• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ピズモのブログ一覧

2014年02月22日 イイね!

大阪散歩

この日はレガシィの12ヶ月点検。車を預けて、大阪へ買い物に出かけるついでに、少しだけ歴史散歩を。

崇禅寺は山号は凌雲山、曹洞宗の寺院です。
天平年間(729~748年)に法相宗の行基によって創建されたと伝えられています。
嘉吉元(1441)年、室町幕府6代将軍足利義教は嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺され、義教の首級を携えて播磨へ下る途中に崇禅寺森の観音堂付近にその首を埋めました。
翌年、幕府はその地に菩提を弔うため、細川持賢に崇禅寺を再興させ、曹洞宗の寺院となり細川家の菩提寺となりました。
その後、文明15(1483)年に焼失し、慶安年間に再建されました。
明治2(1869)年には摂津県の県庁が置かれました。
昭和20(1945)年6月7日、大阪大空襲により焼失し、現在の伽藍は平成元(1989)年に再建されたものです。
境内には「細川ガラシャの墓」があります。
ガラシャは細川忠興の妻で、慶長5(1600年)に家康に従って奥州の上杉攻めに参加し、その留守を見計らって石田三成が挙兵し、妻子を人質として大坂城に入城するように促しましたが、ガラシャはそれを堅く拒み、火の付いた屋敷内で37年の生涯を終えました。宣教師オルガンチノは細川屋敷跡からガラシャや殉死者の遺骨を拾い、細川家にゆかりのある崇禅寺に運びました。
ガラシヤの墓は無地の五輪塔で「秀林院細川玉子之墓」の石標が建っています。周りには6つの墓石があり、これは殉死者のものといわれています。足利義教の墓とならんでいます。その他、崇禅寺馬場の敵討で反り討ちにあった遠城兄弟の墓があります。
崇禅寺 - 1
崇禅寺 - 1 posted by (C)pismo

崇禅寺 - 2
崇禅寺 - 2 posted by (C)pismo

崇禅寺 - 3
崇禅寺 - 3 posted by (C)pismo

崇禅寺 - 4
崇禅寺 - 4 posted by (C)pismo

崇禅寺 - 5
崇禅寺 - 5 posted by (C)pismo

中島惣社は、白雉2(651)年孝徳天皇が豊崎宮に遷都された際、五穀豊穣を祈願され神領を賜わりました。
宇賀御魂神、受保大神、大市比賣神が主祭神です。
大阪の陣で片桐且元の茨木街道沿いの兵火で社殿は消失し、わずかに絵図と建武2(1335年)年に奉納された中島惣社と記した木額だけが残りました。
豊臣秀頼の崇敬厚く、「中嶋総社」の四字を記した絹地一通を寄進しています。昭和20(1945)年6月の大阪大空襲で焼失し、昭和42(1967)年に再建されました。
中島惣社 - 1
中島惣社 - 1 posted by (C)pismo

この後は、天王寺区へ行きました。
吉祥寺は山号は万松山、曹洞宗の寺院です。
寛永7(1630)年創建されました。
赤穂藩藩主浅野家の祈願所であり、藩主長矩公は江戸参勤の途中必ず立ち寄って休息したと言われています。
足軽の寺坂吉右衛門が46士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀10両を添えて義士の冥福を祈る碑を建ててくれるよう吉祥寺に依頼したため、境内には赤穂浪士の墓があります。
大正5(1916)年、失火により全焼し、大正14(1925)年に再建されましたが、昭和20(1945)年、空襲により壊滅的被害を受け、赤穂浪士の墓を残して全焼しました。
毎年12月14日に「義士祭」が行われます。山門をくぐると大石内蔵助の石像が鎮座し、境内には四十七義士の墓と、四十七義士石像があります。
壁がなんと、赤穂浪士の討ち入りの際の火事場装束のだんだら袖の模様になっているのにはびっくりしました。
吉祥寺  - 01
吉祥寺 - 01 posted by (C)pismo

吉祥寺  - 02
吉祥寺 - 02 posted by (C)pismo

吉祥寺  - 03
吉祥寺 - 03 posted by (C)pismo

吉祥寺  - 04
吉祥寺 - 04 posted by (C)pismo

吉祥寺  - 05
吉祥寺 - 05 posted by (C)pismo

吉祥寺  - 06
吉祥寺 - 06 posted by (C)pismo

吉祥寺  - 07
吉祥寺 - 07 posted by (C)pismo

吉祥寺  - 08
吉祥寺 - 08 posted by (C)pismo

あべのハルカス。この日は近鉄百貨店が全面オープンでした。
あべのハルカス
あべのハルカス posted by (C)pismo
Posted at 2014/03/06 21:58:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史・城 | 日記
2014年02月16日 イイね!

備前ドライブ(その4・黒田氏、宇喜多氏ゆかりの備前福岡)

妙興寺は山号は教意山、日蓮宗の寺院です。
室町時代に播州からこのあたりまで勢力を持っていた播磨の国主・赤松則興の追善供養の為に応永10(1403)年大教阿闍梨日伝上人によって建立せられました。
その後歴代の佳持として近隣一帯の武家の名門の子弟が迎えられました。
戦国のころは寺域は二町余十坊一院あり豪壮を誇り備前法華の中心道場として重きをなしました。永禄元(1558)年頃には寺域二町十坊一院とその豪壮をうたわれていましたが、享保元(1716)年、伽藍の大半を消失したため、現在の諸堂は昔日の面影を伝えるものではありません。
現在の本殿及び客殿は、安永3(1774)年に改築されたものです。
寛永3(1626)年に制作された仁王像は平成24(2012)年に修復され、当時の趣を再現しています。
境内に黒田高政と重隆(官兵衛孝高の曾祖父と祖父)及び宇喜多興家(直家の父)墓碑があります。
宇喜多能家(砥石城主)は、天文3(1534)年、同じ浦上家の重臣である島村豊後守(高取山城主)の奇襲を受けて城を枕に自害しました。子の興家は、当時6歳の八郎(後の直家)を連れて備後の鞆に落ちのびたが、まもなく備前福岡に戻り豪商阿部善定のもとに身を寄せました。
興家は、やがて善定の娘との間に二児(後の忠家・春家)をもうけましたが、不遇のうちに天文5(1536)年この地で病死しました。法名を霜月光珍といいます。八郎は、阿部善定や尼となっていた叔母(下笠加大楽院)の保護のもとに、少年時代をこの地で過ごしました。

黒田氏の祖宗清は、近江国伊香郡黒田邑に住していました。宗清五世の孫高政は永正8(1511)年当地福岡に移住し、十数年を過ごしています。
高政は大永3(1522)年にこの地で亡くなりましたが、その翌年重隆には嫡子職隆が誕生しています。
重隆は、大永5(1525)年、家族を連れて播州に移住しました。その後御着城主小寺氏に仕官した重隆はその器量を認められて播州姫路城を預かっています。
職隆、そして姫路城で生まれた子の官兵衛孝高と相次いで姫路城主となっていますがこの播州時代にその後の黒田家発展の基礎づくりができました。
官兵衛孝高の長男長政は関ヶ原の戦いで徳川家康に味方して勝利し、筑前52万石に封ぜられ城を築いて福岡城と命名しました。これは父祖の生活の地で墓もある備前福岡を偲んでこの地名を用いたといいます。
この黒田墓所には現在も各地から多くの参詣者があります。
(現地説明板などより)
妙興寺 - 01
妙興寺 - 01 posted by (C)pismo

妙興寺 - 02
妙興寺 - 02 posted by (C)pismo

妙興寺 - 03
妙興寺 - 03 posted by (C)pismo

妙興寺 - 04
妙興寺 - 04 posted by (C)pismo

妙興寺 - 05
妙興寺 - 05 posted by (C)pismo

妙興寺 - 06
妙興寺 - 06 posted by (C)pismo

妙興寺 - 07
妙興寺 - 07 posted by (C)pismo

妙興寺 - 08
妙興寺 - 08 posted by (C)pismo

妙興寺 - 09
妙興寺 - 09 posted by (C)pismo

妙興寺 - 10
妙興寺 - 10 posted by (C)pismo

鎌倉時代に市が開かれ一遍上人絵伝でも描かれた福岡の市跡です。
福岡の市は、鎌倉時代福岡庄のなかで開かれていた定期市のひとつであったと推定されています。同荘園内には、現在でも一日市(ひといち)や八日市(ようかいち)などの地名が残っており、日によって定期的に市が開かれていたと考えられます。
弘安元(1278)年福岡の市で説法する様子を描いた「一遍上人絵伝」は、当時のこの地方の風俗や人々の暮らしぶりを知るうえで貴重なものです。
(現地説明板より)
福岡の市跡 - 1
福岡の市跡 - 1 posted by (C)pismo

福岡の市跡 - 2
福岡の市跡 - 2 posted by (C)pismo

福岡の市跡 - 3
福岡の市跡 - 3 posted by (C)pismo

福岡集会所の前庭に福岡一文字造剣之地碑が建立されています。
福岡一文字派は、鎌倉時代初期の則宗を始祖とし、鎌倉中期にかけて多くの名工を輩出して黄金時代を迎えました。
中でも則宗や宗吉らは、後鳥羽上皇の御番鍛冶として召し出されています。
一文字の呼称の由来は、銘に「一」の字を刻すものが多いからで、「一」は天下一ということを表わしていると解されています。
福岡一文字派は、「一」の銘だけ切るもの、「一」の下に個銘を切るもの、そして個銘だけのものに大別されます。
刀工たちの居住地のこの福岡庄(現在の長船町福岡地区と岡山市の東部の旧上道地区)は、平安時代の末期から鎌倉時代の正中元(1324)年東寺の荘園となるまでは、皇室の重要な荘園でした。
「東寺百合文書」に残されている古文書により、当時、福岡一文字派の刀工たちは、福岡庄の吉井周辺に居住し、皇室の庇護を受け広い給田を所有、安定した生活の中で鍛刀していたことがうかがえます。
この時代、備前刀は古備前派から長船派、国宗派、そしてこの福岡一文字派が相競うように排出し、刀剣の質、量ともに黄金時代を迎えています。
特に福岡一文字派の作風は、のちの日本刀の原形であり、古雅の上に優美さを加え一世を風靡しました。
福岡一文字派の刀剣には、則宗、吉家、吉房、助真、助平、助綱等をはじめ「一」、そして無銘のものまで、御物、国宝、重要美術刀剣、重要刀剣となっているものが多くあります。
福岡一文字派は、元寇という未曾有の出来事に遭遇してからの世情の大きな変動の中で、備前刀の特徴が他の地へも伝わり大きな影響を与え
ました。
そして現在まで、備前刀が日本の主流をなしてきています。
(現地説明板より)
福岡一文字造剣之地碑 - 1
福岡一文字造剣之地碑 - 1 posted by (C)pismo

福岡の町並み - 1
福岡の町並み - 1 posted by (C)pismo

福岡の町並み - 2
福岡の町並み - 2 posted by (C)pismo

江戸初期には福岡の町の各小路に一つづつ掘られていた共同井戸・七つ井戸です。「備前福岡名所町、七口、七井戸、七小路」と、言い伝えられて来たように、ここ福岡には昔から、飲用、消火用、その他生活用水を得るため、個人井戸の他に、その周辺の人々によって管理使用されていた立派な共同井戸がありました。
明治5(1872)年の地租改正の時に、七つの共同井戸の敷地が、村総持ちの土地として台帳に記載され、免祖地として引き続き使用されていました。
これらの井戸が、いつごろ作られたかは不明ですが、江戸初期には各小路に一つづつ掘られており、江戸時代中ごろには既に使われていたといわれています。
吉井川の地下水のため、井戸水は涸れることなく、水質は極めてよく、大正の末ごろまでは、近くの村から酒造用にと牛車や大八車で水を汲みに来ていたといいます。
七つ井戸は、村人にとっては、情報交換、社交の場として楽しい所でしたが、打ち抜き井戸や水道の普及などで次第に使われなくなりました。
現在、七つのうち四つの井戸が昔の姿のまま残っています。
(現地説明板より)
この井戸は、現存するうちの一つです。
七つ井戸 - 1
七つ井戸 - 1 posted by (C)pismo

仲崎邸は明治時代末期から大正時代に10年余りの歳月をかけて建てられた大地主の邸宅です。
邸宅は当時の最高級の材木を用いて造られた格調の高い県内屈指の建造物です。
近年空き家になっていたのを地域住民が中心となって地域活性化の拠点として再生し、公開、活用しています。
仲崎邸 - 1
仲崎邸 - 1 posted by (C)pismo

仲崎邸 - 2
仲崎邸 - 2 posted by (C)pismo

池田光政の寺院整理で廃寺となった薬王寺跡です。薬王寺は、山号は岡隆山(こうりゅうざん) 、奈良時代の報恩大師ゆかりの備前48ヶ寺の一つです。
平安、鎌倉、南北朝、室町時代にかけては、五反余の寺域に、三院(乾生院、西浄院、成就院)、六堂(薬師堂、大師堂、観音堂、仁王堂、阿弥陀堂、十王堂)が建ち並ぶ大寺院で、日常多数の参拝者でたいへんなにぎわいであったと伝えられています。
本尊は薬師如来です。
江戸時代に入り、寛文6(1666)年、藩主池田光政の寺院整理で、薬王寺も廃寺の憂き目にあい、本尊薬師如来は、小豆島の寺院へ、三院、六堂もそれぞれ他地域の寺院へ移され、北門鎮守の稲荷社、鬼門魔よけの地蔵堂の他の建物は、全部取り払い廃棄されました。
その後、信徒達の本尊取り戻し信仰したき旨の熱心なる願いが藩より許可されたので、二間に四間半の薬師堂を再建して本尊を迎え、僧一人を住まわせてこれを祭り、以来、地域の人々の熱心な信仰により、大正の終わりまでその状態が続いていました。
現在の堂宇は、大正15(1926)年に改修されたもので、今は無住です。
邑久郡北巡り八十八ヶ所霊場の第二番札所にもなっています。
境内にある墓石は、信徒である東原一統の元祖東原左京之尉夫妻(道栄禅定門・妙栄禅定尼)のものです。
(現地説明板より)

薬王寺跡 - 1
薬王寺跡 - 1 posted by (C)pismo

薬王寺跡 - 2
薬王寺跡 - 2 posted by (C)pismo

眼病平癒の神として信仰を集めてきた妙見堂です。
「妙見さん」という呼び名で親しまれている妙見菩薩は、北斗七星または、北極星を神格化したものとされています。
妙見菩薩は、災害を除き土地を守り、人々の幸福と寿命と武運を増す菩薩であり、星の信仰から海上安全の神、海上貿易を営む商人の信仰する商売の神、また「妙見」という名から眼病平癒の神として信仰を集めてきました。
有名な「伊勢の妙見さん」は、大阪府能勢町にある日蓮宗真如寺の妙見堂のことです。
福岡の「妙見さん」は、台帳によると、嘉永3(1850)年2月、霊夢により勧請され、明治20(1887)年、有志により講(水運講)が結成され、以後引き続き講が開かれてきました。
戦時中はことのほか厚く信仰され、出征兵士の武運長久が祈られました。
戦後、物価高騰のため一時休講としたこともありましたが、またすぐ開講され今も続いています。
5月と7月14日の晩には、子供たちが書いた書、絵の行灯が沿道に立てられ、妙見堂ではご祈祷が行なわれます。
妙見様は、昔から北の小高いこの場所から、福岡の土地を、私達を見守り続けているのです。古くなったお堂も、妙興寺の熱心な福岡の檀家の人々の手により、この度新しく建て替えられました。(現地説明板より)
妙見堂
妙見堂 posted by (C)pismo

備前福岡は、「福岡千軒」と言われ、吉井川と山陽道が交差する交通の要衝として栄えました。
宇喜多直家の父興家や黒田官兵衛の先祖、黒田高政もこの地で暮らしていたことがあるそうです。
福岡城は、鎌倉時代末期に頓宮四郎左衛門によって築かれたといわれています。
観応元(1350)年、足利尊氏がこの城に40日間駐留し、嘉吉元(1441)年には備前守護により配置された小鴨大和守が堅固な城塞を築きました。
赤松・浦上氏と金川城を拠点とする松田氏の戦いの舞台となり、争文明16(1484)年の福岡合戦では城が焼き払われました。
また、この城は大永年間(1521~28)の大洪水で川の流れが変わり、水没してしまい城は廃城となったたそうです。
河川敷のゴルフ場にある稲荷山と呼ばれる小山が城跡といわれます。
吉井川河川敷の城跡近くに「福岡城跡の丘」の石碑があります。
稲荷山にはゴルフ場の北側、備前大橋側のグランドから川沿いを歩いて行くとたどりつくことができます。
福岡城 - 01
福岡城 - 01 posted by (C)pismo

福岡城 - 02
福岡城 - 02 posted by (C)pismo

福岡城 - 03
福岡城 - 03 posted by (C)pismo

福岡城 - 04
福岡城 - 04 posted by (C)pismo

福岡城 - 05
福岡城 - 05 posted by (C)pismo

福岡城 - 06
福岡城 - 06 posted by (C)pismo

福岡城 - 07
福岡城 - 07 posted by (C)pismo
Posted at 2014/03/05 21:41:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年02月16日 イイね!

備前ドライブ(その3・刀剣のふるさと備前長船)

備前おさふね刀剣の里 備前長船刀剣博物館は優れた刀工を多く輩出した備前長船に、先人の遺業を顕彰し、永く後世に伝えるために、刀剣を主体とした博物館として昭和58(1983)年9月6日に開館しました。
備前長船の歴史と備前刀などの情報コーナーや、日本刀を専門展示する展示室がある博物館の他、備前刀復興に命を賭けた不屈の名工・今泉俊光刀匠の鍛治場を移築し、様々な自作の道具類等を展示しています。その他、古式鍛錬の作業を公開している備前長船鍛刀場、刀身研ぎから刀身彫り、鞘や柄、ハバキの制作風景など刀剣づくりに係る作業工程を間近に見ることができる備前長船刀剣工房や、刀剣、小刀、小道具、手入れ用品、包丁などを中心に土産物んどを展示販売するふれあい物産館などで構成されています。
備前おさふね刀剣の里・備前長船刀剣博物館  - 1
備前おさふね刀剣の里・備前長船刀剣博物館 - 1 posted by (C)pismo

備前おさふね刀剣の里・備前長船刀剣博物館  - 2
備前おさふね刀剣の里・備前長船刀剣博物館 - 2 posted by (C)pismo

備前おさふね刀剣の里・備前長船刀剣博物館  - 3
備前おさふね刀剣の里・備前長船刀剣博物館 - 3 posted by (C)pismo

備前おさふね刀剣の里・備前長船刀剣博物館  - 4
備前おさふね刀剣の里・備前長船刀剣博物館 - 4 posted by (C)pismo

足利尊氏から、当時の名工兼光が賜った地とされる城の内〔伝兼光屋敷跡〕 です。
城の内築地(つんじ)と呼ばれているこの地は、南北朝時代、太刀を鍛えた褒美として足利尊氏から、当時の名工兼光が賜ったと伝えられています。
一町(約100m)四方の壕をめぐらし、四方に櫓を建てた城に、代々鍛冶が居住し、鍛刀したといわれています。
文明15(1483)年、福岡合戦のとき松田勢によってこの城のほか周辺の民家までがすべて焼き払われたことが「備前軍記」に記されています。
永年にわたって作刀の地であったことから、この辺りの田畑からカナクソと呼ばれる鉄滓が多く出土しました。(現地説明板より)
城の内〔伝兼光屋敷跡〕 - 1
城の内〔伝兼光屋敷跡〕 - 1 posted by (C)pismo

足利尊氏ゆかりの神社・靭負神社〔天王社刀剣の森〕です。
靭負神社は、眼病平癒の霊験があるといわれ、今も半紙に「め」の字を書いて拝殿の壁面に張り、眼病平癒を祈願されています。
新田義貞に敗れた足利尊氏が九州下向する途中この地で眼病を患い、備前福岡に1ヶ月にわたり兵を留めていた時、社に祈願して平癒したため長船の刀鍛冶が目を守ってもらうため信仰し、その信仰が盛んになったと言われています。
また、この森の松は足利尊氏ゆかりの松で、新田義貞に敗れた足利尊氏が九州下向する途中この地で再起を祈願した尊氏が後に願いが叶って東上のとき再び立ち寄り寄進した松の子孫とされ、日向松と呼ばれています。
森の西側は旧山陽道(現国道2号線)に接し吉井川の水運と相まって、交通の便に恵まれ、往時は刀の産地「備前長船」として栄え、その規模は「鍛冶屋(千軒打つ槌の音に西の大名が駕籠とめる」と謳われたほどで多くの名刀を産出しましたが、現在は古跡としてのみ侘びしくその名をとどめています。
刀鍛冶の守護神である天王社の背後に広がるこの森は、鎮守の森として地域の人々に親しまれているだけでなく、国道を行き交う現代の旅人たちの疲れた目を癒してくれています。
天王社刀剣の森として岡山県郷土記念物に指定されています。(現地説明板などより)

靱負神社〔天王社刀剣の森〕 - 01
靱負神社〔天王社刀剣の森〕 - 01 posted by (C)pismo

靱負神社〔天王社刀剣の森〕 - 02
靱負神社〔天王社刀剣の森〕 - 02 posted by (C)pismo

靱負神社〔天王社刀剣の森〕 - 03
靱負神社〔天王社刀剣の森〕 - 03 posted by (C)pismo

靱負神社〔天王社刀剣の森〕 - 04
靱負神社〔天王社刀剣の森〕 - 04 posted by (C)pismo

靱負神社〔天王社刀剣の森〕 - 05
靱負神社〔天王社刀剣の森〕 - 05 posted by (C)pismo

靱負神社〔天王社刀剣の森〕 - 06
靱負神社〔天王社刀剣の森〕 - 06 posted by (C)pismo

靱負神社〔天王社刀剣の森〕 - 07
靱負神社〔天王社刀剣の森〕 - 07 posted by (C)pismo

宇喜多氏の家老を務めた伝長船紀伊守屋敷跡です。
長船氏は長船家家伝によれば、始祖は小笠原左近将監近忠で、信濃国長船庄より福岡郷靱負村に来住し、之より村の名「長船村」となりました。
その子孫より刀工光忠、長光らがあらわれ、兼光は足利尊氏の太刀を鍛え、恩賞として一丁四方の屋敷を賜わったといわれています。
この跡「城の内」として今に伝わっています。
後、長船越中守、長船紀伊守、長船吉兵衛らが宇喜多家の家老職につきました。
長船綱直は宇喜多家の老臣長船越中守詮光(貞親)の子で、天正16(1588)年父越中守が虎倉城(現在の御津町)で殺害され、相続して越中守と称しました。
文禄3(1594)年、伏見城普請のとき宇喜多家の普請奉行としてつとめ秀吉の信任を得、仕置に任ぜられました。
また紀伊守は秀家の信任も厚く岡山城の改築、文禄地検を行った。
慶長3(1598)年秀吉死後、紀伊守は浮田左京、岡越前守ら武将派によって殺害されました。関ヶ原の戦いの後は長船氏は大庄屋などを務めたといわれています。
この屋敷跡の東側の竹やぶの中には、西行法師が諸国行脚のとき、長船にきて腰を掛けたと伝えられる腰掛石があります。
「長船にかちする音の聞ゆるはいかなる人のきたうなるらむ」の歌碑が建っています。
また土師正通寺の現在の客殿は紀伊守が住んでいた邸宅を譲り受け建立したものといわれます。
(現地説明板などより)
伝西行法師腰掛石 - 1
伝西行法師腰掛石 - 1 posted by (C)pismo

伝長船紀伊守屋敷跡 - 2
伝長船紀伊守屋敷跡 - 2 posted by (C)pismo

伝長船紀伊守屋敷跡 - 3
伝長船紀伊守屋敷跡 - 3 posted by (C)pismo

慈眼院は、正式には宝城山西方寺慈眼院といい、高野山金剛峯寺西南院真言宗に属し、本尊は阿弥陀如来、脇侍は観音菩薩・勢至菩薩です。
天平勝宝年間(749~757年)唐僧鑑真の創建と伝えられています。
古くから長船刀工菩提寺であったといわれ、境内には刀匠横山上野大掾祐定の墓や、横山元之進祐定寄進の梵鐘(長船町指定文化財)があります。
梵鐘は、備前長船の流れをくむ最後の刀匠横山元之進祐定が慈眼院主行覚和尚の教化を受け、明治20(1887)年に先祖代々の菩提のため寄進した梵鐘です。
この鐘は、南北朝時代の永徳4(1384)年の作で大きさは、全高93.9cm、口径53.9cm、竜頭高18.2cmあります。
池の間には、筑前国(福岡県)筑紫宮へ納めるために作られたことを記す刻銘、防州(山口県)の寺に買い取られたことを記す刻銘、祐定が寄進したことを記す刻銘、また、鏡の内面には、この鐘が当寺に納まるまでの四種類の刻銘が記されています。
寄進者の刀匠元之進祐定の故郷における事蹟を記す鐘として、重要な資料となっています。
(現地説明板より)
慈眼院 - 01
慈眼院 - 01 posted by (C)pismo

慈眼院 - 02
慈眼院 - 02 posted by (C)pismo

慈眼院 - 03
慈眼院 - 03 posted by (C)pismo

慈眼院 - 04
慈眼院 - 04 posted by (C)pismo

慈眼院 - 05
慈眼院 - 05 posted by (C)pismo

慈眼院 - 06
慈眼院 - 06 posted by (C)pismo

慈眼院 - 07
慈眼院 - 07 posted by (C)pismo

造剣之古跡碑は、大正14(1925)年9月、備前長船の史跡を保存し、その偉業を後世に伝えるため横山元之進祐定は、私財を投じて自分の屋敷に造剣の碑を建立しました。
碑の高さは5m、刀をかたどり、きっ先を空に向けて建てられています。
刻まれた「造剣の古跡」の文字は、犬飼木堂翁の筆跡で力強く、碑の裏には、山本梅涯氏筆により「大正14年9月友成後裔横山元之進祐定健」と刻まれています。
この碑はもと、祐定の屋敷の中央に建てられていたが、昭和34(1959)年正月に現在地に移転された。
(現地案内板より)
造剣之古跡碑 - 1
造剣之古跡碑 - 1 posted by (C)pismo
Posted at 2014/03/02 01:03:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年02月16日 イイね!

備前ドライブ(その2・天神山城)

天神山城は、浦上宗景の居城です。
兄浦上政宗と対立した宗景は、享禄4(1531)年、大田原・日笠・延原・明石・岡本・服部ら6人の武将を連れ播州室津城から大鼓丸城に移りました。
天文2(1533)年、隣接する太鼓丸城を拡張し築かれました。
その後、宗景は天神山城を居城にして備前国と美作国南部を領国とする戦国大名に成長し、兄政宗の滅亡後には播磨国南西部も領有し、元亀2(1571)年には、織田信長より播磨・備前・美作三国の所領朱印を受けました。
しかし、宗景の家臣であった宇喜多直家が台頭し、備前国中南部を攻略して戦国大名に成長しました。そして、天正2(1574)年には宇喜多直家は毛利氏と結び離反し、浦上宗景は織田信長の援助の元、毛利氏と戦いました。。
天正5(1577)年、宇喜多直家は天神山城を攻め、数日間の攻防の末、宗景方に内応者を出させて落城させました。
昭和57(1982)年、岡山県の文化財に指定されています。
天石門別神社脇から登りましたが、結構急な山道です。ロープにつかまりながら登るポイントもあります。
天神山城 - 01
天神山城 - 01 posted by (C)pismo

天神山城 - 02
天神山城 - 02 posted by (C)pismo

天神山城 - 03
天神山城 - 03 posted by (C)pismo

天神山城 - 04
天神山城 - 04 posted by (C)pismo

天神山城 - 05
天神山城 - 05 posted by (C)pismo

天神山城 - 06
天神山城 - 06 posted by (C)pismo

天神山城 - 07
天神山城 - 07 posted by (C)pismo

天神山城 - 08
天神山城 - 08 posted by (C)pismo

天神山城 - 09
天神山城 - 09 posted by (C)pismo

天神山城 - 10
天神山城 - 10 posted by (C)pismo

天神山城 - 11
天神山城 - 11 posted by (C)pismo

天神山城 - 12
天神山城 - 12 posted by (C)pismo

天神山城 - 13
天神山城 - 13 posted by (C)pismo

天神山城 - 14
天神山城 - 14 posted by (C)pismo

天神山城 - 15
天神山城 - 15 posted by (C)pismo

天神山城 - 16
天神山城 - 16 posted by (C)pismo

天神山城 - 17
天神山城 - 17 posted by (C)pismo

天神山城 - 18
天神山城 - 18 posted by (C)pismo

天神山城 - 19
天神山城 - 19 posted by (C)pismo

天神山城 - 20
天神山城 - 20 posted by (C)pismo

天神山城 - 21
天神山城 - 21 posted by (C)pismo

天神山城 - 22
天神山城 - 22 posted by (C)pismo

天神山城 - 23
天神山城 - 23 posted by (C)pismo

天神山城 - 24
天神山城 - 24 posted by (C)pismo

天神山城 - 25
天神山城 - 25 posted by (C)pismo

天神山城 - 26
天神山城 - 26 posted by (C)pismo

天神山城 - 27
天神山城 - 27 posted by (C)pismo

天神山城 - 28
天神山城 - 28 posted by (C)pismo

天神山城 - 29
天神山城 - 29 posted by (C)pismo

天神山城 - 30
天神山城 - 30 posted by (C)pismo

天神山城 - 31
天神山城 - 31 posted by (C)pismo

天神山城 - 32
天神山城 - 32 posted by (C)pismo

太鼓丸城(旧天神山城)は、室町時代以前に、日笠青山城の出城として日笠氏が築城したといわれています。
享禄4(1531)年、三石城主浦上村宗が大物崩れで戦死し、長男政宗は播磨国室津を居城にして跡を継ぎましたが、弟の宗景・国秀と不和になり、宗景が手勢と備前国東部の有力国人を引き連れて分立し、この地を居城としました。
後に太鼓の丸城を拡張し、天神山に城を築き、尾根続きにある太鼓丸城は天神山城の物見台の役目と家臣団集合の合図をした役目の櫓「人桝」と呼ばれました。
宗景は天正5(1577)年宇喜多直家に攻められ落城するまで、天神山城を居城としていました。(現地説明板などより)
天神山城と尾根続きで、天石門別神社からの登山道を主郭部まで登り、南櫓を越えて更に進んでいきます。概ね20分程度かかりました。なお、「和気美しい森」キャンプ場からも登ることができるようで、こちらの方が比高差は少ないそうです。
太鼓の丸城 - 01
太鼓の丸城 - 01 posted by (C)pismo

太鼓の丸城 - 02
太鼓の丸城 - 02 posted by (C)pismo

太鼓の丸城 - 03
太鼓の丸城 - 03 posted by (C)pismo

太鼓の丸城 - 04
太鼓の丸城 - 04 posted by (C)pismo

太鼓の丸城 - 05
太鼓の丸城 - 05 posted by (C)pismo

太鼓の丸城 - 06
太鼓の丸城 - 06 posted by (C)pismo

太鼓の丸城 - 07
太鼓の丸城 - 07 posted by (C)pismo

太鼓の丸城 - 08
太鼓の丸城 - 08 posted by (C)pismo

太鼓の丸城 - 09
太鼓の丸城 - 09 posted by (C)pismo

天神山から降りて麓には、侍屋敷の跡が残っています。
天神山城天瀬侍屋敷 - 01
天神山城天瀬侍屋敷 - 01 posted by (C)pismo

天神山城天瀬侍屋敷 - 02
天神山城天瀬侍屋敷 - 02 posted by (C)pismo

天神山城天瀬侍屋敷 - 03
天神山城天瀬侍屋敷 - 03 posted by (C)pismo

天神山城天瀬侍屋敷 - 04
天神山城天瀬侍屋敷 - 04 posted by (C)pismo

天神山城天瀬侍屋敷 - 05
天神山城天瀬侍屋敷 - 05 posted by (C)pismo

天神山城天瀬侍屋敷 - 06
天神山城天瀬侍屋敷 - 06 posted by (C)pismo
Posted at 2014/03/01 00:09:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年02月16日 イイね!

備前ドライブ(その1・和意谷敦土山岡山藩主池田家墓所)

この日は、備前国の史跡めぐりです。

和意谷敦土山岡山藩主池田家墓所です。
岡山藩主池田光政が菩提寺の京都花園妙心寺護国院炎上を機に、備前国内に祖父輝政・父利隆の墓碑移転を決意し、寛文5(1665)年2月津田永忠に墓所選定を命じました。
永忠は墓域の適地を備前国内に求めること1年余、和気郡脇谷村のこの地域を候補地として上申、10月下旬光政も自ら検分して決定しました。
寛文6(1666)年12月祖廟に遷葬のことを告げ、池田美作・稲川十郎右衛門等に遺骨受取りの心得書を渡して出立せしめました。
一行10余名は10日着京、17日離京、伏見・大阪を経て海路明神丸で27日に片上に到着し、直ちに八木山の仮宮に遺骨を遷しました。
寛文7(1667)年1月7日永忠に改葬地造営の総奉行を命じ、諸般の作業は順調に進み、閏2月13日光政臨席のもとに輝政・利隆遷葬の儀を儒礼によって滞りなく行い、以後墓域を和意谷敦土山と称すべき旨を永忠に命じました。
途中幕命による江戸城空堀普請奉仕のため一時中断しましたが、寛文9(1669)年墓域工事を完了し、3月16日墓祭を執行、光政が参拝しました。
以後毎年3月下旬に墓祭を行い、藩主または池田家一族中が参拝を続けました。
輝政・利隆の棹石2本・亀石1本を片上港より山上まで引上げ、実働日数は39日、他の各石材は吉井川を上って和気で揚陸しました。
改葬には、銀208貫余、延べ11万人余を要し、石材はすべて犬島(岡山市)の石を利用しました。
貞亨元(1684)年、墓所領として和意谷新田村を新設し、石高53石3斗1升5合の年貢米をもって墓所諸経費を賄い墓所永続の策をとりました。(現地説明板などより)

一の御山・・・池田輝政墓所
二の御山・・・池田利隆とその夫人榊原氏の墓所
三の御山・・・池田光政とその夫人本多氏(藤原氏)の墓所
四の御山・・・池田慶政(8代藩主)とその夫人の墓所
五の御山・・・池田茂政(9代藩主)とその夫人の墓所
六の御山・・・池田輝興(赤穂藩2代藩主)、池田輝尹、池田政実、池田鋭子、池田恒元(山崎藩初代藩主)、池田政元(山崎藩2代藩主)の墓
七の御山・・・池田利政(利隆の弟・播磨時代の船上城代)、池田政虎(利隆の弟)、池田政貞(光政の弟)、六姫(光政の娘)の墓
和意谷敦土山池田家墓所 - 01
和意谷敦土山池田家墓所 - 01 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・お茶水井戸 - 02
和意谷敦土山池田家墓所・お茶水井戸 - 02 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・お茶水井戸 - 03
和意谷敦土山池田家墓所・お茶水井戸 - 03 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所 - 04
和意谷敦土山池田家墓所 - 04 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・三の御山 - 05
和意谷敦土山池田家墓所・三の御山 - 05 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・三の御山 - 06
和意谷敦土山池田家墓所・三の御山 - 06 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・二の御山 - 07
和意谷敦土山池田家墓所・二の御山 - 07 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・二の御山 - 08
和意谷敦土山池田家墓所・二の御山 - 08 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・二の御山 - 09
和意谷敦土山池田家墓所・二の御山 - 09 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・四の御山 - 10
和意谷敦土山池田家墓所・四の御山 - 10 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・四の御山- 11
和意谷敦土山池田家墓所・四の御山- 11 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家・五の御山 - 12
和意谷敦土山池田家・五の御山 - 12 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・一の御山 - 13
和意谷敦土山池田家墓所・一の御山 - 13 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・一の御山 - 14
和意谷敦土山池田家墓所・一の御山 - 14 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・一の御山 - 15
和意谷敦土山池田家墓所・一の御山 - 15 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・六の御山 - 16
和意谷敦土山池田家墓所・六の御山 - 16 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・六の御山 - 17
和意谷敦土山池田家墓所・六の御山 - 17 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・六の御山 - 18
和意谷敦土山池田家墓所・六の御山 - 18 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・六の御山 - 19
和意谷敦土山池田家墓所・六の御山 - 19 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・六の御山 - 20
和意谷敦土山池田家墓所・六の御山 - 20 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・六の御山 - 21
和意谷敦土山池田家墓所・六の御山 - 21 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・七の御山 - 22
和意谷敦土山池田家墓所・七の御山 - 22 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・七の御山 - 23
和意谷敦土山池田家墓所・七の御山 - 23 posted by (C)pismo

和意谷敦土山池田家墓所・七の御山 - 24
和意谷敦土山池田家墓所・七の御山 - 24 posted by (C)pismo
Posted at 2014/02/26 21:29:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

プロフィール

「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2014/2 >>

       1
2345678
9 101112131415
161718192021 22
232425262728 

リンク・クリップ

沖縄県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2024/06/26 22:49:38
 
鹿児島県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/26 23:05:24
 
宮崎県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/22 08:03:34
 

愛車一覧

スバル レヴォーグ スバル レヴォーグ
H27.3レガシィBPより乗り換え
ホンダ PCX ホンダ PCX
H26.3購入しました。
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
H18.3アコードワゴンから乗り換えました。
ホンダ スペイシー100 ホンダ スペイシー100
2ストのリード100から乗り換え。 少しパワー不足でした。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation