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ピズモのブログ一覧

2015年08月22日 イイね!

横浜・八丈島・東京(4日目その2・東京大学・板橋・王子・赤羽)

次は、東京大学へ行きました。
東京大学 - 01
東京大学 - 01 posted by (C)pismo

東大の農学部の正門を入った北側に「朱舜水先生終焉之地」の碑が建てられています。
朱舜水は、日本に帰化した明の遺臣です。名は之瑜、舜水は号です。
祖国明朝の復興運動を図りますが果たさず、万治2(1659)年長崎に来た際、柳川藩の儒学者安東省庵の援助を受けて亡命しました。
寛文5(1665)年、小宅生順の推挙で水戸藩の賓客となり、水戸藩徳川家の中屋敷(現在の東京大学農学部の南東側)に入り、障害この地で過ごしました。学風は朱子学・陽明学の中間に位置する実学(実行の学)で、空論を避け、道理を重んじ、水戸光圀や安積澹泊、林鳳岡、木下順庵らに大きな影響を与えました。
天和2(1682)年に83歳で没し、常陸太田の瑞竜山に葬られました。
この記念碑は、日本渡来250年祭にあたり水戸藩邸内に朱舜水記念会が建てたものですが、農学部内で移転しています。そのため、現在記念碑が設置されている農学部正門附近は水戸藩邸の区域ではありません。
昭和30(1955)年3月28日、東京都指定旧跡となっています。
(現地説明板などより)
東京大学・朱舜水記念碑 - 02
東京大学・朱舜水記念碑 - 02 posted by (C)pismo

東京大学 - 03
東京大学 - 03 posted by (C)pismo

東京大学 - 04
東京大学 - 04 posted by (C)pismo

安田講堂は、東京大学本郷キャンパスにある講堂で、正式には東京大学大講堂といいます。
安田財閥の創始者・安田善次郎の、匿名を条件での寄付により建設され、安田の死後に寄付を行ってたことが知られるようになったことで安田を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになりました。内田祥三が基本設計を行い、弟子の岸田日出刀が担当し大正10(1921)年に起工、大正14(1925)年7月6日に竣工しました。
昭和43(1968)年の東大紛争では、全学共闘会議により選挙され、最終的には機動隊により強制排除されました。
平成8(1996)年12月20日に国の登録有形文化財に指定されています。
(現地説明板などより)
東京大学・安田講堂 - 05
東京大学・安田講堂 - 05 posted by (C)pismo

元白虎隊士で、東京帝国大学総長を務めた山川健次郎像です。
安田講堂の東側、理学部1号館前に胸像があります。
平成18(2006)年12月21日、山川健次郎氏の曾孫である福田宏明氏より寄贈されたものです。
会津藩士、山川重固の三男として生まれ、少年時代に白虎隊士を経験した後、米国エール大学で物理学を学びました。
帰国後、東京開成学校教授補などを経て、明治12(1879)年に26歳の若さで東京大学理学部の物理学主任教授に就任しました。
清廉潔白な人柄は多くの人の信頼を集め、社会を導く人という意味で「星座の人」と呼ばれました。
大学が自治問題に揺れる中、2度にわたり東京帝国大学総長を務めました。2度の在任中に自治紛争で揺れる京都帝国大学にも総長を依頼され、10ヶ月にわたって東京帝国大学と京都帝国大学の総長を兼ねました。
九州帝国大学初代総長、貴族院勅選議員、東宮御学問所評議員ほか多くの要職を務め、大正4(1915)年に男爵の爵位を授与されました。多くの弟子を育てたことでも知られており、学問と教育に情熱を注ぎ、日本の礎を築きました。
(現地説明板などより)
東京大学・山川健次郎像 - 06
東京大学・山川健次郎像 - 06 posted by (C)pismo

現在、東京大学の敷地になっている敷地はかつては加賀藩主前田家の上屋敷でした。
加賀藩主前田氏が、現在の赤門から池にかけての一体の地を将軍家から賜ったのは、大坂の役後のことです。寛永15(1638)年、その性、豪宕で風雅を好んだという当主前田利常の時に園池の大築造を行いました。利常の死後、綱紀がさらに補修して、当時江戸諸侯邸の庭園中第一と称せられました。
育徳園と命名され、園中に八景、八境の勝があって、その泉水・築山・小亭等は数寄をきわめたものだといわれています。池の形が「心」という字をかたどっており、この池の正式名称は「育徳園心字池」といいますが、夏目漱石の小説「三四郎」以来、三四郎池の名で親しまれています。
(現地説明板などより)
東京大学・三四郎池(育徳園) - 07
東京大学・三四郎池(育徳園) - 07 posted by (C)pismo

東京大学の赤門は、旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門であり、文政10(1827)年に第12代藩主前田斉泰が第11代将軍徳川家斉の第21女、溶姫を迎える際に造られました。
三位以上の大名が将軍家から妻を迎えた場合、その人・居所を御守殿と称し、表通りからその場所へ出入りする朱塗りの門を御守殿門と呼んでいました。
左右に唐破風造の番所を置く薬医門で、切妻造となっています。旧国宝で、国の重要文化財に指定されています。
東京大学・赤門 - 08
東京大学・赤門 - 08 posted by (C)pismo

東光寺は、山号は丹船山、院号は薬王樹院という浄土宗の寺院です。
創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳3(1491)年に入寂した天誉和尚が開山したといわれています。当初は、船山(現板橋3-42)あたりにありましたが、延宝7(1679)年、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。
移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町屋が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、度重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお山号の丹船山は、地名船山に由来しています。
境内には、昭和58(1983)年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文2(1662)年の庚申塔と平成7(1995)年度、板橋区の有形文化財に登録された石地蔵菩薩坐像、明治になって子孫が供養のために建立した宇喜多秀家の墓などがあります。八丈島に流された秀家の子孫が明治2(1869)年、東京に戻り、秀家の妻豪姫の実家の縁で前田家の下屋敷地を開拓した時に建立したものです。
(現地説明板などより)
東光寺 - 01
東光寺 - 01 posted by (C)pismo

東光寺 - 02
東光寺 - 02 posted by (C)pismo

東光寺 - 03
東光寺 - 03 posted by (C)pismo

東光寺 - 04
東光寺 - 04 posted by (C)pismo

東光寺 - 05
東光寺 - 05 posted by (C)pismo

近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕です。
慶応4(1868)年4月25日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。
その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。平尾一里塚の南側にあり、刑の前日宿泊した石山家の敷地内であるとされています。(三鷹市の龍源寺にも近藤勇の養子勇五郎が胴体を埋葬したとされる墓所があり、胴体の埋葬場所としては両説があります。)
本供養塔は没後の明治9(1876)年5月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。
高さ3.6m程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。
正面には、「近藤勇 冝昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお、近藤勇の諱である昌宜が冝昌とされていることについては明らかになっておりません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。
戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。
永倉はこの地の隅に自らの墓を建てて分骨するように遺言し、天寿を全うしました。「新選組永倉新八墓」と刻まれた墓が境内にあります。
本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。
(現地説明板などより)
近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 01
近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 01 posted by (C)pismo

近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 02
近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 02 posted by (C)pismo

近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 03
近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 03 posted by (C)pismo

近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 04
近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕 - 04 posted by (C)pismo

飛鳥山公園は、明治6(1873)年に定められたわが国最初の公園の一つです。
この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。
このあたりは、古くから人が住んでいたらしく先土器時代(日本で最も古い時代)縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されています。
ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘の地主山(現在の展望台の所)に飛鳥明神の祠が祀られていたからと伝えられています。
江戸時代の中頃の元文2(1737)年、八代将軍徳川吉宗が、この地を王子権現に寄進し、荒地を整備してたくさんの桜や松、楓などを植えたので、それからは桜の名所として有名になり付近に茶屋などもできました。
飛鳥山のお花見は、向島とともに仮装が許されていたので、まるで落語にでてくるような、仇討の趣向や、変装などのためにたいへんな賑わいでした、又、東側の崖からは、カワラケ投げも行われ、土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、明治の末になって、危険防止のため禁止されました。
この山は、東から西へのなだらかな斜面でしたが、道路拡張のために狭められ、先に中央部につくられていた広場の跡地に噴水ができ、夜は五色の光に輝いています。
(現地説明板などより)
飛鳥山公園 - 01
飛鳥山公園 - 01 posted by (C)pismo

飛鳥山公園 - 02
飛鳥山公園 - 02 posted by (C)pismo

飛鳥山公園 - 03
飛鳥山公園 - 03 posted by (C)pismo

渋沢史料館は、飛鳥山公園にあります。「紙の博物館」「北区飛鳥山博物館」と並び「飛鳥山3つの博物館」といわれています。
渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、昭和57(1982)年に開館しました。
かつて栄一が住んでいた旧渋沢邸跡に建ち、公益財団法人渋沢栄一記念財団が運営しています。
栄一の生涯と事績に関する資料を収蔵・展示し、関連イベントなども随時開催しています。
渋沢史料館 - 01
渋沢史料館 - 01 posted by (C)pismo

渋沢史料館 - 02
渋沢史料館 - 02 posted by (C)pismo

日本の都市公園百選にも選定されている音無親水公園です。
王子付近を流れる石神井川は、「音無川」と呼ばれる景勝地で、江戸時代の浮世絵にも数多く描かれています。
江戸時代の天保7(1836)年に完成した「江戸名所図会」や、嘉永5(1852)年の近吾堂板江戸切絵図、また、 安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかります。
「江戸名所花暦」「游歴雑記」などには、一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともできる、夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれており、江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、谷間の樹木は見事で、実にすぐれていると記されています。
現在は、戦後の護岸工事で石神井川の流路が変わったため、自然の川を模した音無親水公園として生まれかわり、桜の名所、水遊びのできる公園としてにぎわっています。
日本の都市公園百選にも選定されています。
(現地説明板などより)
音無親水公園 - 01
音無親水公園 - 01 posted by (C)pismo

稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
昭和62(1987)年、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正10(1582)年頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
また、静勝寺に伝存する貞享4(1687)年の「静勝寺除地検地地図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
道灌の死後、この城は孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
明暦元(1655)年に道灌の子孫資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木造を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
(現地説明板などより)
稲付城 - 01
稲付城 - 01 posted by (C)pismo

稲付城 - 02
稲付城 - 02 posted by (C)pismo

稲付城 - 03
稲付城 - 03 posted by (C)pismo

稲付城西側の天然の防御だった亀ヶ池の名残が残る亀ヶ池弁天です。
赤羽駅の西口一帯にあった大きな池があり、亀ヶ池と呼ばれていました。
亀ヶ池は稲付城(今の静勝寺)西側の、天然の防御でした
一角のほこらには無数の亀がおり、大亀は甲の周囲8.9尺もあり、小さな子供はその上に乗って戯れたが、大人が行けば隠れてけっして出てこなかったといわれています。
また、伝説では、池には一対の大蛇が住んでいたとも言われています。
現在の亀ヶ池弁財天の池はその亀ヶ池の名残りといわれていて、中の島に祀られている祠はかつて亀ヶ池の一角にあったもので、中には弁天像が納められています。
この弁財天では願いが叶ったらお礼の印に細い絵馬型の御札をかけることになっているそうです。
(現地説明板などより)
亀ヶ池弁天 - 01
亀ヶ池弁天 - 01 posted by (C)pismo
Posted at 2015/10/04 20:32:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年08月22日 イイね!

横浜・八丈島・東京(4日目その1・伝馬町・根岸・上野・谷中・田端)

伝馬町牢屋敷は、慶長年間、常盤橋際から移って明治8年(1875)、市ケ谷囚獄ができるまで約270年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢したものは数十万人を数えたといわれています。
現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡です。当時は敷地総面積が2618坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門がありました。牢舎は揚屋敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚屋敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみでした。
今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があり、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されています。
牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、 死刑場役は有名な山田浅右衛門、それに同心78名、獄丁46名、外に南北両町奉行から与力1人月番で牢屋敷廻吟味に当たったといいます。
伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政5(1858)年9月から同6年12月までの1年3ヶ月の期間が、すなわち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など50余人獄に下し、そのほとんどを刑殺しました。その後もここで尊い血を流した者は前者と合わせて96士に及ぶといいます。
なお、村雲別院境内には勤皇志士96名の祠と木碑が建てられています。
十思公園には、「松陰先生終焉之地」、「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と刻まれた「吉田松陰辞世の碑」、「吉田松陰顕彰碑」、「忠魂碑(乃木希典書)」、「表忠碑(鈴木荘六書)」、「石町時の鐘」などの他、発掘された牢屋敷の石垣を移築復元しています。
(現地説明板などより)
伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 01
伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 01 posted by (C)pismo

伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 02
伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 02 posted by (C)pismo

伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 03
伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 03 posted by (C)pismo

伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 04
伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 04 posted by (C)pismo

伝馬町牢屋敷跡(大安楽寺) - 05
伝馬町牢屋敷跡(大安楽寺) - 05 posted by (C)pismo

小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として有名な小野篁です。
創祀の年代は不明ですが、次のような伝承があります。
篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞しました。仁寿2(852)年篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀しました。
その後、江戸時代をむかえ、寛永2(1625)年忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷した、というものです。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄4(1691)年頃に遷座したのではないかともいわれています。
現在の社殿は慶応2(1866)年の建築で、関東大震災や東京大空襲などを免れました。また、境内には、富士浅間神社・御嶽神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・織姫神社、さらには庚申塔が現存しています。
例大祭は5月19日で、3年に一度、本社の神輿渡御が行われます。
境内には「下谷坂本の富士塚」があります。
模造の富士山で、文政11(1828)年の築造と考えられています。
富士山信仰は室町末期頃に起り、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成されました。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は50有余を数えるに至りました。しかし、いまに伝わる塚は少ないです。
この富士塚は高さ約5m、直径約16mあり、塚は富士の熔岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されています。
昭和54(1979)年5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
(現地説明板などより)
小野照崎神社 - 01
小野照崎神社 - 01 posted by (C)pismo

小野照崎神社 - 02
小野照崎神社 - 02 posted by (C)pismo

小野照崎神社 - 03
小野照崎神社 - 03 posted by (C)pismo

小野照崎神社 - 04
小野照崎神社 - 04 posted by (C)pismo

小野照崎神社 - 05
小野照崎神社 - 05 posted by (C)pismo

小野照崎神社 - 06
小野照崎神社 - 06 posted by (C)pismo

東京で晩年を暮らした正岡子規の家・子規庵です。
残念ながら、閉まっていました。
正岡子規(1867~1902)は俳人・歌人・随筆家です。幼名は升、本名は常規、別号を獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん)、竹の里人などといいました。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱しました。
新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加、歌誌「アララギ」の源流となります。
 著書には、俳論「俳諧大要」「俳人蕪村」、歌論「歌よみに与ふる書」、歌集「竹の里歌」、随筆「墨汁一滴」「病牀六尺」「仰臥漫録」など多くあります。
子規はこの場所に明治27(1894)年2月から住み、明治35(1902)年9月19日病のため没しました。母八重、妹律は子規没後もここに居住し、其の後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけました。
昭和20(1945)年戦災によって平屋造り家屋は焼失しましたが、昭和25(1950)年鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っています。
史跡に指定されている土地の面積は405.6平方メートルあります。
(現地説明板などより)
子規庵 - 01
子規庵 - 01 posted by (C)pismo

子規庵 - 02
子規庵 - 02 posted by (C)pismo

寛永寺は山号は東叡山、東叡山寛永寺円頓院と号する元和8(1622)年、徳川幕府2代将軍秀忠が、上野の地を天台宗の僧天海に寄進したことから、寛永寺の歴史は始まります。
本坊は寛永2(1625)年に竣工。根本中堂の完成は元禄11(1698)年のことです。
江戸末期までの寛永寺は、いまの上野公園をはじめ、その周辺にも堂塔伽藍や子院が立ち並ぶ文字通りの巨利であり、徳川将軍ゆかりの寺にふさわしい威容を誇っていました。
慶応4(1868)年明治維新の際の上野戦争で大半が炎上し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約3万坪、江戸時代の10分の1ほど)現在に至っています。
旧本堂(根本中堂)は、現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにありましたが、彰義隊の兵火で焼失し、明治9(1876)年から明治12(1879)年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂になりました。寛永15(1638)年の建造といわれています。
(現地説明板などより)
徳川将軍家の菩提寺で徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っています。現在は上野公園の北東側にひっそりとありますが、彰義隊の戦いで焼失するまでは上野公園全域が寛永寺だったので、いかに大寺院であったかがわかります。ここは江戸の鬼門にあたることから、京都の鬼門を守る比叡山延暦寺の徳川家版ということがいえるでしょう。
西の叡山に対し「東叡山」寛永寺と名乗り代々の山主に皇室から親王を迎えていたことからも、幕府創設当初の徳川家の天皇家に対する対抗意識が垣間見えます。
寛永寺 - 01
寛永寺 - 01 posted by (C)pismo

寛永寺 - 02
寛永寺 - 02 posted by (C)pismo

東京都台東区谷中谷中霊園は、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地で構成されています。
寛永寺墓地には、徳川慶喜の墓があります。寺院の敷地ですが、神式の墓です。
徳川慶喜(1837〜1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、初め一橋徳川家を継ぎ、後見職として将軍家茂を補佐しました。
慶応2(1866)年、第15代将軍職を継ぎましたが、翌年大政を奉還し慶応4(1868)年正月に鳥羽伏見の戦を起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31(1898)年には、大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35(1902)年には公爵を受爵しました。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2(1913)年11月22日に77歳で没しました。
お墓は、間口3.6m、奥行4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石垣の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。
墓所内には、正室一条美賀子、女中頭(側室)一色須賀、側室中根幸、新村信と徳川慶喜家の墓があります。
谷中霊園・徳川慶喜の墓 - 01
谷中霊園・徳川慶喜の墓 - 01 posted by (C)pismo

谷中霊園・徳川慶喜の墓 - 02
谷中霊園・徳川慶喜の墓 - 02 posted by (C)pismo

谷中霊園・徳川慶喜の墓 - 03
谷中霊園・徳川慶喜の墓 - 03 posted by (C)pismo

谷中墓地には幕末の老中、阿部正弘の墓もありました。
谷中霊園・阿部正弘の墓 - 04
谷中霊園・阿部正弘の墓 - 04 posted by (C)pismo


大龍寺は、山号は和光山、真言宗霊雲寺派の寺院です。
この寺の創立は明らかではありませんが、慶長年間(1596~1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781~1789)になって、湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して「大龍寺」と改称したと伝えられています。
この寺の境内には、俳人正岡子規のほか、宮廷音楽家E・Hハウス、柔道の横山作次郎、子規を短歌の師と仰いだ鋳金家の木村芳雨などの墓があります。正岡子規は、「静かな寺に葬って欲しい」と、日頃から弟子に話しており、武蔵野台地の端にあり、林に囲まれて静かなこの寺が選ばれたそうです。
「子規居士之墓」の右に母「正岡八重墓」、左に「正岡氏累世之墓」、左側の前には生前自ら選んだ墓碑銘碑があり、松山藩士の子であることや、陸羯南の日本新聞から貰っていた月給が三十円であったことまで書かれています。
「正岡子規又ノ名ハ虎之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ム父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十圓」
竹ノ里人の号に因んで植えたのか、墓の後ろには竹が茂っています。
大龍寺 - 01
大龍寺 - 01 posted by (C)pismo

大龍寺 - 02
大龍寺 - 02 posted by (C)pismo

大龍寺 - 03
大龍寺 - 03 posted by (C)pismo

大龍寺 - 04
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Posted at 2015/10/04 19:13:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年08月22日 イイね!

横浜・八丈島・東京(3日目その2・品川・田町など夜の史跡めぐり)

八丈島から飛行機で東京に戻ります。この日の宿は品川。
夜は少しばかり散策を兼ねて、史跡めぐりを。

台場小学校などになっている御殿山下台場〔砲台〕です。
嘉永6(1853)年アメリカ合衆国のペリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀に来航しました。鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守る為急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにしたのです。
伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台造りの指導にあたり、第1から第三台場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第8以下は着工にも至らなかったのです。その代わりとして、陸続きで五角形の砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。明治になると埋立てられ姿を消しましたが、幸いな事に台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることが出来ます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分程の面積を占めています。
台場跡からは石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つ灯台は、明治3(1870)年日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。現在、品川灯台は国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。
(現地説明板より)
台場小学校の入口付近に説明看板が立っています。
御殿山下台場〔砲台〕跡 - 01
御殿山下台場〔砲台〕跡 - 01 posted by (C)pismo

長州藩士たちが英国公使館焼き討ち事件の密議を凝らした土蔵相模跡です。
旅籠屋を営む相模屋は、外壁が土蔵のような海鼠壁だったので、「土蔵相模」と呼ばれていました。
文久2(1862)年、品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作や久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを実行しました。幕末の歴史の舞台となったところです。
(現地説明板などより)
現在は、ファミリーマート北品川店のあるNICハイム北品川というマンションの前に説明板が立っているだけです。
土蔵相模跡 - 01
土蔵相模跡 - 01 posted by (C)pismo

土蔵相模跡 - 02
土蔵相模跡 - 02 posted by (C)pismo

嘉永6(1853)年、黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬は藩からの許可を得て剣術始業中でした。
土佐藩は立会川河口付近にあった土佐藩品川下屋敷の近くにあった浜川砲台の警護にあたるため、江戸詰の武士を動員し、龍馬もその中に加わりました。
同年9月には「異国船処々来り候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候、其節は異国の首を打取り・・」と父親に手紙を書いています。
立会川は後に海運貿易の亀山社中の設立、薩長同盟の斡旋など、近代を切り拓いた龍馬が志を立てたゆかりの地といえます。
北浜川児童遊園には地元有志、品川龍馬会の人々のはたらきで、桂浜にあるものと同じ姿のプラスチック製の龍馬像が高知市の寄贈により設置されていましたが、平成22(2010)年11月15日、東京京浜ロータリークラブが関係者と共にブロンズ像の二十歳の龍馬像として建立されました。
なお、この像には平成11(1999)年修復時の高知県桂浜の像の金属片が溶かし込んであります。龍馬像の履物はブーツではなく草履で、土佐藩の下屋敷にいた頃の龍馬を表しています。
(現地説明板などより)
立会川駅
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立会川 二十歳の龍馬像 - 01
立会川 二十歳の龍馬像 - 01 posted by (C)pismo

立会川 二十歳の龍馬像 - 02
立会川 二十歳の龍馬像 - 02 posted by (C)pismo

浜川橋のたもとから立会川が海にそそぐところまでが、土佐藩抱屋敷でした。幕府への「差出」によると869坪が抱屋敷の広さです。(抱とは拝領と異なり買入れ、借用していたものです。)
ここは土佐から送られて来る物資の荷揚げ地であり、立会川から荷を陸上に上げていました。
ペリー来航の嘉永6(1853)年土佐藩は砲台築造の「願」を幕府に提出し許可を得て、翌年、砲台を造りました。浜川砲台といわれました。
砂浜のやわらかい土地を、石、土砂で埋め立て、2300坪に拡大させています。砲台は8門を設置していました。警備陣は品川下屋敷を宿所としてこの砲台に配置されていました。浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ、連絡路は現在の立会川商店街の道路であり、その距離、約200mです。
若き日の坂本龍馬も警備陣に加わっており、この道を毎日歩いていました。
(現地説明板などより)
土佐藩鮫州抱屋敷跡・浜川台場跡 - 01
土佐藩鮫州抱屋敷跡・浜川台場跡 - 01 posted by (C)pismo

土佐藩鮫州抱屋敷跡・浜川台場跡 - 02
土佐藩鮫州抱屋敷跡・浜川台場跡 - 02 posted by (C)pismo

西郷南洲・勝海舟会見之地です。
慶応4(1868)年3月14日、旧幕府の陸軍総裁、勝海舟が西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この蔵屋敷の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元から船で送られてくる米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、明治5(1872)年鉄道も敷かれ更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。
また、人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。
「第一田町ビル」の前に西郷吉之助氏(西郷隆盛の孫)の揮毫による石碑が建てられています。
(現地説明板などより)
西郷南洲・勝海舟会見之地 - 01
西郷南洲・勝海舟会見之地 - 01 posted by (C)pismo

西郷南洲・勝海舟会見之地 - 02
西郷南洲・勝海舟会見之地 - 02 posted by (C)pismo

西郷南洲・勝海舟会見之地 - 03
西郷南洲・勝海舟会見之地 - 03 posted by (C)pismo

西郷南洲・勝海舟会見之地 - 04
西郷南洲・勝海舟会見之地 - 04 posted by (C)pismo

田町駅・西郷南洲・勝海舟会見の図 - 01
田町駅・西郷南洲・勝海舟会見の図 - 01 posted by (C)pismo
Posted at 2015/09/23 22:35:36 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年08月22日 イイね!

横浜・八丈島・東京(3日目その1・八丈島の海、山、滝と史跡めぐり)

八丈島北端のこの一帯は永郷地域といいます。永郷とは家居郷の転化したもので、この付近は八丈富士噴火のたびに、人々が溶岩流に覆われていない古い土壌の露出している所を探して居住した家居の郷である、といわれています。
大越園地は、昭和50(1975)年3月には行こうになった永郷小学校の跡地に設けられたもので、今でも学校の門柱が敷地奥に残されています。道路を挟んだ山側の斜面には、約3haに20万株のキダチアロエが植栽され、12月から1月にかけて一斉に赤い花を咲かせる様は、南国の別天地を思わせます。また、展望台からは西に八丈小島、空気の澄んだ日には北に三宅島、御蔵島を望むことができ、180度の大パノラマは素晴らしい景観です。
(現地説明板などより)
大越園地・永郷展望台 - 01
大越園地・永郷展望台 - 01 posted by (C)pismo

大越園地・永郷展望台 - 02
大越園地・永郷展望台 - 02 posted by (C)pismo

八丈富士周回道路 - 01
八丈富士周回道路 - 01 posted by (C)pismo

八丈富士周回道路 - 02
八丈富士周回道路 - 02 posted by (C)pismo

八丈富士周回道路 - 03
八丈富士周回道路 - 03 posted by (C)pismo

八丈富士牧場・ふれあい牧場は、八丈富士の中腹にあり山の傾斜地に黒毛和牛やジャージーが放牧されています。
牧場内の展望台からは、島の中心部や三原山、八丈島空港が一望できます。
八丈富士牧場・ふれあい牧場 -01
八丈富士牧場・ふれあい牧場 -01 posted by (C)pismo

八丈富士牧場・ふれあい牧場 -02
八丈富士牧場・ふれあい牧場 -02 posted by (C)pismo

八丈富士牧場・ふれあい牧場 -03
八丈富士牧場・ふれあい牧場 -03 posted by (C)pismo

八丈富士牧場・ふれあい牧場 -04
八丈富士牧場・ふれあい牧場 -04 posted by (C)pismo

八丈富士牧場・ふれあい牧場 -05
八丈富士牧場・ふれあい牧場 -05 posted by (C)pismo

八丈富士牧場・ふれあい牧場 -06
八丈富士牧場・ふれあい牧場 -06 posted by (C)pismo
東京電力八丈島地熱発電所は、平成11(1999)年、国内の離島で最初に作られた地熱発電所です。年間を通して安定的に一定量の発電を行っており(ベース電源)、八丈島内燃力発電所と合わせて島の暮らしを支えています。マグマ溜まりの熱で加熱された熱水を利用して、最終的に発電する方法で、利用後の温水は、農業施設で植物を育てることにも利用されています。併設された「八丈島地熱館」では、地熱発電のしくみや八丈島のなりたちについて、わかりやすい装置や映像で解説しています。
八丈島地熱館 - 01
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八丈島地熱館 - 02
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為朝神社石宮は島内産の橄欖(かんらん)石玄武岩を用い、流人の石工仙次郎が天保11(1840)年に造ったものです。山から流れる豊富な水を集めて水田に流すための樋を為朝がつくったという言い伝えがあり、そこに為朝神社を祭ったものです。
石工の技量が見られる優品です。
なお、中之郷の三島神社にも同じものが建てられています。
(現地説明板などより)
為朝神社 - 01
為朝神社 - 01 posted by (C)pismo

為朝神社 - 02
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三原川が人家に近づいて、中之郷の水田用水路と交叉する時、三原川は滝となって落下し、用水路とそれに沿った道路は滝の内側を通るので、流れ落ちる滝の簾を内側から見ることになるため、裏見ヶ滝と呼ぶようになりました。
大変珍しい景観なので、多くの人が見に来ます。
しかし、文字を見ないで発音だけ聞くと「恨みの滝」と思うらしいですが、「裏見の滝」です。
(現地説明板などより)
裏見ヶ滝 - 01
裏見ヶ滝 - 01 posted by (C)pismo

裏見ヶ滝 - 02
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裏見ヶ滝 - 03
裏見ヶ滝 - 03 posted by (C)pismo

裏見ヶ滝 - 04
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裏見ヶ滝 - 05
裏見ヶ滝 - 05 posted by (C)pismo

裏見ヶ滝 - 06
裏見ヶ滝 - 06 posted by (C)pismo

裏見ヶ滝 - 07
裏見ヶ滝 - 07 posted by (C)pismo

裏見ヶ滝 - 08
裏見ヶ滝 - 08 posted by (C)pismo

乙千代ヶ浜には、バルチック艦隊監視所跡(仮設望楼)がありました。
明治37(1904)年から明治38(1905)年、わが国は満州(中国東北部)、朝鮮の権益を巡って帝政ロシアと争いました。
この日露戦争において、バルト海にあったロシア海軍の主力・バルチック艦隊がウラジオストックへ向かうとの情報を得た海軍省は、同艦隊が太平洋を迂回する場合に備え、明治38(1905)年4月、乙千代ヶ浜をはじめと永郷の遊ヶ平、末吉の神子尾の島内三箇所に仮設望楼を設置して監視しました。
結局、バルチック艦隊が対馬海峡を通過したため、望楼は使命を終え、12月に撤去されました。これはこの遺構を復元したものです。
(現地説明板などより)
ここからは、三原山の外輪山が噴火した名残の険しい丘陵の六日ヶ原砂丘(黒砂)がよく見えます。
乙千代ヶ浜・バルチック艦隊監視所跡〔仮設望楼〕 - 01
乙千代ヶ浜・バルチック艦隊監視所跡〔仮設望楼〕 - 01 posted by (C)pismo

乙千代ヶ浜・バルチック艦隊監視所跡〔仮設望楼〕 - 02
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乙千代ヶ浜・バルチック艦隊監視所跡〔仮設望楼〕 - 03
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乙千代ヶ浜・バルチック艦隊監視所跡〔仮設望楼〕 - 04
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乙千代ヶ浜・バルチック艦隊監視所跡〔仮設望楼〕 - 05
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乙千代ヶ浜・バルチック艦隊監視所跡〔仮設望楼〕 - 06
乙千代ヶ浜・バルチック艦隊監視所跡〔仮設望楼〕 - 06 posted by (C)pismo

忠次郎祠(ツイ次郎祠)は、三根外道つい沢にある石場で、祭神は源為朝の家臣忠次郎と伝えられています。
忠次郎は、源為朝の家臣の中でも武技に秀でていました。
あるとき、忠次郎が一矢でシラサギ3羽をうちおとしたので、為朝はその力が自分より上になることを怖れて殺しましたが、後になって後悔し、ここに祀ったと言い伝えられています。
忠次郎祠 - 01
忠次郎祠 - 01 posted by (C)pismo

忠次郎祠 - 02
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「八丈実記」を著した近藤富蔵〔近藤守真〕の墓です。
近藤守真(富蔵)は、北方探検家として著名な旗本近藤重蔵の嫡男です。
隣人を殺傷した罪で文政10(1827)年、八丈島に流されました。流人生活において八丈島の文化向上に大きく寄与し、八丈島の歴史や風俗を集大成した「八丈実記」を著しました。明治13(1880)年に赦免後、本土に戻りますが、再び八丈島に渡り明治20(1887)年に没します。墓は戦前改葬されたもので、土葬座棺であったとされます。
(現地説明板などより)
近藤富蔵の墓 - 01
近藤富蔵の墓 - 01 posted by (C)pismo

浮田半平功労碑は、八丈島大賀郷前崎港が玉石浜利用の不便な港であることから、浮田半平が一村を勧誘して、新たに八重根港を開いた功労碑で、その妻加登が明治元(1868)年に建立したものです。浮田半平は、宇喜多秀家の次男宇喜多秀継から11代後の末裔です。
ほぼ長方形の八丈産の自然石にきわめて素朴な楷書で彫られています。碑文は近藤富蔵の手によるもので、元は馬路の墓地にあったものです。
八丈島港湾変遷の歴史と労苦を知る上で貴重な資料です。
(現地説明板などより)
浮田半平功労碑 - 01
浮田半平功労碑 - 01 posted by (C)pismo
Posted at 2015/09/21 23:53:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2015年08月21日 イイね!

横浜・八丈島・東京(2日目その3・ふるさと村・為朝神社・大坂トンネル展望台〔大坂夕照〕・服部屋敷・唐滝・硫黄沼・名古の展望〔名古秋月〕)

八丈島歴史民俗資料館の裏から、ふるさと村通ずる道路は、昔は馬路と称し、八丈島の最も古い由緒ある道で、昔のおもかげを今に伝える貴重な所です。
ふるさと村のこの民家は、母屋、高倉、まや(牛舎)、閑所(便所)などが一色揃っていて、八丈島の民家のたたずまいを知る上で、貴重な存在です。
母屋内部に壁が無く、畳の敷き方などに特徴があります。休日や観光来島者のある時期には、母屋の内部が開放され、伝承の語りやお茶のもてなしがあります。
(現地説明板などより)
ふるさと村 - 01
ふるさと村 - 01 posted by (C)pismo

ふるさと村 - 02
ふるさと村 - 02 posted by (C)pismo

ふるさと村 - 03
ふるさと村 - 03 posted by (C)pismo

ふるさと村 - 04
ふるさと村 - 04 posted by (C)pismo

ふるさと村 - 05
ふるさと村 - 05 posted by (C)pismo

ふるさと村 - 06
ふるさと村 - 06 posted by (C)pismo

ふるさと村 - 07
ふるさと村 - 07 posted by (C)pismo

ふるさと村 - 08
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八丈島の伝説では源為朝が八丈に来てみると、島には女しか住んでおらず、男女同居すると海神の祟りがあると信じられているため、男は青ヶ島、女は八丈島に住んでいました。
為朝は島の娘を嫁として子を産み、男女同居することの喜びを教えました。
この為朝神社は、明治末から大正初めに八丈小島の為朝神社を分社したものです。為朝遺跡の集約されている場所で、神社、腰掛石、耳跡の石、城跡、為朝が射貫いて造った隧道上の切り通しがあり、神社上の断崖にも伝説があります。
(現地説明板などより)
為朝神社 - 01
為朝神社 - 01 posted by (C)pismo

為朝神社 - 02
為朝神社 - 02 posted by (C)pismo

大坂トンネル展望台付近は、島随一の交通の難所で、ここを境に大賀郷、三根は坂下、樫立、中之郷、末吉は坂上と呼ばれています。
隧道は日露戦争戦勝記念に明治38(1905)年に着工、明治40(1907)ねんに竣工しましたが、その後莫大な費用を投入して昭和38(1963)年に隧道の拡幅や横間道路の改修に着工し、昭和43(1968)年7月5日に完成しました。そして、平成6(1994)年、更に夢の逢坂橋が完成しました。
夕日の美観が八丈八景に選ばれています。

そばだてる 巌に憂きを 隔てつつ
夕日涼しく 越える大坂
            鹿島則文
(現地説明板などより)
大坂トンネル展望台〔大坂夕照〕 - 01
大坂トンネル展望台〔大坂夕照〕 - 01 posted by (C)pismo

大坂トンネル展望台〔大坂夕照〕 - 02
大坂トンネル展望台〔大坂夕照〕 - 02 posted by (C)pismo

大坂トンネル展望台〔大坂夕照〕 - 03
大坂トンネル展望台〔大坂夕照〕 - 03 posted by (C)pismo

大坂トンネル展望台〔大坂夕照〕 - 04
大坂トンネル展望台〔大坂夕照〕 - 04 posted by (C)pismo

江戸時代、お船預りを務めていた服部家の屋敷跡・服部屋敷です。
服部家の初代は下田の出身ですが、二代目から代々八丈島の官船の内、小舟方のお舟預かりを務めて莫大な資産を築きました。
しかし、船方さんの一生を図で示すが如く、その歴史は波乱に富み、悲劇的な色彩を帯びて、豪勢を誇った家屋敷も、今では此処が毎日観光客に郷土芸能を披露する名所となっています。
屋敷入口の石垣は、流人近藤富蔵が築城形式に依って築いたものです。
(現地説明板などより)
服部屋敷 - 01
服部屋敷 - 01 posted by (C)pismo

服部屋敷 - 02
服部屋敷 - 02 posted by (C)pismo

服部屋敷 - 03
服部屋敷 - 03 posted by (C)pismo

服部屋敷 - 04
服部屋敷 - 04 posted by (C)pismo

服部屋敷 - 05
服部屋敷 - 05 posted by (C)pismo

唐滝は、常に水が流れている滝としては八丈島最大の滝で、落差36.3mあります。
唐滝に向かって右側には、日清戦争時代に火薬の原料となる硫黄を採掘していた洞窟があります。
唐滝 - 01
唐滝 - 01 posted by (C)pismo

唐滝 - 02
唐滝 - 02 posted by (C)pismo

唐滝 - 03
唐滝 - 03 posted by (C)pismo

唐滝 - 04
唐滝 - 04 posted by (C)pismo

唐滝 - 05
唐滝 - 05 posted by (C)pismo

硫黄沼は、唐滝の近くにある沼です。
室町時代に造られた溜池で、硫黄分が溶けて緑色と茶色になっています。
硫黄沼 - 01
硫黄沼 - 01 posted by (C)pismo

硫黄沼 - 02
硫黄沼 - 02 posted by (C)pismo

末吉の洞輪沢(ほらわざわ)一帯を名古と呼びます。洞輪沢は小さな漁港に過ぎませんが、汐間温泉が湧出し、名古の滝があり、人家の周辺を清水が取り巻いていて、まさに仙郷とも言うべき場所です。
名古の展望〔名古秋月〕は、八丈島の最南端小岩戸が鼻まで見渡せる名月観賞に最適な場所として、八丈八景に選ばれています。晴天の際にははるか南方洋上に青ヶ島が望まれます。また、また展望台には大戦中の特攻兵器「震洋」の記念碑があります。八丈町洞輪沢と石積の地は、吉田義彦大尉以下189名の隊員が民家に分宿し、猛烈な訓練に励んだ第十六震洋特別攻撃隊の基地跡でした。
昭和19(1944)年11月第十六震洋特別攻撃隊に、小笠原諸島母島への出撃命令が下り、基地準備隊員は直ちに出発しましたが、輸送船寿山丸は父島沖で敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、先発隊員57名が戦死しました。
部隊再編成のあと、今度は硫黄島への出撃命令が下りましたが、同島は敵上陸作戦中の大激戦地であり出撃中止となりました。そして昭和20(1945)年3月本土決戦最初の砦と言われた八丈島に布陣しました。
しかし、昭和20(1945)年8月15日終戦の詔勅が下り太平洋戦争が終結しました。
「太平洋の黒潮に偲ぶ 第16震洋特別攻撃隊ここに亡りき」と刻まれた碑文は、外務大臣を務めた安倍晋太郎氏の揮毫によるものです。

思ふどち いざ見に行かん 洞輪沢
 波間を照らす 秋の夜の月
            菊池 武真
(現地説明板などより)
名古の展望〔名古秋月〕 - 01
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名古の展望〔名古秋月〕 - 02
名古の展望〔名古秋月〕 - 02 posted by (C)pismo
Posted at 2015/09/20 22:50:38 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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