大出雲展を訪れた後は、少しだけ丹波の城めぐりをしました。
丹波亀山城は、天正5(1577)年、織田信長の命により丹波平定のため明智光秀が築城しました。
天正10(1582)年、光秀は、信長より中国出陣の命を受けていましたが、愛宕山での戦勝祈願のあと軍備をととのえた光秀は、6月1日夜、1万3千人の軍勢を率いてこの亀山城を出発し、老ノ坂を越えて京都本能寺に向かいました。。
光秀が敗死した後、羽柴秀勝(信長の4男)が城主となりましたが、天正13(1585)年、亀山城で亡くなりました。
その後豊臣秀勝(秀吉の甥)が城主となりましたが、天正19(1591)年、岐阜に移封され、亀山城は羽柴秀俊に与えられました。秀俊は文禄3(1594)年、小早川氏を相続し小早川秀秋となりますが、文禄4(1595)年、養父小早川隆景の隠居により家督を相続し、筑前名島城主となったため、前田玄以が城主となりました。
慶長7(1602)年、前田玄以が死去すると、後を子の前田茂勝が継ぎますが、茂勝は丹波八上藩に移封され、丹波亀山藩は天領となりました。
慶長14(1609)年、譜代大名の岡部長盛が城主となり、慶長15(1610)年から徳川幕府は、山陰の要としてこの城を重視し、天下普請による大修築を行い、五層の層塔型天守が建てられてました。天守は、藤堂高虎が今治城から移築したものと言われています。
元和7(1621)年、三河西尾藩より大給松平家の松平成重2万2,000石で亀山藩主となりました。、寛永11(1634)年、近江膳所藩より菅沼定芳が4万1,000石で入りますがが、第2代藩主・菅沼定昭が嗣子無くして慶安元(1648)年に死去したため菅沼氏は改易となりました。代わって藤井松平家の松平忠晴が3万8,000石で入りますが、第3代藩主の松平忠周の時代に武蔵岩槻藩へ移封となりました。
貞享2(1685年)年、備中庭瀬藩より5万石で久世重之が、元禄10(1697年)年、美濃郡上藩より井上正岑と目まぐるしく城主が代わりました。元禄15(1702)年、遠江浜松藩から青山忠重が5万石で入りますが、第3代藩主・青山忠朝の時代に丹波篠山藩へ移封されました。
寛延2(1749)年、青山氏と入れ替わりで形原松平家の松平信岑が亀山藩主となり、明治維新まで形原松平家が城主でした。
明治2(1869)年、伊勢亀山藩との混同を避けるため、亀岡藩と改称されました。
明治6(1873)年、廃城令が出され、明治10(1877)年には天守が取り潰されました。
明治22(1889)年、城跡は民間人に売却され、大正8(1919)年には新宗教「大本」の指導者出口王仁三郎が購入しました。
その後、大正14(1925)年に出口王仁三郎は天恩郷と名付け宣教の中心として整備を進めましたが、昭和10(1935)年、第二次大本事件で政府は弾圧を加え、城跡に建てられていた神殿はダイナマイトで破壊されました。城跡は王仁三郎から亀岡町に移りましたが、戦後城跡は大本に返還されました。
城跡は、「みろく会館」で総合受付を訪れた後、万祥殿でお祓いを受けてから見ることができます。
ただし、天守跡などは禁足地となっていて、立ち入りは禁止されています。
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亀山城内新御殿門は、亀岡市立千代川小学校の校門となっています。
明治13(1880)年に集成校(現在の千代川小学校)の改築に際して、丹波亀山城内三の丸にあった新御殿から移築されたものです。
この新御殿は、現亀岡中学校付近にあった藩庁としての御館が老朽化したことと手狭になったことから、江戸時代末期に北古世
町一丁目に新たに新御殿として建築されました。明治初年には短期間でしたが、京都府の出張庁や支庁としても利用されました。
入母屋造、桟瓦葺の長屋門形式の新御殿門の外観は、中央から右寄りに両開戸の扉が設けられ、左手に潜戸を配しています。表側に面して出窓を三ヶ所設け、当初の形態を良く残しています。また、屋根には藩主であった形原松平家の、「八丁子紋」があしらわれた鬼瓦が用いられています。
その他、市内には同じ長屋門形式の大本毘沙門荘(千歳町)を始め、薬医門、櫓形式の門や、同じ新御殿の玄関部を移築した保津五苗財団事務所といったように、亀山城の貴重な遺構が市内各所に残されています。(説明看板より)
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八木城登城口近くにある
ジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地碑です。
ジョアン内藤飛騨守忠俊は、八木城主内藤備前守宗勝(松永長頼、松永久秀の弟)の子として八木城に生まれました。
永禄8(1565)年頃、都の南蛮寺にて宣教師ルイス・フロイス神父より洗礼を受けました。
将軍足利義昭に仕え、織田信長との戦に際しては頭に十字架とJHSの打物を施した兜を頂き、二千の将兵を率いて二条城に出陣しました。
また八木城落城後は将軍足利義昭と共に鞆ノ浦に隠棲しました。
文禄の役に際しては、小西行長の客将として講和使節の大任を命じられ、朝鮮を経て明国北京に赴き、講和を終結して文禄の役を終結せしめるのに貢献しました。
以後、前田利家に仕えたが、慶長19(1614)年遂に徳川家康の禁教令により、ユスト高山右近と共にルソンに追放されました。
マニラ市サン・ミケルにてますます信仰への道を究め、かたわら医学書、宗教書を翻訳しました。
寛永3(1626)年波乱万丈の生涯を終え異国の地で77歳で亡くなりました。(説明看板などより)
八木城の麓、春日神社近くに石碑が建っています。
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八木城は、八木南西部に位置し、京街道を眼下に望む丹波隋一の要害で、丹波国内では、八上城、黒井城と並んで三大城郭の一つと言われています。
丹後守護代内藤氏の居城で、建武2(1335)年、足利尊氏より船井郡を与えられた内藤顕勝(定房)が築城したとされています。
戦国時代、キリシタン武将としてルイス・フロイスとも親交のあった内藤如安(忠俊)は有名で、文禄・慶長の役のおり、明側との交渉に当りました。
八木城は、明智光秀の丹波侵攻により落城しました。しかし、詳しいことは分かっていません。
江戸時代に亀山藩が幕府に提出した絵図の模写によると、最高所の本丸は四方に野面積みの石組みが描かれています。
また、本丸の南西端に金の間と書かれた一段と高い部分が張り出しているが、これは天守閣の祖形と考えられています。(説明看板などより)
城跡は、春日神社側と龍興寺側から、京都丹波道路のガード下をくぐって上るルートが2ルートあります。
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Posted at 2012/09/17 20:01:10 | |
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