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ピズモのブログ一覧

2014年12月30日 イイね!

九州・山陰ドライブ(5日目その2・鰐淵寺、一畑寺〔一畑薬師〕)

鰐淵寺は、山号は浮浪山、院号は一乗院、正式には浮浪山一乗院鰐淵寺という天台宗の寺院です。
開山は推古2(594)年、信濃国の智春上人が推古天皇の眼疾を浮浪滝に祈って平癒されたので、その報賽として建立された勅願寺です。天竺(印度)霊鷲山の艮地が欠けて浪に浮かんで流されてきた土地で浮浪山と称します。上人密法を修し給う折、誤って碗の仏器を滝壺に落とされたとき、鰐魚(わに)が鰓(えら)にかけ浮かび上がったことにより寺号を生じています。
伝教大師が比叡山に天台宗を開かれると、慈覚大師の薦めもあり、日本で最初の延暦寺の末寺となりました。又、早くより出雲大社との関係を密にし別当寺ともなりました。
元弘2(1333)年後醍醐天皇が隠岐遷幸の折、長史頼源が国分寺御所に伺候して、ご宸筆の願文(重要文化財)を賜りました。
永禄年間には和多坊栄芸が毛利元就の尼子攻めに助力したため、天正5(1577)年孫の毛利輝元はこの栄芸の功労を愛で本堂を再建しました。
又、弁慶は18歳で当山に入り、三年間修行の後、書写山から比叡山に登ったと伝えられており、その伝説や遺品に事欠きません。一方、23,635坪の山内は自然に恵まれ、春は緑の香にむせび、秋は深紅になる「いろは紅葉」が全山を覆います。
浮浪の滝は修験者の守護神蔵王権現の聖地とされ、弁慶も修行したとされています。滝壺の奥に蔵王堂がはめ込まれるようにあり、神秘的な姿です。
鰐淵寺 - 01
鰐淵寺 - 01 posted by (C)pismo

鰐淵寺 - 02
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鰐淵寺 - 03
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鰐淵寺 - 04
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鰐淵寺 - 05
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鰐淵寺 - 06
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鰐淵寺 - 07
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鰐淵寺 - 08
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鰐淵寺 - 09
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鰐淵寺 - 10
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鰐淵寺 - 11
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鰐淵寺 - 12
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鰐淵寺 - 13
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鰐淵寺 - 14
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鰐淵寺 - 15
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鰐淵寺 - 16
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鰐淵寺 - 17
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鰐淵寺 - 18
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鰐淵寺 - 19
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鰐淵寺 - 20
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鰐淵寺 - 21
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鰐淵寺 - 22
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一畑寺は、山号は醫王山、臨済宗妙心寺派の寺院で一畑薬師教団の総本山です。
通称は一畑薬師、「目のお薬師様」として知られています。
寛平6(894)年、漁師の与市が、海中から引き上げた薬師如来像を本尊とし、医王寺として創建したといいます。与市は、出家して補然と称しました。与一の母親の目が開いたり、戦国時代に小さな幼児が助かったことから、「目のやくし」「子どもの無事成長の仏さま」として信仰を集めました。
当初は天台宗に属していましたが、正中2(1325)年、石雲本竺が臨済宗南禅寺派寺院として再興し、寺号を成徳寺と改めました。承応2(1653)年には一畑寺に改名し、寛政2(1790)年、妙心寺派に転属しました。
昭和28(1953)年、宗教法人一畑薬師教団が設立され、一畑寺が総本山となっています。
一畑寺(一畑薬師) - 01
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一畑寺(一畑薬師) - 02
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一畑寺(一畑薬師) - 03
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一畑寺(一畑薬師) - 04
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一畑寺(一畑薬師) - 05
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一畑寺(一畑薬師) - 06
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一畑寺(一畑薬師) - 07
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一畑寺(一畑薬師) - 08
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一畑寺(一畑薬師) - 09
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一畑寺(一畑薬師) - 10
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一畑寺(一畑薬師) - 11
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一畑寺(一畑薬師) - 12
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Posted at 2015/02/01 22:09:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年12月30日 イイね!

九州・山陰ドライブ(5日目その1・猪目洞窟、韓竈神社)

猪目洞窟は、昭和23(1948)年に、漁船の船置場として利用するため入口の堆積土を取り除いた時に発見されたものです。
猪目湾の西端に位置し、凝灰岩の絶壁に海食により出来たもので、東に向かって開口しており、幅約30m、奥行き30mあります。
古代の人々は、死者の世界を「黄泉」と表現していました。「出雲国風土記」には、「夢にこの磯の窟(あな)の辺りに至れば、必ず死ぬ。故、俗人古(いにしえ)より今にいたるまで、黄泉の坂、黄泉の穴となづくるなり」と書かれ、
「夢の中でこの洞窟に行くのをみたならば、必ず死んでしまう。ここは昔から黄泉の坂、黄泉の穴と呼んでいる。」と記されています。
古代には、この洞窟は「あの世」につながると信じられていたようです。
この遺跡は、縄文時代中期の土器片も少量採集されていますが、弥生時代以降、古墳時代後期まで(2,300~1,400年前)の埋葬と生活の遺跡といえます。
埋葬の遺跡としては、人骨が13体以上見つかっており、特に注目されるものとしては、南海産のゴホウラ製貝輪をはめた弥生時代の人骨や、舟材を使った木棺墓に葬られた古墳時代の人骨、稲籾入りの須恵器を副葬した人骨などがあります。
生活の遺跡としては、各種木製品、土器、骨角器などの道具や、食料の残滓と思われる貝類、獣骨、鳥骨、木の実など、また多量の灰などがあります。
発見当時、大社考古学会により調査が行われた関係から、出土品は現在、大社町の史跡猪目洞窟遺物包含層出土品収蔵庫で保管されています。
(現地説明板などより)
猪目洞窟 - 01
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猪目洞窟 - 02
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猪目洞窟 - 03
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猪目洞窟 - 04
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韓竈神社は、出雲国風土記〔天平5(733)年〕には韓銍社(からかまのやしろ)、延喜式神名帳〔延長5(927)年〕には韓竈神社と記されており 創立は不詳ですが、非常に古い由緒を持つ神社です。
社名のカラカマは朝鮮から渡来した「釜」を意味するとされています。即ちこれは、祭神の素蓋嗚命が御子神と共に新羅に渡られ、我が国に「植林法」を伝えられると共に「鉄器文化」を開拓されたと伝えられていることと関係があると思われます。
又当社より奥部の北山山系が、古くから産銅地帯といわれ金掘り地区の地名や、自然銅、野タタラ跡、などが見られることと、鉄器文化の開拓と深い関係があるといわれています。
「雲陽誌」〔享保2(1717)年〕によると、当社は 素蓋嗚命を祀るとして 古老伝に「素蓋嗚命が乗り給いし船なりとて、二間四方ほどの平石あり、これを「岩舟」という。この岩は 本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に、雨露も当たらず世俗に「屋方石」という。又 岩舟のつづきに周二丈余り、高さ六間ほどの丸き立岩あり、これを「帆柱石」という。社への入口は、横一尺五寸ばかり 高さ八尺ほどの岩穴となっており、奥の方まで二間ばかりあり、これが社までの通路となっている」と記されています。
急勾配の石段を20分程度登ります。神社の入口は狭い岩の隙間を通っていきます。45cmほどの隙間ですので、太っていると通るのはしんどいかもしれません。
参拝口の神社の鳥居付近には、素戔嗚尊が乗ったという岩舟、権現滝、権現双子滝などがあります。
(現地説明板などより)
韓竈神社 - 01
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韓竈神社 - 02
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韓竈神社 - 03
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韓竈神社 - 04
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韓竈神社 - 05
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韓竈神社 - 06
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韓竈神社 - 07
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韓竈神社 - 08
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韓竈神社 - 09
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韓竈神社 - 10
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韓竈神社 - 11
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韓竈神社 - 12
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韓竈神社 - 13
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韓竈神社 - 14
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韓竈神社・岩船 - 15
韓竈神社・岩船 - 15 posted by (C)pismo

韓竈神社・権現滝 - 16
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韓竈神社・権現双子滝 - 17
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韓竈神社・権現双子滝 - 18
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Posted at 2015/02/01 17:17:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年12月29日 イイね!

九州・山陰ドライブ(4日目その4・楫取素彦旧宅地、吉田松陰誕生地・松陰神社)

平成27(2015)年の大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公、文が再婚した相手、楫取素彦の旧宅跡です。楫取素彦は、文政12(1829)年、萩藩医松島瑞蟠の次男として、萩に生まれました。
萩藩の海軍局頭人をつとめ、禁門の変後の第一次長州征討により斬首された松島剛蔵の弟にあたります。
12歳の時に萩藩の儒者小田村吉平の養子となり、小田村伊之助と名乗りました。藩校明倫館で儒学を講じ、嘉永6(1853)年吉田松陰の妹寿と結婚しました。松陰の再入獄後は後継者として、松下村塾でも指導にあたりました。慶応元(1865)年の四境戦争(幕長戦争)では幕府側との交渉にあたり、慶応3(1867)年藩命により楫取素彦と改名しました。
明治9(1876)年初代群馬県令となり、明治17(1884)年まで蚕糸業の振興や教育の充実に尽力し、名県令として慕われました。
明治14(1881)年寿と死別後、明治16(1883)年に松陰の妹で久坂玄瑞の未亡人文(美和子)と再婚しました。
その後、元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員となり、正二位勲一等男爵に叙せられました。大正元(1912)年に享年84歳で亡くなりました。
旧宅地から650m西側の広厳寺本堂の裏には、昭和12(1937)年に旧宅地から移築されたという茶室があります。
旧宅地は平成26(2014)年11月に東屋や園路、駐車場が整備され、楫取素彦やゆかりの人々を紹介する説明板や周辺案内図のパネルが設置されています。
(現地説明版などより)
楫取素彦旧宅地 - 1
楫取素彦旧宅地 - 1 posted by (C)pismo

楫取素彦旧宅地 - 2
楫取素彦旧宅地 - 2 posted by (C)pismo

楫取素彦旧宅地 - 3
楫取素彦旧宅地 - 3 posted by (C)pismo

楫取素彦旧宅地 - 4
楫取素彦旧宅地 - 4 posted by (C)pismo

吉田松陰誕生地は、吉田松陰の実家で樹々亭、山屋敷とも言われる長州藩士杉家(家禄26石)の旧宅地です。この附近は、団子岩と呼ばれる風光明媚な所で、萩城下が一望できます。
松陰は天保元(1830)年8月4日杉百合之助の二男としてこの地に生まれました。両親や兄弟と共に農耕に従事し、その合間には父から漢籍の素読などを受けました。
間取りは玄関(3畳)、表座敷(6畳)、居間(6畳)、隠居部屋(3畳)、納戸(3畳)、台所、それに別棟の納屋と厩という、非常に狭く、簡素な造りでした。
嘉永6(1853)年に杉家が転居した後、いつしか建物などは失われ、荒れ果てていましたが大正11(1922)年に椿東村青年会会長信国顕治が、青年会員に呼びかけて整備しました。当時の間取りを示す旧宅の敷石も、後に住んでいた人の記憶によってこの時復元したものです。
整備にあわせて山県有朋が「吉田松陰先生誕生之地」の石碑の題字を揮毫しています。肩書きを門下生のみとしているところに、師に対する謙譲の気持ちが表れています。なお、山県有朋は整備完了前に死去したため、これが絶筆となりました。
昭和20(1945)年に萩市に寄付され一部を市道に、他を公園にしました。昭和48(1973)年には明治維新100年を記念して、吉田松陰・金子重輔の銅像が建立されています。
平成27(2015)年の大河ドラマ「花燃ゆ」の第1回「人むすぶ妹」の花燃ゆ紀行で「文の生家跡(吉田松陰誕生地)」として紹介されました。
吉田松陰誕生地 - 01
吉田松陰誕生地 - 01 posted by (C)pismo

吉田松陰誕生地 - 02
吉田松陰誕生地 - 02 posted by (C)pismo

吉田松陰誕生地 - 03
吉田松陰誕生地 - 03 posted by (C)pismo

吉田松陰誕生地 - 04
吉田松陰誕生地 - 04 posted by (C)pismo

吉田松陰誕生地 - 05
吉田松陰誕生地 - 05 posted by (C)pismo

吉田松陰誕生地 - 06
吉田松陰誕生地 - 06 posted by (C)pismo

吉田松陰誕生地の近くにある高杉晋作草庵跡です。文久3(1863)年3月、10年間の暇を許され京都で剃髪し東行と号した高杉晋作が4月に萩に帰国し、団子岩の麓に草庵を結びました。師である吉田松陰ゆかり誕生地の近くで松蔭の遺著を読み、妻マサと一緒に嵐の前の静かな一時を過ごしました。
しかし、長州藩が関門海峡で攘夷を実行すると、君命により晋作は呼び戻され6月には下関で奇兵隊を結成しました。
高杉晋作草庵跡
高杉晋作草庵跡 posted by (C)pismo

吉田松陰誕生地近くの吉田松陰の墓ならびに墓所です。
吉田松陰の墓は表に「松蔭二十一回猛子墓」、裏に「姓吉田氏称寅次郎 安政六年己未十月二十七日 於江戸没 享年三十歳」と刻まれています。遺髪を埋めて、百ヶ日忌に建てたもので、墓前には佐瀬(前原)一誠・久坂誠(玄瑞)・品川日牧(弥次郎)・伊藤和卿(博文)・高杉春風(晋作)など17名が寄進して、その名を刻んだ水溜め・花立・燈籠が供えています。また、この墓所には杉家、玉木家、久坂家、吉田家など一族と、高杉晋作、吉田稔麿、駒井政五郎、馬島甫仙、堀潜太郎など維新前後に亡くなった門下生の墓があります。写真は左から、吉田家第十一代で松蔭の甥にあたる吉田庫三の墓、松蔭の墓、吉田家七代で松蔭の養父吉田大助の墓です。
吉田松陰の墓ならびに墓所 - 1
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吉田松陰の墓ならびに墓所 - 2
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吉田松陰の墓ならびに墓所 - 3
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吉田松陰の墓ならびに墓所 - 4
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吉田松陰の墓ならびに墓所 - 5
吉田松陰の墓ならびに墓所 - 5 posted by (C)pismo

吉田松陰の墓ならびに墓所 - 6
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吉田松陰の墓ならびに墓所 - 7
吉田松陰の墓ならびに墓所 - 7 posted by (C)pismo

吉田松陰の墓ならびに墓所 - 8
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吉田松陰の墓ならびに墓所 - 9
吉田松陰の墓ならびに墓所 - 9 posted by (C)pismo

そして、この日の最後に松陰神社を訪れました。ここは昨年も訪れています。
周防・長門・石見・出雲紀行(3日目その5・松陰神社、恵美須ヶ鼻造船所跡、萩反射炉)

松陰神社 - 01
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松陰神社 - 02
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松陰神社 - 03
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松陰神社 - 04
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松陰神社 - 05
松陰神社 - 05 posted by (C)pismo

松陰神社 - 06
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松陰神社 - 07
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松陰神社 - 08
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松陰神社 - 09
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Posted at 2015/01/28 00:14:04 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2014年12月29日 イイね!

九州・山陰ドライブ(4日目その3・高杉晋作誕生地、旧萩藩御船倉、泉福寺、旧萩藩校明倫館)

萩に生まれた高杉晋作の旧宅・高杉晋作誕生地です。ここは、萩を訪れた時はいつも閉まっていて、四度目の正直で開館している時に訪れることができました。
高杉晋作は、天保10(1839)年萩藩士高杉小忠太(家禄二百石、号春樹)の長男として生まれ、明倫館に学び、のち吉田松陰に師事、久坂玄瑞とともに松門の双璧と称されました。
文久2(1862)年上海に外国事情の視察を行い、帰国後藩の中心となり討幕運動に身を投じました。
また身分を問わない奇兵隊を組織しました。四国連合艦隊の講和談判、功山寺の挙兵などで倒幕の体制を整え、幕府の征長軍を迎え撃って全軍を指揮し、藩を勝利に導きました。
慶応3(1867)年維新を知らずに下関で病没しました。享年29歳でした。
誕生地は菊屋横丁に面しています。現存する当時の建物は座敷(六畳・床間付)、次の間(六畳)、居間(六畳、四、五畳)、小室(三畳)の他に玄関、台所があります。土蔵、納屋もありましたが、現存していません。
邸内には毛利公碑、高杉家鎮守堂、奥には産湯の井戸と東行歌碑などがあります。入口には「高杉晋作誕生地」「高杉春樹舊宅地」の石碑が建っています。
菊屋横丁 - 01
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高杉晋作誕生地 - 01
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高杉晋作誕生地 - 02
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高杉晋作誕生地 - 03
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高杉晋作誕生地 - 04
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高杉晋作誕生地 - 05
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高杉晋作誕生地 - 06
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高杉晋作誕生地 - 07
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高杉晋作誕生地 - 08
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旧萩藩御船倉は、浜崎重要伝統的建造物群保存地区にあります。藩主の御座船や軍船を格納した御船倉は、慶長13(1608)年の萩城築城後、まもなく建てられたと思われます。享保年間(1716~35)作の「八江萩名所図画」には4棟の船倉が描かれていますが、もっとも大きかったものが現存しています。
奥行27メートル、間口8.8メートル、石壁の厚さは6mです。構造は両側と奥に玄武岩で壁を築き、上部に瓦屋根を葺き、前面には木製扉を有しています。
現在は、明治以降の埋め立てのため河岸から離れたところに位置していますが、往時は、松本川に面して船が自由に出入り出来る場所でした。
旧萩藩御船倉 - 1
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旧萩藩御船倉 - 2
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泉福寺は、山号は潮音山、浄土真宗本願寺派の寺院です。
幕末に松下村塾で多くの志士達を育てた吉田松陰(吉田家)の菩提寺です。
泉福寺は、安芸国高田郡甲立村(現、広島県安芸高田市甲田町)にあった高林坊第4世西願の3男玄修が、安芸国沼田郡東原村(現、広島市安佐南区)泉福寺の8世となったことがはじまりです。
毛利輝元が居城を萩へ移した時、玄修は自分の先祖が厚い恩をうけていたので、寛永18(1841)年、萩に入りました。
毛利家より橋本町に寺地を拝領し「泉福寺」を創建しましたが、度重なる水害により 願い出て現在の場所に移転しました。
吉田松陰の遺言のとおり、「松陰二十一回猛士」と刻まれた位牌が安置されています。
(現地説明板などより)
泉福寺 - 1
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泉福寺 - 3
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明倫館は、享保3(1718)年5代藩主毛利吉元が藩校の創建を命じ、堀内に完成しました。
以降、館の拡張を行ってきましたが、弘化3(1846)年、13代藩主毛利敬親が時勢の進展に伴い移転を下命し、嘉永2(1849)年、江向のこの地に新明倫館が完成し移転しました。
慶応3(1867)年、藩校としての明倫館は廃止されました。
現在、明倫小学校の敷地内に他国修行者引請剣槍術場の有備館、水練池、聖賢堂などの遺構が残り、「明倫館水練池および有備館」として明倫館碑とともに国の史跡に指定されています。
明倫小学校は、隣接する旧萩商業高校校地に新校舎を建設し、萩商業高等学校校舎の一部を転用して平成26(2014)年4月に移転しました。旧校舎は保存される予定です。
旧萩藩公明倫館 - 01
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旧萩藩公明倫館 - 02
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旧萩藩公明倫館 - 03
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旧萩藩公明倫館 - 04
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旧萩藩公明倫館 - 05
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旧萩藩公明倫館 - 06
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旧萩藩公明倫館 - 07
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旧萩藩公明倫館 - 08
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旧萩藩公明倫館 - 09
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旧萩藩公明倫館 - 10
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旧萩藩公明倫館 - 11
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旧萩藩公明倫館 - 12
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旧萩藩公明倫館 - 13
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旧萩藩公明倫館 - 14
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旧萩藩公明倫館 - 15
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旧萩藩公明倫館 - 16
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旧萩藩公明倫館 - 17
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旧萩藩公明倫館 - 18
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旧萩藩公明倫館 - 19
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旧萩藩公明倫館 - 23
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旧萩藩公明倫館 - 24
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Posted at 2015/01/28 00:12:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

プロフィール

「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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