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ピズモのブログ一覧

2011年12月28日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(1日目その5・韮山城、蛭ヶ小島、伝堀越御所跡、北条氏邸跡、北条政子産湯の井戸そして三嶋大社)

韮山城は戦国時代の代表的な平山城として築かれ、築かれた山を通称「龍城山」といいます。
韮山城の最初の築城については明らかではありませんが、「北条五代記」によると、文明年間(1469~1486)堀越公方・足利政知の家臣外山豊前守が城をつくたのが始まりとされています。
その後、延徳3(1491)年、駿河興国寺城にいた伊勢新九郎盛時(北条早雲)が堀越御所の内部の争いにつけ込み、政知の子、茶々丸を滅ぼして伊豆の領主となり、明応2(1493)年に韮山城を本格的に築城したといわれています。早雲はこの地を本拠地として小田原城を奪い、後に韮山にもどり、永正16(1519)年に88歳(ただし諸説有り)で没するまで33年間ここに住みました。
現在の韮山高校の校舎の付近を今も御座敷といい、早雲の居館跡といわれています。
小田原に本拠を移してからも北条氏の西の守りとして韮山城は重きをなしました。永禄末年には時の当主・北条氏康の四男・氏規が城主として入り、伊豆支配の中心地としました。天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐のときは、三千余の将兵をもって4万を超える軍勢に対し約3ヶ月この城を守り通しました。
北条氏規が城を退いた後、徳川家康は内藤信成を城主としていましたが、慶長5(1600)年に移封により韮山城は廃城となりました。山の高い所に本丸、次いで二の丸、権現平、三の丸、塩蔵跡や土塁、空掘、内堀などが残っています。また、周辺には本城を囲むように「土手和田砦」「和田島砦」「天ヶ岳砦」「江川砦」が有り現在も曲輪や土塁が残っているそうです。
(説明看板などより)
韮山城 - 01
韮山城 - 01 posted by (C)pismo

韮山城 - 02
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韮山城 - 03
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韮山城 - 04
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韮山城 - 05
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韮山城 - 06
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韮山城 - 07
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韮山城 - 08
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韮山城 - 09
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韮山城 - 10
韮山城 - 10 posted by (C)pismo

蛭ヶ小島です。
このあたりを、韮山町四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝配流の地といわれています。
狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつがこの蛭ヶ島であったことが想像されます。
永禄元(1160)年、14歳でこの地に流された頼朝は、治承4(1180)年、34歳で旗挙げし、やがては鎌倉幕府を創設することになります。
しかし、配流20年間における住居跡等の細部は詳らかではありません。
吾妻鏡によると山木攻め(頼朝旗揚げ)の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたそうです。このことから考えると、頼朝は、治承元(1177)年頃までの17年間を蛭ヶ小島で過ごしたと考えられます。
当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2(1790)年、豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されています。また、「蛭島碑記」の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の贈呈に当った荻原正夫が、明治26(1893)年に建立したものであす。
また、平成15(2003)年には、蛭ヶ島の夫婦(ふたり)という源頼朝と北条政子の銅像が建立されています。
(説明看板などより)
蛭ヶ小島 - 01
蛭ヶ小島 - 01 posted by (C)pismo

蛭ヶ小島 - 02
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蛭ヶ小島 - 03
蛭ヶ小島 - 03 posted by (C)pismo

蛭ヶ小島 - 04
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伝堀越御所跡は「堀越公方」と呼ばれた足利政知の御所があったと伝えられる場所です。
室町時代の後半、大名の勢力争いが激化し、日本各地で戦乱が起こっていました。とくに関東地方は、京都にある室町幕府に従う勢力と対抗する勢力とが激しく争っていました。そこで、将軍の足利義政が、直接関東地方を支配するため、長禄元(1457)年、鎌倉公方として派遣したのが兄の足利政知です。しかし、政知は戦乱のため関東(鎌倉)まで行くことができず、韮山の堀越(四日町の一部)の地に居館を作って身を落ちつけました。これにより政知は「堀越公方」と呼ばれました。しかしこの御所も、政知の死後、明応2(1493)年に北条早雲によって滅ぼされてしまいました。
(説明看板などより)
時代は異なりますが、北条時政の館跡もこのあたりにあったといわれています。
伝堀越御所跡 - 1
伝堀越御所跡 - 1 posted by (C)pismo

伝堀越御所跡 - 1
伝堀越御所跡 - 1 posted by (C)pismo

伝堀越御所跡 - 2
伝堀越御所跡 - 2 posted by (C)pismo

伝堀越御所跡 - 3
伝堀越御所跡 - 3 posted by (C)pismo

北条氏邸跡は鎌倉時代の執権として活躍した北条氏の館跡があったところです。
狩野川の東岸にある守山の北西部の小さな谷になっているところで、ここを含めて伊豆北条と呼ばれた一帯(現在の寺家、四日町付近)は平安時代末期から鎌倉時代にかけて北条氏の本拠地であった場所です。
が位置する守山は北条氏の本拠地で鎌倉時代に伊豆北條と呼ばれていました。守山の東側には氏寺である願成就院が建てられ、北西側の谷の内部には館が建てられました。
元弘2(1333)年、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻りました。そして、一族の中の円成尼という女性が中心になって、邸宅の跡に寺院を建て、北条氏の冥福を祈ったのが円成寺です。円成寺は室町時代にも尼寺として続き、江戸時代まで続いたことが分かっています。
発掘調査では平安時代末から鎌倉時代はじめにかけての大量の出土遺物とともに建物跡が発見され、北条氏の館があることが確認されました。その他北条氏滅亡後の円成寺跡に関連する池や溝が発見され、北条氏の興亡を物語る遺跡として国指定史跡に指定されました。(説明看板などより)
北条氏邸跡(円城寺跡) - 1
北条氏邸跡(円城寺跡) - 1 posted by (C)pismo

北条氏邸跡(円城寺跡) - 2
北条氏邸跡(円城寺跡) - 2 posted by (C)pismo

北条政子産湯の井戸です。
尼将軍北条政子が生まれた地で、現在は産湯の井戸と伝えられているものが残っています。
井戸水は安産に効験ありとされ、妊婦のいる家ではこの水を汲み、安産を祈る風習が近年までありました。
場所は堀越御所のすぐ南側にあります。
北条政子産湯の井戸 - 1
北条政子産湯の井戸 - 1 posted by (C)pismo

韮山の史跡めぐり、そして1日目の史跡めぐりはここまでです。
しかし、宿泊地が三島市だったので、夜になっていましたが、三嶋大社にお参りしました。
三嶋大社は、大山祇命(おおやまつみのみこと)、事代主神(ことしろぬしのかみ)の二柱を祀る神社です。伊豆国の一宮です。
ご創建の時期は不明ですが、中世以降、武士の崇敬を集めていました。
源頼朝が源氏再興を祈願した神社としても有名で、頼朝や政子ゆかりのものも多く残されています。
三嶋大社 - 1
三嶋大社 - 1 posted by (C)pismo

三嶋大社 - 2
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Posted at 2012/01/04 22:22:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年12月28日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(1日目その4・韮山の江川邸、香山寺、山木館、本立寺)

久し振りに韮山を訪れました。
最初は、江川邸〔江川家住宅・韮山役所跡〕を見学です。江川太郎左衛門英龍(坦庵)も住んでいた江川邸です。
江川家は清和源氏、源満仲の次男宇野頼親を家祖とし、宇野姓を名乗っていました。6代親治の時に保元の乱が起き、崇徳上皇方についたため、その孫親信が従者十三人と共に落ちのびてこの地に定住しました。
親信の子治信は源頼朝の挙兵に応じて参戦しました。その後、鎌倉、室町時代に伊豆の豪族として地盤を固め、15世紀中頃にこの地を流れていた狩野川の支流にちなんで姓を江川と改めました。
北条早雲の伊豆進出の際には23代英住が土地を提供して韮山城を築城させ、北条氏5代に仕えていました。
28代英長は徳川家康に仕え、江戸幕府により伊豆が幕府の直轄領になったため代官としてこの地を明治維新に至るまで治めていました。当主は代々太郎左衛門を世襲し、幕末の太郎左衛門英龍(坦庵)は反射炉を築くなど開明思想家、革新的技術者として知られています。
母屋は700年の年代物で昭和33(1958)年に国の重要文化財に指定されています。母家、土蔵などには江川坦庵の遺品などを展示しています。
敷地内にはパン祖の碑があります。パン祖江川坦庵は、江戸末期に兵隊の食料としてパンの重要性に着目し、手代に製造法を学ばせた話が残っています。碑は坦庵をたたえて昭和28(1953)年に建てられました。
母家、附属建物を含む敷地と周辺の土地は韮山役所跡として、平成16(2004)年に国の史跡に指定されています。
江川邸 - 01
江川邸 - 01 posted by (C)pismo

江川邸 - 02
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江川邸 - 03
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江川邸 - 04
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江川邸 - 05
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江川邸 - 06
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江川邸 - 07
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江川邸 - 09
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江川邸 - 10
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江川邸 - 11
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江川邸 - 12
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江川邸 - 13
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江川邸 - 14
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江川邸 - 15
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江川邸 - 16
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香山寺は、山号は景雲山、臨済宗建長寺派の寺院で山木判官平兼隆の菩提寺として知られています。
久寿元(1154)年八牧(山木)判官平兼隆開基により建立されました。兼隆は源頼朝の挙兵により館を襲われ治承4(1180)年8月17日に逝去しました。
当寺は臨済宗ではなく、密教だったといわれています。寺号は山木兼隆の法名「香山寺殿興峰兼隆大禅定門」によります。その後鎌倉時代に寺は衰えていましたが、足利尊氏の祖父足利家時が仏乗禅師を請じて開祖としました。
この時臨済宗に改めたといわれています。
その後足利氏の末世、天下争乱の世となり寺門は頽廃しましたが、北条早雲が諸堂伽藍を整備し境内地25261坪を寄進しましたが、秀吉の小田原攻めで宝物器具を焼失しました。
慶長2(1597)年韮山城主内藤信成が再興しましたが、嘉永6(1853)年類焼により堂宇・宝物・古記録等残らず灰燼に期しました。現在の山門は元韮山県庁の門で、境内には山木判官平兼隆の墓があります。
(説明看板などより)

香山寺 - 1
香山寺 - 1 posted by (C)pismo

香山寺 - 2
香山寺 - 2 posted by (C)pismo

香山寺 - 3
香山寺 - 3 posted by (C)pismo

山木館は、平安時代末期伊豆目代をつとめていた山木判官平兼隆の居館跡です。
兼隆は京にあった時に流罪となり伊豆へ送られてきたが、この地に館を構え、伊豆目代(として源頼朝の監視の役目を務めていました。
治承4(1180)年8月17日、源頼朝が以人王の平家討伐の令旨を受け挙兵した際、頼朝に最初に攻撃されました。
山木館は郎党の多くが三島大社に出かけて手薄であり、兼隆は加藤景廉に討ち取られました。
江川邸周辺には山木館への矢印などが設置されていますが、一部設置していない箇所もあり、矢印だけでたどりつくのは困難です。
現地は「この先の高台一帯が平兼隆館の跡です。」と書かれた看板と、民家の庭先にある石碑のみが館跡を偲ばせています。
山木館 - 1
山木館 - 1 posted by (C)pismo

山木館 - 2
山木館 - 2 posted by (C)pismo

本立寺は、山号は大成山、日蓮宗の寺院です。
比叡山で修行中の大檀那江川家16代当主江川太郎左衛門英親が日蓮聖人を当地に招き、そのおり日蓮聖人より御自筆の火伏の曼荼羅を授与され、家門繁栄・子孫長久の祈願を奉行されました。
時代は下り、永正3(1506)年6月、江川家24代英盛公が邸内にあった大乗庵を当地に移し本立寺を建立しました。
現在の本堂は、昭和3(1928)年4月8日、落慶入仏式を奉行しました。
本堂裏に江川家代々の墓碑が並んでいます。

本立寺 - 1
本立寺 - 1 posted by (C)pismo

本立寺 - 2
本立寺 - 2 posted by (C)pismo

本立寺 - 3
本立寺 - 3 posted by (C)pismo

本立寺 - 4
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Posted at 2012/01/04 21:08:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年12月28日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(1日目その3・清水町)

黄瀬川近くの八幡神社は、主神を応神天皇とし、比売神・神功皇后を祀る神社です。
創建年代については不明ですが、治承4(1180)年、源頼朝が富士川の合戦時にこの地に陣を置きこの時勧請したもの、または湯川の小河泉水神社に鎮座していた八幡神社をここに遷座したものなど様々な説があります。
本殿の左後ろ側に頼朝と義経ゆかりの対面石があります。
治承4(1180)年10月、平家の軍勢が富士川のあたりまで押し寄せてきたとき、鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣しました。
たまたま奥州からかけつけた弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙に暮れたといわれています。
この対面の時に、兄弟が腰掛けた二つの石を対面石といいまs。
また、この時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったのでねじってかたわらに捨てました。すると、後に芽を出し二本の立派な柿の木に成長し、この二本は幹を絡ませねじりあっていたので、いつしかねじり柿と土地の人は呼ぶようになりました。(説明看板などより)
平成17(2005)年の大河ドラマ「義経」の第15回「兄と弟」の義経紀行で「対面石」として紹介されました。
黄瀬川八幡神社 - 1
黄瀬川八幡神社 - 1 posted by (C)pismo

黄瀬川八幡神社 - 2
黄瀬川八幡神社 - 2 posted by (C)pismo

黄瀬川八幡神社 - 3
黄瀬川八幡神社 - 3 posted by (C)pismo

黄瀬川八幡神社 - 4
黄瀬川八幡神社 - 4 posted by (C)pismo

戸倉城は戦国時代に北条氏綱が築いたといわれています。
現在は駿東郡清水町にありますが、かつては伊豆国に所在していました。
伊豆、駿河の国境を守る城で、狩野川を活かした要害の城でした。
永禄11(1568)年から元亀2(1571)年にかけて駿河に攻め込んだ武田信玄と北条氏は、この戸倉城で戦っています。
また天正8(1580)年、武田勝頼は沼津三枚橋城に本拠をおいて戸倉城を攻撃しました。北条方の城将笠原新六郎政尭(政晴)はよく城を守っていましたが、天正9(1581)年武田方に寝返って城は武田方のものとなりました。
天正10(1582)年、武田氏の滅亡と共に戸倉城は再び北条氏のものとなりました。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原城征伐が始まると、北条氏は戸倉城を捨てて韮山城へ退いたといわれています。
現在は、本城山公園となっており、主郭部は山頂広場となっています。城主の居館は龍泉寺内にあったそうです。
(説明看板などより)
戸倉城 - 01
戸倉城 - 01 posted by (C)pismo

戸倉城 - 02
戸倉城 - 02 posted by (C)pismo

戸倉城 - 03
戸倉城 - 03 posted by (C)pismo

戸倉城 - 04
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Posted at 2012/01/04 20:32:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年12月28日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(1日目その2・駿府城)

駿府城は、室町時代に築かれた今川館が前身です。
永禄3(1560)年に今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11(1568)年武田信玄により駿府を追われました。
天正10(1582)年の武田氏滅亡後、駿河を支配下に置いた徳川家康は、天正13(1585)年には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。
しかし徳川家康は、天正18(1590)年豊臣秀吉により関東に移封され、中村一氏が駿府城の城主になりました。
関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長8(1603)年に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10(1605)年に将軍職を息子秀忠に譲り、慶長12(1607)年には大御所として再び駿府に入りました。しかし、失火により完成目前で焼失し、慶長15(1610)年に再建されました。元和2(1616)年に家康が没するまで、駿府は江戸と並ぶ政治経済の中心地となりました。城主は、慶長14(1609)年に家康の10男頼宣がなった後は、寛永元(1624)年に秀忠の2男忠長が城主となりました。しかし、寛永8(1632)年に忠長が改易した後は、天領となり、城代と定番が置かれました。
明治元(1868)年、徳川家達が江戸から駿府に移りました。明治2(1869)年に駿府は静岡と改称され、明治3(1870)年以降、城門等が取り壊されました。
平成元(1989)年、復元巽櫓が完成し、平成8(1996)年には復元西ノ丸東御門が完成しました。ちゃんと木造で復元され、内部は資料館になっています。
平成18(2006)年には日本100名城に指定されています。
駿府城 - 01
駿府城 - 01 posted by (C)pismo

駿府城 - 02
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駿府城 - 03
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駿府城 - 04
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駿府城 - 05
駿府城 - 05 posted by (C)pismo

駿府城 - 06
駿府城 - 06 posted by (C)pismo

駿府城 - 07
駿府城 - 07 posted by (C)pismo

駿府城 - 08
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駿府城 - 09
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紅葉山庭園は、平成13(2001)年に、駿府城二ノ丸跡の一部に作られた日本式回遊庭園です。かつて駿府城の本丸には紅葉山という庭園がありましたが、そのことにちなみ駿府公園内に整備されました。
気軽に静岡名産のお茶を楽しめる茶室があります。
駿府城・紅葉山庭園 - 10
駿府城・紅葉山庭園 - 10 posted by (C)pismo

駿府城・紅葉山庭園 - 11
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駿府城・紅葉山庭園 - 12
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駿府城・紅葉山庭園 - 13
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駿府城・紅葉山庭園 - 14
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駿府城・紅葉山庭園 - 15
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駿府城・紅葉山庭園 - 16
駿府城・紅葉山庭園 - 16 posted by (C)pismo

駿府城・紅葉山庭園 - 17
駿府城・紅葉山庭園 - 17 posted by (C)pismo

駿府城・紅葉山庭園 - 18
駿府城・紅葉山庭園 - 18 posted by (C)pismo

駿府城・紅葉山庭園 - 19
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駿府城・家康公お手植えのミカン- 20
駿府城・家康公お手植えのミカン- 20 posted by (C)pismo

駿府城跡は現在は駿府公園として整備されています。公園の中心部、かつての本丸付近には家康公の鷹狩りの銅像があります。
晩年に大御所として駿府で実権をふるった時代の姿を現したものだそうです。

駿府城・本丸跡徳川家康公銅像 - 21
駿府城・本丸跡徳川家康公銅像 - 21 posted by (C)pismo

駿府城・本丸跡徳川家康公銅像 - 22
駿府城・本丸跡徳川家康公銅像 - 22 posted by (C)pismo

駿府城 - 23
駿府城 - 23 posted by (C)pismo

次は、伊豆の方に向けて車を走らせます。
Posted at 2012/01/02 16:14:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年12月28日 イイね!

静岡・箱根・小田原・山梨・伊那ドライブ(1日目その1・掛川城)

この日から恒例の年末ドライブ。
東海道の日本100名城を中心に回ります。

まずは、掛川城から回ります。
掛川城大手門 - 1
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掛川城大手門 - 2
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掛川城大手門 - 3
掛川城大手門 - 3 posted by (C)pismo

掛川城大手門 - 4
掛川城大手門 - 4 posted by (C)pismo

まだ朝早かったので、天守や二の丸御殿はまだ開いていません。
そのため、まずは近くの掛川古城を訪れました。
掛川古城は、文明年間(1469~1487)に駿河の今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に築城を命じ築かせた城です。
泰煕は、はじめ子角山(天王山)に掛川城の前身となる、この掛川古城を築城しました。その後、信濃から小笠原氏の侵攻に備えて、永正10(1513)年頃、この古城の南西方向にある龍頭山に、新城を築きました。これが現在の掛川城の前身となる城です。
その後、掛川古城は掛川城の北東を守る出城的な存在となりました。
永禄11(1568)年、武田信玄の駿河侵攻で駿府の今川館を逃れた今川氏真が重臣の朝比奈泰朝を頼って掛川に逃れてきました。
徳川家康は、今川氏真の籠る掛川城を攻めるため、翌永禄12(1569)年に掛川古城の子角山(天王山)を奪取し、本陣として使用しました。
明暦2(1656)年には、当時の掛川城主だった北条氏重が、掛川古城本丸跡に徳川家光を祀る「龍華院大猷院殿霊屋」を建立しました。
本丸東側には土塁の跡が残されており、その東側には大堀切が良好に残されています。堀切を挟んで東側の二の丸は公園となっています。
掛川古城・龍華院 - 01
掛川古城・龍華院 - 01 posted by (C)pismo

龍華院は山号は天王山、天台宗の寺院です。
龍華院大猷院霊屋(りゅうげいんたいゆういんおたまや)は、龍華院境内にあります。
明暦2(1656)年掛川城主北条氏重が幕府に願い出て、徳川3代将軍家光の霊牌を祀るために建てたものです。当時の建物は文化15(1818)年3月火災によって失われ、文政5(1822)年当時の藩主太田氏によって再建されました。
建物内部には春日厨子があり、霊牌を祀ります。昭和29(1954)年春日厨子を含め、静岡県文化財に指定されました。
霊屋は嗣子の無い氏重が断絶の打開策として建立したといわれていますが、氏重の死去に伴い、家は断絶、領地は没収となりました。
霊屋が立つ地には、掛川古城の本曲輪があった場所です。
(説明看板などより)

掛川古城・龍華院 - 02
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掛川古城・龍華院 - 03
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掛川古城・龍華院 - 04
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掛川古城・龍華院 - 05
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掛川古城・龍華院 - 06
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掛川古城・龍華院 - 07
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掛川古城・龍華院 - 08
掛川古城・龍華院 - 08 posted by (C)pismo

そして、9時になったので掛川城に。

掛川城は当初は明応6(1497)年〜文亀元(1501)年に今川氏が遠江支配の拠点として家臣の朝比奈泰煕が現在の掛川城の東側に築きました。
その後、掛川古城では手狭になり永正9(1512)年〜永正10(1513)年に現在の地に掛川城が築かれました。
代々朝比奈氏が城主でしたが、永禄11年(1568年)、朝比奈氏の主家の今川氏が甲斐国の武田信玄・三河国の徳川家康の両大名に攻められると、今川氏真は、掛川城に逃れました。城主朝比奈泰朝はよく城を守りましたが、多勢に無勢で、主君を安全に小田原に逃すことを約束し、徳川家康に城を明け渡しました。城は家康の重臣石川家成・康通親子が守ることになりました。
その後、対武田家の最前線として重要な城でしたが、徳川家康の関東移封により山内一豊が城主となります。現在の掛川城は山内一豊時代の改修によるものです。
江戸時代は多くの譜代大名が城主となりましたが、最終的には延享3年(1746年)に太田氏が入封し、幕末まで続きました。
江戸時代末期の安政元(1854)年に地震により天守など大半がは崩壊しました。
御殿、太鼓櫓、蕗の門など一部を除き再建されることなく明治維新を迎え、明治2(1869)年廃城となりました。
天守は平成6(1994)年木造で復元されています。
二ノ丸御殿は安政の大地震の後安政2(1855)年から文久元(1861)年にかけて太田資功により再建されました。
その後女学校、掛川町役場、掛川市役所、農協、消防署などに使用されていました。その後、江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建物として昭和47(1972)年から昭和50(1975)年まで保存修理が実施され、昭和55(1980)年1月26日、国の重要文化財に指定されました。
平成18(2006)年に日本100名城に指定されています。
掛川城 - 01
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掛川城 - 02
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掛川城 - 03
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掛川城 - 04
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掛川城 - 05
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掛川城 - 07
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掛川城 - 08
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掛川城 - 20
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次は、駿府城へ向かいます。
Posted at 2012/01/02 14:58:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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