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ピズモのブログ一覧

2012年08月25日 イイね!

丹後〜出石〜福知山史跡めぐり(その3・出石〜福知山)

丹後半島の後は、出石を訪れました。
出石神社の祭神は出石八前大神・天日槍命で但馬国の一宮です。
天日槍は、「日本書紀」では新羅の王子でしたが、国を弟に譲り日本に来て、但馬国に定着したそうです。
室町時代には守護山名氏から崇敬され社運も隆盛しましたが、永正元(1504)年の兵火で焼失し、天正年間に羽柴秀吉が但馬に侵攻し山名氏が滅亡したことで衰退し、社領も没収されてしまいました。
江戸時代には出石城主歴代の尊崇をうけ、小出、仙石両氏が社殿を造営しました。
出石神社 - 1
出石神社 - 1 posted by (C)pismo

出石神社 - 2
出石神社 - 2 posted by (C)pismo

出石神社 - 3
出石神社 - 3 posted by (C)pismo

此隅山城は、国の指定史跡で、標高140mの山城です。
文中年間、山名時義が築城しました。当時は「六分の一殿」といわれ、山名氏全盛の時でした。
時熙の時に明徳の乱が起き、山名氏は一時衰退しますが、山名宗全(持豊)の時に勢力を回復し、応仁の乱の時にも宗全は此隅山城から出陣したそうです。
永禄12(1569)年に羽柴秀吉の但馬攻略により落城、此隅山城は廃城となりました。
此隅山城 - 01
此隅山城 - 01 posted by (C)pismo

此隅山城 - 02
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此隅山城 - 03
此隅山城 - 03 posted by (C)pismo

此隅山城 - 04
此隅山城 - 04 posted by (C)pismo

此隅山城 - 05
此隅山城 - 05 posted by (C)pismo

此隅山城 - 06
此隅山城 - 06 posted by (C)pismo

此隅山城 - 07
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此隅山城 - 08
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此隅山城 - 09
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此隅山城 - 10
此隅山城 - 10 posted by (C)pismo

このドライブの最後に、福知山城のライトアップを見に行きました。
福知山城は今年の2月にも訪れました。↓
福知山・綾部

ライトアップされた姿は、昼間とはまたちがった雰囲気です。

福知山城 - 1
福知山城 - 1 posted by (C)pismo

福知山城 - 2
福知山城 - 2 posted by (C)pismo

福知山城 - 3
福知山城 - 3 posted by (C)pismo

福知山城 - 4
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福知山城 - 5
福知山城 - 5 posted by (C)pismo
Posted at 2012/09/19 23:53:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年08月25日 イイね!

丹後〜出石〜福知山史跡めぐり(その2・静御前のふるさと網野町磯と久美浜町)

静御前の故郷と伝わる、京丹後市の網野町磯を訪れました。
磯の風景 - 1
磯の風景 - 1 posted by (C)pismo

静御前生誕の地碑です。
静は磯に生を享け、父は磯野善次といい、「磯の衆」と呼ばれた海士の一族でした。
幼名を静尾といい、七歳で父を失い母に連れられて都へ上りました。
母は白拍子として有名になり、静も都で指折りの白拍子へと成長していきました。
やがて義経に見初められ、愛妾となりますが義経はその後、兄頼朝に追われる身となり、はなればなれに、その後疲れ果てた心身を休めるため、生まれ故郷の磯へと帰ってきました。
静は眺望のよい三つ塚法城が成に草庵を結び、義経の無事と、由比が浜で殺された愛児の冥福を祈りつつ、花月を友として暮らしたと伝えられています。また一説に、草庵は静の出生地の屋敷跡で、母娘共々に余生を送ったとも言われています。今もこの屋敷跡下の海岸を「尼さんの下」と言っています。
(説明看板などより)
静御前生誕の地 - 1
静御前生誕の地 - 1 posted by (C)pismo

静御前生誕の地 - 2
静御前生誕の地 - 2 posted by (C)pismo

悲劇の英雄、源義経の愛妾であった静御前を祀っているのが静神社です。
静は磯の禅師の娘として生まれ、京に出て、白拍子になり義経に見染められるのですが、義経が追放された後は故郷の磯に帰り晩年を過ごしたということです。
義経が磯の惣太という船持ちの豪族にあてた手紙が残っていたという江戸時代の記録もあります。しかし、この手紙や多くの遺品は天明2(1782)年の大火で神社とともに焼失してしまい残念ながら残っていません。
現在の社も、元のところから西へ200m離れた位置に建てられ、静御前の木像を祀っています。
(説明看板などより)
静神社 - 1
静神社 - 1 posted by (C)pismo

静神社 - 2
静神社 - 2 posted by (C)pismo

静神社 - 3
静神社 - 3 posted by (C)pismo

次は、久美浜町です。
久美浜代官陣屋です。
元禄10(1697)年、久美浜に代官が設置されました。
当時陣屋は大津・京都にあって丹後代官を兼ねていました。
享保年間湊宮船見番所を陣屋と改め亨保二十年海上弥兵衛の時陣屋を久美浜城(松倉城)跡の麓にあるこの地に移しました。
以来明治維新までこの地を代官所として権勢を誇りました。
その所管は、丹後、但馬石高7万石で、明治元(1868)年置県の制が設けられて久美浜縣となり県庁の所在地として大いに繁栄しました。
代官の頃はその坪数1600坪で陣屋川、陣屋清水、陣屋橋、殿町と当時の名残をのこしています。
久美浜縣庁はこの地に松倉山をくずし整地し構内、実に7000坪石高も丹後、但馬、丹波、播磨、美作の五カ国23万石以上となり明治4(1871)年迄大いに発展しました。
建築も宏壮で当時の正面玄関棟は現在神谷神社境内に現存し、正門は豊岡市立図書館(豊岡市本町)に現存しています。
(説明看板などより)
陣屋跡は現在、久美浜小学校になっていて、門前に説明看板が建っています。
久美浜代官陣屋 - 1
久美浜代官陣屋 - 1 posted by (C)pismo

久美浜代官陣屋 - 2
久美浜代官陣屋 - 2 posted by (C)pismo

久美浜城は別名松倉城といいます。
築城時期は不明ですが、一色氏の家臣松倉周防守の居城でした。
松倉氏は、天正10(1582)年に信長の命を受けて丹後に入った細川藤孝の武将松井佐渡守康之と戦い討死しました。
以後、久美浜城は松井康之が城主となりました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの際には細川藤孝の子忠興が東軍の徳川家康に属した為に、久美浜城は西軍によって焼き払われました。
戦後には忠興は豊前国小倉城主として移封となり、また松井康之もまた豊後国杵築に移封となったために久美浜城は廃城となりました。
城跡は現在、久美浜小学校の裏山にあり、小学校のグランドから登っていくことができます。小学校のグランドには、城山稲荷の鳥居がグランドの北西側にあり、そこから入っていきます。
久美浜城(松倉城) - 01
久美浜城(松倉城) - 01 posted by (C)pismo

久美浜城(松倉城) - 02
久美浜城(松倉城) - 02 posted by (C)pismo

久美浜城(松倉城) - 03
久美浜城(松倉城) - 03 posted by (C)pismo

久美浜城(松倉城) - 04
久美浜城(松倉城) - 04 posted by (C)pismo

久美浜城(松倉城) - 05
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久美浜城(松倉城) - 06
久美浜城(松倉城) - 06 posted by (C)pismo

久美浜城(松倉城) - 07
久美浜城(松倉城) - 07 posted by (C)pismo

久美浜城(松倉城) - 08
久美浜城(松倉城) - 08 posted by (C)pismo

豪商稲葉本家です。稲葉本家の初代・喜兵衛は織田信長の家臣団、美濃三人衆の一人稲葉一鉄の一族の縁者と言われています。
家業は代々「糀屋」(米、麦、大豆、糠などで酒、醤油等を作る)としていましたが、北前船貿易を営み隆盛を極めました。
久美浜代官所が設置後の享保20(1735)年には、幕府の公金預かり所となり、以降は近隣諸藩の金融を独占する豪商となりました。
一方、天明の大飢饉後は多額の金穀を献納し苗字帯刀を許されました。12代市郎右衛門の時代、山陰道鎮撫総督西園寺公望の本陣となり、数百名の関係者が昼食を採りました。
慶応4(1868)年、久美浜縣が設置され、12代市郎右衛門は、勧産用掛頭取、熊野郡区長、但馬区長を務め、さらに京都府議会開設時の府議会議員、衆議院議員になりました。
明治17(1884)年には、地租780円(約3億円)を納める府下一の多額納税者であった12代市郎右衛門は、金融、殖産のために努力、町の発展にも努力を惜しみませんでした。歌、書をなした文人であり、「過渡の久美浜」を著しました。
13代市郎右衛門は、府議会議長を2回、久美浜町長を歴任し、京都府農工銀行頭取など、本町はもとより京都府の金融産業振興に貢献しました。
また、先代の意志を継ぎ、多大な私財を注ぎ込み、昭和4(1929)年、念願の久美浜、豊岡の鉄道開通を実現させました。
合併前の旧久美浜町は、第15代当主より屋敷、建物を譲り受け改築し、平成15(2003)年4月、歴史的建造物を活用した交流施設として再出発しました。母家は国の登録有形文化財となっています。
現在は、蔵資料館として稲葉本家に伝わる貴重な資料の展示や、喫茶や食事などを楽しめるような施設となっています。(パンフレットより)

豪商稲葉本家 - 01
豪商稲葉本家 - 01 posted by (C)pismo

豪商稲葉本家 - 02
豪商稲葉本家 - 02 posted by (C)pismo

豪商稲葉本家 - 03
豪商稲葉本家 - 03 posted by (C)pismo

豪商稲葉本家 - 04
豪商稲葉本家 - 04 posted by (C)pismo

豪商稲葉本家 - 05
豪商稲葉本家 - 05 posted by (C)pismo

豪商稲葉本家 - 06
豪商稲葉本家 - 06 posted by (C)pismo

次は、出石へ向かいます。
Posted at 2012/09/19 23:38:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年08月25日 イイね!

丹後〜出石〜福知山史跡めぐり(その1・弓木城、大野城、峰山陣屋、吉原山城、味土野女城)

この日は、丹後半島をドライブしました。

弓木城は、稲富氏が室町時代後期以降根城とし、丹後国守護一色氏が最期の拠点とした丹後地方を代表する中世の山城ですが、そのくわしい歴史はわかっていません。
稲富氏については、「寛政諸家系図伝」に「はじめは山田氏なり。丹後国忌木(=弓木)の城主たりし以来、あらためて、稲富氏となる。」とあり、初代稲富氏のもとの姓は山田氏で、丹後弓木城主となってから改姓して稲富氏を名乗ったことになります。
そして、二代目直時のときに、丹後国守護一色氏の家臣となったようです。ところで「丹後国御壇家帳」には「いミの木」の大なる城主稲富氏ほか四名の名をあげ、これとは別に「いミの木の地下」にそうめん屋ほかの名をあげています。
天正10(1582)年、織田信長の命令をうけた細川藤孝(幽斎)、忠興(三斎)父子の丹後攻略により、一時丹後一色氏は弓木城に立籠りました。が、抗戦の甲斐なく滅亡しました。
四代直家は、当時希代の鉄砲の名手として一色氏に仕えていましたが、運良く滅亡をまぬがれ一時細川氏に仕えた後、豊臣秀吉、徳川家康に珍重され、晩年は、尾張徳川家の祖義直(家康の第九子)に仕えました。
城跡は城山公園になっていて、昭和56(1981)年から昭和60(1985)年にかけて整備されました。
弓木城 - 01
弓木城 - 01 posted by (C)pismo

弓木城 - 02
弓木城 - 02 posted by (C)pismo

弓木城 - 03
弓木城 - 03 posted by (C)pismo

弓木城 - 04
弓木城 - 04 posted by (C)pismo

弓木城 - 05
弓木城 - 05 posted by (C)pismo

弓木城 - 06
弓木城 - 06 posted by (C)pismo

弓木城 - 07
弓木城 - 07 posted by (C)pismo

大野城は、豊臣家の武将大野治長、父道犬ら大野一族の出生地です。
天正17(1589)年豊臣秀吉は大野道犬の武功と、その妻大蔵局が淀君の乳母であった労に報い、和泉佐野と当大野で1万石余を与え、当地(現大野神社境内)に居城を築き、側近の大野道犬を代官として赴任させました。この間、郷土大野村付近一帯において近世発展の基盤となる広大な大野河原の開拓等を行いました。道犬は文禄元(1593)年征韓の役に出陣し勇名を轟かせるなど秀吉の家臣として活躍しました。
元和元(1615)年大坂夏の陣において、道犬の子、治長、治房らは豊臣秀頼、淀君母子を守り家康との大軍と戦いましたが、武運つたなく一族すべて豊臣家に殉じました。(現地説明板より)
説明板では大野道犬は大野治長の父となっていましたが、私の記憶では大野道犬は、治胤といい治長の弟だったような気がしたので調べてみましたが、治長の父は大野佐渡守といい、諱は定長ともいったそうですが、尾張大野の出身という説もあるようです。
城跡は大野神社周辺にあったと推定されています。大野神社の入口と境内に説明板があります。神社もたしかに曲輪の跡と思わしき形をしています。
大野城 - 01
大野城 - 01 posted by (C)pismo

大野城 - 02
大野城 - 02 posted by (C)pismo

大野城 - 03
大野城 - 03 posted by (C)pismo

大野城 - 04
大野城 - 04 posted by (C)pismo

大野城 - 05
大野城 - 05 posted by (C)pismo

峰山陣屋(京極家陣屋)は、京極高通を初代とする峰山藩の陣屋です。
京極高知は、関ヶ原の戦いの戦功により賜った丹後一国の領地を、遺領として宮津、田辺、峰山と三分割しました。宗家の宮津藩京極家が改易に、同じ支藩である田辺藩京極家が但馬豊岡へと転封になる中、峰山藩京極家は京極高通から第12代京極高陳(たかのぶ)の明治まで続きました。
陣屋は、初代高通が城砦の必要がなくなった吉原山城を廃し、麓に居館を構えたものです。
(現地説明板などより)
現在は、畑地などになっていて、木製の標柱や説明板がある程度です。
この陣屋跡から、吉原山城への登城口があります。
峰山陣屋(京極家陣屋) - 1
峰山陣屋(京極家陣屋) - 1 posted by (C)pismo

峰山陣屋(京極家陣屋) - 2
峰山陣屋(京極家陣屋) - 2 posted by (C)pismo

峰山陣屋(京極家陣屋) - 3
峰山陣屋(京極家陣屋) - 3 posted by (C)pismo

峰山陣屋(京極家陣屋) - 4
峰山陣屋(京極家陣屋) - 4 posted by (C)pismo

吉原山城は、一色・細川・京極三氏の城地として約500年間の間、丹後の政治・軍略の中心でした。
嘉慶2(1388)年、守護一色詮範は、吉原山祇山(やまかみやま)に始めて山城を築いて立てこもりましたが、その後山頂の人呼びの嶺を本丸と定め、西丸や、三段の砦を設ける等、本格的な築城にかかり、守りを固めました。
織田信長の天下統一とともに、城主は細川氏にかわり細川興元は天正10(1582)年、本丸に御陣屋を建て、二の丸・三の丸をおき寺谷の東(今の上町)市街地を開いて、嶺山と名付けました。
徳川時代になってから、藩主は京極氏にかわり、初代高通は、元和10(1624)年、お国入りをして城下町をつくり峯山町と改称しました。この頃になると城砦の必要がなくなったので、山城を廃して藩主の居館(御陣屋)御蔵・表門・侍屋敷・御粗長屋等をつくりました。
吉原山は、京極氏が山頂に蔵王権現を祀っていたことから、権現山と呼ばれるようになり、現在に至っています。(説明看板などより)
吉原山城 - 01
吉原山城 - 01 posted by (C)pismo

吉原山城 - 02
吉原山城 - 02 posted by (C)pismo

吉原山城 - 03
吉原山城 - 03 posted by (C)pismo

吉原山城 - 04
吉原山城 - 04 posted by (C)pismo

吉原山城 - 05
吉原山城 - 05 posted by (C)pismo

吉原山城 - 06
吉原山城 - 06 posted by (C)pismo

吉原山城 - 07
吉原山城 - 07 posted by (C)pismo

吉原山城 - 08
吉原山城 - 08 posted by (C)pismo

吉原山城 - 09
吉原山城 - 09 posted by (C)pismo

吉原山城 - 10
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吉原山城 - 11
吉原山城 - 11 posted by (C)pismo

そして、1年半ぶりに味土野の地にやってきました。前回は大雪で残念ながら味土野女城の細川ガラシャ隠棲地までたどりつくことができませんでした。
その時の様子↓
「日本三景・天橋立」

味土野女城は、御殿屋敷ともいい、天正10(1582)年の本能寺の変の後に2年間、細川ガラシャが隠棲した時の居城があったと伝えられています。
ガラシャは細川忠興の妻で玉子(玉)といいました。永禄6(1563)年明智光秀の三女として生まれ、天正6(1578)年、16才の時織田信長の命により後に丹後田辺城の城主となる細川幽斎の嫡子忠興に嫁ぎました。
天正10(1582)年6月本能寺の変により、父光秀が信長に謀反を起こしました。光秀は忠興を味方に誘いましたが、忠興はこれを聞かず玉子を離別幽閉し自分は羽柴秀吉軍に味方しました。
玉子の実父光秀の死後、家臣は自害をすすめましたが「私は忠興の妻、主人の命を聞かずして事を決することは婦道にそむくことです」とこれを聞き入れず、愁思のうちに2年の月日をこの地で過ごすこととなりました。秀吉はこれを憐み忠興は再び妻として玉子を迎えました。
その後キリスト教に入信し、「ガラシャ」の洗礼名を受けた玉子は、忠隆・興秋、忠利の三子を授かりました。
しかし、平穏な日々も束の間、慶長5(1600)年関ヶ原の戦いで、徳川家康に従い東征についた夫忠興の留守に大阪細川邸にあった玉子は石田三成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城へ入城を迫られましたが「私が人質として入城すれば堅武士の夫忠興の足手まといとなります」と自ら邸宅に火を放ち壮烈な最期をとげました。享年38才夏のことでした。
辞世の句は
散りぬべき時知りてこそ世の中の
            花も花なれ人も人なれ

数奇な運命に彩られ、夫忠興のために殉じて果てた玉子の生涯は戦国の世に咲いた一輪の花として現在に語り伝えられています。

身をかくす里は吉野の奥ながら
            花なき峰に呼子鳥啼く

味土野女城の周囲には、ガラシャが信仰したと伝えられている観音跡や古井戸、蓮池跡などがあります。
その他、女城と谷を隔てた向かい側の尾根に男城があり、細川ガラシャを警護するために造られた城跡があったといわれています。
(説明看板などより)
味土野女城 - 01
味土野女城 - 01 posted by (C)pismo

味土野女城 - 02
味土野女城 - 02 posted by (C)pismo

味土野女城 - 03
味土野女城 - 03 posted by (C)pismo

味土野女城 - 04
味土野女城 - 04 posted by (C)pismo

味土野女城 - 05
味土野女城 - 05 posted by (C)pismo

味土野女城 - 06
味土野女城 - 06 posted by (C)pismo
Posted at 2012/09/18 23:18:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年08月22日 イイね!

亀山城と八木城

大出雲展を訪れた後は、少しだけ丹波の城めぐりをしました。
丹波亀山城は、天正5(1577)年、織田信長の命により丹波平定のため明智光秀が築城しました。
天正10(1582)年、光秀は、信長より中国出陣の命を受けていましたが、愛宕山での戦勝祈願のあと軍備をととのえた光秀は、6月1日夜、1万3千人の軍勢を率いてこの亀山城を出発し、老ノ坂を越えて京都本能寺に向かいました。。
光秀が敗死した後、羽柴秀勝(信長の4男)が城主となりましたが、天正13(1585)年、亀山城で亡くなりました。
その後豊臣秀勝(秀吉の甥)が城主となりましたが、天正19(1591)年、岐阜に移封され、亀山城は羽柴秀俊に与えられました。秀俊は文禄3(1594)年、小早川氏を相続し小早川秀秋となりますが、文禄4(1595)年、養父小早川隆景の隠居により家督を相続し、筑前名島城主となったため、前田玄以が城主となりました。
慶長7(1602)年、前田玄以が死去すると、後を子の前田茂勝が継ぎますが、茂勝は丹波八上藩に移封され、丹波亀山藩は天領となりました。
慶長14(1609)年、譜代大名の岡部長盛が城主となり、慶長15(1610)年から徳川幕府は、山陰の要としてこの城を重視し、天下普請による大修築を行い、五層の層塔型天守が建てられてました。天守は、藤堂高虎が今治城から移築したものと言われています。
元和7(1621)年、三河西尾藩より大給松平家の松平成重2万2,000石で亀山藩主となりました。、寛永11(1634)年、近江膳所藩より菅沼定芳が4万1,000石で入りますがが、第2代藩主・菅沼定昭が嗣子無くして慶安元(1648)年に死去したため菅沼氏は改易となりました。代わって藤井松平家の松平忠晴が3万8,000石で入りますが、第3代藩主の松平忠周の時代に武蔵岩槻藩へ移封となりました。
貞享2(1685年)年、備中庭瀬藩より5万石で久世重之が、元禄10(1697年)年、美濃郡上藩より井上正岑と目まぐるしく城主が代わりました。元禄15(1702)年、遠江浜松藩から青山忠重が5万石で入りますが、第3代藩主・青山忠朝の時代に丹波篠山藩へ移封されました。
寛延2(1749)年、青山氏と入れ替わりで形原松平家の松平信岑が亀山藩主となり、明治維新まで形原松平家が城主でした。
明治2(1869)年、伊勢亀山藩との混同を避けるため、亀岡藩と改称されました。
明治6(1873)年、廃城令が出され、明治10(1877)年には天守が取り潰されました。
明治22(1889)年、城跡は民間人に売却され、大正8(1919)年には新宗教「大本」の指導者出口王仁三郎が購入しました。
その後、大正14(1925)年に出口王仁三郎は天恩郷と名付け宣教の中心として整備を進めましたが、昭和10(1935)年、第二次大本事件で政府は弾圧を加え、城跡に建てられていた神殿はダイナマイトで破壊されました。城跡は王仁三郎から亀岡町に移りましたが、戦後城跡は大本に返還されました。
城跡は、「みろく会館」で総合受付を訪れた後、万祥殿でお祓いを受けてから見ることができます。
ただし、天守跡などは禁足地となっていて、立ち入りは禁止されています。
亀山城 - 01
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亀山城 - 03
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亀山城 - 04
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亀山城 - 05
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亀山城 - 06
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亀山城 - 07
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亀山城 - 08
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亀山城内新御殿門は、亀岡市立千代川小学校の校門となっています。
明治13(1880)年に集成校(現在の千代川小学校)の改築に際して、丹波亀山城内三の丸にあった新御殿から移築されたものです。
この新御殿は、現亀岡中学校付近にあった藩庁としての御館が老朽化したことと手狭になったことから、江戸時代末期に北古世
町一丁目に新たに新御殿として建築されました。明治初年には短期間でしたが、京都府の出張庁や支庁としても利用されました。
入母屋造、桟瓦葺の長屋門形式の新御殿門の外観は、中央から右寄りに両開戸の扉が設けられ、左手に潜戸を配しています。表側に面して出窓を三ヶ所設け、当初の形態を良く残しています。また、屋根には藩主であった形原松平家の、「八丁子紋」があしらわれた鬼瓦が用いられています。
その他、市内には同じ長屋門形式の大本毘沙門荘(千歳町)を始め、薬医門、櫓形式の門や、同じ新御殿の玄関部を移築した保津五苗財団事務所といったように、亀山城の貴重な遺構が市内各所に残されています。(説明看板より)
旧亀山城内新御殿門(亀岡市立千代川小学校) - 1
旧亀山城内新御殿門(亀岡市立千代川小学校) - 1 posted by (C)pismo

旧亀山城内新御殿門(亀岡市立千代川小学校) - 2
旧亀山城内新御殿門(亀岡市立千代川小学校) - 2 posted by (C)pismo

旧亀山城内新御殿門(亀岡市立千代川小学校) - 3
旧亀山城内新御殿門(亀岡市立千代川小学校) - 3 posted by (C)pismo

旧亀山城内新御殿門(亀岡市立千代川小学校) - 4
旧亀山城内新御殿門(亀岡市立千代川小学校) - 4 posted by (C)pismo

八木城登城口近くにあるジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地碑です。
ジョアン内藤飛騨守忠俊は、八木城主内藤備前守宗勝(松永長頼、松永久秀の弟)の子として八木城に生まれました。
永禄8(1565)年頃、都の南蛮寺にて宣教師ルイス・フロイス神父より洗礼を受けました。
将軍足利義昭に仕え、織田信長との戦に際しては頭に十字架とJHSの打物を施した兜を頂き、二千の将兵を率いて二条城に出陣しました。
また八木城落城後は将軍足利義昭と共に鞆ノ浦に隠棲しました。
文禄の役に際しては、小西行長の客将として講和使節の大任を命じられ、朝鮮を経て明国北京に赴き、講和を終結して文禄の役を終結せしめるのに貢献しました。
以後、前田利家に仕えたが、慶長19(1614)年遂に徳川家康の禁教令により、ユスト高山右近と共にルソンに追放されました。
マニラ市サン・ミケルにてますます信仰への道を究め、かたわら医学書、宗教書を翻訳しました。
寛永3(1626)年波乱万丈の生涯を終え異国の地で77歳で亡くなりました。(説明看板などより)
八木城の麓、春日神社近くに石碑が建っています。
ジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地碑 - 1
ジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地碑 - 1 posted by (C)pismo

ジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地碑 - 2
ジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地碑 - 2 posted by (C)pismo

八木城は、八木南西部に位置し、京街道を眼下に望む丹波隋一の要害で、丹波国内では、八上城、黒井城と並んで三大城郭の一つと言われています。
丹後守護代内藤氏の居城で、建武2(1335)年、足利尊氏より船井郡を与えられた内藤顕勝(定房)が築城したとされています。
戦国時代、キリシタン武将としてルイス・フロイスとも親交のあった内藤如安(忠俊)は有名で、文禄・慶長の役のおり、明側との交渉に当りました。
八木城は、明智光秀の丹波侵攻により落城しました。しかし、詳しいことは分かっていません。
江戸時代に亀山藩が幕府に提出した絵図の模写によると、最高所の本丸は四方に野面積みの石組みが描かれています。
また、本丸の南西端に金の間と書かれた一段と高い部分が張り出しているが、これは天守閣の祖形と考えられています。(説明看板などより)
城跡は、春日神社側と龍興寺側から、京都丹波道路のガード下をくぐって上るルートが2ルートあります。
八木城 - 01
八木城 - 01 posted by (C)pismo

八木城 - 02
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八木城 - 03
八木城 - 03 posted by (C)pismo

八木城 - 04
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八木城 - 05
八木城 - 05 posted by (C)pismo

八木城 - 06
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八木城 - 07
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Posted at 2012/09/17 20:01:10 | コメント(4) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2012年08月22日 イイね!

京都国立博物館「大出雲展」

この日は、京都国立博物館で開催されている「大出雲展」を見に行きました。
古事記編纂1300年と出雲大社の平成大遷宮を記念して開催されています。
島根県立古代出雲歴史博物館訪れた時に見たことのあるものも多かったですが、何度見ても銅鐸や銅矛、出雲大社の「雲太・和二・京三」といわれた本殿に関連する資料を見るのは良いものです。

7月28日〜9月9日の開催です。
京都国立博物館・大出雲展 - 01
京都国立博物館・大出雲展 - 01 posted by (C)pismo

京都国立博物館・大出雲展 - 02
京都国立博物館・大出雲展 - 02 posted by (C)pismo

京都国立博物館・大出雲展 - 03
京都国立博物館・大出雲展 - 03 posted by (C)pismo

京都国立博物館・大出雲展 - 04
京都国立博物館・大出雲展 - 04 posted by (C)pismo
Posted at 2012/09/17 19:57:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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