大山を下山していくと
大神山神社奥宮があります。
大神山神社の御祭神は大己貴神(おおなむちのかみ・奥宮)あるいは大穴牟遅神(おおなむぢのかみ・本社で、大国主神のお若いときのお名前です。
大山は大神岳とも称され、中国地方一の霊峰とも言われ修験道を始め多くの人々の信仰を集めてきました。
神体山としての大山には主神として大己貴命」が鎮座し給うとされましたが、仏教の隆盛による神仏習合思想の広まりとともに、大己貴命に地蔵菩薩を祀り「大智明権現」の称号を当てて神仏混淆の神社となり、平安鎌倉期には三院百八十坊僧兵三千名とまで数えられるようになりました。
一方この地は冬期積雪が多く、祭事の遂行が困難なため麓に冬宮を設けて冬期にはこの冬宮で奉仕を行うようになりました。
明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づく智明権現は廃され、明治8(1875)年大山寺は廃寺となり、大神山神社は尾高(米子市)の冬宮を本社とし、大山の宮から地蔵菩薩を除いて大神山神社奥宮とし、現在のような形となりました。
奥宮の本殿・幣殿・拝殿および末社下山神社本殿・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されています。
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大山寺は、山号は角磐山、天台宗別格本山の寺院です。
養老2(718)年、出雲玉造の人、依道という人により山が開かれました。依道は、狼を追いかけて深山に踏み入ったところ金色の狼を追って大山山中に入ると、地蔵尊が現れて猟師のつがえた矢を止め、狼は老尼の姿に変ったといいます。尼僧にさとされた依道は出家し、「金蓮上人」となりました。
平安時代、村上天皇より大山権現(地蔵権現)を大智明菩薩とする詔が下され、御本尊を本殿権現社(現在の大神山神社奥宮)に祀り大智明権現というようになりました。
慈覚大師は、顕密両教と共に「引声阿弥陀経」の秘曲を伝えられました。当山の行者はこれに帰依し、修験道から天台宗に列しました。
承安元(1171)年、火災により本尊を始め諸堂も焼失してしまいました。その頃、近くの長者原に一大勢力を持っていた紀成盛が御堂を再建し、金銅の地蔵尊及び鉄製厨子が奉納され再興されました。
元弘3(1333)年、当山の別当職にあった信濃坊源盛は兄名和長年が後醍醐天皇を奉じて船上山に立てこもった際、兄の義挙を助け当山の僧兵七百余騎をしたがえて船上山に馳せ参じて戦いました。
戦国時代には尼子氏、毛利氏、吉川氏などの尊崇を集めましたが、戦乱により寺運も衰退しました。
慶長年間、豪円僧正が座主となり寺運の挽回を計り、江戸幕府により三千石の寺領を得、次いで寛永7(1630)年からは代々宮様が座主につかれるようになりました。
明治初年の神仏分離令により、座主北白川宮能久親王も時の流れにはどうする事も出来ず大山寺の御本尊を御祀りしてあった本殿を、明治8(1875)年大神山神社に引渡して、大日堂に移し祀らねばならなくなりました。
寺運が衰退しているなか、明治36(1903)年に大山寺の号が復活しました。
昭和3(1928)年には4度の火災に遭い、昭和26(1951)年にようやく再建されました。
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鳥取県立大山自然歴史館は、大山の自然・歴史・文化に関する資料を展示する資料館です。
大山の成り立ち、山岳信仰、動植物に関する資料等をわかりやすく紹介しています。
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少し、車で移動して伯耆町(旧岸本町)にある植田正治写真美術館を訪れました。
植田正治写真美術館は、大山の麓の伯耆町(旧岸本町)にある写真美術館です。
高松伸の設計により平成7(1995)年に竣工、開館しました。
本人から寄贈された15,000点の作品を収蔵、常設展示しています。
植田正治は鳥取県境港市出身で、フランス芸術文化勲章を受けるなど高い評価を諸外国でも受けている世界的な写真家です。
山陰の空、地平線、砂丘などを背景に、被写体をオブジェのように配置した演出写真は写真誕生の地フランスでもUeda-cho(植田調)という言葉で広く知られています。
また、歌手福山雅治「HELLO」のCDジャケット写真を手がけたことをきっかけに福山と親交を深め、写真を指導したことでも知られています。
美術館裏の福岡堤からは大山を真正面に、逆に写し出す「逆さ大山」の池として多くの写真家・画家から親しまれています。
植田正治写真美術館は、このイメージを大切に受け継ぎ、各展示棟の間から望む水面には逆さ大山を見事に再現しています。
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Posted at 2013/09/09 23:10:16 | |
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