妙興寺は山号は教意山、日蓮宗の寺院です。
室町時代に播州からこのあたりまで勢力を持っていた播磨の国主・赤松則興の追善供養の為に応永10(1403)年大教阿闍梨日伝上人によって建立せられました。
その後歴代の佳持として近隣一帯の武家の名門の子弟が迎えられました。
戦国のころは寺域は二町余十坊一院あり豪壮を誇り備前法華の中心道場として重きをなしました。永禄元(1558)年頃には寺域二町十坊一院とその豪壮をうたわれていましたが、享保元(1716)年、伽藍の大半を消失したため、現在の諸堂は昔日の面影を伝えるものではありません。
現在の本殿及び客殿は、安永3(1774)年に改築されたものです。
寛永3(1626)年に制作された仁王像は平成24(2012)年に修復され、当時の趣を再現しています。
境内に黒田高政と重隆(官兵衛孝高の曾祖父と祖父)及び宇喜多興家(直家の父)墓碑があります。
宇喜多能家(砥石城主)は、天文3(1534)年、同じ浦上家の重臣である島村豊後守(高取山城主)の奇襲を受けて城を枕に自害しました。子の興家は、当時6歳の八郎(後の直家)を連れて備後の鞆に落ちのびたが、まもなく備前福岡に戻り豪商阿部善定のもとに身を寄せました。
興家は、やがて善定の娘との間に二児(後の忠家・春家)をもうけましたが、不遇のうちに天文5(1536)年この地で病死しました。法名を霜月光珍といいます。八郎は、阿部善定や尼となっていた叔母(下笠加大楽院)の保護のもとに、少年時代をこの地で過ごしました。
黒田氏の祖宗清は、近江国伊香郡黒田邑に住していました。宗清五世の孫高政は永正8(1511)年当地福岡に移住し、十数年を過ごしています。
高政は大永3(1522)年にこの地で亡くなりましたが、その翌年重隆には嫡子職隆が誕生しています。
重隆は、大永5(1525)年、家族を連れて播州に移住しました。その後御着城主小寺氏に仕官した重隆はその器量を認められて播州姫路城を預かっています。
職隆、そして姫路城で生まれた子の官兵衛孝高と相次いで姫路城主となっていますがこの播州時代にその後の黒田家発展の基礎づくりができました。
官兵衛孝高の長男長政は関ヶ原の戦いで徳川家康に味方して勝利し、筑前52万石に封ぜられ城を築いて福岡城と命名しました。これは父祖の生活の地で墓もある備前福岡を偲んでこの地名を用いたといいます。
この黒田墓所には現在も各地から多くの参詣者があります。
(現地説明板などより)
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鎌倉時代に市が開かれ一遍上人絵伝でも描かれた
福岡の市跡です。
福岡の市は、鎌倉時代福岡庄のなかで開かれていた定期市のひとつであったと推定されています。同荘園内には、現在でも一日市(ひといち)や八日市(ようかいち)などの地名が残っており、日によって定期的に市が開かれていたと考えられます。
弘安元(1278)年福岡の市で説法する様子を描いた「一遍上人絵伝」は、当時のこの地方の風俗や人々の暮らしぶりを知るうえで貴重なものです。
(現地説明板より)
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福岡集会所の前庭に
福岡一文字造剣之地碑が建立されています。
福岡一文字派は、鎌倉時代初期の則宗を始祖とし、鎌倉中期にかけて多くの名工を輩出して黄金時代を迎えました。
中でも則宗や宗吉らは、後鳥羽上皇の御番鍛冶として召し出されています。
一文字の呼称の由来は、銘に「一」の字を刻すものが多いからで、「一」は天下一ということを表わしていると解されています。
福岡一文字派は、「一」の銘だけ切るもの、「一」の下に個銘を切るもの、そして個銘だけのものに大別されます。
刀工たちの居住地のこの福岡庄(現在の長船町福岡地区と岡山市の東部の旧上道地区)は、平安時代の末期から鎌倉時代の正中元(1324)年東寺の荘園となるまでは、皇室の重要な荘園でした。
「東寺百合文書」に残されている古文書により、当時、福岡一文字派の刀工たちは、福岡庄の吉井周辺に居住し、皇室の庇護を受け広い給田を所有、安定した生活の中で鍛刀していたことがうかがえます。
この時代、備前刀は古備前派から長船派、国宗派、そしてこの福岡一文字派が相競うように排出し、刀剣の質、量ともに黄金時代を迎えています。
特に福岡一文字派の作風は、のちの日本刀の原形であり、古雅の上に優美さを加え一世を風靡しました。
福岡一文字派の刀剣には、則宗、吉家、吉房、助真、助平、助綱等をはじめ「一」、そして無銘のものまで、御物、国宝、重要美術刀剣、重要刀剣となっているものが多くあります。
福岡一文字派は、元寇という未曾有の出来事に遭遇してからの世情の大きな変動の中で、備前刀の特徴が他の地へも伝わり大きな影響を与え
ました。
そして現在まで、備前刀が日本の主流をなしてきています。
(現地説明板より)
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江戸初期には福岡の町の各小路に一つづつ掘られていた共同井戸・
七つ井戸です。「備前福岡名所町、七口、七井戸、七小路」と、言い伝えられて来たように、ここ福岡には昔から、飲用、消火用、その他生活用水を得るため、個人井戸の他に、その周辺の人々によって管理使用されていた立派な共同井戸がありました。
明治5(1872)年の地租改正の時に、七つの共同井戸の敷地が、村総持ちの土地として台帳に記載され、免祖地として引き続き使用されていました。
これらの井戸が、いつごろ作られたかは不明ですが、江戸初期には各小路に一つづつ掘られており、江戸時代中ごろには既に使われていたといわれています。
吉井川の地下水のため、井戸水は涸れることなく、水質は極めてよく、大正の末ごろまでは、近くの村から酒造用にと牛車や大八車で水を汲みに来ていたといいます。
七つ井戸は、村人にとっては、情報交換、社交の場として楽しい所でしたが、打ち抜き井戸や水道の普及などで次第に使われなくなりました。
現在、七つのうち四つの井戸が昔の姿のまま残っています。
(現地説明板より)
この井戸は、現存するうちの一つです。
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仲崎邸は明治時代末期から大正時代に10年余りの歳月をかけて建てられた大地主の邸宅です。
邸宅は当時の最高級の材木を用いて造られた格調の高い県内屈指の建造物です。
近年空き家になっていたのを地域住民が中心となって地域活性化の拠点として再生し、公開、活用しています。
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池田光政の寺院整理で廃寺となった
薬王寺跡です。薬王寺は、山号は岡隆山(こうりゅうざん) 、奈良時代の報恩大師ゆかりの備前48ヶ寺の一つです。
平安、鎌倉、南北朝、室町時代にかけては、五反余の寺域に、三院(乾生院、西浄院、成就院)、六堂(薬師堂、大師堂、観音堂、仁王堂、阿弥陀堂、十王堂)が建ち並ぶ大寺院で、日常多数の参拝者でたいへんなにぎわいであったと伝えられています。
本尊は薬師如来です。
江戸時代に入り、寛文6(1666)年、藩主池田光政の寺院整理で、薬王寺も廃寺の憂き目にあい、本尊薬師如来は、小豆島の寺院へ、三院、六堂もそれぞれ他地域の寺院へ移され、北門鎮守の稲荷社、鬼門魔よけの地蔵堂の他の建物は、全部取り払い廃棄されました。
その後、信徒達の本尊取り戻し信仰したき旨の熱心なる願いが藩より許可されたので、二間に四間半の薬師堂を再建して本尊を迎え、僧一人を住まわせてこれを祭り、以来、地域の人々の熱心な信仰により、大正の終わりまでその状態が続いていました。
現在の堂宇は、大正15(1926)年に改修されたもので、今は無住です。
邑久郡北巡り八十八ヶ所霊場の第二番札所にもなっています。
境内にある墓石は、信徒である東原一統の元祖東原左京之尉夫妻(道栄禅定門・妙栄禅定尼)のものです。
(現地説明板より)
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眼病平癒の神として信仰を集めてきた
妙見堂です。
「妙見さん」という呼び名で親しまれている妙見菩薩は、北斗七星または、北極星を神格化したものとされています。
妙見菩薩は、災害を除き土地を守り、人々の幸福と寿命と武運を増す菩薩であり、星の信仰から海上安全の神、海上貿易を営む商人の信仰する商売の神、また「妙見」という名から眼病平癒の神として信仰を集めてきました。
有名な「伊勢の妙見さん」は、大阪府能勢町にある日蓮宗真如寺の妙見堂のことです。
福岡の「妙見さん」は、台帳によると、嘉永3(1850)年2月、霊夢により勧請され、明治20(1887)年、有志により講(水運講)が結成され、以後引き続き講が開かれてきました。
戦時中はことのほか厚く信仰され、出征兵士の武運長久が祈られました。
戦後、物価高騰のため一時休講としたこともありましたが、またすぐ開講され今も続いています。
5月と7月14日の晩には、子供たちが書いた書、絵の行灯が沿道に立てられ、妙見堂ではご祈祷が行なわれます。
妙見様は、昔から北の小高いこの場所から、福岡の土地を、私達を見守り続けているのです。古くなったお堂も、妙興寺の熱心な福岡の檀家の人々の手により、この度新しく建て替えられました。(現地説明板より)
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備前福岡は、「福岡千軒」と言われ、吉井川と山陽道が交差する交通の要衝として栄えました。
宇喜多直家の父興家や黒田官兵衛の先祖、黒田高政もこの地で暮らしていたことがあるそうです。
福岡城は、鎌倉時代末期に頓宮四郎左衛門によって築かれたといわれています。
観応元(1350)年、足利尊氏がこの城に40日間駐留し、嘉吉元(1441)年には備前守護により配置された小鴨大和守が堅固な城塞を築きました。
赤松・浦上氏と金川城を拠点とする松田氏の戦いの舞台となり、争文明16(1484)年の福岡合戦では城が焼き払われました。
また、この城は大永年間(1521~28)の大洪水で川の流れが変わり、水没してしまい城は廃城となったたそうです。
河川敷のゴルフ場にある稲荷山と呼ばれる小山が城跡といわれます。
吉井川河川敷の城跡近くに「福岡城跡の丘」の石碑があります。
稲荷山にはゴルフ場の北側、備前大橋側のグランドから川沿いを歩いて行くとたどりつくことができます。
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