大阪堂島川沿いの玉江橋北詰、朝日放送本社ビル脇に
「豊前国中津藩蔵屋敷之跡」「福沢諭吉誕生地」の碑が建っています。
福沢諭吉は、天保5年12月12日(西暦1835年1月10日)この地にあった豊前中津藩蔵屋敷で生まれました。
父百助はは妻お順が、大きな瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時「これはよい子だ、大きくなったら寺へやって坊主にする」と語ったと伝えられています。
百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれられ中津へ戻りました。中津では儒学を学び、安政元(1854)年長崎遊学を終え江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄り、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後に塾頭になりました。
3度にわたる幕府の遣外使節に随行し、明治維新後は文明開化啓蒙思想家として活躍し、慶応義塾を開設しました。
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蜆川(しじみがわ)にかかっていた橋・
浄正橋跡です。浄正橋は、国道2号線となにわ筋の交わる浄正橋交差点から約 100メートルほど南に下った場所にあった橋です。
東西に「蜆川」が流れ、そこにかかっていた橋が「浄正橋」でした。
蜆川の両岸の町々は、明治42(1909)年の大火で焼け、土砂・瓦礫の山となったので、蜆川は埋め立てられました。
大正15(1926)年5月、福島史談会が「浄正橋跡」の碑を建てました。
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源義経と梶原景時が論争を繰り広げたとされる
逆櫓の松跡です。
「平家物語」の逆櫓の段によれば、元暦2年/寿永4(1185)年2月、源義経は、平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとしました。
義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案しました。しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べました。
結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って義経は出陣しようとしました。折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは200数艘のうちわずか5艘であったが、義経は勝利をおさめました。
その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれています。この地には、江戸時代の地誌「摂津名所図会」によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を越える松が生えていたといわれています。この松を逆櫓の松と呼んでいました。
逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたそうです。
大正15(1926)年4月福島史談会が「逆櫓の松跡趾」の碑を建てましたが、昭和20(1945)年3月13日の大阪大空襲でその碑も一時行方不明になっていました。
昭和33(1958)年、ある運送会社が地ならしをしていたところ碑が出てきたので、その会社前の歩道上に建てられていたのを昭和49(1974)年5月地元有志によって、現在地に移設されました。
平成17(2005)年の大河ドラマ「義経」の第31回「飛べ屋島へ」の「義経紀行」で紹介されました。
(現地説明板などより)
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野田城は享禄4(1531)年頃に浦上村宗によって築かれ、後に畿内一円に勢威をふるった三好一党が改築したのではないかと推測されています。
元亀元(1570)年、織田信長は、石山本願寺を攻め10年にもおよぶ石山合戦が始まりました。
天正4(1576)年、石山本願寺を包囲した織田軍に対し、石山本願寺と同盟を結ぶ三好一党は、野田城に立てこもり織田軍と戦いましたが、落城しました。
天正6(1578)年、木津川口の戦いで毛利水軍と戦う織田軍の重要な拠点になりましたが、都市化により遺構は残っていません。
明治の初め、「弓場」「城之内」などという地名が玉川付近に残されていたことからも、このあたりに野田城があったのではないかと推測されています。
城域は、北は玉川四丁目交差点(旧名城の内)より東は恵比須神社の東側(旧名弓の町)迄といわれていています。
極楽寺の門前と玉川4丁目11番地交差点付近の2つに石碑が建ってます。
極楽寺は、天文2(1533)年8月9日に野田城を訪れた本願寺第十世証如上人が、六角定頼に包囲されたときに、蓮如上人の教化を受けていた野田福島の念仏者が証如上人を守護せんとして、二十一人が殉教され、これらの討死衆の菩提寺として建立されたのが寺院です。本願寺南御堂の掛所となり、野田御坊と名付けられ今日に至っています。
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証如上人を救った門徒衆の碑・
二十一人討死の碑です。天文元(1532)年、本願寺第十世証如上人は、山科本願寺を六角定頼により焼き討ちされ、石山本願寺に移りました。
天文2(1533)年8月9日に証如上人は福島・野田を訪れた際、六角定頼に包囲されました。その際野田・福島の門徒の百姓衆が鋤・鍬・鎌を持って敵兵に立ち向かい、証如上人を護るために命をかけて戦い紀州に逃しましたが、信徒21人が犠牲になりました。
後に、このことを知った証如上人は、お礼を御書にしたため、犠牲者の菩提を弔いました。
玉川コミュニティセンターの前に石碑が建っています。
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Posted at 2014/06/22 22:32:32 | |
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