ついに会津若松市への到着です。1日でさすがに800km近く走るのには疲れました。
神指城は、蒲生秀行が宇都宮に移封となった後、慶長3(1598)年に会津の領主となった上杉景勝が、重臣「直江兼続」に命じて築城させた城です。
石田三成と力を合わせて徳川家康を討とうとした上杉景勝は、鶴ヶ城は山に近く守備に不利と見て、神指ヶ原に大規模な城郭を築くことを計画し、家老直江兼続の指揮のもと12万人の人夫を動員し、昼夜休みなく工事を急がせました。兼続の総指揮により、神指の13ヶ村を強制的に移住させ、城は北東の鬼門に位置する「高瀬のケヤキ」と北極星を基点に縄張り(設計)しました。領内から12万人を動員し、東山町慶山から石を運び本丸に石垣を築き、町割まで計画しました。
慶長5(1600)年3月から工事が開始され、同年6月には一応形が整ったと言われています。
しかし家康の上杉討伐令により、6月10日で工事は中止しました。本丸は石垣と堀や三方の門、二ノ丸は四方の土塁と堀が完成しましたが、天守閣には着工できませんでした。縄張りは、本丸と二ノ丸から成る輪郭式の平城で、それぞれ濠と土塁が取り囲む構造となっています。
このような形の縄張りを持つ城は、身近な所では山形県の米沢城が代表的です。
面積は、本丸だけでも約56,000㎡、二ノ丸を含む全域では約500,000㎡もあり、若松城を遥かに凌ぐ規模の壮大な城でした。この土地(高瀬の大木の場所)は二ノ丸土塁の北東隅にあたります。
この地が城郭建設地として選ばれたのは、若松城が会津盆地の東南隅に位置することから城や城下町の拡張が難しかったのに対し、盆地の中心で平坦なため、築城、築城地として適していたためと考えられます。
そして、関ヶ原の戦いは家康の勝利に終わり、慶長6(1601)年には上杉家は米沢30万石に転封となり、神指城は完成を見ないまま廃城となりました。
寛永16(1639)年、加藤嘉明、明成父子の鶴ヶ城の改築の際には神指城の石垣を全て鶴ヶ城に運び去りました。
このように、築城時期と廃城時期が特定できる城郭として貴重な存在となっています。
二ノ丸北東隅には高瀬の大木(ケヤキ)があります。築城前から既に大木であったことが知られ、根元の周囲12.55m、目通りの幹囲10.45m、樹高24.64mあります。大枝の折損が相次ぎ、幹部に亀裂が生じてきましたが、樹姿はなお堂々としてすぐれ、ケヤキの巨樹として有数のものです。
(説明看板より)
高瀬の大木付近の土塁がわかりやすいですが、本丸付近にも土塁が残っています。但し、訪れた時は雪で遺構などははっきりとはわかりにくかったです。
神指城 ・二ノ丸(高瀬の大木)- 01 posted by
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神指城・二ノ丸(高瀬の大木) - 02 posted by
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神指城・二ノ丸(高瀬の大木) - 03 posted by
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神指城・本丸 - 04 posted by
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如来堂は、慶応4(1868)年9月4日、山口次郎(二郎)こと 斎藤一ら新選組隊士が守備したここ如来堂が新政府軍によって襲われ、隊士が全滅したとされる場所です。
近藤勇亡き後、会津に入った土方歳三率いる新選組は、母成峠の任となりますが西軍の攻撃の前に敗退しました。庄内へ援軍を求めて会津を離れようとする土方に対し、山口は会津藩主・松平容保への恩義から「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず(谷川史郎兵衛日記)」と会津に残留して徹底抗戦を主張しました。
会津を去った土方とは対照的に、山口は20名(10数名ともいわれている)ばかりの隊士とともにこの地に宿陣していましたが、西軍の襲撃を受けて全滅したとされます。しかし、山口など数名の隊士が乱戦のなかを脱出し、生存していました。
ここ会津で隊長として新選組を率いた山口においては会津藩が降伏開城した後、藩士とともに斗南藩に移り、苦渋をともにしたのち大正の世まで生き抜きました。
「史跡新選組受難地」の石碑が建っていました。なお、この地は神指城の二ノ丸南西角にあたります。
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中野竹子奮戦の地(中野竹子殉節之地碑)は、戊辰戦争の際、会津藩が西軍を迎え撃ったところで、西側には旧越後街道が走っていました。
会津藩では十数名の婦女子が義勇軍を結成しました。彼女らは松平容保公の義姉である「照姫」が会津坂下にいると聞きつけ、8月23日、照姫を警護するため薙刀をもって坂下へと向かいます。
中野竹子は妹優子と共にこの婦女子隊を率いた中心人物です。しかし、この時、照姫はすでに坂下にはなく、若松城(鶴ケ城)に籠城していました。そのため婦女子隊は、若松城へ向かう会津軍への従軍を願い、8月25日に従軍が許され旧幕軍の衝鋒隊と行動を共にします。衝鋒隊とそれに従軍する婦女子隊は、会津若松市神指町黒川付近で西軍(長州藩・大垣藩の兵士)と遭遇し、激しい戦いが繰り広げられました。
竹子は、辞世の
武士の猛き心にくらぶれば
数に入らぬ我が身ながらも
と詠んだ短冊を、薙刀に結びつけて奮戦しましたが、敵の銃撃に会い、壮烈な戦死をとげました。
竹子等をはじめ、会津戦争で亡くなった勇気ある女性たちは、後に娘子軍と称されました
現在竹子の墓は、会津坂下町の法界寺にあります。
殉節碑は、昭和13(1938)年に会津若松市神指町黒川の湯川橋に建てられました。
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Posted at 2013/01/06 16:32:56 | |
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