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ピズモのブログ一覧

2014年05月31日 イイね!

島原散歩〜南禅寺順正

京都、島原を散歩です。
ここは、何度も訪れています。昨年も訪れました。
京都は、色々な人を案内してきましたが、寺社めぐりとは一風違う、昔の京文化を味わうには最適な場所です。

平成19年の訪問
 京都 壬生と島原散歩
平成25年の訪問
 京都新選組と会津藩など幕末史跡巡り(その1・壬生と島原)

今回もやはり角屋〔角屋もてなしの文化美術館〕から。
角屋 - 01
角屋 - 01 posted by (C)pismo

角屋 - 02
角屋 - 02 posted by (C)pismo

角屋 - 03
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角屋 - 04
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角屋 - 05
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角屋 - 06
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角屋 - 07
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角屋 - 08
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角屋 - 09
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角屋 - 10
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角屋 - 11
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角屋 - 12
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角屋 - 13
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角屋 - 14
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角屋 - 15
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角屋 - 16
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角屋 - 17
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角屋 - 18
角屋 - 18 posted by (C)pismo

輪違屋は大夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688~1704)の創業と伝えられています。元々置屋は太夫や芸妓を抱え、揚屋に派遣するところで客を迎えませんでしたが、明治以降はお茶屋業を兼務する置屋では宴会業務も行うようになったそうです。
現在の建物は安政4(1857)年に再建されたものですが、その後増改築がなされ、明治4(1871)年にはほぼ現在の姿になりました。
新選組の隊士とも関わりが深く、山南敬助と明里、平間重助と糸里、伊東甲子太郎と花香太夫が馴染みだったそうです。
輪違屋は、建築的に質が高く、また最古の置屋の遺構として貴重ということで昭和59(1984)年に京都市指定有形文化財に指定されました。現在もお茶屋業として営業中のため非公開です。
輪違屋
輪違屋 posted by (C)pismo

島原・大門です。
寛永18(1641)年に開設された島原は、当初は堀と塀に囲まれ、東北角の大門のみでしたが、享保17(1732)年に西の大門が設けられました。その後東北角の大門は明和3(1766)年に島原の中央を東西に位置する道筋(どうすじ)と呼ばれる道の東端にある現在地に付け替えられました。
当初の門についてはよくわかっていませんが、享保14(1729)年には冠木門、その後塀重門、更には腕木門となりました。嘉永7(1854)年の島原東半分の大火では、この大門も焼失しました。大火後、簡易な冠木門で再建されましたが、慶応3(1867)年には神社仏閣並みの本格的な高麗門として建て替えられました。これが現在の大門です。
昭和61(1986)年には京都市登録有形文化財に登録されました。
島原・大門 - 1
島原・大門 - 1 posted by (C)pismo

この日の締めくくりに、お気に入りの南禅寺順正の湯豆腐を食べに行きました。
ここはお庭も素晴らしいです。
南禅寺順正 - 01
南禅寺順正 - 01 posted by (C)pismo

南禅寺順正 - 02
南禅寺順正 - 02 posted by (C)pismo

南禅寺順正 - 03
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南禅寺順正 - 04
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南禅寺順正 - 05
南禅寺順正 - 05 posted by (C)pismo
Posted at 2014/06/24 20:05:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年05月31日 イイね!

岩倉の実相院

修学院離宮の後は、岩倉の実相院を訪れました。
実相院は山号は岩倉山、元天台宗寺門派の単立寺院で、岩倉門跡、岩倉御殿とも呼ばれる門跡寺院です。
寛喜元(1229)年、近衛基通の孫、静基権僧正により開基され、紫野に創建されました。
その後五辻通小川に移りましたが、応仁の乱の戦火を避けて岩倉に移りました。
江戸時代初期、足利義昭の孫、義尊の時代、母(三位の局)が後陽成天皇に仕えて道晃親王(聖護院門跡)を設けたことから、天皇家とゆかりは深まり、後水尾天皇や東福門院たちが岩倉にしばしば御幸に訪れました。享保5(1720)年には、東山天皇中宮・承秋門院の大宮御所の建物を賜りました。今日まで伝わる四脚門、車寄せ、客殿は女院のお住まいとしての王朝建築美の中にも風格あるたたずまいを見せています。
幕末には岩倉具視もここを借りていて住んでいた時期もあるそうです。狩野派の画家たちの描いた襖絵等がたくさんあり、池泉回遊式庭園と枯山水庭園という2つの庭が楽しめます。板の間に写る「床紅葉」「床緑」と愛称のついた黒光りする床も見どころの一つです。

実相院 - 01
実相院 - 01 posted by (C)pismo

実相院 - 02
実相院 - 02 posted by (C)pismo

実相院 - 03
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実相院 - 04
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実相院 - 05
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実相院 - 06
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実相院 - 07
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実相院 - 08
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実相院 - 09
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Posted at 2014/06/23 22:21:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年05月31日 イイね!

修学院離宮

この日は、修学院離宮の一般参観。

時間があったので、近くの鷺森神社から。
鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)は、貞観年間(859-77)創建と伝えられる素戔嗚尊を祭神とする神社です。修学院、山端地区の産土神です。
最初、比叡山麓、赤山明神の付近に祀られていましたが、応仁の乱で焼失し、現在の修学院離宮地に移りました。
その後、離宮の造営により元禄2(1689)年に現在地に遷座しました。本殿、拝殿、手水舎は安永4(1776)年、回廊は昭和42(1967)年の造営です。
鷺森神社 - 01
鷺森神社 - 01 posted by (C)pismo

鷺森神社 - 02
鷺森神社 - 02 posted by (C)pismo

鷺森神社 - 03
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鷺森神社 - 04
鷺森神社 - 04 posted by (C)pismo

鷺森神社 - 05
鷺森神社 - 05 posted by (C)pismo

修学院の名は、10世紀後半ここに修学院という寺が建立されたのが始まりでした。
南北朝時代以降この寺は廃絶しましたが、地名は修学院村として残りました。
修学院離宮は、桂離宮に遅れること30余年、明暦元(1655)年から明暦2(1656)年にかけて後水尾上皇によって造営工事が起こされ、万治2(1659)年に完成した山荘です。
離宮の造営より早く上皇の第一皇女梅宮が得度して、現在の中離宮付近の円照寺に草庵(草葺きの小さな家、粗末な家)を結ばれていましたが、早くから別荘としての適地を探しておられた上皇は円照寺を大和の八嶋に移し、上と下の二つからなる御茶屋を建設しました。
幕府との間に緊張が続いた時代であっただけに、短期間にこれほど大規模な山荘を造営し得たことは一つの驚異でもあります。中の御茶屋は創建当時の山荘にはなかったものですが、上皇の第八皇女光子内親王(朱宮)のために建てられた山荘に東福門院(後水尾上皇の皇后、将軍徳川秀忠の娘和子)亡き後の女院御所の建物を一部移築して拡張したものです。
上皇崩御の後、光子内親王は落飾得度してこれを林丘寺となされました。明治18(1885)年林丘寺門跡から境内の半分が楽只軒(らくしけん)、客殿とともに宮内省に返還されたので、離宮に編入したものです。昭和39(1964)年上・中・下の各離宮の間に展開する8万平方メートルに及ぶ水田畑地を買い上げて付属農地とし、景観保持の備えにも万全を期して今日に至っています。
下離宮には、創建時では最大の建物の彎曲閣がありましたが、比較的早い時期に失われ、今は南を庭園に囲まれた寿月観が残っています。
中離宮には、薬只軒と客殿があり、やはり南に庭があります。上離宮は修学院離宮の本領であって、谷川をせき止め浴龍池と呼ぶ大きな池を中心ににすえた回遊式庭園となっています。その浴龍池を一望におさめる東南の高みには隣雲亭、中島に窮邃亭があります。
山麓に広がる離宮のため上と下の離宮の標高差は40m近くあり、大小の滝に加え水流の早い小川もあり、何処にいても絶えず水の音を聴くことができます。
(パンフレットより)
修学院離宮・下離宮 - 001
修学院離宮・下離宮 - 001 posted by (C)pismo

修学院離宮・下離宮 - 002
修学院離宮・下離宮 - 002 posted by (C)pismo

修学院離宮・下離宮 - 003
修学院離宮・下離宮 - 003 posted by (C)pismo

修学院離宮・下離宮 寿月観- 004
修学院離宮・下離宮 寿月観- 004 posted by (C)pismo

修学院離宮・下離宮 寿月観- 005
修学院離宮・下離宮 寿月観- 005 posted by (C)pismo

修学院離宮・下離宮 - 006
修学院離宮・下離宮 - 006 posted by (C)pismo

修学院離宮・下離宮 寿月観- 007
修学院離宮・下離宮 寿月観- 007 posted by (C)pismo

修学院離宮 - 008
修学院離宮 - 008 posted by (C)pismo

修学院離宮 - 009
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修学院離宮 - 010
修学院離宮 - 010 posted by (C)pismo

修学院離宮 - 011
修学院離宮 - 011 posted by (C)pismo

修学院離宮 - 012
修学院離宮 - 012 posted by (C)pismo

修学院離宮・中離宮 - 013
修学院離宮・中離宮 - 013 posted by (C)pismo

修学院離宮・中離宮 - 014
修学院離宮・中離宮 - 014 posted by (C)pismo

修学院離宮・中離宮 - 015
修学院離宮・中離宮 - 015 posted by (C)pismo

修学院離宮・中離宮 楽只軒 - 016
修学院離宮・中離宮 楽只軒 - 016 posted by (C)pismo

修学院離宮・中離宮 楽只軒 - 017
修学院離宮・中離宮 楽只軒 - 017 posted by (C)pismo

修学院離宮・中離宮 客殿 - 018
修学院離宮・中離宮 客殿 - 018 posted by (C)pismo

修学院離宮・中離宮 客殿 - 019
修学院離宮・中離宮 客殿 - 019 posted by (C)pismo

修学院離宮・中離宮 客殿 - 020
修学院離宮・中離宮 客殿 - 020 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 - 021
修学院離宮・上離宮 - 021 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 - 022
修学院離宮・上離宮 - 022 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 - 023
修学院離宮・上離宮 - 023 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 - 024
修学院離宮・上離宮 - 024 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 隣雲亭 - 025
修学院離宮・上離宮 隣雲亭 - 025 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 隣雲亭 - 026
修学院離宮・上離宮 隣雲亭 - 026 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 隣雲亭 - 027
修学院離宮・上離宮 隣雲亭 - 027 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 滝見灯籠 - 028
修学院離宮・上離宮 滝見灯籠 - 028 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 滝見灯籠 - 029
修学院離宮・上離宮 滝見灯籠 - 029 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 - 030
修学院離宮・上離宮 - 030 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 楓橋 - 031
修学院離宮・上離宮 楓橋 - 031 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 窮邃亭 - 032
修学院離宮・上離宮 窮邃亭 - 032 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 窮邃亭 - 033
修学院離宮・上離宮 窮邃亭 - 033 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 窮邃亭 - 034
修学院離宮・上離宮 窮邃亭 - 034 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 窮邃亭 - 035
修学院離宮・上離宮 窮邃亭 - 035 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 西浜 - 036
修学院離宮・上離宮 西浜 - 036 posted by (C)pismo

修学院離宮・上離宮 - 037
修学院離宮・上離宮 - 037 posted by (C)pismo
Posted at 2014/06/23 20:59:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年05月17日 イイね!

大阪散歩(その2・福島区)

大阪堂島川沿いの玉江橋北詰、朝日放送本社ビル脇に「豊前国中津藩蔵屋敷之跡」「福沢諭吉誕生地」の碑が建っています。
福沢諭吉は、天保5年12月12日(西暦1835年1月10日)この地にあった豊前中津藩蔵屋敷で生まれました。
父百助はは妻お順が、大きな瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時「これはよい子だ、大きくなったら寺へやって坊主にする」と語ったと伝えられています。
百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれられ中津へ戻りました。中津では儒学を学び、安政元(1854)年長崎遊学を終え江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄り、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後に塾頭になりました。
3度にわたる幕府の遣外使節に随行し、明治維新後は文明開化啓蒙思想家として活躍し、慶応義塾を開設しました。

中津藩蔵屋敷跡・福沢諭吉誕生地 - 1
中津藩蔵屋敷跡・福沢諭吉誕生地 - 1 posted by (C)pismo

中津藩蔵屋敷跡・福沢諭吉誕生地 - 2
中津藩蔵屋敷跡・福沢諭吉誕生地 - 2 posted by (C)pismo

中津藩蔵屋敷跡・福沢諭吉誕生地 - 3
中津藩蔵屋敷跡・福沢諭吉誕生地 - 3 posted by (C)pismo

中津藩蔵屋敷跡・福沢諭吉誕生地 - 4
中津藩蔵屋敷跡・福沢諭吉誕生地 - 4 posted by (C)pismo

蜆川(しじみがわ)にかかっていた橋・浄正橋跡です。浄正橋は、国道2号線となにわ筋の交わる浄正橋交差点から約 100メートルほど南に下った場所にあった橋です。
東西に「蜆川」が流れ、そこにかかっていた橋が「浄正橋」でした。
蜆川の両岸の町々は、明治42(1909)年の大火で焼け、土砂・瓦礫の山となったので、蜆川は埋め立てられました。
大正15(1926)年5月、福島史談会が「浄正橋跡」の碑を建てました。
浄正橋跡
浄正橋跡 posted by (C)pismo

源義経と梶原景時が論争を繰り広げたとされる逆櫓の松跡です。
「平家物語」の逆櫓の段によれば、元暦2年/寿永4(1185)年2月、源義経は、平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとしました。
義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案しました。しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べました。
結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って義経は出陣しようとしました。折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは200数艘のうちわずか5艘であったが、義経は勝利をおさめました。   
その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれています。この地には、江戸時代の地誌「摂津名所図会」によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を越える松が生えていたといわれています。この松を逆櫓の松と呼んでいました。
逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたそうです。
大正15(1926)年4月福島史談会が「逆櫓の松跡趾」の碑を建てましたが、昭和20(1945)年3月13日の大阪大空襲でその碑も一時行方不明になっていました。
昭和33(1958)年、ある運送会社が地ならしをしていたところ碑が出てきたので、その会社前の歩道上に建てられていたのを昭和49(1974)年5月地元有志によって、現在地に移設されました。
平成17(2005)年の大河ドラマ「義経」の第31回「飛べ屋島へ」の「義経紀行」で紹介されました。
(現地説明板などより)
逆櫓の松跡 - 1
逆櫓の松跡 - 1 posted by (C)pismo

逆櫓の松跡 - 2
逆櫓の松跡 - 2 posted by (C)pismo

野田城は享禄4(1531)年頃に浦上村宗によって築かれ、後に畿内一円に勢威をふるった三好一党が改築したのではないかと推測されています。
元亀元(1570)年、織田信長は、石山本願寺を攻め10年にもおよぶ石山合戦が始まりました。
天正4(1576)年、石山本願寺を包囲した織田軍に対し、石山本願寺と同盟を結ぶ三好一党は、野田城に立てこもり織田軍と戦いましたが、落城しました。
天正6(1578)年、木津川口の戦いで毛利水軍と戦う織田軍の重要な拠点になりましたが、都市化により遺構は残っていません。
明治の初め、「弓場」「城之内」などという地名が玉川付近に残されていたことからも、このあたりに野田城があったのではないかと推測されています。
城域は、北は玉川四丁目交差点(旧名城の内)より東は恵比須神社の東側(旧名弓の町)迄といわれていています。
極楽寺の門前と玉川4丁目11番地交差点付近の2つに石碑が建ってます。
極楽寺は、天文2(1533)年8月9日に野田城を訪れた本願寺第十世証如上人が、六角定頼に包囲されたときに、蓮如上人の教化を受けていた野田福島の念仏者が証如上人を守護せんとして、二十一人が殉教され、これらの討死衆の菩提寺として建立されたのが寺院です。本願寺南御堂の掛所となり、野田御坊と名付けられ今日に至っています。
野田城 - 1
野田城 - 1 posted by (C)pismo

野田城 - 2
野田城 - 2 posted by (C)pismo

野田城 - 3
野田城 - 3 posted by (C)pismo

証如上人を救った門徒衆の碑・二十一人討死の碑です。天文元(1532)年、本願寺第十世証如上人は、山科本願寺を六角定頼により焼き討ちされ、石山本願寺に移りました。
天文2(1533)年8月9日に証如上人は福島・野田を訪れた際、六角定頼に包囲されました。その際野田・福島の門徒の百姓衆が鋤・鍬・鎌を持って敵兵に立ち向かい、証如上人を護るために命をかけて戦い紀州に逃しましたが、信徒21人が犠牲になりました。
後に、このことを知った証如上人は、お礼を御書にしたため、犠牲者の菩提を弔いました。
玉川コミュニティセンターの前に石碑が建っています。
二十一人討死の碑
二十一人討死の碑 posted by (C)pismo
Posted at 2014/06/22 22:32:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | ツーリング | 日記
2014年05月17日 イイね!

大阪散歩(その1・天王寺区)

萬福寺は、山号は慶立山、浄土宗の寺院です。
文禄3(1594)年、前田利家の弟の前田次郎兵衛利信と僧開導によって開創されました。
幕末には将軍徳川家茂の大坂城滞在の際や、大坂の不穏な倒幕運動を取り締まるため、新選組が京より大坂に出張することがありました。
その際に使用された旅宿の一つが、萬福寺です。例えば、幹部の1人島田魁の日記によれば慶応元(1865)年、徳川家茂の3度目の上洛の際、新選組は大坂市中取締を命ぜられ、萬福寺を屯所として使用しました。
萬福寺の現存の建物の内、庫裏や山門などは幕末期から現存している建物です。
観光寺院ではないため、内部の拝観は出来ませんでしたが、門前に「新選組 大坂旅宿跡」と刻まれた石碑と説明板が建っています。
萬福寺 - 1
萬福寺 - 1 posted by (C)pismo

萬福寺 - 2
萬福寺 - 2 posted by (C)pismo

大阪市立美術館で開催されている「山の神仏-吉野・熊野・高野」を見ました。
世界遺産に指定された「紀伊山地の霊場と参詣道」に指定された三つの霊場、修験道の「吉野・大峯」、熊野信仰の中心「熊野三山」、真言密教の根本道場「高野山」の神と仏の姿、そこにある神道と、仏教の日本独自の融合の形がわかりやすく展示さて射ていました。
大阪市立美術館 - 1
大阪市立美術館 - 1 posted by (C)pismo

大阪市立美術館 - 2
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慶沢園は、住友家がこの地に移った際、約10年をかけて本邸(茶臼山邸)とともに造営した庭です。大名庭園をモデルとした林泉式回遊庭園で、山県有朋の無鄰菴なども手がけた庭師小川治兵衛の作庭です。
住友家15代吉左衛門(春翠)は明治28(1895)年から この地の用地買収を始め、同41(1908)年に着工した。大正4(1915)年にはまず本邸を鰻谷から移転しましたが、 その間、春翠は庭園を「恵沢園」と命名し、大正7(1918)年の完工時に「慶沢園」と改めました。
大正14(1925)年、住友家は神戸住吉に本邸を移し、翌昭和元年(1926)に敷地12,940坪を大阪市へ寄贈しました。
昭和9(1934)年に一般公開されました。ちなみに旧住友邸の跡地が大阪市立美術館です。
最近は、「逆さハルカス」が見ることができるスポットとしても人気です。
慶沢園 - 01
慶沢園 - 01 posted by (C)pismo

慶沢園 - 02
慶沢園 - 02 posted by (C)pismo

慶沢園 - 03
慶沢園 - 03 posted by (C)pismo

慶沢園 - 04
慶沢園 - 04 posted by (C)pismo

慶沢園 - 05
慶沢園 - 05 posted by (C)pismo

慶沢園 - 06
慶沢園 - 06 posted by (C)pismo

慶沢園 - 07
慶沢園 - 07 posted by (C)pismo

慶沢園 - 08
慶沢園 - 08 posted by (C)pismo

旧黒田藩蔵屋敷長屋門は、江戸時代中期の蔵屋敷遺構です。
現在の中之島三井ビル付近にあったものを移築したものです。昭和8(1933)年、三井ビル建設に際し大阪市に寄贈され、天王寺公園内に移築されました。
旧黒田藩蔵屋敷長屋門 - 1
旧黒田藩蔵屋敷長屋門 - 1 posted by (C)pismo
Posted at 2014/06/18 21:41:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | ツーリング | 日記

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ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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