大正時代に開始されましたが、本格的な調査は昭和45(1970)年から始まり、9次にわたる発掘調査等で金堂・塔・講堂・南門・塀・建物群が発見され、瓦、瓦塔、土塔、木簡、和同開珎(わどうかいちん)等が出土しました。
昭和49(1974)年「能登国分寺跡附建物群跡」の名称で国史跡に指定されました。
平成元(1989)年に整備事業に着手し、南門と塀の実物大の復元、塔・金堂、講堂の跡等の遺構の復元、能登国分寺展示館の建設等が行われ、平成4(1992)年10月「能登国分寺公園」としてオープンしました。
能登国分寺跡 - 01
能登国分寺跡 - 01 posted by (C)pismo

能登国分寺跡 - 02
能登国分寺跡 - 02 posted by (C)pismo

能登国分寺跡 - 03
能登国分寺跡 - 03 posted by (C)pismo

能登国分寺跡 - 04
能登国分寺跡 - 04 posted by (C)pismo

能登国分寺跡 - 05
能登国分寺跡 - 05 posted by (C)pismo

能登国分寺跡 - 06
能登国分寺跡 - 06 posted by (C)pismo

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能登国分寺跡 - 07 posted by (C)pismo

能登国分寺跡 - 08
能登国分寺跡 - 08 posted by (C)pismo

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