次は豊田市です。
挙母城(七州城)です。
挙母城は金谷城、桜城、七州城の3つを指します。
最初に築城されたのが、金谷城(豊田市金谷町)で、延慶年間(1309~11)に地頭の中條景長により築城され、代々中條氏が居城しましたが、永禄4(1561)年織田信長により落城し中條氏は滅亡しました。
慶長9(1604)年、三宅康貞が武蔵瓶尻(みかじり)より1万石で金谷城に入封しましたが、戦火で荒廃していたため、新たに桜城 (豊田市元城町)に移りました。
次いで、寛延2(1749)年に内藤政苗が2万石で上野安中から入封したものの、 桜城拡張建設途上から度重なる矢作川の氾濫に苦しめられ、ついに天明2(1782)年、時の城主の内藤学文(さとふみ)が幕府から築城費を与えられ、童子山へ築城を開始し、天明2(1782)年七州城が完成しました。この城は、七ヶ国(三河・尾張・遠江・信濃・美濃・伊勢・近江)が眺望出来るところから「七州城」とも呼ばれました。
内藤氏2万石の館として、内藤学文以降6代89年続きましたが、明治4(1871)年に全ての建物が取り壊されました。 明治以降は、学校敷地として利用され、現在、一部が愛知県立豊田東高等学校や豊田市美術館の敷地として利用され、城跡公園として整備されています
遺構としては豊田市美術館敷地内に櫓台の石垣が残り、昭和53(1978)年、牧野敏太郎が描いた「七州城図」を参考にして隅櫓が復元されています。
挙母城(七州城) - 01 posted by
(C)pismo
挙母城(七州城) - 02 posted by
(C)pismo
挙母城(七州城) - 03 posted by
(C)pismo
長興寺は、山号は集雲山、臨済宗東福寺派の寺院です。
建武2(1335)年、衣(挙母・金谷)城主、中條備前守秀長が創立開基となり、東福寺開山聖一国師の法孫太陽義冲を招き開山としました。当時の寺域は南北5丁余り、東西4丁余り、18坊に及ぶ塔頭が建ち並び、地域最大の寺院でした。
応仁の乱の後、中條氏の衰退と共に衰退し、永禄10(1567)年には、余りの偉容に城と間違えた織田信長の兵火によって焼失しました。信長の家臣で衣城代の余語正勝が再興し、天正11(1583)年 には長興寺で信長の一周忌法要を行いました。その際に、狩野元秀筆の「紙本著色織田信長像」が寄進されました。現在、信長の肖像画としてもっともよく知られているものです。
元禄10(1697)年2月、火災により伝えられた古文書、その他多くの宝物が焼失しましたが、再度再興され、今日に至っています。
長興寺 - 1 posted by
(C)pismo
長興寺 - 2 posted by
(C)pismo
長興寺 - 3 posted by
(C)pismo
豊田市郷土資料館は豊田大塚古墳の発掘を契機とし、昭和42(1967)年1月16日に開館した歴史資料館です。
敷地内には展示室を含む本館と市内豊松町から移築された民家(民俗資料館)・古墳・土蔵などがあります。
常設展では、先土器・縄文時代から昭和に至るまでの歴史資料などを展示しています。
豊田市郷土資料館 - 1 posted by
(C)pismo
守綱寺(しゅこうじ)は、山号は渡辺山、真宗大谷派の旧寺部領主渡辺家の菩提所の寺院です。
元和6(1620)年、渡邊重綱が父の渡辺半蔵守綱の菩提を弔う為、寺部村横山に塚を築き御堂を建立したのが始まりです。寛永16(1639)年、恵頓(蓮如曾孫の子)を招き寺院として開山、寺号を守綱寺と定めています。正保元(1644)年には治綱が伏見城の軍議評定所を本堂として移築し、寺域の整備を行いました。
渡辺家は三河時代からの徳川家の家臣で、初代は徳川十六神将の1人、槍で名高い渡辺半蔵守綱です。守綱は、徳川御三家設置の時、尾張徳川家の軍事担当重役として尾張藩に属しました。また十代規綱は又日庵宗玄と号し、茶事に精通し、尾張、三河を中心とする現在の中部圏の文化面での指導者でした。裏千家中興宇の祖といわれた玄々斉はこの規綱の実弟です。
守綱寺には渡辺家歴代の墓碑、大坂城内にあったと伝わる濡鷺の灯籠をはじめ、伏見城の軍事評定所を移築した内陣、錦糸金泥十字名号、安阿弥作・阿弥陀仏木像、渡辺家歴代の肖像画など多数の文化財があります。
(現地説明板などより)
守綱寺 - 01 posted by
(C)pismo
守綱寺 - 02 posted by
(C)pismo
守綱寺 - 03 posted by
(C)pismo
守綱寺 - 04 posted by
(C)pismo
守綱寺 - 05 posted by
(C)pismo
守綱寺 - 06 posted by
(C)pismo
守綱寺 - 07 posted by
(C)pismo
寺部八幡宮は、平安時代に高橋荘の領主高橋惟康が、不動堂村の館内に、石清水八幡宮を勧請し祀ったことがおこりです。
その後、惟康の子孫高橋氏が、長承2(1133)年3月15日再勧請造営したのが始まりです。
往事は数多い神宮寺を有していたと伝えられていますが、現在わずかに悟楽寺、儀隣寺の二ヶ寺の寺名のみ伝えています。南北朝以降は高橋荘地頭職、衣城主中條氏に仕えていた高橋荘東方政所鈴木氏も深く崇敬していました。
江戸時代、寺部領主渡辺氏も篤く信仰していましたが、矢作川に洪水が多く起こり、被害を度々受けたため明暦2(1656)年6月、寺部村岩前山に遷宮しました。
昭和35(1960)年、八幡社を八幡宮と改め昭和54(1979)年、幣殿内拝殿以下を新改築しました。
寺部八幡宮 - 1 posted by
(C)pismo
寺部八幡宮 - 2 posted by
(C)pismo
寺部八幡宮 - 3 posted by
(C)pismo
随応院は、正式名を浄土宗極楽山随応院不遠寺といい文明11(1479)年に大樹寺開山愚底の弟子法誉悦叟が、力石村(現、豊田市力石町)に創建した浄土宗極楽山浄土院不遠寺を寺部領主鈴木氏初代日向守重時の招きで長亨2(1488)年、勧学院文護寺跡と伝えられる現在の地に移したことを始まりです。
八世生誉の時、鈴木氏に代わって寺部領主となった渡辺氏の三代治綱は承応元(1652)年8月、亡母随応院殿(三代重綱夫人)の三十三回忌を営んだ際、寺号を随応院と改めました。
本堂裏西側には寺部領主渡辺氏三代までの夫人の墓所があります。なお、四代以降の婦人は守綱寺に祀られています。
また現在の墓所には、鈴木氏二代梅翁重明、日向守重教の供養塔もあります。
本堂正面の中門は六脚足の唐破風造りで、文政2(1819)年、渋川村(現、豊田市広川町)の棟梁江尻儀兵衛の手により再建されたものです。
(現地説明板より)
随応院 - 1 posted by
(C)pismo
随応院 - 2 posted by
(C)pismo
随応院 - 3 posted by
(C)pismo
寺部城は15世紀、文明年中、鈴木重時によって築城された城で、のち尾州徳川家の家老職渡辺氏の居城となりました。
永禄元年(1558)、寺部城主であった鈴木日向守重辰が今川氏から織田氏に寝返ると、今川義元は松平元信、後の徳川家康に寺部城を命じました。元信は寺部城を落とし、初陣を飾りました。
永禄9(1566)年、今度は佐久間信盛に攻められ落城しました。
慶長15(1610)年、尾張藩附家老となった徳川十六将の1人、渡辺半蔵守綱が寺部を領することになり、寺部城跡に陣屋を築きました。それ以降、明治維新に至るまで渡辺氏が居城としました。
現在、城跡は「寺部城址の森公園」となっています。
鈴木氏時代の遺稿は西側の土塁のみで、あとは江戸時代から明治期の館の建物の礎石です。
土塁は幅5.1mの立派なもので、土塁の外側は堀となっています。建物は母屋、書院、茶席、土蔵などがありました。城の面積は約1万平方メートル、城中には井戸が3箇所あり、籠城の備えてものと考えられます。屋敷内には「つくばい」が多数見られましたが、これは10代目当主規綱候が茶人であったことによるものでしょう。
(現地説明板などより)
寺部城 - 01 posted by
(C)pismo
寺部城 - 02 posted by
(C)pismo
寺部城 - 03 posted by
(C)pismo
寺部城 - 04 posted by
(C)pismo
守綱神社の祭神は、渡辺半蔵守綱です。
渡辺家では、慶長5(1600)年4月徳川家康より大坂城内にて守綱に与えられた南蛮鳩胸の鎧をもって、代々祭祀を行ってきましたが、その意を継いで旧家臣の遊佐美香、鈴木重雄、松本但朗、大澤重熙が信徒総代となり、報恩のためさらに祭祀せんとして、明治13(1880)年9月、旧家臣並びに地元関係者283名協同して寄付金を募り、現在の地に創立しました。例祭は毎年5月14日であるが、昭和50(1975)年頃からこれに近い日曜日と定めました。
祭神・渡辺半蔵守綱は渡辺綱の後裔で、家康に従って各地に戦って功名を挙げ、世に「槍の半蔵」と称せられ徳川十六将の一人に数えられました。また、領民と共に堤防を築くなど、治政にも深く意を尽くしました。慶長15(1610)年、尾張徳川家の軍事担当重役として尾張藩に属して、三州寺部に封ぜられ石高1万4千石を領有しました。
境内神社・稲荷神社は、元禄15(1702)年8月27日、寺部領主五代渡辺半蔵定綱が、領内の平穏のため旧寺部陣屋内の当地に勧請しました。
(現地説明板より)
守綱神社 - 1 posted by
(C)pismo
守綱神社 - 2 posted by
(C)pismo
法珍のすみれ草句碑には「戴いて 踏めの法珍の すみれ草」とあります。
江戸時代の大洪水でここの堤防が決壊し、その復旧工事を国役普請、つまり、幕府の直轄事業で行ったため、渡辺家普請奉行磯谷利右衛門克明(俳号 無心斎素英)が、工事が完成したときに、公儀普請への感謝の気持ちを村人に伝えようと詠んだとされています。
渡辺家は、御三家尾張藩の成立に伴って将軍家から尾張藩に派遣された付家老の家系で、江戸とのパイプの太さが国役普請を実現させたと思われます。
なお、利右衛門は、守綱寺の過去帳と墓石の刻字から、別名を利兵衛といい、嘉永4(1851)年没、享年74歳とされます。
また、法珍の地名についても、旧来の地名「法沈」の誤伝とするものと、このあたりにあったと伝えられる明勝寺の前身の寺院の住職「法珍」が、堤防改修の用地を提供したことに由来するとの、二説があります。
(現地説明板より)
法珍のすみれ草句碑 - 1 posted by
(C)pismo