せっかく高見山を訪れたので、すこしばかり東吉野村の史跡を巡ってみました。
東吉野村は、明治維新の魁となった天誅組が最期を遂げた地です。
文久3(1863)年8月14日孝明天皇が攘夷祈願のために大和へ行幸するのをきっかけに決起した天誅組は、大和五条の代官所を襲撃しましたが、
8月18日の政変で情勢は一転し、天誅組の大義名分も失われました。
その後、高取城を攻撃したり、各藩の追討軍を相手に戦いましたが、戦いに利あらず、新宮から海路を長州に向かおうと南下しましたが紀州藩に阻まれ、
下北山村を越えて北上し、上北山村より伯母峰峠、川上村武木を経て、東熊野街道支線(川上街道)の足の郷峠越えで東吉野村に入ったのは9月24日のことでした。
しかし、鷲家口には彦根藩、鷲家には紀州藩が入り、戦いが繰り広げられました。松本奎堂と従者の村上万吉は、紀州勢と彦根勢により最後を遂げ、藤本鉄石と福浦元吉は伊勢街道の岩本谷に下り、野見谷口で紀州藩士的場喜一郎を討ち取り鷲家にむかい、紀州藩脇本陣の日裏屋で大激戦の末、見事な最期を遂げました。森下幾馬は鷲家赤谷で藤堂藩の手にかかり、森下儀之助はこの囲みを破り脱出しますが、藤堂藩に捕らえられ、元治元(1864)年に同士と共に斬られました。
吉村寅太郎は、木津川堂本宅前の薬師堂に潜伏していましたが、そこを出て翌朝石の本の薪小屋に隠れていたところを見つかり、藤堂勢の手にかかり無念の最期を遂げ、天誅組は事実上の終焉を迎えました。
湯ノ谷墓所には、藤本津之助(鉄石)、福浦元吉、松本謙三郎(奎堂)、村上万吉、森下猪久馬(幾馬)、森下儀之助の六名の墓があります。
天誅義士湯ノ谷墓所 - 1 posted by
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天誅義士湯ノ谷墓所 - 2 posted by
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天誅義士湯ノ谷墓所 - 3 posted by
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吉村寅太郎の墓〔吉村寅太郎原えいの碑〕です。
村人の手によってこの岩の根元に埋葬され、土方直行の筆による原えいの碑が建てられました。明治29(1896)年に遺体が明治谷墓地に改葬された後は、この碑はここに倒れた吉村寅太郎を偲ぶ祈念碑となっています。
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東吉野村に入り足の郷道を下ってきた天誅組は、主将を脱出させるため那須信吾を隊長とする前勢6名が彦根の脇本陣に突入し、植村定七は敵の歩兵頭伊藤弥左衛門を討ち取った後に銃弾に倒れ、つづく5人は、鍋島米之助が坂の途中で銃弾に傷つきながら怯むことなく突撃し、那須信吾は四条屋(現南呉服店)前で彦根の武将大館孫左衛門を槍で突き倒し、とって返した碇屋で十字砲火を浴びて戦死し、宍戸弥四郎は四条屋前から更に千代橋まで進んで敵と斬り合い、足を踏み外して鷲家川に転落したところに銃弾を浴びせられて最期を遂げました。林豹吉郎は、敵陣の裏を回って紙屋重兵衛宅前に配置されていた彦根藩勢に斬り込んだところを銃撃され壮絶な戦死を遂げました。
天保高殿、西田仁兵衛も敵弾のため倒れました。
鍋島米之助は、鷲家谷一の谷で辰巳友七宅の納屋で休んでいましたが、翌朝藤堂勢に発見されて最期を遂げました。
山下佐吉は、酒屋弥八郎方の明蔵に山崎吉之助とともに潜伏していましたが、山崎はその夜に召し捕られ、山下は四条屋儀平宅まで走ったところで彦根勢と戦い、討ち取られました。
吉村寅太郎は、木津川堂本宅前の薬師堂に潜伏していましたが、そこを出て翌朝9月27日石の本の薪小屋に隠れていたところを見つかり、藤堂勢金屋健吉の手の銃弾にて無念の最期を遂げ、天誅組は事実上の終焉を迎えました。
明治谷墓所は鷲家口の激戦で戦死した吉村寅太郎、植村定七(上村貞心)、那須信吾、宍戸弥四郎、山下佐吉(安田鉄蔵)、鍋島米之助、林豹吉郎、天保高殿、西田仁兵衛の九人が葬られています。
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天誅義士明治谷墓所 - 2 posted by
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丹生川上神社(丹生川上神社中社)の御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、水一切を司る神様です。
天武天皇の白鳳4(675)年に創祀され、延喜式には名神大社に列せられ、平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられました。
祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ朝廷の特に崇敬する重要な神社でありました。
応仁の乱以降は、ついにその所在すら不明となるに至りました。
明治維新となり、丹生川上神社はどこかという研究調査が行われ、明治4(1871)年丹生村(下市町)、続いて明治29(1896)年川上村の神社が、夫々有力視され、官幣大社丹生川上神社下社、上社とされました。
そして蟻通神社こそが丹生川上神社だと大正11(1915)年、東吉野村出身の森口奈良吉の研究調査により丹生川上神社中社として官幣大社に列格され、ここに従来の二社は三社になり、大正11(1922)年、官幣大社丹生川上神社として中社を称しました。そこでこの神社の社務所を当社に移して、下社、上社を統括して祭務を行ってきましたが、戦後神社制度の変遷により今日では三社別々の神社となりましたが、当社は「丹生川上神社」と登記されています。
本殿は江戸時代文政12(1829)年の建築で、東吉野村の文化財に、又瑞垣内にある灯篭は鎌倉時代の弘長4(1264)年銘で、国の重要文化財に指定されています。
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Posted at 2013/02/17 22:28:52 | |
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