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ピズモのブログ一覧

2012年03月24日 イイね!

名古屋・知多半島ドライブ(その5・水野氏発祥の地・東浦町〜刈谷市)

東浦町にある緒川城は、水野氏ゆかりの城です。
緒川城は水野貞守が文明年間(1469~1487)に築城したと伝えられています。比高8メートルの台地に築かれ、主郭は東西83メートル、南北95メートルの平城でした。 水野忠政の娘で、徳川家康の生母於大の方(伝通院)が生まれた所でもあります。
忠政の死後、信元は今川氏から織田氏についたため、今川方であった岡崎城の松平広忠は妻於大と離別しました。
天正3(1575)年、信元は、織田信長に甲斐武田氏との内通を疑われたため、家康の命にて殺されましたが、天正8(1580)年、水野氏は帰参を許され、刈谷城には信元の末弟忠重が入り、緒川城には水野忠守が緒川新城を築いて居城としました。
その後忠重が豊臣秀吉に仕えた際には、忠守は緒川城を離れて徳川家康に仕えました。慶長6(1601)年、関ヶ原合戦の戦功で水野分長が緒川城1万石が与えられて緒川城主となりましたが、慶長7(1606)年に新城城に移封となり廃城となりました。
土塁の南側は公園になっており「伝通院於大出生地」の碑があり、土塁を上ると、「緒川城址」の碑と看板があります。
緒川城 - 1
緒川城 - 1 posted by (C)pismo

緒川城 - 2
緒川城 - 2 posted by (C)pismo

刈谷市は、東浦町から水野氏が居城を移した地です。

楞厳寺は、山号は神守山、曹洞宗の寺院です。
応永20(1413)年に浜松普済寺の利山義聡が創建しました。
水野忠政の時代、第7世・古堂周鑑の時に水野氏の菩提寺となりました。徳川家康の生母於大(伝通院)も松平広忠に離縁され刈谷に戻っているときに度々参禅しています。
「伝通院画像」は県指定文化財、「伝通院調度品」「華陽院画像」「水野忠重画像」は市指定文化財となっています。
また、境内に水野家廟所(市指定文化財・水野信元(忠政の子)らの墓)があります。
楞厳寺 - 1
楞厳寺 - 1 posted by (C)pismo

楞厳寺 - 2
楞厳寺 - 2 posted by (C)pismo

本刈谷神社は、元刈谷地内にあった八雲社・北野社、熊村地内にあった八幡社の3社が合祀され、八雲社のあった場所に奉還して本刈谷神社となった神社です。
3社の祭神であった須佐之男命・菅原道真・誉田別命を祀っています。
八幡社は、文武天皇の大宝年間(701〜703)年に建立され、当地開闢の祖神を祀るといわれ、歴代の刈谷城主の最も信仰された3社の内の1社でした。
八雲社は伏見天皇永仁2(1295)年10月に勧請され、牛頭天王さまと称しましたが、明治元(1868)年八雲社と改めました。
北野社は天文年間(1532〜1534)年野口天満宮と称しましたが、明治元(1868)年北野社と改めました。
以上の3社を大正2(1913)年10月12日に旧八雲社社地に合祀しました。
神社は衣浦を挟んだ三河地方最大の縄文晩期貝塚として位置付けられている本刈谷貝塚跡(県指定史跡)の上にあります。貝塚から出土した縄文晩期前葉の土器文化を代表する元刈谷式土器や石製品、骨角・貝製品、人骨などは刈谷市郷土資料館で展示されています。
また、刈谷古城は、神社の北側にあったようです。刈谷古城は、緒川城主水野貞守が文明の初め頃築城したと言われており貞守の後、賢正、清忠と続き、忠政のとき新たな城(刈谷城)を築いて移り、以降廃城となったそうです。
(現地説明板などより)

本刈谷神社 - 1
本刈谷神社 - 1 posted by (C)pismo

本刈谷神社 - 2
本刈谷神社 - 2 posted by (C)pismo

刈谷城(刈屋城)は、天文2(1533)年に水野忠政が金ヶ小路のほとりに築城しました。
忠政は刈谷築城後、本拠地を緒川から刈谷に移しました。
天正3(1575)年、水野忠政の子水野信元は、佐久間信盛の讒により武田方への内通を疑われ、信長の命を受けた家康により大樹寺で殺害されました。
その後、刈谷城は佐久間信盛の領地となりましたが、後に信盛は織田信長に追放されたため、水野信元の弟水野忠重が城主となりました。その後、水野忠重、勝成と続きましたが、元和2(1616)年、大坂の陣の功績により勝成は大和郡山に移封され、代わりに勝成の弟水野忠清が上野小幡藩から入封しました。その後水野忠清は寛永9(1632)年に三河吉田に移封されその後は松平(深溝)、松平(久松)、稲垣、阿部、本多、三浦と譜代大名が交代で城主となりました。
延享4(1747)年、土井利信が城主となり、ようやく土井氏の支配が定着し明治維新まで続きました。
明治4(1871)年の廃藩置県後、刈谷城は政府の所有となり、城郭の建造物は取り払われました。
大正2(1913)年大野介蔵に売却され、旧城跡を永久に保存することとなりました。
昭和11(1936)年、町から旧城跡を公園にしたいと意見書が出され、刈谷町に売り渡され、翌年には亀城公園となりました。
昭和16(1941)年太平洋戦争が勃発、戦争末期には城跡の高台が高射砲陣地となり、うっそうとしていた大木も切り払われ、荒れ果てた姿となってしまいました。
(現地説明板などより)
刈谷城 - 01
刈谷城 - 01 posted by (C)pismo

刈谷城 - 02
刈谷城 - 02 posted by (C)pismo

刈谷城 - 03
刈谷城 - 03 posted by (C)pismo
建物や石垣は残っていませんが、本丸に土塁が少しだけ残っているのと、東側の堀が池となっています。
刈谷城 - 04
刈谷城 - 04 posted by (C)pismo

刈谷城 - 05
刈谷城 - 05 posted by (C)pismo

刈谷城 - 06
刈谷城 - 06 posted by (C)pismo

刈谷城 - 07
刈谷城 - 07 posted by (C)pismo

刈谷城 - 08
刈谷城 - 08 posted by (C)pismo

刈谷城 - 09
刈谷城 - 09 posted by (C)pismo

刈谷城 - 10
刈谷城 - 10 posted by (C)pismo

刈谷城 - 11
刈谷城 - 11 posted by (C)pismo

刈谷城 - 12
刈谷城 - 12 posted by (C)pismo

刈谷城 - 13
刈谷城 - 13 posted by (C)pismo

文礼館は、土井氏が西尾藩主であった時に藩士の子弟教育のために設立されたといわれています。
土井氏が刈谷に転封後、天明3年(1783)年に美濃出身の儒者秦子恭を招き藩校をひらきました。その後、一時途絶えますが、慶応4(1868)年5月に再興されました。
西尾藩時代に儒者である細井広沢に命じて書かせた文礼館の扁額は刈谷市指定文化財に指定され、刈谷市郷土資料館分室に展示されています。
現地の隣には大正6(1917)年に建てられた刈谷図書館碑があります。
(現地説明板などより)
刈谷市城町図書館の前に石碑と案内板があります
文礼館跡 - 1
文礼館跡 - 1 posted by (C)pismo

文礼館跡 - 2
文礼館跡 - 2 posted by (C)pismo

椎の木屋敷は、刈谷城の谷を隔てた東北に位置し、椎の木が数多く茂り、いつの代からか椎の木屋敷と呼ばれていました。
藩政期には霊地として一般の人の出入は禁じられ中央に五輪塔が数基あったといわれています。
初代の刈谷城主水野忠政の娘である於大の方が岡崎城主松平広忠に嫁いで竹千代(家康の幼名)を生み、のち離縁になって刈谷に帰されこの地に住まわれました。
於大の方はやがて阿久比の久松俊勝に再嫁しました。
明治4(1871)年、井野氏がこの土地を譲り受けて、庵堂を設け、大部分を庭園として古い昔の面影を残していましたが今は宅地化されその趣を失いました。
刈谷市は、市制三十周年記念事業としてこの土地の一部を譲り受け、慈母の鏡である於大の方を顕彰し、由緒ある旧跡として保存することになりました。
(現地説明板などより)
現在は東屋と於大の方の座像を配した庭園として整備されています。
椎の木屋敷跡 - 01
椎の木屋敷跡 - 01 posted by (C)pismo

椎の木屋敷跡 - 02
椎の木屋敷跡 - 02 posted by (C)pismo

椎の木屋敷跡 - 03
椎の木屋敷跡 - 03 posted by (C)pismo

椎の木屋敷跡 - 04
椎の木屋敷跡 - 04 posted by (C)pismo

椎の木屋敷跡 - 05
椎の木屋敷跡 - 05 posted by (C)pismo

椎の木屋敷跡 - 06
椎の木屋敷跡 - 06 posted by (C)pismo

ここでこの日の史跡めぐりは終了です。
Posted at 2012/04/21 23:22:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年03月24日 イイね!

名古屋・知多半島ドライブ(その4・久松松平氏発祥の地・阿久比町〜大野城〜大草城)

阿久比町は、久松氏(久松松平氏)発祥の地として知られています。

洞雲院は、正式には龍渓山久松寺洞雲院(りゅうけいざんきゅうしょうじとううんいん)といいます。
天暦2(948)年、菅原道真の孫である菅原雅規が天台宗の久松寺として創建したといわれています。雅規は幼名を久松麿といい、後に英比丸、英比殿と称されました。
明応3(1494)年、雅規の後裔である久松定益が曹洞宗の洞雲院として再建し、七堂伽藍と四つの塔頭を整備しました。開山には加木屋普済寺在室岱存大和尚を迎えました。
天文16(1547)年久松俊勝のもとに徳川家康の生母於大の方が再嫁しました。阿久比在城15年間に3男4女の計7人の子女を出生しました。
俊勝の子は松平姓に改められ、後に桑名城主、松山城主をはじめ多くの大名、旗本となりました。
境内墓地には英比殿、於大の方など13基の墓があります。於大は慶長7(1602)年,京都の伏見城で息を引き取るが,彼女の遺髪は洞雲院の墓所に納められました。
また、例年3月16日には、於大の方が女性の幸福招来を願って始まった観音懺法会、通称「おせんぼ」が行われます。
(説明看板などより)
洞雲院 - 01
洞雲院 - 01 posted by (C)pismo

洞雲院 - 02
洞雲院 - 02 posted by (C)pismo

洞雲院 - 03
洞雲院 - 03 posted by (C)pismo

洞雲院 - 04
洞雲院 - 04 posted by (C)pismo

坂部城は、久松定益が築城したと言われる平城で、当時は阿古屋城、阿久居城とも呼ばれたと言われています。
「尾張誌」には、「坂部村には、其跡東西40間(約73m)、南北50間(約90m)、英比(あぐい)の城ともいう。久松佐渡守菅原俊勝の居城なり」と記されています。
徳川家康の於大の方は、天文16(1547)年、坂部城主の久松俊勝のもとに再嫁し、俊勝が岡崎城代として移るまでの15年間在城しました。
その間、熱田や駿府で人質の身であった家康に、励ましの手紙や衣類を贈り続け、後に徳川家康の運命や人間形成に大きな影響を与えたと言われています。
桶狭間の戦いを控えた永禄3(1560)年5月17日、於大の方と家康(当時、松平元康)は、この地で母子16年ぶりの感激の再会を果しました。
天正5(1577)年佐久間信盛におとしいれられ、城主の久松信俊(俊勝の長男)は大阪四天王寺にて切腹させられました。坂部城は信盛の手勢によって攻められ、落城炎上したと伝えられています。
(説明看板などより)
現在は城山公園になっています。本丸跡には久松松平氏の後裔でもあるNHKアナウンサー・松平定知氏の来山記念碑や松平定知氏の従兄弟でNHKに在籍していた磯村尚徳氏の「多く苦しむもの 多く学ぶ」と彫られた石碑などが建っています。
坂部城 - 01
坂部城 - 01 posted by (C)pismo

坂部城 - 02
坂部城 - 02 posted by (C)pismo

坂部城 - 03
坂部城 - 03 posted by (C)pismo

坂部城 - 04
坂部城 - 04 posted by (C)pismo

坂部城 - 05
坂部城 - 05 posted by (C)pismo

坂部城 - 06
坂部城 - 06 posted by (C)pismo

坂部城 - 07
坂部城 - 07 posted by (C)pismo

坂部城 - 08
坂部城 - 08 posted by (C)pismo

宮津城は、英比柳審城(あぐいりゅうしんじょう)ともいい、新海氏の居城だったといわれています。
現在は、秋葉神社となっています。
秋葉神社は、「火之迦具土神を祭神として祀られていて防火の神様として広く民衆に敬われています。
宮津城(秋葉神社) - 1
宮津城(秋葉神社) - 1 posted by (C)pismo

宮津城(秋葉神社) - 2
宮津城(秋葉神社) - 2 posted by (C)pismo

宮津城(秋葉神社) - 3
宮津城(秋葉神社) - 3 posted by (C)pismo

次は常滑市です。
大野城は宮山城ともいい、室町時代は一色氏の城でしたが、戦国時代には近江から移住してきた佐治氏が居城としていました。
四代(初代宗貞、2代為貞、3代信方、4代一成)に渡り、この地を支配していました。3代・信方は織田信長の妹にあたるお犬の方を嫁にもらい織田家とは親族関係になりました。
4代一成は、信長の姪・お江を娶りましたが、天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いで、合戦後に家康が三河へ帰陣する途中の佐屋街道の渡しにおいて家康に船を提供したため、秀吉の怒りを買い大野を退去し、お江とは離縁させられました。
一成の後に、信長の弟・織田有楽斎長益が入りましたが、水利の悪さから、大草城を築いて移ったため、大野城は廃城となりました。
城跡は城山公園となっています。昭和47(1972)年11月に近隣公園として都市計画決定され、この地が昭和43(1968)年に市指定文化財として大野城址とされていたことから、城建設の機運が高まりました。
模擬天守風の展望台は、昭和54(1979)年度に工事に着手し、翌年4月に竣工しました。
平成23(2011)年の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の第13回「花嫁の決意」の江紀行で「大野城(城山公園)」として紹介されました。
大野城 - 01
大野城 - 01 posted by (C)pismo

大野城 - 02
大野城 - 02 posted by (C)pismo

大野城 - 03
大野城 - 03 posted by (C)pismo

大野城 - 04
大野城 - 04 posted by (C)pismo

大野城 - 05
大野城 - 05 posted by (C)pismo

大野城 - 06
大野城 - 06 posted by (C)pismo

大野城 - 07
大野城 - 07 posted by (C)pismo

大野城 - 08
大野城 - 08 posted by (C)pismo

大野城 - 09
大野城 - 09 posted by (C)pismo

大野城 - 10
大野城 - 10 posted by (C)pismo

次は、知多市になりますが大野城と目と鼻の先にある大草城です。

大草城は、織田長益(有楽斎・信長の弟)が天正10(1582)年の本能寺の変の後、この地を与えられ大野城(常滑市)に入りましたが、高地で水利が悪かったため、この地に新たに築こうとしていた城です。
天正12(1584)年の小牧長久手の戦いの後、長益は秀吉に仕え、しばらくして摂津国味舌に移封されたため、城は地形の普請が大体終わったところで放棄され、廃城となりました。
寛文6(1666)年、尾張藩の徳川義直、光友に仕えた重臣である山澄淡路守英龍が城址の西南に屋敷を構え、城址の保存に力を注ぎました。
城跡は現在、大草公園となっています。本丸、二の丸と周囲の土塁、堀の大部分がよく残っています。また、本丸には模擬天守風の展望台が作られています。
大草城 - 01
大草城 - 01 posted by (C)pismo

大草城 - 02
大草城 - 02 posted by (C)pismo

大草城 - 03
大草城 - 03 posted by (C)pismo

大草城 - 04
大草城 - 04 posted by (C)pismo

大草城 - 05
大草城 - 05 posted by (C)pismo

大草城 - 06
大草城 - 06 posted by (C)pismo

次は、水野氏発祥の地、東浦町と刈谷市です。
Posted at 2012/04/21 23:04:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年03月24日 イイね!

名古屋・知多半島ドライブ(その3・美浜町、源義朝最後の地関連史跡と河和城)

名古屋の次は、知多半島です。
まずは、美浜町。今年の大河ドラマ「平清盛」で玉木宏さんが演じる源義朝最後の地です。

野間大坊は、正式には鶴林山無量寿院大御堂寺という真言宗の寺院です。
天武天皇の時代に役行者が草創し、聖武天皇の時代に行基が再び開基し弥陀三尊を安置し、阿弥陀寺と称えたのが始まりといわれています。
承暦年間、白河天皇の時代に勅願寺となり大御堂寺と命名されました。
平治元(1159)年、平治の乱に敗れて東海道を下ってきた源義朝は、随行していた鎌田政清の舅長田忠致の許に身を寄せましたが、忠致・景致父子は平家からの恩賞目当てに湯殿(法山寺)で入浴中の義朝を欺し討ちました。
平康頼は、尾張守として任地にあった時、野間庄にある義朝の墓が、守る人もなく草が生い茂って荒れ果てていたので、小堂を建て、田三十町を寄進し、僧6名を置いて供養に当たらせました。
建久元(1190)年、源頼朝がこの地で殺された父義朝の菩提を弔うため、開運延命地蔵等を奉安し、伽藍を整備しました。
天正11(1583)年、羽柴秀吉に敗れた織田信長の三男織田信孝は、「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」の辞世の句を残しこの地で自害させられました。
境内には、源頼朝が建立したといわれる大門、源義朝の首を洗ったといわれている血池、源義朝の墓、この地で自害した織田信孝(信長の三男)の墓があります。
源義朝の墓の石塔の周りには無数の木刀が供えられています。
野間大坊 - 01
野間大坊 - 01 posted by (C)pismo

野間大坊 - 02
野間大坊 - 02 posted by (C)pismo

野間大坊 - 03
野間大坊 - 03 posted by (C)pismo

野間大坊 - 04
野間大坊 - 04 posted by (C)pismo

野間大坊 - 05
野間大坊 - 05 posted by (C)pismo

野間大坊 - 06
野間大坊 - 06 posted by (C)pismo

野間大坊 - 07
野間大坊 - 07 posted by (C)pismo

野間大坊 - 08
野間大坊 - 08 posted by (C)pismo

野間大坊 - 09
野間大坊 - 09 posted by (C)pismo

野間大坊 - 10
野間大坊 - 10 posted by (C)pismo

野間大坊 - 11
野間大坊 - 11 posted by (C)pismo

野間大坊 - 12
野間大坊 - 12 posted by (C)pismo

野間大坊 - 13
野間大坊 - 13 posted by (C)pismo

野間大坊 - 14
野間大坊 - 14 posted by (C)pismo

野間大坊 - 15
野間大坊 - 15 posted by (C)pismo

野間大坊 - 16
野間大坊 - 16 posted by (C)pismo

野間大坊・血の池 - 17
野間大坊・血の池 - 17 posted by (C)pismo

磔の松です。平治2(1160)年正月3日、平治の乱に敗れた源義朝はこの地で長田忠致、景致父子に謀殺されました。
その後、義朝の子である頼朝が平家打倒のために挙兵した際、天下統一後勲功されば、美濃と尾張の国を与えようと約束をし、長田父子はそれを信じ平家討伐に手柄をたてました。
しかし、後に平家を滅ぼすと建久元(1190)年、頼朝は上洛の途中に長田父子を捕らえ、美濃尾張(身の終わり)を与えるとこの松に磔(棒つきの刑)にして殺したといわれています。
辞世の句
 「ながらえし命ばかりは壱岐守
   美濃尾張をばいまぞたまわり」
磔の松 - 1
磔の松 - 1 posted by (C)pismo

磔の松 - 2
磔の松 - 2 posted by (C)pismo

磔の松 - 3
磔の松 - 3 posted by (C)pismo

長田屋敷です。
源義朝を謀殺した長田忠致父子の屋敷跡です。
屋敷跡は野間大坊から東に少し走ったところ、県道277号線の北側にあります。現在は畑になっています。

長田屋敷
長田屋敷 posted by (C)pismo

乱橋跡です。
平治2(1160)年1月3日、源義朝が長田父子に謀殺されたことを聞いた家臣の渋谷金王丸や鷲栖玄光らが湯殿にかけつける際に、ここで長田父子の家臣とこの地にあった橋の辺りで乱戦したため、後に「乱橋」と呼ばれるようになりました。
また、法山寺の本尊薬師如来への参詣者が潮の満ち引きの間にこの橋を競って渡り、常に橋板が乱れがちであったからそう呼ばれたともいわれています。

乱橋 - 1
乱橋 - 1 posted by (C)pismo

乱橋 - 2
乱橋 - 2 posted by (C)pismo

法山寺は、山号は曇華山、臨済宗天龍寺派の寺院です。
行基菩薩が開基したという伝承のある知多四国霊場第55番札所です。薬師堂に御湯殿薬師如来があります。境内の東側に、源義朝最後の地、湯殿跡があります。
法山寺 - 1
法山寺 - 1 posted by (C)pismo

法山寺 - 2
法山寺 - 2 posted by (C)pismo

湯殿跡です。
平治2(1160)年正月、平治の乱で敗れた源義朝が、関東に逃れる途中に立ち寄った長田屋敷に逗留中、1月3日にこの地にあった湯殿で入浴中に長田父子に謀殺されたと伝えられています。
法山寺の西側にあり、源義朝公の銅像があります。
湯殿跡 - 1
湯殿跡 - 1 posted by (C)pismo

湯殿跡 - 2
湯殿跡 - 2 posted by (C)pismo

仙人塚(千人塚)は、平治2(1160)年、長田父子が源頼朝公を謀殺した時に長田一族が義朝公の家臣渋谷金王丸や鷲栖玄光らと戦って討死した多くの者を集めてこの地に埋めたといわれています。
また、首のない義朝公の胴体を埋めたという伝説もあります。
千人塚 - 1
千人塚 - 1 posted by (C)pismo

千人塚 - 2
千人塚 - 2 posted by (C)pismo

河和城(こうわじょう)は、長禄年間(1457~59)渥美半島の田原から進出してきた戸田宗光により、知多半島東岸を確保するためこの山に砦がつくられ、その子の憲光の代になり城としての体裁が整えられました。
憲光は永正6(1509)年に嫡男政光に田原城をゆずり河和城に移り住んでいました。憲光の次は養子の孫右衛門繁光につがれ、3代城主は戸田孫八郎守光で天正18(1590)年8月、小田原の合戦において戦死しました。
戦死の知らせを聞いた河和の人達は、河和城を攻め、河和の人達により河和城は壊されました。
戸田孫八郎守光の妻子は親戚である於大の方を頼って江戸に逃げました。その後、守光の子光康は姓を戸田から母方の姓である水野に改め、関ヶ原の戦いの後、尾張徳川家に仕え、河和に戻りました。
(説明看板などより)
知多厚生病院の裏山が城跡です。

河和城 - 1
河和城 - 1 posted by (C)pismo

河和城 - 2
河和城 - 2 posted by (C)pismo

河和城 - 3
河和城 - 3 posted by (C)pismo

河和城 - 4
河和城 - 4 posted by (C)pismo

河和城 - 5
河和城 - 5 posted by (C)pismo

次は、久松氏ゆかりの阿久比町へ向かいます。
Posted at 2012/04/21 22:47:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年03月24日 イイね!

名古屋・知多半島ドライブ(その2・本丸御殿の復元が進む名古屋城)

久し振りに名古屋城を訪れてみました。
本丸御殿の復元工事の進捗状況を確認するのが楽しみです。
名古屋城 - 001
名古屋城 - 001 posted by (C)pismo

西南隅櫓は工事中です。平成23年1月~平成26年10月下旬の工事予定。
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名古屋城 - 002 posted by (C)pismo

雨の中、梅も咲いていました。
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名古屋城 - 003 posted by (C)pismo

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名古屋城 - 004 posted by (C)pismo

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名古屋城 - 005 posted by (C)pismo

御深井丸内の木材加工場・原寸場では、本丸御殿に使用する木材を加工する様子などを見ることができます。
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名古屋城 - 006 posted by (C)pismo

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名古屋城 - 007 posted by (C)pismo

平成24年1月2日(月曜日・休日)~5月6日(日曜日)の間、天守閣では「名古屋城本丸御殿障壁画復元模写展」が開催されています。本丸御殿が復元された際に使用する障壁画の復元模写作品です。
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名古屋城 - 008 posted by (C)pismo

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名古屋城 - 009 posted by (C)pismo

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名古屋城 - 010 posted by (C)pismo

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名古屋城 - 011 posted by (C)pismo

名古屋城 - 012
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名古屋城 - 013
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本丸御殿の工事を見ることができる素屋根内部見学通路です。ヘルメットをかぶって入場します。公開日は月曜日・水曜日・金曜日・土曜日・日曜日(火曜日・木曜日も祝日は公開)で、公開時間は午前9時~正午、午後1時~4時となっています。
屋根だけでもかなり立派。本丸御殿、復元された際の勇姿が今から楽しみです。
名古屋城 - 014
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名古屋城 - 015
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名古屋城 - 016
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名古屋城 - 017
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名古屋城 - 018
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名古屋城 - 019
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名古屋城 - 020
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名古屋城 - 021
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名古屋城 - 022
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名古屋城 - 023
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名古屋城 - 024
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名古屋城 - 025
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この後は、知多半島へ向かいます。

日本100名城スタンプラリー 取得実績
08 仙台城  H23/10/25
23 小田原城 H23/12/29
24 武田氏館 H23/12/30
30 高遠城  H23/12/30
34 七尾城  H23/7/23
36 丸岡城  H23/6/18
39 岐阜城  H23/4/16
40 山中城  H23/12/29
41 駿府城  H23/12/28
42 掛川城  H23/12/28
44 名古屋城 H24/3/24
48 松坂城  H24/3/8
49 小谷城  H23/12/23
50 彦根城  H24/1/14
51 安土城  H23/4/9
52 観音寺城 H24/1/14
53 二条城  H23/11/3
54 大阪城  H23/11/19
55 千早城  H23/12/10
56 竹田城  H23/11/16
57 篠山城  H23/11/26
58 明石城  H23/12/24
59 姫路城  H24/1/28
60 赤穂城  H24/1/28
61 高取城  H24/1/22
62 和歌山城 H24/2/18
64 松江城  H23/6/27
70 岡山城  H24/1/7
71 福山城  H24/2/4
72 郡山城  H23/3/18
73 広島城  H23/3/17
91 島原城  H23/9/17
92 熊本城  H23/9/18
93 人吉城  H23/9/15

H24/3/8現在 34/100城
Posted at 2012/04/21 22:39:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年03月24日 イイね!

名古屋・知多半島ドライブ(その1・熱田周辺史跡)

この日は名古屋と知多半島をドライブ。

まずは、熱田神宮にお参りしました。熱田神宮は熱田大神を祀る神社で、三種の神器の一つ草薙神剣をご神体としています。
第12代景行天皇の御代、日本武尊は東国平定の帰路に尾張に滞在したとき、神剣を名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)で亡くなりました。日本武尊の妃である宮簀媛命は、熱田を社地に定め、神剣を祀りました。
写真下は永禄3(1560)年、織田信長が桶狭間出陣の時、当神宮に願文を奏して大勝したので、そのお礼として奉納した信長塀です。土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねたもので、西宮神社(兵庫県西宮市)の大練塀、三十三間堂(京都市)の太閤塀とともに日本三大土塀の一つとされています。
熱田神宮 - 01
熱田神宮 - 01 posted by (C)pismo

熱田神宮 - 02
熱田神宮 - 02 posted by (C)pismo

熱田神宮 - 03
熱田神宮 - 03 posted by (C)pismo

熱田神宮 - 04
熱田神宮 - 04 posted by (C)pismo

熱田神宮 - 05
熱田神宮 - 05 posted by (C)pismo

断夫山古墳は、熱田神宮公園内にある古墳です。
東海地方最大の前方後円墳で、全長151m、前方部の幅116m、後円部の直径80m、前方部の高さ16.2m、後円部の高さ13mの規模を誇っています。前方部と後円部のくびれ部に「造り出し」と呼ぶ小丘部が西側にあります。後円部は三段築成であったと思われ、一段目に須恵質と土師質の円筒埴輪を巡らしていました。
この古墳は6世紀始め、古来、日本武尊の妃・宮簀媛命の墓と伝えられていましたが、現在では尾張南部に勢力を持っていた尾張氏の首長で娘である目子媛を継体天皇に嫁がせた事で天皇の外戚となった尾張連草香の墓と考えられています(説明看板などより)
断夫山古墳 - 1
断夫山古墳 - 1 posted by (C)pismo

断夫山古墳 - 2
断夫山古墳 - 2 posted by (C)pismo

断夫山古墳 - 3
断夫山古墳 - 3 posted by (C)pismo

白鳥古墳は6世紀初めごろの築造と推定され、全長約74mの前方後円墳ですが、前方部と後円部の東部分が削り取られて原形が損われています。
古くからこの古墳は、日本武尊の御陵との説があり、日本武尊が白鳥となつて熱田の宮に飛び来り・降り立つた地であるところから白鳥御陵と名付けられたといわれています。
しかし、断夫山古墳と同様、現在では尾張氏の陵墓と考えられています。
(説明看板などより)
白鳥古墳 - 1
白鳥古墳 - 1 posted by (C)pismo

白鳥古墳 - 2
白鳥古墳 - 2 posted by (C)pismo

白鳥古墳 - 3
白鳥古墳 - 3 posted by (C)pismo

白鳥古墳 - 4
白鳥古墳 - 4 posted by (C)pismo

白鳥古墳 - 5
白鳥古墳 - 5 posted by (C)pismo

次は、名古屋城へ向かいます。
Posted at 2012/04/21 22:26:16 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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