最後に既に能登を外れていますが、倶利伽羅峠古戦場を少しだけ巡ってみました。倶利伽羅峠の戦いは、寿永2(1183)年源氏討伐のため一門の部将を率い北進してきた平維盛の大軍を、以仁王の令旨を奉じ信濃越後を席巻し、都へ上ろうとする源義仲(木曽義仲)との間で行われた戦いです。
北黒坂は、義仲軍の信濃住人余田次郎を大将に、信濃武士3千余騎、宮崎太郎、向田荒次郎を案内に、安楽寺、金峯坂を通り陣を張ったところです。
倶利伽羅峠古戦場・北黒坂 - 1 posted by
(C)pismo
倶利迦羅不動寺の創建は、養老2(718)年、元正天皇の勅願によりインドの高僧善無畏三蔵法師がこの地にて自ら倶利伽羅不動尊を彫り安置されたのが始まりと伝えられています。
弘仁3(812)年、弘法大師がこの山にて紫雲光明の中に不動明王のお姿を拝まれ、また一体の不動明王像をお刻みになり奉安されました。
倶利伽羅とはインドの言葉であり、剣に黒龍の巻いたお不動様の意味で、その御名をとってこの山を倶利伽羅山と号するようになりました。
成田不動尊(千葉県)、大山不動尊(神奈川県)とともに日本三大不動尊の一尊とされています。
不動寺(倶利伽羅不動尊) - 1 posted by
(C)pismo
不動寺(倶利伽羅不動尊) - 2 posted by
(C)pismo
不動寺(倶利伽羅不動尊) - 3 posted by
(C)pismo
源平供養塔です。
昭和48(1973)年5月、小矢部市の有志により源平供養塔を建立することが発願され、各位の賛助を得て五輪塔を昭和49(1974)年8月17日に建立されました。
源平供養塔 - 1 posted by
(C)pismo
為盛塚です。
為盛は、池の大納言平頼盛の子として生まれ、寿永2(1183)年、砺波山の源平合戦に平家の総帥平維盛の武将として出陣し、5月11日源氏の夜襲に敗れ、加賀国に逃れ翌12日未明手兵50騎をひきいて源氏に逆襲しましたが、義仲の武将樋口兼光に首をはねられました。
この塚は、勇敢な部将為盛を弔うたもので墓は地、水、火、風、空、を表す五輪の塔で高さ1.6m鎌倉時代の建設です。
市は昭和44(1969)年9月20日この史跡を文化財に指定しました。
(説明看板などより)
為盛の祖母池禅尼は源頼朝を助命したことで知られています。
平頼盛は平家都落ちに同道せず、頼盛の母池禅尼の恩を受けた源頼朝にも庇護されました。
為盛も源平盛衰記には倶利伽羅峠の戦いで樋口兼光に討ち取られたとありますが、愚管抄などでは都落ちに際し父頼盛の使者を務めたとあり、吾妻鑑では鎌倉幕府第三代将軍源実朝の左近衛大将任官に際し、鎌倉に下向したとありますので、他の平家一門と混同された可能性もあります。
為盛塚 - 1 posted by
(C)pismo
蟹谷次郎由緒之地碑は、義仲軍の先導を承った郷土の武士・蟹谷次郎を讃え、源氏太鼓保存会が建立しました。
倶利伽羅峠の戦いでは、越中国武士団の宮崎、入善の両氏、郷党の石黒氏、野尻氏、河上氏などの武士団が馳せ参じました。
民情地状に明るい蟹谷次郎、その他の武士の先導により野戦の展開となり義仲軍は大勝利を得ました。
その他石黒太郎光弘、福満五郎、千国太郎真高、向田二郎村高、水巻四郎安高、水巻小太郎安経、加茂島七郎、池田次郎忠康などは義仲軍に随って大活躍したと言われています。
戦いの後、蟹谷次郎は祝宴を張り戦勝を祝いました。
兵士たちは、歓喜勇躍、乱舞しながら競って太鼓を打ち鳴らしました。合戦が終わって蟹谷次郎は郷土の地、下後丞に定着して地方の開拓に従事し、八講布の晒し技術等を農民に伝えたといわれています。
その後、この勝鬨太鼓は、源氏太鼓として伝承され、毎年氏神の神明宮に奉納し、祖先に感謝を捧げ、五穀豊穣、順風慈雨を祈りました。(説明看板などより)
蟹谷次郎之地碑 - 1 posted by
(C)pismo
猿ヶ馬場は、源平砺波山の合戦のとき、平家の総師平維盛が本陣を布いた跡で、今、ここに猿ヶ堂という小さな石の堂があります。
三位中将維盛、薩摩守忠度、左馬頭行盛、上総判官忠綱、越中権頭範高、高橋判官長綱、河内判官季国ら各武将を集めて軍議を開きました。
これは古伝によると、天正年間、悪猿が出て民家に災害を加えるため、これを退治し、神に祀りその祈祷のためお堂を建てたのが猿ヶ堂です。むかし、峠へ登った馬がたくさんつながれていたところから猿ヶ馬場と名づけるようになりました。
(説明看板などより)
猿ヶ馬場 - 01 posted by
(C)pismo
猿ヶ馬場 - 02 posted by
(C)pismo
猿ヶ馬場 - 03 posted by
(C)pismo
塔乃橋は、倶利伽羅峠の戦いの際、平行盛(清盛の次男で重盛の同母弟基盛の子)が陣を置き、源氏軍と対峙した場所です。
この地は、古来より矢立まで三町程を馬の背のような険しいところでした。旅人も大変難儀しましたが、前田利長が高岡に行くようになり、北国街道が整備されました。
(説明看板などより)
塔の橋 posted by
(C)pismo
矢立は、源氏軍の最前線で、緒戦に小競り合い(矢合わせ)が行われ、平家軍が放った矢が突き刺さったことから矢立山というようになったそうです。
矢立 posted by
(C)pismo
巴塚です。
巴御前は、源義仲(木曽義仲)の愛妾で義仲に従い、倶利伽羅峠の戦いでも武将として活躍しました。
義仲の死後、和田義盛と再婚し、朝比奈三郎義秀を産みましたが、その後未亡人となり後生を福光城主の石黒氏に託しました。
石黒氏は共に倶利伽羅峠の戦いにおいて平家軍を攻めた親しい間柄でした。
尼となり兼生と称し、宝治元(1247)年10月22日に没し石黒氏がこの地に巴葵寺を建立したと伝えられています。(説明看板などより)
巴塚 posted by
(C)pismo
葵塚です。
葵は義仲の愛妾で、義仲の武将として戦いましたが倶利伽羅峠の戦いで討死しました。
そして、屍をこの地に埋め、弔ったと伝えられています。
巴塚のすぐ近くにあります。
(説明看板などより)
葵塚 posted by
(C)pismo
これで今回のドライブは終了です。
Posted at 2011/08/31 21:42:08 | |
トラックバック(0) |
ドライブ | 日記