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ピズモのブログ一覧

2011年12月29日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(2日目その5・小田原城)

小田原城は、室町時代に大森氏が築城しました。このころの小田原城の位置は正確には分かっていませんが、県立小田原高等学校の東の高台付近と想定され、規模の小さな山城であったと考えられています。
後に伊勢新九郎盛時(長氏、北条早雲)が攻め落とし、氏綱の代に小田原北条氏の居城としました。
その間上杉、武田氏に攻められたこともあったが耐え抜きました。天正18(1590)年、豊臣秀吉と対峙した小田原合戦の時点では、周囲の山の中腹や海岸線などに、総延長九キロメートルに及ぶ土塁や空堀を巡らし、町屋や農地までも城下に取り込んだ壮大な城構(総構)が築かれ、日本最大の中世城郭に発展しました。
しかしながら北条氏は結局降伏し、徳川氏の元で大久保氏、稲葉氏が主に城主となりました。
明治後廃城となり、二の丸平櫓を除き建物は解体されました。
しかし、関東大震災で二の丸平櫓や石垣などが倒壊しました。
昭和初期には平櫓が復元され、昭和35(1960)年に天守閣、昭和46(1971)年に常磐木門、そして平成9(1997)年には銅門、平成21(2009)年には馬出門を復元され、城としての往事の姿がよみがえりつつあります。
また、平成18(2006)年に日本100名城に選定されています。
小田原城 - 01
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小田原城 - 02
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小田原城 - 03
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小田原城 - 04
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小田原城 - 05
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小田原城 - 06
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小田原城 - 07
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小田原城歴史見聞館は小田原城址公園二の丸跡にあり、戦国、江戸時代そして現在までの小田原城の歴史を目と耳で楽しむことのできる、体験型の情報館です。
北条5代についての展示もあります。
小田原城歴史見聞館- 08
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小田原城 - 09
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小田原城 - 10
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小田原城 - 11
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小田原城 - 12
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小田原城 - 13
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小田原城 - 14
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小田原北条氏時代の小田原城は、全国でも稀に見る規模の大きな縄張りを持った城郭として知られています。
その構築法は、内城(本丸・二の丸・三の丸等)と城下町を囲んだ大外郭を設けて、城下町を戦禍から保護するとともに、城外に雄大な防禦線を張ろうとする構えで、当時これは「総構」「総曲輪」と呼ばれ、また大外郭は土塁とその外堀とで作られているところから「総堀」ともいわれています。
小田原城総曲輪は、おそらく小田原北条氏三代氏康の永禄年間頃からつくり始められ、上杉謙信、武田信玄による再度の来攻の経験などにより次第に拡大され、五代氏直の時、豊臣秀吉の小田原の陣が始まる直前の天正18(1590)年早春に完成したものと思われます。
小峯の大堀切(小峯御鐘ノ台大掘切)は、東堀、中堀、西堀の3本からなる戦国時代に構築された空堀です。
北条氏は、天正18年(1590)年の豊臣秀吉の小田原攻めに対して、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、その中に城のみならず城下町までを取り込んだ戦国最大級の城郭を築きました。
この大堀切東堀は、総構以前に構築された三の丸外郭に相当し、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断しており、敵の攻撃を防御するために築かれた空堀です。小田原城中にある三丘陵即ち、谷津丘陵・八幡山丘陵・天神山丘陵の分岐点であり、総構とともに小田原城の西側を守る最も重要な場所であったと考えられます。
この空堀・土塁は小田原城の残存遺構の中で最大のものです。
東堀は幅が約20m〜30m、深さは堀底から土塁の上面(天端)まで約12〜15mあり、堀の法面は50〜60度という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模のものといえます。
発掘調査によると、堀には堀障子や土橋状の堀り残し部分の他、横矢折れとよばれるクランク部分などが設けられていることが確認されました。こうした堀の構造は北条氏が積極的に用いたもので、戦国時代の小田原城の特色をよく表しています。
(説明看板などより)
小峯の大堀切 - 01
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小峯の大堀切 - 02
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小峯の大堀切 - 03
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小峯の大堀切 - 04
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小峯の大堀切 - 05
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小峯の大堀切 - 06
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小峯の大堀切 - 07
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Posted at 2012/01/09 16:51:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年12月29日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(2日目その4・石橋山古戦場)

石橋山の戦いは、治承4(1180)年、以仁王の遺命を受けて源頼朝が平家追討の挙兵をしたところです。
この時、相模の名族三浦党の岡崎四郎義実や、その子佐奈田(真田)与一義忠も参陣しました。しかし、急の挙兵のため頼朝軍は僅か300で、攻撃の平家軍は大庭景親以下3000であったため頼朝軍は忽ち苦戦となりました。この時佐奈田与一は15騎で大庭景親の弟、豪勇俣野五郎景久の75騎と戦い、両将組討ちとなり与一が勝ちましたが、俣野は組み敷かれ、与一はこれを討とうとしましたが、刃に付いた血が固まり短刀がさやから抜けず手間取ったうちに駆けつけた敵のために25歳の命を花と散らしました。
与一の郎党文三(豊三)家康(家安)は、主の討死を聞き群がる敵中に飛び入り主人の後を追い討死しました。この後討死の地には与一塚が建てられ与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られました。
佐奈田霊社は、与一が組み合っていたとき、痰がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えによりせき、ぜんそくなどに霊験があるといわれています。
その先100mの処には文三を祀る文三堂があり、共に県指定史跡になっています。
頼朝は建久元(1190)年、伊豆山権現参詣の帰途両墓を訪れ、両人の忠節を偲び涙を流したと伝えられています。
(説明看板などより)
佐奈田霊社 - 01
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佐奈田霊社 - 02
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佐奈田霊社 - 03
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佐奈田霊社 - 04
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佐奈田霊社 - 05
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佐奈田霊社 - 06
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佐奈田霊社 - 07
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佐奈田霊社 - 08
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佐奈田霊社 - 09
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佐奈田霊社 - 10
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石橋山古戦場・佐奈田与一義忠討死の地〔ねじり畑〕です。
佐奈田与一義忠は、治承4年(1180)8月23日、石橋山の戦いで敵の豪将俣野五郎景久を組み伏せましたが、 駆けつけた敵方長尾新六に首を斬られました。この畑に作物を植えると、すべてねじれてしまうという言い伝えがあるそうです。
佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑) - 1
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文三堂は佐奈田与一義忠の郎党、文三(豊三)家康(家安)を祀ってあるところです。
佐奈田与一義忠は、治承4年(1180)8月23日、石橋山の戦いで敵の豪将俣野五郎景久を組み伏せましたが、 駆けつけた敵方長尾新六に首を切られ、この地で討死したと伝えられています。佐奈田与一は15騎で大庭景親の弟、豪勇俣野五郎景久の75騎と戦い、両将組討ちとなり与一が勝ちましたが、俣野は組み敷かれ、与一はこれを討とうとしましたが、刃に付いた血が固まり短刀がさやから抜けず手間取ったうちに駆けつけた敵のために25歳の命を花と散らしました。
与一の郎党文三(豊三)家康(家安)は、主の討死を聞き群がる敵中に飛び入り八人を討ち取った後主人の後を追い討死しました。
頼朝は建久元(1190)年、伊豆山権現参詣の帰途両墓を訪れ、両人の忠節を偲び涙を流したと伝えられています。
与一塚と共に共に県指定史跡になっています。
文三堂 - 1
文三堂 - 1 posted by (C)pismo

文三堂 - 2
文三堂 - 2 posted by (C)pismo

佐奈田霊社の駐車場すぐ近くに石橋山古戦場の碑があります。
治承4(1180)年、以仁王の遺命を受けて源頼朝が平家追討の挙兵をしましたが、石橋山の戦いでは敗れ安房に逃れました。
その後、多くの豪族を味方につけ、鎌倉に戻ることができました。
石碑は源頼朝挙兵八百年祭実行委員会により昭和55(1980)年4月に建立されたものです。題字は当寺の小田原市長 中井一郎氏によるものです。

石橋山古戦場 - 1
石橋山古戦場 - 1 posted by (C)pismo

石橋山古戦場 - 2
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石橋山古戦場 - 3
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Posted at 2012/01/08 22:08:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年12月29日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(2日目その3・湯河原町)

ここからは、箱根から湯河原町へ下っていきます。

最初に訪れたのが、しとどの窟〔土肥椙山巌窟〕です。
このあたりは、今から7・8百年前には杉林でおおわれていたので、土肥椙山と呼ばれていました。 新崎川の上流の山間に杉の埋れ木が発見されるので、当時を想像することができます。
このしとどの窟(土肥椙山巌窟)は、石橋山の戦いで敗れた源頼朝が、身を潜めていたところといわれています。
8月17日、三島大社の祭典の晩、北条時政らと平兼隆の首を取り、伊豆の源氏に組する者たちを集め、 8月19日伊豆を出発し、土肥実平の道案内で日金山を越え、土肥郷(現湯河原町)に着きました。
そして土肥実平の館において作戦を練り、300騎を以て館を出発、いよいよ平家追討の旗挙をし、8月23日に石橋山に於て平家の軍勢総大将大庭景親3000余騎と戦いましたが、およそ10倍以上の敵に多勢に無勢で破れ、一旦土肥へ引返しました。そして、堀口の合戦(鍛冶屋瑞応寺附近)にも敗れたため、土肥実平の守護とみちびきによって 土肥の椙山に逃げかくれました。
実平のお陰で人の知らない谷底のしとどの窟や大木の洞(土肥の大杉)に隠れたり、又小道地蔵において僧純海の気転により床下にかくれ一命を救ってもらいました。そしてこの窟に5日間隠れていました。
その時、梶原景時が、頼朝の居場所を知るが情をもってこれを隠し、この山に人跡なく、向こうの山が怪しいと景親らを導き、頼朝の命を救ったといわれています。
そして、8月28日、真鶴から安房へ向かったといわれています。
この窟は関東大震災にため入口が崩れましたが、水は一年中湧いています。しとどの窟バス停から徒歩10分〜15分程度でつきます。バス停からは谷底へ向かって歩いて行きます。
また、窟の中には観音像群が並んでいます。立像及び座像61体で、小松石に彫刻され、これが安置されている巌窟と共に 中世以後、近郷庶民の信仰習俗を知る上に貴重な資料です。
(説明看板などより)
しとどの窟 - 01
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しとどの窟 - 02
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しとどの窟 - 03
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しとどの窟 - 04
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しとどの窟 - 05
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しとどの窟 - 06
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しとどの窟 - 07
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しとどの窟 - 08
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しとどの窟 - 09
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土肥城は、築城時期や城主などは不明です。
一説は、湯河原駅付近にあった土肥氏の土肥館の詰城だったともいわれています。
ただし、現在に残る曲輪や遺構は戦国時代のもので、北条氏が小田原城の支城としてなんらかの修築をしたものとも想像されます。
現在は、主郭付近の「土肥城趾」石碑、硯石があります。
「土肥城趾」石碑は、揮毫したのは男爵小早川四郎です。小早川氏は、土肥実平の子孫が安芸沼田荘を与えられ、小早川を姓としました。小早川氏は小早川秀秋が関ヶ原の戦いの後断絶しましたが、明治維新の後毛利氏の一門として復活しました。
硯石は、源頼朝が力試しに石を踵で蹴ったところ、その跡が凹んで硯石のようになったことに由来するそうです。
城跡は、しとどの窟バス停の入口から登っていきます。しとどの窟はバス停から下がっていきますが、土肥城は一度登った後なだらかに下がっていきます。
その他城山入口バス停から登っていくルートもあります。しかし、本当は土肥館があった湯河原町市街地の城願寺から登るのが正しいのでしょう。
土肥城 - 01
土肥城 - 01 posted by (C)pismo

土肥城 - 02
土肥城 - 02 posted by (C)pismo

土肥城 - 03
土肥城 - 03 posted by (C)pismo

土肥城 - 04
土肥城 - 04 posted by (C)pismo

土肥城 - 05
土肥城 - 05 posted by (C)pismo

土肥城 - 06
土肥城 - 06 posted by (C)pismo

土肥氏館です。
土肥氏は中村荘司宗平の次男、実平が土肥次郎を名乗ったのが始まりです。
治承4(1180)年源頼朝が伊豆に挙兵した際、石橋山の戦いで危急を救い、鎌倉幕府草創にも活躍しました。
その子孫は安芸の小早川氏、越中土肥氏などです。
湯河原駅前に城址碑があります。またその隣には土肥實平公並びに夫人像が建っています。
源頼朝旗揚げから800年を迎え、土肥会創設50周年を併せた記念として建立されたものとのことです。
(説明看板などより)
土肥氏館跡・土肥實平並びに夫人像 - 1
土肥氏館跡・土肥實平並びに夫人像 - 1 posted by (C)pismo

土肥氏館跡・土肥實平並びに夫人像 - 2
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土肥氏館跡・土肥實平並びに夫人像 - 3
土肥氏館跡・土肥實平並びに夫人像 - 3 posted by (C)pismo

城願寺は山号は萬年山、曹洞宗の寺院です。
土肥氏の持仏堂跡に土肥実平・遠平父子がが建立した寺院で、境内には土肥氏一族の墓地や、樹齢800年の実平手植えのビャクシンの大樹(国指定天然記念物)、七騎堂などがあります。
土肥氏墓所は、広さが10坪、66基の墓石が有り、嘉元2(1304)年7月の銘のある五層の鎌倉様式の重層塔や、永和元(1375)年6月の銘がある宝篋印塔なをはじめ塔芯が球形をした五輪塔など各種の墓型が残っています。
七騎堂は、謡曲「七騎落」にで知られている話で、石橋山の戦いで敗北した頼朝主従八騎は、船で安房に向かうことになるが、頼朝は、源氏にとって「八騎」というのは不吉な数であることから、七騎にするよう土肥実平に命じました。実平は、自分の息子遠平を下船させましたが、遠平は和田義盛の船に救われ、一同が歓喜の酒宴の舞を催したという話です。
七騎堂には、安達盛長、岡崎義実、新開忠氏、源頼朝、土屋宗遠、土肥実平、田代信綱が祀られています。
(説明看板などより)
城願寺 - 01
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城願寺 - 02
城願寺 - 02 posted by (C)pismo

城願寺 - 03
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城願寺 - 04
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城願寺 - 05
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城願寺 - 06
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Posted at 2012/01/08 20:32:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年12月29日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(2日目その2・箱根関所と恩賜箱根公園)

箱根関所は、「入鉄砲」と「出女」を厳しく取り締まったことで知られる江戸幕府の治安維持の重要な拠点でした。
現在の場所に設置されたのは、江戸時代の初期、元和5(1619)年のことといわれています。
中山道の木曽福島、碓氷、東海道の新居、そして箱根の4ヶ所は特に規模も大きく、重要な関所と考えられていました。
明治2(1869)年に明治政府が諸国の関所を全廃したときに廃止されました。
昭和58(1983)年、静岡県伊豆の国市(旧韮山町)にある江川文庫から江戸時代末期、慶応元年(1865)に行われた箱根関所の解体修理の詳細な報告書である「相洲箱根御関所御修復出来形帳」が発見されました。そこで、平成11(1999)年〜平成13(2001)年にかけて、箱根関所の跡地一帯の発掘調査を行い、大番書、上番休憩所、馬屋、雪隠、京口御門などの建物、石垣、石段など構造物の復元を行い、平成16(2004)年度からこれらの建物の公開を始めました。
その後、平成16年(2004)度からは屏風山側の整備を行い、遠見番所、足軽番所、江戸口御門、足軽番所雪隠、京口御門から芦ノ湖へ続く石垣や京口千人溜斜面の石垣の復元工事を行い、さらに周辺整備工事として電線類の地中化の準備や杉並木の保全を行い、平成19(2007)年春に全面公開されました。
前回訪れたのは約10年前、復元はまだされていませんでした。今回復元が完成された姿を見ることができてなによりでした。
箱根関所 - 01
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箱根関所 - 02
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箱根関所 - 03
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箱根関所 - 04
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箱根関所 - 05
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箱根関所 - 06
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箱根関所 - 07
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箱根関所 - 08
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箱根関所 - 09
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恩賜箱根公園は明治19(1886)年、皇室の避暑と外国からの来客用として建てられた箱根離宮の跡地を一般開放した公園です。ここも約10年ぶりに訪れました。
明治初期の建築様式を取り入れた湖畔展望館があり、離宮建設計画の史料や模型を展示しているのですが、年末年始は閉館していました。10年前、ここは霧に包まれ湖以外は何も見えませんでしたが、公園からは雲の合間から富士山を眺めることができてなによりでした。
県立恩賜箱根公園 - 01
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県立恩賜箱根公園 - 02
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県立恩賜箱根公園 - 03
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県立恩賜箱根公園 - 04
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Posted at 2012/01/05 22:54:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年12月29日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(2日目その1・山中城とその周辺)

2日目です。
まずは、箱根の入口、山中城からです。

箱根旧街道は、慶長9(1604)年江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原宿から箱根山を越えて三島宿に至る標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)の区間です。
この旧街道には、通行の人馬を保護する松や杉の並木が作られ、道のりを正確にするための一里塚が築かれました。
また、ローム層の土で大変滑りやすい道なので、やがてその道に竹が敷かれたが、延宝8(1680)年頃には石畳の道に改修されました。
三島市は、貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「腰巻(こしまき)地区」約350mの区間を、可能な限り江戸時代の景観を保って、平成6(1994)年度に復元・整備しました。
発掘調査の結果、石畳は幅2間(約3.6m)を基本とし、道の両側の縁石は比較的大きめの石が、ほぼ直線的に並ぶよう配置されていました。
基礎は作らずにローム層の土の上に敷き並べたもので、石材はこの付近で採石したと思われる、扁平に剥離する安山岩を用いていました。
調査の成果を基に、管理のための下部基礎を設け、石畳がよく残っていた所60mの間には、江戸時代の石を元の位置に戻して復元し、石畳の少なかったところや、全くなかった所約290mの間は、江戸時代の石に加え、神奈川県根府川町で採石した安山岩を補填しました。
(説明看板などより)
山中城・箱根旧街道 - 001
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山中城・箱根旧街道 - 002
山中城・箱根旧街道 - 002 posted by (C)pismo

山中城は、永禄年間に北条氏康が築城しました。城は東海道を取り囲むような形に作られ、北条氏の西の防衛拠点でした。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐の際には、豊臣秀次を主将とする軍に攻められました。豊臣軍は一柳直末が戦死するほどの激戦でしたが、結局半日で落城し、北条方の松田康長、間宮康俊らが戦死しました。
戦後、城は廃城となりました。
昭和5(1930)年、国の史跡に指定されています。
昭和48(1973)年から三島市が公園として整備をはじめ、堀や土塁などの遺構が復元されています。
平成18(2006)年、日本100名城に選定されています。

戦国時代のお城ってこんな風だったのか、と感心するほどよく遺構を復元してあります。変に時代と合わない櫓を造ったりしてあるお城よりも良い復元方法だと思いますし、規模も結構大きいです。


岱崎出丸は標高547m~557m、面積2万平方メートルにおよぶ広い曲輪です。地名の岱崎をとり、岱崎城とよばれることもあります。天正17(1589)年秀吉の小田原征伐に備えて、各曲輪の修築と共にこの出丸の増築を始めたが、短期間のため完成できず、中途で放棄した様子が発掘の結果諸所にあらわれたのも興味深いことす。
この出丸を守ったのは副将間宮豊前守康俊といわれ、壮絶な戦闘をくりひろげ全員が討死したと伝えられています。その墓は三の丸にある宗閑寺に苔むして建てられており、訪れる人の涙をさそっています。
(説明看板などより)
山中城 ・岱崎出丸- 003
山中城 ・岱崎出丸- 003 posted by (C)pismo

山中城 ・岱崎出丸- 004
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山中城 ・岱崎出丸- 005
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山中城・岱崎出丸 - 006
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山中城 ・岱崎出丸- 007
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山中城・岱崎出丸 - 008
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山中城・岱崎出丸 - 009
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山中城・岱崎出丸 - 010
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山中城 ・岱崎出丸- 011
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山中城・岱崎出丸 - 012
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山中城・岱崎出丸 - 013
山中城・岱崎出丸 - 013 posted by (C)pismo

山中城 ・岱崎出丸- 014
山中城 ・岱崎出丸- 014 posted by (C)pismo

三の丸の堀です。三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は大切な防御のための堀です。城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、畝を堀り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三の丸堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としています。
中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸、田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空掘として活用していたものです。この堀の長さは約180m、最大幅約30m、深さは約8mあります。(説明看板などより)
山中城・三の丸堀 - 015
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山中城・三の丸堀 - 016
山中城・三の丸堀 - 016 posted by (C)pismo

田尻の池です。
東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であしたが、山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものであす。山城では水を貯える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられています。しかも西側は「馬舎」と伝承されているところから、この地は馬の飲料水、その他に用いられたものと推定される。築城時の池の面積は約148平方メートルであり、あふれた水は三の丸堀に流れ出ていたようです。(説明看板より)
山中城・田尻の池 - 017
山中城・田尻の池 - 017 posted by (C)pismo

西ノ丸堀は、山中城の西方防備の拠点である西ノ丸にふさわしく、広く深く築城の妙味を発揮しており、堀の末路は谷に連なっています。西櫓と西ノ丸の間は、中央に太い畝を置き、交互に両曲輪にむかって畝を出していますが、西ノ丸の北側では東西に畝をのばして堀内をより複雑にしています。このように複雑な堀の構造は、世に伝えられる「北条流堀障子」の変形であり、学術上の価値も高いものです。(説明看板より)
山中城・西ノ丸 - 018
山中城・西ノ丸 - 018 posted by (C)pismo

山中城・西ノ丸 - 019
山中城・西ノ丸 - 019 posted by (C)pismo

山中城・西ノ丸  - 020
山中城・西ノ丸 - 020 posted by (C)pismo

山中城・西ノ丸 - 023
山中城・西ノ丸 - 023 posted by (C)pismo

山中城・西ノ丸 - 024
山中城・西ノ丸 - 024 posted by (C)pismo

山中城・西ノ丸  - 025
山中城・西ノ丸 - 025 posted by (C)pismo

山中城・西ノ丸 - 026
山中城・西ノ丸 - 026 posted by (C)pismo

山中城 ・西ノ丸 - 027
山中城 ・西ノ丸 - 027 posted by (C)pismo

山中城 ・西ノ丸 - 028
山中城 ・西ノ丸 - 028 posted by (C)pismo

山中城・西ノ丸  - 029
山中城・西ノ丸 - 029 posted by (C)pismo

山中城 ・西ノ丸 - 030
山中城 ・西ノ丸 - 030 posted by (C)pismo

山中城・西ノ丸  - 031
山中城・西ノ丸 - 031 posted by (C)pismo

山中城 ・西ノ丸 - 032
山中城 ・西ノ丸 - 032 posted by (C)pismo

山中城 ・西ノ丸 - 033
山中城 ・西ノ丸 - 033 posted by (C)pismo

山中城 ・西ノ丸 - 034
山中城 ・西ノ丸 - 034 posted by (C)pismo

山中城 ・西ノ丸 - 035
山中城 ・西ノ丸 - 035 posted by (C)pismo

山中城 - 036
山中城 - 036 posted by (C)pismo


北の丸は、標高583m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積も1920㎡と立派な曲輪です。一般に曲輪の重要度は他の曲輪よりも天守櫓により近く、より高い位置、つまり天守櫓との距離と高さに比例するといわれています。この点からも北の丸の重要さがしのばれます。調査の結果、この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面を作り、本丸側を除く三方を土塁で囲んでいたことが判明します。(説明看板より)
山中城・北の丸 - 037
山中城・北の丸 - 037 posted by (C)pismo

山中城 - 038
山中城 - 038 posted by (C)pismo

山中城 - 039
山中城 - 039 posted by (C)pismo

本丸は、標高578m、面積1740㎡、天守櫓と山中城の中心となる曲輪です。周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接しています。この曲輪は盛土によって兵糧庫側から2m前後の段をつくり、二段の平坦面で築かれている。虎口(入口)は南側にあり、北は天守閣と北の丸へ、西は北条丸に続いています。
江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤棚の位置です。(説明看板より)
山中城 ・本丸- 040
山中城 ・本丸- 040 posted by (C)pismo

山中城  ・本丸- 041
山中城 ・本丸- 041 posted by (C)pismo

山中城  ・本丸- 042
山中城 ・本丸- 042 posted by (C)pismo

山中城・駒形諏訪神社の大カシ - 043
山中城・駒形諏訪神社の大カシ - 043 posted by (C)pismo

山中城 ・櫓台- 044
山中城 ・櫓台- 044 posted by (C)pismo

山中城 ・二ノ丸虎口 - 045
山中城 ・二ノ丸虎口 - 045 posted by (C)pismo

山中城 ・二ノ丸虎口 - 046
山中城 ・二ノ丸虎口 - 046 posted by (C)pismo

山中城 - 047
山中城 - 047 posted by (C)pismo

山中城 - 048
山中城 - 048 posted by (C)pismo


ここは古くから箱井戸と伝承されていた所で、発掘調査の結果、箱井戸と西側の田尻の池一帯は湿地帯であったことが確認されました。箱井戸と田尻の池の間は、土塁によって分離され、排水溝によってつながれていました。これは湧水量が多く、一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とすことにより、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための工夫と考えられます。箱井戸の水を城兵の飲料水とし、田尻の池は洗い場や馬の水飲み場等として利用していたのであろう。現在、箱井戸には睡蓮が植えられ花の季節(7~8月頃)には観光客の目を楽しませています。
(説明看板より)
山中城・箱井戸跡 - 049
山中城・箱井戸跡 - 049 posted by (C)pismo

東月山普光院宗閑寺は浄土宗の寺院です。
静岡市の華陽院の末寺で開山は了的上人、開基は間宮豊前守の女お久の方と伝えられています。
ここには山中城落城の際戦死した北条軍、豊臣軍の武将たちの石碑がひっそりと佇んでいます。
間宮豊前守康俊(普光院殿武月宗閑潔公大居士)兄弟とその一族、城主松田右兵衛太夫康長(山中院松屋玄竹大居士)、群馬県の箕輪城主多米出羽守平長定らの墓と共に、豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末(大通院殿天叟長運大禅定門)の墓碑があります。
(説明看板などより)
宗閑寺 - 1
宗閑寺 - 1 posted by (C)pismo

宗閑寺 - 2
宗閑寺 - 2 posted by (C)pismo

宗閑寺 - 3
宗閑寺 - 3 posted by (C)pismo

宗閑寺 - 4
宗閑寺 - 4 posted by (C)pismo
Posted at 2012/01/05 21:56:55 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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