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2013年11月01日 イイね!

松平郷の史跡散歩

松平城の麓、松平氏発祥の地松平郷を史跡散歩です。
松平氏は江戸幕府の創始者である徳川家康の祖で,ここ松平町が発祥の地です。
伝承によれば時宗の遊行僧・徳阿弥が諸国を流浪中,東国から三河の大浜,そして松平郷に入り,土豪在原信重の婿となり松平親氏を名乗り松平城を本拠としたのが始まりといわれています。三代信光の時後の徳川将軍家となる松平宗家と幕末まで松平郷に住した旗本・交代寄合松平太郎左衛門家に分かれました。信光は松平郷から岩津・大給・安城・岡崎城へ侵攻し西三河一帯に進出,一族発展の基礎を築き,松平氏九代目家康が徳川に改姓して天下統一を果しました。家康の死後,太郎左衛門家九代尚栄の時に東照宮が駿河から当地に勧請され,「ご称号の地」として松平郷は幕府から敬われてきました。
「松平氏館跡」(現松平東照宮)は,三時期の歴史的な段階がありました。初めは,親氏の居館としての松平氏館,つぎに松平信光以後,宗家と分かれた旗本松平太郎左衛門の居館,そして,居館廃絶後,今日みるような元和年間に勧請されていた東照宮を前面に祭祀した松平東照宮の段階です。境内には「産湯の井戸」と呼ばれる井戸があります。松平家では三代松平信光が当館で出生した際,この清水を用いたことから松平家代々の「産湯の祝泉」となったといわれています。天文11(1542)年に家康が岡崎城で誕生した際には竹筒につめて早馬で届けたといわれています。また,館跡正面から西側に巡る水堀の石垣は江戸時代初期に整備されたといわれます。
平成6(1994)年,松平氏の居館(東照宮境内)を「松平氏館跡」とし,「松平城跡」,「大給城跡」,「高月院」の4ヶ所が初期松平氏の状況をよく伝えていることから,一括して松平氏遺跡として国の指定史跡となりました。
(現地説明板などより)
松平氏館(松平東照宮) - 01
松平氏館(松平東照宮) - 01 posted by (C)pismo

松平氏館(松平東照宮) - 02
松平氏館(松平東照宮) - 02 posted by (C)pismo

松平氏館(松平東照宮) - 03
松平氏館(松平東照宮) - 03 posted by (C)pismo

松平氏館(松平東照宮) - 04
松平氏館(松平東照宮) - 04 posted by (C)pismo

松平氏館(松平東照宮) - 05
松平氏館(松平東照宮) - 05 posted by (C)pismo

松平東照宮は、正式名称を「八幡神社松平東照宮」といいます。
徳川家康の始祖である初代・松平太郎左衛門親氏公がこの地に居をかまえ、氏神として若宮八幡を勧請したのがはじまりと伝えられています。
その後、元和5(1619)年に松平太郎左衛門家七代尚栄(なおよし)が久能山東照宮から徳川家康公の御分霊を勧請、奉祀され、権現様とも称せられました。
大正5(1916)年に松平郷内の無格社3社を合併、昭和40(1965)年初代・松平親氏公が合祀され、神社名を「八幡神社」から「松平神社」へと変更されました。
その後、昭和58(1983)年に現在の名称へと変更され、現在に至っています。
現在の社殿は、昭和初期に松平家の館跡へ境内を拡張し新築されたもので、それにともない旧社殿は奥宮となりました。
奥宮には、徳川家康公生誕の折に用いられたという「産湯の井戸」があります。天文11(1542)年に家康が岡崎城で誕生した際には竹筒につめて早馬で届けたといわれています。
松平氏館(松平東照宮) - 06
松平氏館(松平東照宮) - 06 posted by (C)pismo

松平氏館(松平東照宮) - 07
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松平氏館(松平東照宮) - 08
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松平氏館(松平東照宮) - 09
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松平氏館(松平東照宮) - 10
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松平氏館(松平東照宮) - 11
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松平氏館(松平東照宮) - 12
松平氏館(松平東照宮) - 12 posted by (C)pismo

松平氏館(松平東照宮) - 13
松平氏館(松平東照宮) - 13 posted by (C)pismo

松平東照宮から高月院にかけての2 ヘクタールが、歴史と自然の里「松平郷園地」として整備されています
「松平郷園地」の入口付近には初代松平太郎左衛門親氏の銅像があります。銅像は領内巡視中の姿を表現しています。
徳川300 年の礎となった松平八代の歴史を表現するため、親氏の銅像のほか七対の石柱があります。
松平太郎左衛門親氏の像 - 1
松平太郎左衛門親氏の像 - 1 posted by (C)pismo

松平太郎左衛門親氏の像 - 2
松平太郎左衛門親氏の像 - 2 posted by (C)pismo

高月院は山号は本松山、浄土宗の寺院です。
徳川氏の始祖松平家の菩提寺です。
貞治6(1367)年に松平郷主太郎左衛門在原信重の庇護を受け見誉寛立上人(足助重宗の次男重政)が創建されました。
もとの名を「寂静寺」ともいいます。
信重の娘婿、松平親氏は寛立上人に深く帰依し、本尊の阿弥陀如来をはじめ堂や塔のすべてを寄進し,松平氏の菩提寺として寺名も本松山高月院に改め、松平氏の菩提寺としました。
慶長7(1602)年、寺領100石を徳川家康より下賜され、以後幕末に至るまで厚遇されました。寺院の維持は徳川幕府によって行われました。
現在の本堂や山門は寛永18(1641)年に建立されたものです。
境内の収蔵室には市指定文化財の高月院文書、弁財天の図、野風炉など貴重な文化財が展示されています。
境内は国指定史跡「松平家遺跡」になっていますが、初代親氏、二代康親、四代親忠夫人の墓所があります。
墓塔は三基とも花崗岩製の宝篋印塔で、室町時代中期から後期のものと思われますが、いずれも一部が欠損しています。
四代親忠夫人の墓があるのは、親忠の第四子超誉存牛上人が高月院第七代住職(1575年の入山)であるため、母を祖先の陵墓の地に葬ったものと思われます。墓域は約50平方メートルあり、文政年間に11代将軍徳川家斉、明治23(1890)年に旧大和郡山藩主柳沢保申がそれぞれ修築して現在に至っています。
また、境内には家康公御手植え松がありました。当時は松平蔵人元康と称していた永禄3(1560)年に始祖の墓所に参拝した後、自ら小松を山門の下に植え、山号本松山の根本であると称したといわれています。当時の住職は九世三誉善達でした。しかし、この松は文化12(1815)年、暴風雨で倒れ、高月院では幕府に報告して指示を仰ぎ、その地に実生の小松二本を植えました。しかしこの松も昭和57(1982)年松食い虫のために枯れて刈り倒されました。現在は徳川家十八代徳川恒孝氏夫妻により植樹されています。
高月院 - 01
高月院 - 01 posted by (C)pismo

高月院 - 02
高月院 - 02 posted by (C)pismo

高月院 - 03
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高月院 - 04
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高月院 - 05
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高月院 - 06
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高月院 - 07
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高月院 - 08
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高月院 - 09
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高月院 - 10
高月院 - 10 posted by (C)pismo

高月院 - 11
高月院 - 11 posted by (C)pismo

松平太郎左衛門家墓所は、松平氏館跡(現在の松平東照宮)の南方の山地に位置します。
松平太郎左衛門家は後の徳川将軍、松平諸氏の始祖で松平郷を発祥の地としています。
初代親氏・二代秦親・三代目で将軍家に続くことになる信光と太郎左衛門家に続く信広の二家に分かれました。
太郎左衛門家は江戸時代を通じて幕府より「御称号の旧地」を守る役目として442石を給せられ、代々太郎左衛門を名乗り参勤交代の許された交代寄合に列せられました。
初代親氏、九代尚栄は高月院、三代信広、七代親長は晴暗寺裏山に墓地がありますが、この墓所には十一代信和以降の当主が葬られています。
太郎左衛門家は明治維新により帰農し、大正末期に東京に居を移しました。
(現地説明板などより)
松平太郎左衛門家墓所 - 1
松平太郎左衛門家墓所 - 1 posted by (C)pismo
Posted at 2013/11/26 21:00:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2013年11月01日 イイね!

大給城と松平城

豊田市の郊外、松平氏発祥の地松平郷を巡ります。
まずは、2つの山城から。
大給城には松平乗元の墓があります。
大給城址の登城道途中にあります。
松平乗元は文安3(1446)年に岩津で生れました。父は徳川家の祖先松平氏第4代の松平親忠です。幼名を源四郎、後に左近と言い加賀守に任ぜられました。
応仁文明の頃、祖父松平信光が大給城を攻略した時、父親忠の命によってこの城を守り、近隣を平定して細川城もおさめました。以来子孫五代ここを居城としたので大給松平と言われ乗元を始祖としました。
大給松平の子孫は繁栄し、主なるものとして三河西尾、信州龍岡、豊後府内の藩主家などがあります。
手洗鉢に松平岩見守乗利とあるのは、大給五代直乗の次子直次の末流で龍岡藩主です。この廟所は文政天保の頃にできたものですが、菩提寺は岡崎市細川町の松明院です。(現地説明板より)
大給城・松平乗元の墓 - 01
大給城・松平乗元の墓 - 01 posted by (C)pismo

大給城・松平乗元の墓 - 02
大給城・松平乗元の墓 - 02 posted by (C)pismo


大給城は、西方眼下に九久平の集落を見下ろす標高204mの急峻な山上に築かれています。九久平は足助街道と新城海道との交差点であると同時に、巴川の水運と陸上輸送との中継地でもあるという交通の要衝でした。
もと土豪長坂新左衛門の城でしたが、岩津(岡崎市)に進出した松平宗家三代の信光が攻略し、三男親忠(松平宗家四代)に与えました。親忠は細川城(岡崎市)とともにこれを次男乗元に譲り、乗元が大給松平氏の初代となりました。
大給松平2代乗正は永正7(1510)年までに城の大修築を行いました。以後、乗勝、親乗、真乗と続き、天正18(1590)年、6代家乗のとき徳川家康の関東への国変えに伴って上野国に移り、大給城は廃城となりました。
天文年間には、大給城主松平親乗による松平太郎左衛門館への夜討ち、弘治元(1555)年、今川勢の侵入による大給山中の合戦、弘治2(1556)年の滝脇松平氏との戦い、天正3(1575)年の滝脇松平氏の大給城夜襲などの出来事がありました。
現在は城址公園として整備されています。石垣や巨石があるためフリークライミングのメッカになっています。「松平氏館跡」「松平城跡」「高月院」と共に、松平氏遺跡として平成12(2000)年に国の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
大給城 - 03
大給城 - 03 posted by (C)pismo

大給城 - 04
大給城 - 04 posted by (C)pismo

大給城 - 05
大給城 - 05 posted by (C)pismo

大給城 - 06
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大給城 - 07
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大給城 - 08
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大給城 - 09
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大給城 - 10
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大給城 - 11
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大給城 - 12
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大給城 - 13
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大給城 - 14
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大給城 - 15
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大給城 - 16
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大給城 - 17
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大給城 - 18
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大給城 - 19
大給城 - 19 posted by (C)pismo

松平城は、郷敷城とも呼ばれ応永の頃(1394年~1427年)松平氏の始祖親氏が築いたと伝えられています。
跡を継いだ二代泰親(親氏の弟。一説に子とも)が三男信光(松平宗家三代)とともに岩津(岡崎市)に進出してからは、次男信広の居城となったと伝えられています。(信広、信光は親氏の子との説もあり)
信広は松平郷松平家(松平太郎左衛門家)の祖となり、子孫はその後も松平郷にとどまって442石どりの交替寄合旗本となりました。
城の南東直下を新城街道(国道301号)が通っています。
松平氏館跡の南東500m、お城山と呼ばれている標高298mの山頂に位置し、西に算段の細長い曲輪が3つ配置されています。本丸は約6アール、西北部山頂に二の丸、その下段に三の丸跡がみられます。西部の他は総て急峻な斜面で、本丸跡の下方約15mの山腹に南,東,北の三方にわたり幅3から5mの空掘が残っていて、不時の敵襲に対する室町時代の典型的な山城です。
櫓台と思われる遺構や井戸跡などが残っています。
廃城の時期については諸説があり定かではありません。 
「松平氏館跡」「高月院」「大給城跡」と共に、松平氏遺跡として平成12(2000)年に国の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
松平城 - 01
松平城 - 01 posted by (C)pismo

松平城 - 02
松平城 - 02 posted by (C)pismo

松平城 - 03
松平城 - 03 posted by (C)pismo

松平城 - 04
松平城 - 04 posted by (C)pismo

松平城 - 05
松平城 - 05 posted by (C)pismo

松平城 - 06
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松平城 - 07
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松平城 - 08
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松平城 - 09
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松平城 - 10
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松平城 - 11
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松平城 - 12
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松平城 - 13
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Posted at 2013/11/26 20:47:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2013年11月01日 イイね!

豊田市の史跡

次は豊田市です。
挙母城(七州城)です。
挙母城は金谷城、桜城、七州城の3つを指します。
最初に築城されたのが、金谷城(豊田市金谷町)で、延慶年間(1309~11)に地頭の中條景長により築城され、代々中條氏が居城しましたが、永禄4(1561)年織田信長により落城し中條氏は滅亡しました。
慶長9(1604)年、三宅康貞が武蔵瓶尻(みかじり)より1万石で金谷城に入封しましたが、戦火で荒廃していたため、新たに桜城 (豊田市元城町)に移りました。
次いで、寛延2(1749)年に内藤政苗が2万石で上野安中から入封したものの、 桜城拡張建設途上から度重なる矢作川の氾濫に苦しめられ、ついに天明2(1782)年、時の城主の内藤学文(さとふみ)が幕府から築城費を与えられ、童子山へ築城を開始し、天明2(1782)年七州城が完成しました。この城は、七ヶ国(三河・尾張・遠江・信濃・美濃・伊勢・近江)が眺望出来るところから「七州城」とも呼ばれました。
内藤氏2万石の館として、内藤学文以降6代89年続きましたが、明治4(1871)年に全ての建物が取り壊されました。 明治以降は、学校敷地として利用され、現在、一部が愛知県立豊田東高等学校や豊田市美術館の敷地として利用され、城跡公園として整備されています
遺構としては豊田市美術館敷地内に櫓台の石垣が残り、昭和53(1978)年、牧野敏太郎が描いた「七州城図」を参考にして隅櫓が復元されています。
挙母城(七州城) - 01
挙母城(七州城) - 01 posted by (C)pismo


挙母城(七州城) - 02
挙母城(七州城) - 02 posted by (C)pismo

挙母城(七州城) - 03
挙母城(七州城) - 03 posted by (C)pismo

長興寺は、山号は集雲山、臨済宗東福寺派の寺院です。
建武2(1335)年、衣(挙母・金谷)城主、中條備前守秀長が創立開基となり、東福寺開山聖一国師の法孫太陽義冲を招き開山としました。当時の寺域は南北5丁余り、東西4丁余り、18坊に及ぶ塔頭が建ち並び、地域最大の寺院でした。
応仁の乱の後、中條氏の衰退と共に衰退し、永禄10(1567)年には、余りの偉容に城と間違えた織田信長の兵火によって焼失しました。信長の家臣で衣城代の余語正勝が再興し、天正11(1583)年 には長興寺で信長の一周忌法要を行いました。その際に、狩野元秀筆の「紙本著色織田信長像」が寄進されました。現在、信長の肖像画としてもっともよく知られているものです。
元禄10(1697)年2月、火災により伝えられた古文書、その他多くの宝物が焼失しましたが、再度再興され、今日に至っています。
長興寺 - 1
長興寺 - 1 posted by (C)pismo

長興寺 - 2
長興寺 - 2 posted by (C)pismo

長興寺 - 3
長興寺 - 3 posted by (C)pismo

豊田市郷土資料館は豊田大塚古墳の発掘を契機とし、昭和42(1967)年1月16日に開館した歴史資料館です。
敷地内には展示室を含む本館と市内豊松町から移築された民家(民俗資料館)・古墳・土蔵などがあります。
常設展では、先土器・縄文時代から昭和に至るまでの歴史資料などを展示しています。
豊田市郷土資料館 - 1
豊田市郷土資料館 - 1 posted by (C)pismo

守綱寺(しゅこうじ)は、山号は渡辺山、真宗大谷派の旧寺部領主渡辺家の菩提所の寺院です。
元和6(1620)年、渡邊重綱が父の渡辺半蔵守綱の菩提を弔う為、寺部村横山に塚を築き御堂を建立したのが始まりです。寛永16(1639)年、恵頓(蓮如曾孫の子)を招き寺院として開山、寺号を守綱寺と定めています。正保元(1644)年には治綱が伏見城の軍議評定所を本堂として移築し、寺域の整備を行いました。
渡辺家は三河時代からの徳川家の家臣で、初代は徳川十六神将の1人、槍で名高い渡辺半蔵守綱です。守綱は、徳川御三家設置の時、尾張徳川家の軍事担当重役として尾張藩に属しました。また十代規綱は又日庵宗玄と号し、茶事に精通し、尾張、三河を中心とする現在の中部圏の文化面での指導者でした。裏千家中興宇の祖といわれた玄々斉はこの規綱の実弟です。
守綱寺には渡辺家歴代の墓碑、大坂城内にあったと伝わる濡鷺の灯籠をはじめ、伏見城の軍事評定所を移築した内陣、錦糸金泥十字名号、安阿弥作・阿弥陀仏木像、渡辺家歴代の肖像画など多数の文化財があります。
(現地説明板などより)
守綱寺 - 01
守綱寺 - 01 posted by (C)pismo

守綱寺 - 02
守綱寺 - 02 posted by (C)pismo

守綱寺 - 03
守綱寺 - 03 posted by (C)pismo

守綱寺 - 04
守綱寺 - 04 posted by (C)pismo

守綱寺 - 05
守綱寺 - 05 posted by (C)pismo

守綱寺 - 06
守綱寺 - 06 posted by (C)pismo

守綱寺 - 07
守綱寺 - 07 posted by (C)pismo

寺部八幡宮は、平安時代に高橋荘の領主高橋惟康が、不動堂村の館内に、石清水八幡宮を勧請し祀ったことがおこりです。
その後、惟康の子孫高橋氏が、長承2(1133)年3月15日再勧請造営したのが始まりです。
往事は数多い神宮寺を有していたと伝えられていますが、現在わずかに悟楽寺、儀隣寺の二ヶ寺の寺名のみ伝えています。南北朝以降は高橋荘地頭職、衣城主中條氏に仕えていた高橋荘東方政所鈴木氏も深く崇敬していました。
江戸時代、寺部領主渡辺氏も篤く信仰していましたが、矢作川に洪水が多く起こり、被害を度々受けたため明暦2(1656)年6月、寺部村岩前山に遷宮しました。
昭和35(1960)年、八幡社を八幡宮と改め昭和54(1979)年、幣殿内拝殿以下を新改築しました。
寺部八幡宮 - 1
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寺部八幡宮 - 2
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寺部八幡宮 - 3
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随応院は、正式名を浄土宗極楽山随応院不遠寺といい文明11(1479)年に大樹寺開山愚底の弟子法誉悦叟が、力石村(現、豊田市力石町)に創建した浄土宗極楽山浄土院不遠寺を寺部領主鈴木氏初代日向守重時の招きで長亨2(1488)年、勧学院文護寺跡と伝えられる現在の地に移したことを始まりです。
八世生誉の時、鈴木氏に代わって寺部領主となった渡辺氏の三代治綱は承応元(1652)年8月、亡母随応院殿(三代重綱夫人)の三十三回忌を営んだ際、寺号を随応院と改めました。
本堂裏西側には寺部領主渡辺氏三代までの夫人の墓所があります。なお、四代以降の婦人は守綱寺に祀られています。
また現在の墓所には、鈴木氏二代梅翁重明、日向守重教の供養塔もあります。
本堂正面の中門は六脚足の唐破風造りで、文政2(1819)年、渋川村(現、豊田市広川町)の棟梁江尻儀兵衛の手により再建されたものです。
(現地説明板より)
随応院 - 1
随応院 - 1 posted by (C)pismo

随応院 - 2
随応院 - 2 posted by (C)pismo

随応院 - 3
随応院 - 3 posted by (C)pismo

寺部城は15世紀、文明年中、鈴木重時によって築城された城で、のち尾州徳川家の家老職渡辺氏の居城となりました。
永禄元年(1558)、寺部城主であった鈴木日向守重辰が今川氏から織田氏に寝返ると、今川義元は松平元信、後の徳川家康に寺部城を命じました。元信は寺部城を落とし、初陣を飾りました。
永禄9(1566)年、今度は佐久間信盛に攻められ落城しました。
慶長15(1610)年、尾張藩附家老となった徳川十六将の1人、渡辺半蔵守綱が寺部を領することになり、寺部城跡に陣屋を築きました。それ以降、明治維新に至るまで渡辺氏が居城としました。
現在、城跡は「寺部城址の森公園」となっています。
鈴木氏時代の遺稿は西側の土塁のみで、あとは江戸時代から明治期の館の建物の礎石です。
土塁は幅5.1mの立派なもので、土塁の外側は堀となっています。建物は母屋、書院、茶席、土蔵などがありました。城の面積は約1万平方メートル、城中には井戸が3箇所あり、籠城の備えてものと考えられます。屋敷内には「つくばい」が多数見られましたが、これは10代目当主規綱候が茶人であったことによるものでしょう。
(現地説明板などより)
寺部城 - 01
寺部城 - 01 posted by (C)pismo

寺部城 - 02
寺部城 - 02 posted by (C)pismo

寺部城 - 03
寺部城 - 03 posted by (C)pismo

寺部城 - 04
寺部城 - 04 posted by (C)pismo

守綱神社の祭神は、渡辺半蔵守綱です。
渡辺家では、慶長5(1600)年4月徳川家康より大坂城内にて守綱に与えられた南蛮鳩胸の鎧をもって、代々祭祀を行ってきましたが、その意を継いで旧家臣の遊佐美香、鈴木重雄、松本但朗、大澤重熙が信徒総代となり、報恩のためさらに祭祀せんとして、明治13(1880)年9月、旧家臣並びに地元関係者283名協同して寄付金を募り、現在の地に創立しました。例祭は毎年5月14日であるが、昭和50(1975)年頃からこれに近い日曜日と定めました。
祭神・渡辺半蔵守綱は渡辺綱の後裔で、家康に従って各地に戦って功名を挙げ、世に「槍の半蔵」と称せられ徳川十六将の一人に数えられました。また、領民と共に堤防を築くなど、治政にも深く意を尽くしました。慶長15(1610)年、尾張徳川家の軍事担当重役として尾張藩に属して、三州寺部に封ぜられ石高1万4千石を領有しました。
境内神社・稲荷神社は、元禄15(1702)年8月27日、寺部領主五代渡辺半蔵定綱が、領内の平穏のため旧寺部陣屋内の当地に勧請しました。
(現地説明板より)
守綱神社 - 1
守綱神社 - 1 posted by (C)pismo

守綱神社 - 2
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法珍のすみれ草句碑には「戴いて 踏めの法珍の すみれ草」とあります。
江戸時代の大洪水でここの堤防が決壊し、その復旧工事を国役普請、つまり、幕府の直轄事業で行ったため、渡辺家普請奉行磯谷利右衛門克明(俳号 無心斎素英)が、工事が完成したときに、公儀普請への感謝の気持ちを村人に伝えようと詠んだとされています。
渡辺家は、御三家尾張藩の成立に伴って将軍家から尾張藩に派遣された付家老の家系で、江戸とのパイプの太さが国役普請を実現させたと思われます。
なお、利右衛門は、守綱寺の過去帳と墓石の刻字から、別名を利兵衛といい、嘉永4(1851)年没、享年74歳とされます。
また、法珍の地名についても、旧来の地名「法沈」の誤伝とするものと、このあたりにあったと伝えられる明勝寺の前身の寺院の住職「法珍」が、堤防改修の用地を提供したことに由来するとの、二説があります。
(現地説明板より)
法珍のすみれ草句碑 - 1
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Posted at 2013/11/20 20:10:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2013年11月01日 イイね!

名古屋城本丸御殿玄関、表書院部分完成→一般公開

この日は、平成25(2013)年5月29日に玄関、表書院部分が一部完成し公開された名古屋城本丸御殿を見に名古屋城を訪れました。名古屋城の本丸御殿は天守の南、本丸のほぼ中央に慶長20(1615)年に建てられた大建築で、当初は、初代尾張藩主徳川義直の住居と藩の政庁として使用されましたが、その後は将軍が上洛する際の宿館となりました。
寛永11(1634)年には、三代将軍家光の上洛にあわせ、新たに上洛殿や御湯殿書院などが造られました。
二条城の二之丸御殿と並んで書院造の双璧で、昭和5(1930)年に国宝に指定されましたが、惜しくも第二次世界大戦で焼失しました。
現在復元工事を進めており、建物は平成20(2008)年に着工され、平成25(2013)年5月29日には玄関、表書院部分が一部完成し公開されました。
平成28(2016)年には対面所などが完成予定で、将軍上洛の際の居館として建てられた上洛殿などすべての建物が完成し、公開されるのは平成30(2018)年の予定です。

ちなみ昨年名古屋城を訪れたときの様子はこちら↓
名古屋・知多半島ドライブ(その2・本丸御殿の復元が進む名古屋城)


名古屋城 - 01
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名古屋城 - 02
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名古屋城 - 06
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新築なった本丸御殿は桧のにおいがしました。新築の香り。
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障壁画(複製)も新しくピカピカ。
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Posted at 2013/11/06 21:35:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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